電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

株をやる子どもたち

2006-02-05 21:32:24 | 子ども・教育

 今回のライブドア事件でかなりの数の子どもたちがライブドアの株を買っていたらしいことが分かって、私は愕然とした。しかも、その範囲は、小学生までも含まれているらしい。学校でキャリア教育や金融・経済教育を行わなければいけないという話は新聞でも話題になったし、これからの教育改革の中でも言われていることだ。大人がライブドアの株を購入し、今回のライブドア事件の結果株価が暴落して損をしたというのは、ある意味では自己責任の問題ではあるが、これらの子どもたちの場合は、単なる自己責任ではすまされない問題でもありそうだ。もちろん、それは、子どもの責任ではある。しかし、おそらく、それは、大人たちの責任だといったほうがいいに違いない。

 インターネット専門のマネックス証券は、未成年でも口座を開け、現在のところ、小中学生が名義人の口座は約2300件だという。朝日新聞の記事によれば、学校で株の取引を教材にして経済の学習をしているらしい。

「株式学習ゲーム」は、仮想所持金1千万円を運用して、実在の東証一部上場企業の株を売買する教材。値動きを予想するため新聞などで情報を集めるうちに、経済や市場の仕組みを学べるという。95年度の開始以来、金融・経済教育の拡大に伴って導入校は増加し、04年時点で1351校、生徒数は約7万人に上る。(平成18年2月5日朝刊より)

 「株式学習ゲーム」は、ゲームとしてやっているうちは面白いに違いない。しかし、株式というのは経済の教材として適切かどうか考えているのだろうか。大人でさえ、毎日のように、株式や先物取引など金儲けの誘惑になかなか抗しがたい時代である。つまり、株は、投資の対象であると同時に、投機の対象でもある。株は投資として持たないかぎり、必ず損をする人ともうける人が出てくる。投資と投機では全く異なる活動である。ライブドアの株を購入した人たちはいわゆるデイトレーダーが多かったというが、それはつまり、株を投機の対象として考えていたということだ。

 株というのは、もともと株式会社が投資を募るために発行した有価証券である。つまり、株は本来は投資のために買うべきものである。しかし、現在では主として投機の対象となっていて、そのために企業の業績を的確に反映しているとは限らない。つまり、株も一種の商品となっているのであって、しかもきわめて商人資本主義的な商品である。「安く買って高くうる」というのが、株の世界の論理だ。しかも、今回のライブドアのように、株の発行時価総額を世界一にしたいという企業のような存在があれば、更に企業の業績とはかけ離れていくことになる。ライブドアは、株式の分割を何度も行い、市場での取引を1株数百円単位で行えるようにした。個人投資家が22万人という数字が示しているのは、そういうことだ。

 株とは違うが、インターネットのオークションが流行っている。このオークションは、確かに一種のリサイクル市場だと言えないことはない。しかし、ここでも単なる中古品市場とは異なった論理がオークション全体を支配している。つまり、そこに出品される品物もやはり商品なのだ。だから、売る方は、少しでも高く売りたいし、買う方は少しでも安く買いたいと思っているはずだ。特に、子どもたちに人気なのは、レアもののカードである。先日も、私は甥に、ムシキングのカードを頼まれた。「いま、ヤフーオークションで○○○円で出ているので買って欲しい」というのだ。もちろん、私は断った。しかし、子どもの間でそういう情報が飛び交っていることに驚いた。

 子どもたちは、確かに、既に社会の中の一員として、経済活動を営み始めている。私たちが貧しかった頃、新聞配達をしたり、農繁休暇があったりした。それは、家計が貧しかったからだ。少しでも家計を助けるためにそうした。今でも、そういう子どもはいるに違いない。しかし、インターネットで株を買ったり、オークションでカードを買ったりする子どもたちが、家計を助けるなどという発想があるとは思えない。あるのは、もうけたいという気持ちだと思う。ライブドアの堀江貴文さんは、「人の心も金で買える」という意味のことを言ったそうだが、確かに商品化されたものは何でも金で買える。つまりどんなものでも、商品化されれば私たちは、金で買うことができる。しかし、あくまでも、「商品化されれば」という条件が付いている。

 学校で教えるべきは、株を買ってもうけることではない。どんなものなら「商品化」が可能で、どんなものを「商品化」してはいけないかということだ。特に、現在のようなサービス産業が大きな分野を占めるようになると、「商品化」という自体がとても難しくなってくる。人々が快適に過ごせるようにある人がつくすというサービスの場合、それは当然「商品化」される。居心地のよい空間とはつまり一つの商品化された空間であり得る。ディズニーランドでは、そうしたサービスを提供してくれる人たちがたくさんいる。それらは、「商品」としてのサービスだ。しかし、子どもたちはそういうことを商品としてではなく、無償の行為としてやって欲しい。

 家でお手伝いをして、お小遣いを貰う。まあ、ある程度労働をした対価としてそれは多少は認めてもいいと思う。しかし、いい点を取ったからといって、お小遣いを与えるのは行き過ぎだろうと思う。確かに、彼らは勉強することが一種の子どもにとっての「仕事」だと思っているところがあるので、大人が働いて金を貰うように、勉強したらお金をもらって当然だという考え方をする。しかし、経済の論理を教えようと思ったら、本当はお金というものは何らかの商品の対価として支払われるものだと教えるべきだ。そう考えれば勉強するということは決して商品化されない行為だということが理解できるはずだ。

 私たち人間は、「社会の一員としての人間」と「個人としての人間」と「家族の一員としての人間」というそれぞれの役割を演じている。学校教育は、そうした人間の特質のうち特に「社会の一員としての人間」を主として育てている。もちろん、これらの人間性は綺麗に分かれているわけではなくて、いろいろ絡み合っている。そして、「社会の一員としての人間」ということは、人間の社会的活動に関わることであり、経済活動と深く関わっている。だからといって、経済活動のシュミレーションが妥当な教育だということにはならない。子ども時代は、やはり「無償の行為」というものの存在を教えるべきだと思うし、それには理屈などいらないと思う。また、買うためのお金は働いて稼いで貰いたい。

コメント (3)
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