電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「神」の発見

2009-07-05 22:09:10 | 生活・文化

 会社に通勤する時は、大体7時少し過ぎの飯能発池袋行きの急行に乗る。飯能駅始発なので、大体座って行くことができる。昔は、そんなときはたいてい読書だったが、今では目が疲れるので、WALKMANを聴いている。金曜日の朝も、7時7分発の通勤急行に乗り、座ってしばらくしてから、WALKMANを聴くことにした。家を出る時にWALKMAN本体にイヤホーンのコードを巻き付けて、いつでも聴けるように左胸ポケットに入れておくのだ。そして、WALKMANを聴き始めて1年近くになり、こうした動作はほとんど無意識のうちに行われている。

 その日も、だから、私はちょっとした違和感を覚えながら、セットしスイッチを入れた。すると、左耳の方が音が小さいのだ。一度、左耳の方を外して入れ直してみたが、やはり小さく聞こえているが、まるで今朝方耳の調子が悪くなったように、聞こえが悪くなっている。私は、瞬間的に、左耳がおかしくなったと思った。私の頭にあったのは、先週中津川の実家に妻と出かけ、耳の遠くなった父親と話をしたことだった。どうも、塚本家は年を取ると難聴になる家系らしいというのが、妻の感想である。

 そういえば、最近私は、両耳の奥に、何か違和感を覚えていた。何となく、耳の奥の方で炎症を起こしているような感じがするのだ。そんなときに私は、耳の中を掻いたりして、何年かおきに外耳道炎になっている。今年もまた、耳鼻科に行かなければならないかなと思っていたところだ。ところが、確かに左耳は違和感があるが、外耳道炎になったような感じではない。私は、てっきり、本当に耳が遠くなってしまったのだと思った。

 そのとき、イヤホーンを外して、いろいろ試してみたら、なぜそんな状態になったかすぐに分かったはずなのだが、その結果、本当に耳が遠くなっていたらどうしようと怖かったのだ。そのまま、かろうじて、WALKMANは聞けたので、会社まで聴きながら行くことにした。しかし、それは、とても不安な時間だった。私の頭の中は、WALKMANに集中できず、一方では意味のとれない英語の音声だけが流れていたが、他方では、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』に描かれている、死んでいく人たちの心の過程の分析を思い浮かべていた。

 ロスによれば、死を宣告された人間は、「否認と孤立」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」という五段階を経て、やがて死んでいくのだそうだ。そして、これは、肉体的な死だけでなく、精神的な一種の「死」の場合、たとえば振られるとかいうような場合にも当てはまるらしい。短期間で言うならば、受験に失敗した時に辿る精神の過程でもありうる。そのロスの五段階で言えば、私は、第1段階から、第2段階を経て第3段階まで来たところで、会社に着いた。

 そして、会社でWALKMANを外して、左耳のイヤホーンにイヤーピースがないことに気がついた。すぐに、右耳のイヤホーンを左耳につけたところ、正常な音が流れているのが分かった。つまり、おかしかったのは、私の耳ではなく、イヤホーンのせいだったわけだ。私は、本当にうれしかった。私は、慌てて、鞄や、服のポケットの中にイヤーピースが入っていないか探したが、結局は見つからなかった。その日の夜家に帰って調べたが家にも落ちていなかった。おそらく、電車の中で、無意識のうちに、ポケットから取り出し、耳にセットしようとした時に、落ちてしまったらしい。

 ところで、先ほど、ロスの5段階説をあげて、第3段階まで行ったと書いたが、第3段階とは「取引」である。ここのところは、ロスのよれば次の通りである。

 第三の段階は取り引きを試みる段階である。この段階は、第一、第二段階に比べるとそれほど顕著ではないが、短い期間とはいえ、患者にとって助けになることに変わりはない。患者はまず第一段階では悲しい事実を直視することができず、第二段階では自分以外の人間や神に対して怒りをおぼえる。そしてその後、その「避けられない結果」を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階に入っていく。「神は私をこの世から連れ去ろうと決められた。そして私の怒りにみちた命乞いに応えてくださらない。ならば、うまくお願いしてみたら少しは便宜を図ってくださるのではないか」というわけだ。(キューブラー・ロス・著『死ぬ瞬間──死とその過程について』中公文庫/2001.1.25 p140より)

 私は、確かに、「神」に怒りをおぼえ、「神」に取り引きをしていたように思う。しかし、それが、どんな「神」だったのか、おぼえていない。そして、その結果、現実は「神」のおぼえめでたく、イヤーピースのせいだったことになったわけだから、「神」に感謝した。それは、「神」が私の願いを叶えてくれたのだということでもある。しかし、その時は、うれしくてどんか「神」だったかなど、考えもしなかった。一神教の世界を知らない私は、おそらく八百万の神々のうちの誰かに祈ったのだ。そして、私は、今、心から、私の名前の定かでない「神」に、いや「神々」に感謝している。それは、確かに、不思議な体験なのだ。

コメント (1)
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