電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『1Q84』

2009-07-19 23:10:31 | 文芸・TV・映画

 村上春樹の『1Q84』(新潮社/2009.5.30)について少しだけ書いておく。もちろん、私が村上春樹を理解できるようになったからでもないし、『1Q84』を正しく読み解けるようになったからでもない。私は、『1Q84』を発売日の5月29日(金)に買い、31日には「Book1」も「Book2」も読んでしまった。村上春樹の長編をこんなスピードで読んだのは初めてだ。『1Q84』の世界は、私にはとても分かりやすい世界に思えた。村上春樹の小説ってこんなにわかりやすかっただろうか、というのが読後のいちばん大きな印象だった。だから、私はすぐに、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』のいわゆ三部作を読み返してみた。そして、それを読み終えるのに1ヶ月以上かかってしまった。

 そのうちに、「文学界」8月号で特集が組まれた。ついに芥川賞や直木賞は取らなかったばかりではなく、どちらかというと日本の純文学の世界からは疎んじられてきた村上春樹について、ただ『1Q84』という作品のために特集がくまれたということに対して、とても皮肉なものを感じたのは私だけではないと思った。「文学界」の「村上春樹『1Q84』を読み解く」という特集で、加藤典洋、清水良典、沼野充義、藤井省三の4人が、それぞれ勝手に村上春樹の『1Q84』について語っている。そこで、加藤典洋は、「『桁違い』の小説」という文章を書いている。

 この小説を読んでからほぼ一週間の間、これをどう思うか、どう判断するか人に語り、自分の考えを述べることを禁欲してきた。何かこの小説には「感想を言いたくない」と思わせるものがあり、それが非常に強かったので、それに従うことがそのことについて、どこかで最初に「書く」ときに大事になると感じられたからである。(「文学界」2009年8月号p216)

 ここを読んだ時には、なんだが私とよく似た感想だなと思ったが、その後がかなり違っていた。加藤は、「この小説を現在の他の日本の小説家の作品とは『桁違い』、『隔絶している』、それくらいにすばらしい」と、評価している。私は、『1Q84』は村上春樹の作品としては、処女作より後退しているのではないかと思った。もちろん、だから駄作だというわけではない。『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』などを読んできた読者と『1Q84』だけを読んだ人では、明らかに村上春樹の世界に対する印象が違って見えるに違いない。。

 私の理解では、村上春樹は、小説という虚構の世界を通して、「個人」と「社会」について考えてきた作家だと思う。「個人」とは「僕」であり、「社会」はあちら側に「システム」として対峙している。村上春樹は、「システム」と「個人」の関係を描こうとして、作品の中に、謎を設定した。『羊をめぐる冒険』では、「僕」という主人公の視点から物語が描かれているので、当然「あちら側」は謎の世界である。「こちら側」は「僕」の世界であり、「あちら側」というのはいわば「羊」が作った「システム」ということだ。「社会」というのは、単に「個人」の総和ではない。多数の「個人」が作り出す「社会」は「個人」からみると、どうしても未知な部分が存在せざるを得ない。しかし、この「こちら側」と「あちら側」はどこかに穴が空いて秘かに結ばれていて、何らかの方法で行き来ができるようになっていると思われるようにできている。

 物語の基本構造は、『羊をめぐる冒険』と『1Q84』とよく似ている。ただ、「僕」の視点から書かれていた『羊をめぐる冒険』とは違って、『1Q84』は三人称で書かれ、物語の構造はより明確になり、そして細部がよりわかりやすく書かれている。細部を見る限り、青豆の世界は、「必殺仕事人」から作られた世界であり、方法的に試みられた『エンターテインメント』性の導入があり、この殺し屋の設定は、ハードボイルドというより、明らかにに日本のテレビドラマだという加藤の見解には同感だ。

 さて、こういう目鼻立ちのくっきりした小説、その芯のところ、一番大切な場所に、みすぼらしい、小さな、何でもない場面がおかれている。でも、その数秒間のできごとが、大活劇の、また人間の心の奥深くまでもぐる(『ミクロの決死圏』のような)おおきな骨格を保つ小説の全重量をささえている。そのことを考えると、「胸をしめつけられる」。(『文学界』2009年8月号/同上・p217・218より)

 勿論、ここでいわれている「何でもない場面」というのは、青豆と天吾が10歳のとき出会った場面である。「少女は長い間無言のまま彼の手を握り締めていた」という場面だ。

 この女の子がじつは堅固なスポーツジム・インストラクターでかつ特異な「キラー」でもある青豆だとわかる、後続章の何気ないくだりは、戦慄的である。
 こんな小さくちっぽけな場面の上に、二巻からなるこの大部の小説の絢爛ともいえる世界が構築されている。そう思うと私は、「胸が苦しくなる」。感想を言いたくない、とはこのことである。(同上・p218)

 ところで、村上春樹は、同じ1984年の物語を書いている。『ねじまき鳥クロニクル』という小説は、1984年の物語であり、英訳本では、「Book1 1984年6月-7月、Book2 1984年7月-10月」となっているという。同じ特集の中で、沼野充義が「読み終えたらもう200Q年の世界」で次のような指摘をしている。

『ねじまき鳥クロニクル』の発端も同じ一九八四年で、主人公の岡田亨は天吾と同じ年の三十歳。また『海辺のカフカ』のあの忘れがたい田村カフカ少年とナカタさんのコンビは、かなりの程度まで、『1Q84』における天吾とふかえりの関係に似ている。ナカタさんはふかえりと同様、この世界と異界をつなぐ存在で、ディスレクシア(読字障害)を抱えたふかえりに似て、読み書き能力を失っている。
 こういった側面をみると、村上春樹は常に一貫しているわけで(ハルキはやっぱりハルキなんだ!)、実際、還暦を過ぎたはずなのに、いつまでも若々しく、主人公の年齢を自分の実年齢に合わせて引き上げることを絶対にしないのには驚くべきことだ。ちなみに天吾の二十九歳というのは、村上春樹自身がデビュー作『風の歌を聴け』を書き始めた年であり、作家の総決算の小説で自分の出発点に今一度戻っていったとも言える。(同上・p225・226)

 おそらく、『羊をめぐる冒険』では、無意識のうちに、そして『1Q84』では意識的に作り出された村上春樹の物語の構造については、ジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』と比較しながら、物語構造を解き明かしている大塚英志の『物語論で読む村上春樹と宮崎駿──構造しかない日本』の主張がおそらくいちばん当たっているように思われる。

 けれどもまるで三島由紀夫の『仮面の告白』のように乳幼児の記憶から始まり、フロイト式のファミリーロマンスやフレイザーの『金枝篇』、アーヴィングを連想させる識字障害やサヴァン症候群などいくつものどこかでみたような文学装置が今までになく動員される一方で、村上龍の『五分後の世界』をどうしても連想する枠組み、ライトノベルズの美少女もどきの青豆やふかえりといったキャラクター造形が試みられる。「文学」(「ライトノベルズ」込み)のデータベースからサンプリングされている、ということなのだろう。しかし、それらの具体的な表現は三島もアーヴィングにも、あるいは「ふかえり」であれば綾波レイには及んでおらず、しかし現在の「文学」としてみれば舞城王太郎らライトノベルズ系文学よりは成熟している。何より構造は『スター・ウォーズ』であるのだから。(『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』角川oneテーマ21/2009.7.10 p251・252)

 私は、村上春樹についていろいろなことを確かめてみたいと思っている。村上春樹が描いた物語の構造は、ある種の普遍性を持っていて、だからこそ私たちをその世界に引きずり込んでしまうのであり、また、私たちは心の片隅で、そうした世界に引きずり込まれてしまいたい誘惑を待っていたりもするのである。大塚英志は、『1Q84』に詰め込まれた雑多な通俗的な細部を否定的に見ているような気がするが、私は反対に、これほどまでの通俗的な事物を投げ込んで、大きな物語を、しかも、世界に向けて書いている村上春樹という作家に、感心してしまった。

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