時々見ないときもあったが、久しぶりにNHKの大河ドラマをじっくり通して見たように思う。なかなか面白かった。今日は、その最終回だった。私の新撰組に対する知識とはかなり違った展開だった。いままで私は、どちらかというと明治維新については、薩摩・長州寄りに理解していたように思う。どちらが歴史の真実に近いのかというのは、よく分からない。今回のNHK大河ドラマの『新撰組』は、三谷幸喜さんが脚本を書いたのだが、三谷さんの思い入れが沢山あるような気がした。
三谷さんの描く新撰組はまるで全共闘世代の青春ドラマに見えてくる。彼らが何のために戦うのかというと、「時代の流れ」に対する焦燥感のようなものだといえる。つまり、近藤勇たちは、なぜ戦うのかははっきりしないのだが、とにかく時代の最先端のところにいたことだけは確かなのだ。そして、時代の最先端のところにいたからこそ、近藤のような立場からも、時代の問題が見えたのだと思う。
薩摩の西郷や長州の桂たちと近藤勇たち新撰組の人たちの根本的な違いは、武士なんて言う身分はどうでもいいと思っているかどうかという問題だ。たとえ徳川幕府に対する、薩摩や長州の恨みがあるとしても、時代認識として世の中の担い手に対する認識は西郷や桂のほうがより正当なものだとと思う。もちろん、近藤こそ多摩の百姓の生まれなのだから、それは知っていたはずだ。新撰組にも、武士でない人たちが参加している。しかし、彼らは、全共闘世代のような甘い認識があったし、苦労していない分、西郷や桂のようなしぶとさを持っていない。
近藤も土方もわずか32歳で死んでいった。明治維新に行き着くまでに、何人ものの人たちが犠牲になっていった。むしろ、有能な人間が先に死んでいったと言うべきかも知れない。ドラマの最後の場面で、桂は、近藤たちのような忠節の士が新政府にどれだけいるかと思うと思いやられるというような台詞を喋る。それは、史実とは違うかも知れないが、新しい時代をになう優秀な人材が何人もこれまでに犠牲になったことに対する認識はあったように思う。
それにしても、歴史上の人物というものは、描き方によってこんなに変わるものかということをこの『新撰組』は見せてくれた。若者の間に土方や沖田に対する人気があるのも理由がないわけではないのだ。時代の中でそこに生きる人物を見定めるということは、本当に難しいことなのだと思う。振り返って、今、時代の最先端にいると思われる人たち、政治や経済の最先端で活躍していると思われている人たちについても、もう少し相対化して眺める必要がありそうだ。私たちには、時代の方向さえよく見えていないような気がして仕方がない。
三谷さんの描く新撰組はまるで全共闘世代の青春ドラマに見えてくる。彼らが何のために戦うのかというと、「時代の流れ」に対する焦燥感のようなものだといえる。つまり、近藤勇たちは、なぜ戦うのかははっきりしないのだが、とにかく時代の最先端のところにいたことだけは確かなのだ。そして、時代の最先端のところにいたからこそ、近藤のような立場からも、時代の問題が見えたのだと思う。
薩摩の西郷や長州の桂たちと近藤勇たち新撰組の人たちの根本的な違いは、武士なんて言う身分はどうでもいいと思っているかどうかという問題だ。たとえ徳川幕府に対する、薩摩や長州の恨みがあるとしても、時代認識として世の中の担い手に対する認識は西郷や桂のほうがより正当なものだとと思う。もちろん、近藤こそ多摩の百姓の生まれなのだから、それは知っていたはずだ。新撰組にも、武士でない人たちが参加している。しかし、彼らは、全共闘世代のような甘い認識があったし、苦労していない分、西郷や桂のようなしぶとさを持っていない。
近藤も土方もわずか32歳で死んでいった。明治維新に行き着くまでに、何人ものの人たちが犠牲になっていった。むしろ、有能な人間が先に死んでいったと言うべきかも知れない。ドラマの最後の場面で、桂は、近藤たちのような忠節の士が新政府にどれだけいるかと思うと思いやられるというような台詞を喋る。それは、史実とは違うかも知れないが、新しい時代をになう優秀な人材が何人もこれまでに犠牲になったことに対する認識はあったように思う。
それにしても、歴史上の人物というものは、描き方によってこんなに変わるものかということをこの『新撰組』は見せてくれた。若者の間に土方や沖田に対する人気があるのも理由がないわけではないのだ。時代の中でそこに生きる人物を見定めるということは、本当に難しいことなのだと思う。振り返って、今、時代の最先端にいると思われる人たち、政治や経済の最先端で活躍していると思われている人たちについても、もう少し相対化して眺める必要がありそうだ。私たちには、時代の方向さえよく見えていないような気がして仕方がない。