ブログを始めてから、毎年震災記念日には、思い出を書いてきた。
今まで書いたものを読み直してみた。去年書いたものを読むと、避難したスポーツセンターの話を書いていた。
20年目だからと変に気負ってしまって、何を書いていいか判らず・・・。
ここ何日かは、テレビを付ければ震災関連の番組が多く、家族を無くした人の話は本当に辛く、
チャンネルを変えてしまったり・・・。
夜中に目が覚めて眠れなかったり・・・。
あっという間に20年経ってしまったような気がする。
昨日は、友人とランチに行き、震災の話も一杯した。
当時友人は明石に住んでいたので、ほとんど揺れなかったそうだ。
岡本の実家のお父さんの電話で、びっくりしたそうだ。
神戸と明石は、距離的にはそんなに離れていない。
昨日の夜には従姉から電話をもらった。
「20年経ったんだねぇ。」と言われた。従姉には毎年電話をもらう。
本当に色々な人に助けてもらったなぁと、しみじみ思う。
さっきは、ゴンザブロウくんの育ての親Nさんから電話をもらった。
ゴンザブロウ君は、震災生まれの捨て犬だった。いい人に拾われて、優雅な老後を過ごしている。
Nさんは、震災当時は東京に住んでいて、翌年引っ越してきたから、震災には遭っていないけど・・・。
今日も芦屋浜に、ゴンザブロウ君を散歩に連れて行ったそうだが、今日の芦屋浜は人も少なく、
いつもより静かだったそうだ。
2時間も喋ってしまった。
「ねこ吉も若かった。もう一度こんな目に遭ったら、もう立ち上がれない。」といったら
「きっとまた、頑張って何とかするよ。」と言われた。
そうだろうか・・・。もう二度とごめんだけど。
20年前の今頃の時間は、子供達とスポーツセンターに避難していた。夕飯代わりに何を食べたかも覚えていない。
揺れた時に冷蔵庫が吐き出した牛乳パックと、テーブルに転がっていたバナナを持ってきたことは覚えている。
余震に怯えながら、3人で毛布を被ってた。
赤ちゃんを連れた人が、「牛乳をください。」と言ったので半分あげたことも覚えている。
トコトコ歩いてきた赤ちゃんが、当時小学校5年だった息子の膝にちょこんと座った。
どう対応していいか判らず、驚いたような、戸惑ったような顔は、今も覚えている。
娘は紺色のグローバーオールの重いダッフルコートを着て、腕に懐中電灯をはめて寝ていた。
一年後、まだ十分着れるコートだったが、二度と着たくないといった。
随分高いコートを奮発して買ってやったのに・・・。
ねこ吉も、震災の片付けに甲子園から通うときも、炊き出しに並ぶ時も、目立つように赤いコートを着ていたけど、
次の冬には捨てた。
お風呂に入れないことが辛かった。近くの銭湯に並ぶのも大変だった。
男湯は、列がサクサク進んでいくが、女湯はなかなか進まない。
息子は初めて入る銭湯で、どうやって体を洗って出て来たのか不明だけど、ねこ吉や娘より先に家に帰っていた。
案の定、風邪を引いて熱を出した。
JRが繋がったら、風呂桶をバッグに入れて、6つ先の駅、立花まで電車に乗って銭湯に行った。
今日は入浴剤を買ってきた。お風呂にたっぷり入れて入るんだ。
布団は布団乾燥機で、乾燥させて温めた。
明日は思いっきりゆっくり寝よう。
今まで書いたものを読み直してみた。去年書いたものを読むと、避難したスポーツセンターの話を書いていた。
20年目だからと変に気負ってしまって、何を書いていいか判らず・・・。
ここ何日かは、テレビを付ければ震災関連の番組が多く、家族を無くした人の話は本当に辛く、
チャンネルを変えてしまったり・・・。
夜中に目が覚めて眠れなかったり・・・。
あっという間に20年経ってしまったような気がする。
昨日は、友人とランチに行き、震災の話も一杯した。
当時友人は明石に住んでいたので、ほとんど揺れなかったそうだ。
岡本の実家のお父さんの電話で、びっくりしたそうだ。
神戸と明石は、距離的にはそんなに離れていない。
昨日の夜には従姉から電話をもらった。
「20年経ったんだねぇ。」と言われた。従姉には毎年電話をもらう。
本当に色々な人に助けてもらったなぁと、しみじみ思う。
さっきは、ゴンザブロウくんの育ての親Nさんから電話をもらった。
ゴンザブロウ君は、震災生まれの捨て犬だった。いい人に拾われて、優雅な老後を過ごしている。
Nさんは、震災当時は東京に住んでいて、翌年引っ越してきたから、震災には遭っていないけど・・・。
今日も芦屋浜に、ゴンザブロウ君を散歩に連れて行ったそうだが、今日の芦屋浜は人も少なく、
いつもより静かだったそうだ。
2時間も喋ってしまった。
「ねこ吉も若かった。もう一度こんな目に遭ったら、もう立ち上がれない。」といったら
「きっとまた、頑張って何とかするよ。」と言われた。
そうだろうか・・・。もう二度とごめんだけど。
20年前の今頃の時間は、子供達とスポーツセンターに避難していた。夕飯代わりに何を食べたかも覚えていない。
揺れた時に冷蔵庫が吐き出した牛乳パックと、テーブルに転がっていたバナナを持ってきたことは覚えている。
余震に怯えながら、3人で毛布を被ってた。
赤ちゃんを連れた人が、「牛乳をください。」と言ったので半分あげたことも覚えている。
トコトコ歩いてきた赤ちゃんが、当時小学校5年だった息子の膝にちょこんと座った。
どう対応していいか判らず、驚いたような、戸惑ったような顔は、今も覚えている。
娘は紺色のグローバーオールの重いダッフルコートを着て、腕に懐中電灯をはめて寝ていた。
一年後、まだ十分着れるコートだったが、二度と着たくないといった。
随分高いコートを奮発して買ってやったのに・・・。
ねこ吉も、震災の片付けに甲子園から通うときも、炊き出しに並ぶ時も、目立つように赤いコートを着ていたけど、
次の冬には捨てた。
お風呂に入れないことが辛かった。近くの銭湯に並ぶのも大変だった。
男湯は、列がサクサク進んでいくが、女湯はなかなか進まない。
息子は初めて入る銭湯で、どうやって体を洗って出て来たのか不明だけど、ねこ吉や娘より先に家に帰っていた。
案の定、風邪を引いて熱を出した。
JRが繋がったら、風呂桶をバッグに入れて、6つ先の駅、立花まで電車に乗って銭湯に行った。
今日は入浴剤を買ってきた。お風呂にたっぷり入れて入るんだ。
布団は布団乾燥機で、乾燥させて温めた。
明日は思いっきりゆっくり寝よう。