早いもので今年もあと残すところ4か月。三分の二が過ぎたわけです。
今年はのっけからコロナ騒動で明け暮れて、気が付いたら夏も終わりという感じなのでいつもの年と違うのは仕方ないとしても、
(それにしても、時間の経過、速すぎやしないか。)
コロナのおかげで気が付いたこともいろいろあり、悪いことばかりじゃないと思い出かきあつめ・・(というのは沢田研二だけど)
あとの4か月をどう乗り切ろうかと考えている今日9月1日です。
今年は本当にいろんな意味で物事が変化した年で、まだその変化の途上にあると感じます。
私自身もまさかヨガにはまるとは思っていなかった。
どちらかといえば、スピ系(スピリチュアルなものに関心がある人)なのですが、でも、スピ系の限界もわかってきました。
やっぱり地に足がついてないとダメよね。
ロブサンの凧揚げみたいに、上空から落下しかねない。
スピ系の人たちのいう、アセンションとか高次元の存在とか、宇宙人とか宇宙人たちの戦争とかは、話としては面白いし、もしかするとそういうこともあるかもしれないけれど、日々の営みにはあまり関係ない。そういうものに心を奪われていると大事なことを見過ごしそうで怖い、とも思う。
あるいは、大事なことを見過ごさせるために誰かがしかけた罠かもしれないし。
私たちというのは非常に騙されやすい存在である、ということは肝に銘じておきたいと思います。
ただ、ヨガに関しては、やはりヨギたちの修行は人類の進化を助けるものだし、ヨギたちの瞑想や祈りは世界平和につながるものだ、ということは信じています。
にわかスピ系とは違って、なにしろ4000年~5000年の歴史のある人たちなので。
先日、友人と「あるヨギの自叙伝」や成瀬雅春氏の「空中浮揚」をめぐってちょっとした論争になりました。
友人は、空中浮揚はありえない、絶対トリックを使っているにちがいない、というのです。
私は、空中浮揚はありえると思っています。
でも、友人が言うように、もしも本当なら目の前で見せてほしい、見るまでは信じない、というのはどうかと思います。
なぜなら、ヨギたちは人に見せるために空中浮揚しているわけではなく、あくまでも修行の一環。空中浮揚が目的ではなく、修行中に気がついたら浮揚してた、という感じかな。
なので、ヨギに頼み込んでも実演はしてくれないでしょうし、ましてや疑い深く「目の前でやってみせろ」などといったら、その疑いの邪気のせいで空中浮揚は不可能になるでしょう。
自分の目で見て、自分の手で触れるまでは信じない、
というのは、人間の五感に対する過信だと思います。
人間の五感てあまり当てにならないものだし、同じものを見ても、人によって見え方が違ったりするものです。
私自身、白内障の手術をして、世界の色ってこんなに違うの、という発見もしました。
なので、人間の五感や能力には限界がある、その限界を踏まえたうえで、何を信じるか、何を切り捨てるかを決めないといけないわけです。
科学的かどうか、というのも同じ。科学はしょせん人間の能力を超えることはできない。科学はまだまだ未熟だと思います。
やはり、世界をより良い方向に導くための「知恵」が必要なのではないでしょうか。
それは、単純だけど、古来いわれていることなのかもしれません。
今を生きる、感謝する、人のために尽くす、喜びを感じて生きる・・
真理というのは常にシンプルなものなんじゃないかしら。
宮沢賢治が言うように、
「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル・・」
そういう人に私もなりたい・・
ということで、残りの4か月は静かに笑って過ごすことにします(合掌)。
(いつも大声で笑ってるにゃん)