ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

日本語教師として・・(2)

2020-09-15 15:14:07 | 日本語

ちょっと専門的な話になりますが、

最近、ネットで見つけた日本語教授法がとてもシンプルでユニークなので、日本語教師の方々に紹介したいと思います。

「日本語教師が知らない動詞活用の教え方」海老原峰子著(現代人文社)

YouTubeでこれを見つけたとき、まさに目からウロコでした。

なんで今まで誰も気がつかなかったんだろう・・

この新しい日本語教授法を海老原氏は、

「ニュー・システムによる日本語」

というテキストにまとめています。

日本語のテキスト「みんなの日本語」はポピュラーですが、実はとても使いにくいテキストでもあります。

というのも、「みんなの日本語初級Ⅰ」と「初級Ⅱ」は、日本語学校でそれぞれ3~4か月(約200時間)、ⅠとⅡを合わせると半年以上かけて学ぶ内容なので、非常に進み方の遅いテキストです。

しかも、動詞の活用は「ます形」から入る。

行きます、見ます、読みます、来ます・・

生徒たちは動詞として(辞書形より先に)これを学びます。

「わたしは京都へ行きます」「わたしは会社へ行きます」「わたしはバスで会社へ行きます」・・

普段の会話ではこうした会話はほとんどありませんね。日本語学校で学ぶ日本語は、私たちが普段使っている日本語とは違って、少しぎこちない形式ばった日本語です。なので、日本人の会話にはとうていついていけません。

外国人が一番てこずる「敬語」も「みんなの日本語初級Ⅱ」の終わりの方になって、ようやく出てきます。

オランダ人のHさんはこの「敬語」の章にさしかかったとき、

「そうか!」と大きな声で叫んだのでした。

彼女はこれまで、レストランや銀行等で使われている、

「いらっしゃいませ」「どういたしましょうか」「大変申し訳ございません」「では、こちらで少々お待ちいただけませんか」

といった言葉は果たして日本語なのかどうかもよくわからなかったと言います。

それが「敬語」だったとわかったとき、彼女は思わず叫んだのでした。

「そうか!」

半年あまりかけて「みんなの日本語初級Ⅱ」の終わりまで行ってようやく、尊敬語、謙譲語を学ぶのですから、当然といえば当然です。

なぜそんなに時間をかける必要があるのか?

ところが、「ニュー・システムによる日本語」はシンプルです。

初級の最初の方から簡単な敬語が登場します。

動詞の活用も初級の冒頭から学びます。

実にシステマティックです。

これまでの日本語教授法は英語の教授法に習ったやり方だった、と海老原峰子氏は言います。

でも、日本語には日本語のシステムがあり、それは英語とは全く異なる言語システムなので、英語の教授法を取り入れるのは間違っている、と。

たとえば、「が」と「は」の使い方ひとつにしても、海老原氏は、

「が」は主語を導く格助詞で、「は」はとりたて助詞(~については、と取り立てる助詞。英語のaboutに当たる)、ということがすべてだと言います。

わかりやすい。

日本語教師は言語学者ではありません。

日本で暮らしている外国人がいかに日本人とスムーズにコミュニケーションできるか、それがすべてです。

ならば「わたしは会社へ行きます」といったぎこちない日本語から入る必要は全くないわけです。

「ニュー・システムによる日本語」では、同じ文章を主語を省いて「会社へ行くんです」と表現します。

ちょうど今、一人の生徒にこれを試しているところです。

のっけから動詞の活用が登場します。

「みんなの日本語」では、第14課にならないと登場しない動詞の活用(しかも14課で登場するのは「て形」のみ。17課になってようやく「ない形」が出てくる)を、最初から学ぶのです。

毎日50音のあいうえお表に沿った動詞の活用を声を出して読み上げる、というのが宿題。そして、レッスンのたびにこれを読み上げるところから始めます。算数の九九のように。

そうすることで動詞の活用は素早く身につき、後々とても楽になるそうです。確かにそうだろうと思います。

難しい理屈は抜きにして、まずは丸暗記する。それが言語獲得の近道です。

論理的でシンプルでわかりやすい。革命的な教授法です。

これから日本語教師の資格を取ろうと考えている人は、

とりあえず資格を取ってから、この「日本語教師が知らない動詞活用の教え方」とそのテキストである「ニューシステムによる日本語」を学んでみてはいかがでしょうか。

きっと新しい発見があると思います。

今日は少々専門的な話になりましたが、

日本語というのは奥が深く、面白い言語だとつくづく思います。

しかも、サンスクリット語との共通点もけっこうあるようで、ますます興味深い言語だなあ、と思う今日この頃です。

 

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日本語教師として・・

2020-09-10 19:51:20 | 日本語

猛暑日はなくなったものの、蒸し暑い日が続いていますね。

私はけっこう毎日忙しく暮らしています。

というのも、プライベートで外国人に日本語を教えているからです。

日本語教師の資格を取ったのは7年ほど前のこと。

3・11で福島第一原発が爆発し、日本中が放射能で汚染されるのではないか、という危機感から、もしも日本を脱出しなくてはならなくなったとき、海外で私にできる仕事は何だろう・・

と考えて、とりあえず日本語教師の資格を取ったのでした。

(あの頃は本気で日本を脱出する気だった)

そのほかにもレイキやカウンセラーの資格なんかも取りましたが、一番役に立っているのは日本語教師です。

外国人に日本語を教えるには、学校で習ってきた文法とは全く違う文法を学び直さなくてはいけません。

動詞の活用は、五段活用、上一段活用、下一段活用・・ではなく、グループ1、グループ2、グループ3と活用の形態によって分けられます。

形容詞も、イ形容詞、ナ形容詞、というように、学校文法とは全くちがう文法があるのです。

この文法は論理的でわかりやすいので、日本の学校でも取り入れるといいのではないかと思います。

プライベートレッスンで一番多いのは、JLPTテストに向けた受験対策です。

JLPTというのは、日本語が母国語ではない人向けの日本語能力試験のことで、N5~N1まであります(N5が初級でN1が最上級)。
言語知識(文字・語彙・文法)、読解、聴解といったテストがあります。

JLPTのN2に合格すると、日本で仕事が得やすくなるので、皆N2を目指すのですが、これがけっこう難しい。長文読解なんて大学受験並みです。

日本に来てたった数年の彼らが、よくここまで勉強したものだと、毎回感心します。

特にアルファベットを使っている国の人たちにとっては、漢字、ひらがな、カタカナと三種類もの文字を持つ日本語は本当にやっかいな言語です。

N2では「~かぎらず」「~のみならず」「~ばかりか」「~はもとより」あるいは「~にもかかわらず」「~とはいうものの」「~ながら」「~つつ(も)」なんて表現がざらに試験に出るのですから、それは難しい。

現在私は数人の外国人に日本語を教えていますが、それぞれとてもユニークで楽しいです。

国籍も様々で、アメリカ、オランダ、トリニダード・トバゴ、メキシコ、ドミニカ共和国、ベトナムなど多彩です。そして、皆さんとても熱心で、ぐんぐん伸びています。

外国人て時間守らないよね、とか、平気でドタキャンするよね、とか言われていますが、私の生徒たちはそんなことはない。たまにドタキャンもありますが、やむを得ない事情の時だけで、普段は至って真面目です。

彼らは、右も左もわからない外国に来てその国の言語を学ぼうとしているわけなので、必死で取り組まざるをえないのです。

言語の壁は高くて超えるのは並大抵ではありません。

現に私など、中学から英語をやっているにも関わらず、いまだにまともな会話もできずにいるのですから。

日本語を教えるために英語はどうしても必要なので、私も必死で勉強しています。日本語だけで教える方法もありますが、英語で説明できると便利だし、時短にもなります。

面白いことに、英語圏の人たちよりも、英語が第二外国語である人たちとのコミュニケーションの方が楽なのは、お互い英語がそれほど得意ではないという意識があるからでしょう。

昔読んだトーマス・マンの「魔の山」の中に、主人公の青年が美しいロシア人の女性とフランス語で会話をするシーンがありました。

この女性が乱暴に食堂のドアをバタンと閉めるシーンと、二人でフランス語で会話するシーンだけ覚えています(あとは全部忘れた)。

互いに母国語ではない第二外国語を使うからこそ、逆に通じあえる部分がある、とそんなようなことが書いてあって(たぶん。もしかすると違うかも)、当時まだ十代だった私は、へえ、そういうものなのか、と思ったのでした。

言葉というのは不思議なもので、言語それ自体よりも、ボディランゲージや声のトーンなどで伝わる部分が大きい。

だから、日本語がそれほど上手でなくても、コミュニケ―ション力のある人の日本語はなぜかよくわかるのですね。

英語もたぶん同じだと思います。

日本人はともすれば正確に文法通りしゃべろうとしますが、たとえ文法がめちゃくちゃでも案外伝わるものです。

日本語を教えていると、それがよくわかります。

だから、英語が下手でも恐れずに話すことが大事。

たった一つの言葉からでも、相手は何をいいたいのか察してくれます。

日本語の場合もそうですね。外国人が何か言いかければ、私たちは想像力を駆使して相手の意図を読み取ろうとします。

日本語を学ぶ外国人たちは皆とても勇気があり、一生懸命話そうとします。

伝えたいことがあるとき、言葉は自然と伝わるものです。

私は日本語教師の資格を取っておいて、本当によかったと思っています。

何より、70歳を過ぎても仕事ができるって本当にありがたいことです。

日本語教師に興味のある人はネットで調べてみてはいかがでしょうか。

(猫語もトライするにゃ)

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フジコ・ヘミングの時間

2020-09-05 14:39:16 | 映画

Netflixで何気なく観た映画

「フジコ・ヘミングの時間」

がとてもよかったので紹介します。

フジコ・ヘミングといえば、誰もが知っている世界的なピアニストです。

その生涯もTVなどで紹介されているので、知っている人は多いと思います。

この映画は、現在のフジコ・ヘミングを追いながら、過去のエピソードも織り交ぜて、現在と過去を行き来しつつフジコの生涯に迫るドキュメントです。

全編に流れるフジコ・ヘミングのピアノが美しい。

80歳をすでに超えた彼女は、見た目はお婆さんですが、まるで妖精のようです。独特のスタイル、髪型も衣装もユニークで、そこにいるだけで存在感が際立つ人物です。

このドキュメンタリーを見て私は、フジコ・ヘミングって、

まれびと

なんじゃないの、と思いました。

まれびと、というのは民族学者折口信夫の用語で、

「時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的な存在(wikipedia)」

フジコ・ヘミングは、この世に何かをもたらすために、他界から派遣された天使、あるいは妖精のような人なんじゃないか、と思ったのです。

「私、だけど本当に16歳くらいの気分よ・・16歳以上になりたくないと思うし、時々自分の年齢を考えるとゾッとしちゃって、もうどうしたらいいだろうと思っちゃう・・」

驚いたのは彼女の活動範囲の広さ。最初に紹介されるのはパリのアパルトマンで、そこを拠点としつつ、東京、パリ、アメリカなど世界各地に家をもっていて、演奏活動で世界を飛び回るとき、それぞれの家に滞在する、というライフスタイルをもっています。

彼女の家には猫や犬がたくさんいますが、常に一人暮らし。留守を預かる友人たちは大勢いて、決して孤独ではないようですが、やはり孤独の影はつきまといます。

フジコ・ヘミングはスウェーデン人の父と日本人の母との間に生まれましたが、父は彼女と弟が幼い頃に去り、二人を育てたのはピアニストの母でした。

母はフジコをピアニストにするために厳しく育てました。

東京芸術大学に入学しますが、海外留学の直前になって、国籍がないことが判明。第二次世界大戦中の混乱で、長いこと無国籍だったのです。

フジコ・ヘミングがようやく演奏家としてスタートしたのは30歳になろうという頃でした。

ところが、華々しいデビューを飾るはずだったコンサートの直前に風邪をこじらせて聴力を失います。

療養の末、左耳の聴力は40%ほど回復しますが、フジコは長らく失意の中ですごし、日本に帰国します。ピアニストになる夢をあきらめかけていた、ある日、

TV局が彼女の評判を聞きつけて、番組で紹介します。

フジコ・ヘミングは一夜にして有名人になります。
CDアルバムが200万枚超えを記録するなど、クラシック音楽界では異例なことが続きます。

この時、フジコは60代も終わりにさしかかっていました。

フジコ・ヘミングの生涯は非常に波乱に満ちたものですが、音楽のために生まれてきたような人なので、彼女の唯一の伴侶はピアノです。

80歳を超えた今も毎日4時間の練習は欠かさず、世界各地を飛び歩き、精力的に活躍しています。

これって、どこかヨギの修行に似ていますね。

ヨギたちが苦しい修行をするのは、解脱の道を探すためなのですが、実はそうすることによって世界を照らしているのです。

世界には、陰と陽、+と-、北と南、男と女・・というように、対になるものが存在します。

ヨギたちの苦行、艱難辛苦は、一方で、世界を照らす光になりうる。

フジコ・ヘミングも、その波乱の生涯を通して、音楽を磨き上げ、自身の魂を磨きあげ、そうすることによって、世界を照らす存在になったのではないでしょうか。

何より、フジコのピュアな感性がピアノの透明な音に表れています。それは人々を癒し、光の方向に導いてくれます。

スウェーデン人の父親からデザインの才能を、日本人の母親からピアノの才能を受け継いだフジコ・ヘミングは才能あふれる人ですが、その才能を開花させるためには、あまりに多くの苦難と苦行を強いられなくてはいけなかった。

でも、だからこそ、彼女のピアノは人々を魅了するのでしょう。

フジコはリストのピアノ曲「ラ・カンパネラ」に誇りをもっている、と言って・・
「なぜかっていうと、精神面が全部でちゃう。いくらごまかそうと思っても、ああいう死に物狂いで弾く曲だから・・日々のおこないと精神が全部でちゃう。わかる人にはわかる、わかんない人にはみんな同じに聞こえる・・」

最後の方で演奏される「ラ・パンパネラ」は圧巻です。聞いているだけで魂が透明になり光で充たされていくのを感じます。

なお、音楽だけじゃなく、インテリア、彼女の服装、そして室内に飾られているフジコの絵・・どれも独特で一つ一つがアートです。ぜひ注意して見ることをお勧めします。

音楽が好きな人は特に、そうじゃない人にもぜひ見てほしい映画です。

(猫もいっぱい出てくるにゃ)

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9月1日に想う

2020-09-01 12:08:41 | 日記

早いもので今年もあと残すところ4か月。三分の二が過ぎたわけです。

今年はのっけからコロナ騒動で明け暮れて、気が付いたら夏も終わりという感じなのでいつもの年と違うのは仕方ないとしても、

(それにしても、時間の経過、速すぎやしないか。)

コロナのおかげで気が付いたこともいろいろあり、悪いことばかりじゃないと思い出かきあつめ・・(というのは沢田研二だけど)

あとの4か月をどう乗り切ろうかと考えている今日9月1日です。

今年は本当にいろんな意味で物事が変化した年で、まだその変化の途上にあると感じます。

私自身もまさかヨガにはまるとは思っていなかった。

どちらかといえば、スピ系(スピリチュアルなものに関心がある人)なのですが、でも、スピ系の限界もわかってきました。

やっぱり地に足がついてないとダメよね。

ロブサンの凧揚げみたいに、上空から落下しかねない。

スピ系の人たちのいう、アセンションとか高次元の存在とか、宇宙人とか宇宙人たちの戦争とかは、話としては面白いし、もしかするとそういうこともあるかもしれないけれど、日々の営みにはあまり関係ない。そういうものに心を奪われていると大事なことを見過ごしそうで怖い、とも思う。

あるいは、大事なことを見過ごさせるために誰かがしかけた罠かもしれないし。

私たちというのは非常に騙されやすい存在である、ということは肝に銘じておきたいと思います。

ただ、ヨガに関しては、やはりヨギたちの修行は人類の進化を助けるものだし、ヨギたちの瞑想や祈りは世界平和につながるものだ、ということは信じています。

にわかスピ系とは違って、なにしろ4000年~5000年の歴史のある人たちなので。

先日、友人と「あるヨギの自叙伝」や成瀬雅春氏の「空中浮揚」をめぐってちょっとした論争になりました。

友人は、空中浮揚はありえない、絶対トリックを使っているにちがいない、というのです。

私は、空中浮揚はありえると思っています。
でも、友人が言うように、もしも本当なら目の前で見せてほしい、見るまでは信じない、というのはどうかと思います。

なぜなら、ヨギたちは人に見せるために空中浮揚しているわけではなく、あくまでも修行の一環。空中浮揚が目的ではなく、修行中に気がついたら浮揚してた、という感じかな。

なので、ヨギに頼み込んでも実演はしてくれないでしょうし、ましてや疑い深く「目の前でやってみせろ」などといったら、その疑いの邪気のせいで空中浮揚は不可能になるでしょう。

自分の目で見て、自分の手で触れるまでは信じない、

というのは、人間の五感に対する過信だと思います。
人間の五感てあまり当てにならないものだし、同じものを見ても、人によって見え方が違ったりするものです。

私自身、白内障の手術をして、世界の色ってこんなに違うの、という発見もしました。

なので、人間の五感や能力には限界がある、その限界を踏まえたうえで、何を信じるか、何を切り捨てるかを決めないといけないわけです。

科学的かどうか、というのも同じ。科学はしょせん人間の能力を超えることはできない。科学はまだまだ未熟だと思います。

やはり、世界をより良い方向に導くための「知恵」が必要なのではないでしょうか。

それは、単純だけど、古来いわれていることなのかもしれません。

今を生きる、感謝する、人のために尽くす、喜びを感じて生きる・・

真理というのは常にシンプルなものなんじゃないかしら。

宮沢賢治が言うように、

「雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル・・」

そういう人に私もなりたい・・

ということで、残りの4か月は静かに笑って過ごすことにします(合掌)。

(いつも大声で笑ってるにゃん)

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