電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

格差社会の進展

2006-11-20 00:19:45 | 政治・経済・社会

 団塊の世代が、めざしてきたのはある意味では、「一億総中流社会」であり、「豊かな社会」であった。その「豊かな社会」が実現されそうになったとき、「心の貧しさ」が指摘され、「豊かな社会」応じた「豊かな心」の必要性が強調され始めた。しかし、現実社会はそれほど一枚岩的な社会ではなく、バブルの崩壊とともに明らかになったのは、「豊かな社会」とか「豊の心」ではなく、「勝ち組」「負け組」という言葉に象徴されるような格差社会の到来だった。もちろん、格差は、初めからあったのではあるが、やっとその格差が自覚され始めたと言うことでもある。「格差」は、高度経済成長の影に隠れていたと言うべきかも知れない。

 昨日、りりー・フランキー原作の『東京タワー オカンとボクと、時々オトン』というフジテレビで放映された映画を観た。東京に出て来た主人公が、なかなかうだつが上がらず、貧乏生活をしていた。やがて主人公は、絵で稼げるようになって、母親を東京に呼ぶことになる。しかし、その時は母親が既にガンに犯されていて、東京タワーが見える病院で母親の最後を看取るという話である。ここで、主人公たちはうだつの上がらない生活をしているのだが、決してニートでない。彼らは、それぞれ夢を描き、その夢をめざして現実逃避をしていたのだ。もちろん、その夢は、必ずしも実現されるわけではないが、夢を持つことが大切だった。

 現在の格差社会の到来を「希望格差社会」というように呼んだのは、東京学芸大学教授の山田昌弘教授である。彼は、『中央公論』2004年12月号の論文の中で、「努力の報われる人、報われない人」というとらえ方をしている。

 私が注目したいのは、近年(1990年代後半以降)、経済的な指標で計られる量的格差以上に、質的な生活状況の格差、いわば「ステイタス(立場)の格差」というべきものが出現してきたことである。そして、ステイタスの格差は、ただ単に、貧富の差に表れるだけではない。上位のステイタスにいる人々は、努力が報われる環境に自分の身を置き、将来生活に希望を持つことができる。一方、下位ののステイタスにいるものは、努力が報われない環境に押し込められ、徐々に希望を失っていく。つまり、ステイタスの格差に従って、将来に希望が持てる人と、希望が持てない人の分断が進行している。私は、この状態を「希望格差社会」と名づけた。(『論争 格差社会』文春新書・2006.8.20、p75より)

 山田昌弘教授の「格差論」は、独特の切り口であるが、少なくとも私には、とても納得できる表現である。戦後から高度経済成長期を経て、1990年ごろまでは、「努力が報われる社会環境」が成立していたというのは、私の実感としても確かだと思われる。もちろん、これは、男性であればという限定付だが。

 まず、職業世界においては、男性であれば、学卒後、企業に入社し、そこで人並みに努力すれば、仕事能力がつき、企業の内部で昇進し、収入が増えるという形で、努力が報われることが期待できた。学歴が中卒であっても、大卒であっても、企業内で昇進していくという構造は同じであった。学歴や能力の差は就職する企業規模の差、スタートラインの差、昇進スピードの差、到達点の差になって表れる。しかし、学歴が堂であろうと、平社員から始まって、企業内で昇進していくという構造は同じであった。つまり、男性であって職に就きさえすれば、希望が持てる環境にあったのである。(同上、p80)

 ところで、この希望が打ち砕かれるようになったのは、1990年代から始まった、ニューエコノミーによると山田教授は言う。グローバル化、サービス化、文化産業の発達などに象徴される世界的な社会・経済構造の転換によって、職業の2極化が生じた。トーマス・フリードマンが描いた『フラット化する世界』(日本経済新聞社刊/2006.5.24)は、一見平等な世界がもたらされたかのように見えるけれども、実はその裏側には、こうした職業の2極化をもたらしてもいたのである。

 ニューエコノミーがもたらすのは、将来が約束された中核的、専門的労働者と使い捨て単純労働者の分断なのである。IT分野では、高度な設計能力やセンスを要求される少数の専門労働者と、駅前でスターターセットを配ったりデータを打ち込む単純労働者への分化が進行する。ファスト・フード業界は、マニュアルを作る少数の中核社員とマニュアル通りに動けばよい大量のアルバイトを生み出す。そして、文化産業の拡大は、売れっ子のクリエーターと大量の下働きアシスタントへの分断を促進する。(同上、p82)

 映画『東京タワー』の主人公が絵で生きていけるようになったとき、彼を中心にして仕事が進行し、彼のしたには幾人かのアシスタント的な人たちが存在しているのは、象徴的である。まだ、彼らには夢があったはずだ。彼らは、いつかは、自分がアシスタントから自立していく夢を持っていたはずだ。それが、主人公の属する小さな会社の社風を造っていたはずだ。しかし、主人公の同級生たちのたどった運命は、本当は、それは夢だけは誰でも持てるということを意味していたのである。一人は、田舎で銀行マンになり、もう一人は、東京へ来て挫折し、また田舎に戻ることになる。そして、この挫折して田舎に戻るということが、現在では、「パラサイト・シングル」となり、都会で親の庇護のもとフリーターとなっているわけだ。

 こう考えてみると、「希望格差社会」というのもまた、今更始まったことではないということも正しい。しかし、資本主義社会の下での格差の必然性は理解しても、なぜ今、「格差なのか」という問いの答えを考えると、それは現代の意識の問題ととらえるほかないのであり、その意味では、山田昌弘教授の分析はとても分かり易いということができる。そして、『東京タワー』だけでなくその前の『ALWAWS 三丁目の夕日』が象徴している世界は、正に夢が夢として生きていた時代だと言うことができる。それにしても、「希望が持てる人と持てない人」という2極化は、あまりに大きな問題である。

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