電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「篤姫」と家族について

2008-11-17 17:56:53 | 政治・経済・社会

 宮崎あおいの演じる「篤姫」が人気である。NHK大河ドラマとしては、久しぶりのヒットではないかと思われる。女性が嫁ぎ先に自分の人生を捧げるという現代ではほとんど見られない物語なのに、若い女性にも人気があるというところが面白い。新しい家族像への期待のようなものをそこに感じるのは、私の深読みだろうか。「篤姫」では、家族は単に徳川家だけではなく大奥全体にまで拡大されている。ペ・ヨンジュンが自分のファンを家族と呼んでいたが、それと同じような意味を持っているのかもしれない。

 「篤姫」の中にもし、現代の女性たちが「家族」のというものの在り方のなかで共感できる何かを見ているとしたら、それは何なのだろうか。朝日新聞の今日のテレビ欄の「試写室」で竹田さをりさんは、「女性が婚家に人生をささげるなんて家父長制バリバリの物語なのに、『篤姫』には心底はまった」と書いていたが、彼女たちはどこに心動かされたのだろうか。おそらく、それは家父長制ではなく、血のつながりのない母系制のようなものをそこに見ているからではないだろうか。徳川家を支えてきたのは、将軍ではなく、実は大奥の女性たちだったというのは、幻想であるとしても。

 内田樹さんが『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文芸春秋社/2008.1.30)の中で、家族の崩壊について次のように書いていた。

 日本の家族が崩壊したのは、これも繰り返し申し上げている通り、家族を解体し、家族ひとりひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクを引き受け、すべてのベネフィットを独占する権利をてに入れるという生き方に日本人の多くが同意署名したからである。
 家族がいない方が競争上有利であると人々が判断したから家族は解体したのである。逆に、家族がいる方が生き残る上で有利である判断すれば、みんな争って家族の絆を打ち固めるであろう。(同上・p47)

 内田樹さんの言葉を借りれば、日本の家族は崩壊してしまっているのだ。それだからこそ、血のつながりのない関係で作り出されている「篤姫」の家族に思い入れるのだ。しかし、もともと、家族の起源は、血のつながりのない二人の男女によって作り上げられたものだということも真実である。あるいは、血のつながりがないからこそ、私たちは、家族という幻想が必要なのだといってもよいと思われる。そして、ひょっとしたら、私たちは、「篤姫」を通して、家族としての幻想を追い求め始めたのかもしれない。

 日本の合計特殊出生率は、2005年で1.26だという。この数字の裏には、子どものいない家族や、結婚をしていない家族がかなりいるということが想定される。今私たちは、自分たちに子どもがいなくても成り立つ家族像を欲しているのかもしれない。そう考えてみれば、篤姫も和宮も子どもがいない。大河ドラマが歴史を描こうとしたのではなく、歴史を借りて大衆の希望を描こうとしたとしたら、それは多分、篤姫や和宮が家族として考えたものにおそらくは共感しているのだ。
 
 こうした私の考え方は、一面的であるに違いない。一面的であるかもしれないが、多様化した家族の中で、いま、新しい家族像が求められるようになったことだけは確かである。そして、それは現在の社会のなかで経済的な状況がかなり厳しくなり、その圧力を若い女性たちが感じ始めたからに違いない。「篤姫」の中の徳川慶喜の家長としてのだらしなさと比べて、篤姫たち大奥の女性たちのたくましさは、私には少々まぶしかった。

コメント (2)
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