好きなことはやめられない。
前にも書いたことがありますが、子どもだった頃、よく母からこう言われました。
「好きなことだけしていちゃダメなのよ。嫌なことも進んでやらないと」
これって、
「好きなこと」をするのは我がままで身勝手な行為だ、という当時の風潮から来ていたと思われますが、結果として、
「好きなことをするのはよくない」ので「好きなことをしてはいけない」という風に、なぜかなっていくのですね。
したがって、私の好きなこと、たとえば、
本を読んだり、音楽聞いたり、男友達(ボーイフレンドではないただの友達)と出かけたり、映画に行ったり・・
といったことは悉く(全面的にではないけれど大方)禁じられたわけです。
おかげで親に見つからないよう隠れてやる、という裏技も身に付けました。
こうした教育を受けて育った世代は、刷り込まれたものからなかなか抜け出すことが出来ず、いまだに自分の嗜好、あるいは好きなことを「悪い癖」のように感じる傾向があって「好きなこと」をすることにある種の抵抗や罪悪感を感じたりするようです。
戦前はこういうスローガンがあったもの。
欲しがりません、勝つまでは。
でも、日本は勝てなかった。
それでもなお「欲しがってはいけない」「好きなことを望んではいけない」という風潮は残り、若い人達ですら、どこかでその影を引きずっている気がします。
まるで、好きなことを一切やめて、禁欲主義に徹していたら、戦争に勝てたかもしれない、といまだに思っているかのように。
茶断ち、という言葉があります。
願かけをするときに、自分の好きなこと、好きなモノを断って禁欲的に行動すれば願いが叶う、という習わしです。
好きなことを断ってまで頑張っているのだから、どうか神様願いを叶えてください、というわけ。
これって日本独特の風習なのではないかしら。
一方で、引き寄せの法則というのがあって、茶断ちとは正反対の考え方で、最近結構ハマっています。
引き寄せの法則によると、思考は現実化する。
考えたこと、思ったことが現実となって自分の方に引き寄せられてくる。
もちろん、ただ考えたり思ったりしただけではダメで、そこにはある種のコツというか方法があるようですが。
基本的に、世界は私たちが考えるほど確かではなく、かなりフレキシブルであるのだろうと、私は経験的に思うわけです。
たとえば、つい最近のことですが、
ベトナム旅行に行くのでベトナム関係の本を読んだり映画を見たりしていたら、偶然、ベトナム人の女性と出会いました。しかもホーチミン市から来た人で、ベトナムに行くなら何でも聞いて、と言われました。ベトナムの人に会ったのは初めてではないけれど(日本語教室で会った)こんなに身近なところで出会ったのは初めてです。
こういうこと、私は割とある。
けっこう運がいい方だと思っています。
世界は分子と原子で構成されている物質のみで成り立っているのだ、という考え方もありますが、
そもそも、分子や原子自体、ごく最近になって発見されたもので、私たちの知らない、あるいは認識できない領域に何かしらミラクルなものがあって、それが世界を動かしているのかもしれない・・
こういうと、オカルトだと言われそうですが、実は私オカルトけっこう好きです。
私たち人間に認識できるものだけで世界や物質が構成されていると思うほうがどうかしている。
人間の認識能力なんてたかがしれています。科学はいまだ世界を解明できていない、私はそう思っています。
そんな世界の中にいる私たちは、日々ミラクルを目撃しているはず。ただ気づかないだけで、奇跡はそこらじゅうに転がっているのだと思います。
心理学的に言えば、ベトナムのことばかり考えていたからベトナム女性に気づいたのだ、とこうなるわけですが、では、一体なぜこの時期にベトナム女性が私の前に現れたのか、ということはわからないわけです。
もちろん偶然起きたことです。そして、偶然というのはどこか必然的な要素を秘めているものだと思うのです。
だから、願掛けするなら、茶断ちといった難しいことより、もっと楽しいことを考えた方がいいかも。
好きなことをやめるのは難しい。
だったら、わざわざやめなくてもいいんじゃないの、と思うわけです。
もちろん、アルコールが好きだからといって毎日飲み続けるのは体によくない。そういう場合はそもそもなぜアルコールが飲みたくなるのか? から考える必要がありそうです。
というわけで、人生の残り時間が少なくなった今、
近藤麻理恵のメソッドがいいなと思います。
ときめき
ですね。
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前にも書いたことがありますが、子どもだった頃、よく母からこう言われました。
「好きなことだけしていちゃダメなのよ。嫌なことも進んでやらないと」
これって、
「好きなこと」をするのは我がままで身勝手な行為だ、という当時の風潮から来ていたと思われますが、結果として、
「好きなことをするのはよくない」ので「好きなことをしてはいけない」という風に、なぜかなっていくのですね。
したがって、私の好きなこと、たとえば、
本を読んだり、音楽聞いたり、男友達(ボーイフレンドではないただの友達)と出かけたり、映画に行ったり・・
といったことは悉く(全面的にではないけれど大方)禁じられたわけです。
おかげで親に見つからないよう隠れてやる、という裏技も身に付けました。
こうした教育を受けて育った世代は、刷り込まれたものからなかなか抜け出すことが出来ず、いまだに自分の嗜好、あるいは好きなことを「悪い癖」のように感じる傾向があって「好きなこと」をすることにある種の抵抗や罪悪感を感じたりするようです。
戦前はこういうスローガンがあったもの。
欲しがりません、勝つまでは。
でも、日本は勝てなかった。
それでもなお「欲しがってはいけない」「好きなことを望んではいけない」という風潮は残り、若い人達ですら、どこかでその影を引きずっている気がします。
まるで、好きなことを一切やめて、禁欲主義に徹していたら、戦争に勝てたかもしれない、といまだに思っているかのように。
茶断ち、という言葉があります。
願かけをするときに、自分の好きなこと、好きなモノを断って禁欲的に行動すれば願いが叶う、という習わしです。
好きなことを断ってまで頑張っているのだから、どうか神様願いを叶えてください、というわけ。
これって日本独特の風習なのではないかしら。
一方で、引き寄せの法則というのがあって、茶断ちとは正反対の考え方で、最近結構ハマっています。
引き寄せの法則によると、思考は現実化する。
考えたこと、思ったことが現実となって自分の方に引き寄せられてくる。
もちろん、ただ考えたり思ったりしただけではダメで、そこにはある種のコツというか方法があるようですが。
基本的に、世界は私たちが考えるほど確かではなく、かなりフレキシブルであるのだろうと、私は経験的に思うわけです。
たとえば、つい最近のことですが、
ベトナム旅行に行くのでベトナム関係の本を読んだり映画を見たりしていたら、偶然、ベトナム人の女性と出会いました。しかもホーチミン市から来た人で、ベトナムに行くなら何でも聞いて、と言われました。ベトナムの人に会ったのは初めてではないけれど(日本語教室で会った)こんなに身近なところで出会ったのは初めてです。
こういうこと、私は割とある。
けっこう運がいい方だと思っています。
世界は分子と原子で構成されている物質のみで成り立っているのだ、という考え方もありますが、
そもそも、分子や原子自体、ごく最近になって発見されたもので、私たちの知らない、あるいは認識できない領域に何かしらミラクルなものがあって、それが世界を動かしているのかもしれない・・
こういうと、オカルトだと言われそうですが、実は私オカルトけっこう好きです。
私たち人間に認識できるものだけで世界や物質が構成されていると思うほうがどうかしている。
人間の認識能力なんてたかがしれています。科学はいまだ世界を解明できていない、私はそう思っています。
そんな世界の中にいる私たちは、日々ミラクルを目撃しているはず。ただ気づかないだけで、奇跡はそこらじゅうに転がっているのだと思います。
心理学的に言えば、ベトナムのことばかり考えていたからベトナム女性に気づいたのだ、とこうなるわけですが、では、一体なぜこの時期にベトナム女性が私の前に現れたのか、ということはわからないわけです。
もちろん偶然起きたことです。そして、偶然というのはどこか必然的な要素を秘めているものだと思うのです。
だから、願掛けするなら、茶断ちといった難しいことより、もっと楽しいことを考えた方がいいかも。
好きなことをやめるのは難しい。
だったら、わざわざやめなくてもいいんじゃないの、と思うわけです。
もちろん、アルコールが好きだからといって毎日飲み続けるのは体によくない。そういう場合はそもそもなぜアルコールが飲みたくなるのか? から考える必要がありそうです。
というわけで、人生の残り時間が少なくなった今、
近藤麻理恵のメソッドがいいなと思います。
ときめき
ですね。
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