越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 砂原浩太朗『浅草寺子屋よろず暦』

2025年01月18日 | 書評
「半端者」の侍の生き様
砂原浩太朗『浅草寺子屋よろず暦』 
越川芳明

全部で六話ある連作小説集。

すべての作品にでてくるのが、大滝信吾という名の寺子屋の師匠だ。

信吾は宏大な浅草寺(せんそうじ)境内にあるお寺を借りて、子どもたちに読み書きを教えている。

兄は御膳奉行として将軍家に仕えるれっきとした旗本だが、信吾はなぜか町場のほうが性に合うと感じる侍である。

慎吾は妾腹(しょうふく)の子で、武家の人でも町人でもなく、「半端者」でしかないと自覚している。

だが、「半端者」だからこそ、江戸の身分制度のもとで培われた、がんじがらめな常識に対しても「ずいぶん狭い料簡(りょうけん)」だと断ずることができる。

そんな自由な発想ができる信吾のもとに、寺子屋の子どもたちを悩ませる難題が持ち込まれる。

裕福とはいえない親たちが引き起こす厄介ごとだ。

博打で莫大な借金をこしらえてしまう大工や、商売が下手な棒手振(ぼてふ)りの魚屋、賭博場の用心棒を生業(なりわい)にする武士など……。

著者は、信吾が難題をひとつずつ解決していくさまを、人情の機微をまじえてドラマチックに描く。

信吾の関わり合う女性にしても、武家の女性と町人の女性とを魅力的に書きわける。が、どちらかの女性に加担するわけではない。

小説は春の名物・浅草三社祭で幕をあけ、最後は季節が移ろい秋になっている。

タイトルの末尾に「暦」と銘打たれているように、すべての話のなかに季節を象徴するような植物や虫や花がでてくる。

「最終話」で描かれるのは、濃い紫の花をつける竜胆(りんどう)だ。

江戸の闇と真っ向から闘うことになる信吾は進退極まって、苦渋の決断を迫られることに。

だが、信吾のくだす決断は、野に咲く竜胆の花のように清々しい。

それでいて、その花言葉にあるように、「正義」や「勝利」をも連想させるものだ。

続編で、その後の信吾の生き様を読みたくなる、そんな見事な幕切れだ。
『陸奥新報』2024/11/23 ほか。
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映画評 ジン・オング監督『ブラザー 富都(ブドゥ)のふたり』

2025年01月17日 | 映画
スラム街に花咲く、もうひとつの「愛」 
ジン・オング監督『ブラザー 富都(ブドゥ)のふたり』
越川芳明

舞台はマレーシアの首都クアラルンプールの富都(プドゥ)地区にあるスラム街。

そこには地元の買い物客で活気づく生鮮市場があり、住民たちは家賃の安い、衛生環境もよくない集合住宅に住む。

かれらは、多国籍の移民労働者だったり、不法滞在者やその二世だったり、マレーシア人でありながら身分証明書の
ない者だったり、障がい者やトランスジェンダーの人だったり……。

ミャンマーなど政情不安な国からやってきた難民もいる。要するに、みな社会的に疎外された貧困者たちだ。

主人公は、バハサ・マレー語で「兄」を意味するアバンと、「弟」を意味するアディだ。

「兄」アバンは幼いときに両親を亡くし、マレーシア人でありながら、出生証明書も身分証明書もない。

法的には「無国籍者」である。おまけに耳が不自由というハンデも抱えている。コミュニケーション手段は手話だ。

深夜に当局による抜き打ち捜査があると、連行されないように、集合住宅から必死に逃走しなければならない。

とはいえ、かれは悪事を働くどころか、性格は真面目そのものだ。生鮮市場で低賃金の運び屋として地道に汗をかく。

一方、「弟」アディは「兄」と性格がまったく異なり、生来のやんちゃ者だ。

違法滞在者たちに偽造身分証明書の作成を斡旋したり、金がほしいときは男娼になったりと、いわば裏社会に生きている。

肌身離さず出生証明書を携帯し、いざというときには、それを当局に見せてかろうじて逮捕を免れている有様だ。

この「兄弟」のように、マレーシアには両親が合法的な結婚をしていないとか、その他の理由で「身分証明書」を持っていない(あるいは、持てない)人が、一説によると、約三十万人もいるという。

身分証明書がどれほど重要かといえば、これがないと、銀行口座もひらけないし、パスポートも取れない、病院にもいけず、携帯電話も買えない。

つまり、この国でまともな日常生活を送ることができない。

こんな絶望的な状況のなかでも、救いの手を差し伸べてくれる人がいる。

同じ集合住宅にすむトランスジェンダーのマニーだ。

携帯電話を手にいれたり、ふたりを部屋に呼んで手料理をご馳走したりと、親代わりの存在だ。

とはいえ、マニー自身もイスラム社会のなかで「異常者」として白い目で見られ、まともな職にはつけていない。

実は、アバンとアディは血がつながっているわけではない。

だが、ふたりは同じ部屋で暮らし、ひとつのベッドで一緒に寝ている。

ふたりの間には、ホモセクシャルな親密さが漂う。

「兄」は何があっても、身を挺して「弟」を守り、やんちゃな「弟」も、堅実な「兄」を頼りについていく。

ふたつのシーンが注目に値する。

ひとつは、ゆで卵割りのシーンだ。

貧乏なふたりはガスコンロで生卵をゆでて食べる。

わびしい夕食だが、テーブルを挟んでかれらは互いに相手の額に卵をコツンコツンと当てて卵の殻を割る。

毎夕ふたりがゆで卵の殻を互いの額で割るのは、「兄弟」としての絆を深めるためにおこなう、一種の儀式である。

この世界には「帆」で「船」を表したり、「鳥居」で「神社」を表したりする間接表現がある。

だから、ひょっとしたら、ふたりの男性がゆで卵を互いに相手の額で割るこのシーンは、かれらの性交を表す「換喩」かもしれない。

イスラム社会で違法行為の同性愛を、間接的に映画表現してみせたものなのだ。

この象徴的な儀式が、映画の終盤に大きな物語的効果を発揮し、観客を感動させることになるが、詳しくは立ち入らない。

もうひとつは、マニーの部屋でひらかれた誕生パーティでのチークダンスのシーンである。

「兄」と「弟」は、ほかのゲイたちと同様、音楽に合わせてチークダンスを踊る。

そのとき、「弟」がためらいがちな「兄」の両手を引っぱり自分の腰にしっかり回させる。

いつもと違い「弟」が「兄」をリードする。つまり、ふたりの仲は、年齢による上下関係ではなく、対等な関係であるのがわかる。

マニー以外にも、ふたりに手を差し伸べる人が登場する。

NGO(非政府組織)の社会福祉団体で働くジアエンという女性だ。

スラム街に住む貧困者たちのために、「身分証明書」の申請を手助けしている。

彼女はアディのために父にかけ合い、仲たがいしている息子を認知するよう手はずをととのえてくる。

あとは、アディが父に会い、身分証明書を申請するだけである。

だが、アディは頑(かたく)なにそれを拒み、説得する彼女に暴力を振るってしまう。

本作で描かれるような社会の周縁に追いやられた「見えない人びと」は、先進国と呼ばれる国々にも、もちろん存在する。

米国では、かつて非人道的と批判されようとも、強引に親子を引き離して違法移民を排除しようとしたトランプ政権がまもなく発足する。

そうした蛮行に警鐘を鳴らすこの映画の公開が時宜にかなっているのは、まことに皮肉なことである。
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映画評 リチャード・リンクレーター監督『ヒットマン』

2025年01月16日 | 映画
中年男性の「自己啓発」を描く痛快コメディ
リチャード・リンクレーター監督『ヒットマン』  
越川芳明 

主人公のゲイリー・ジョンソンは平凡な中年の大学講師だ。ニューオーリンズの郊外にある、学生数七千人弱の小さな州立大学で哲学と心理学を教えている。

結婚歴があるが、いまは独り身のアパートで、鳥や猫を飼い、観葉植物を育てながら静かだが、退屈な日々を過ごす。

電子機器の扱いが得意で、小遣い稼ぎのために地元の警察でパートタイムの仕事を得て、盗聴や盗撮を担当する捜査官でもある。

この講師、大学では若者たちに、ニーチェやフロイトを持ち出してあれこれ説く。

自己とは確固たるものではなく、他者によって「構築」されたものに過ぎないとすれば、未知の自己を発見するためにも、リスクを冒してその殻を破るべきではないか・・・とかなんとか。

だが、実のところ、かれ自身は、変わりばえのしないルーティンを繰り返すばかりの日々を送っている。

ひとりの学生が揶揄するように、かれ自身の日常はリスクを冒すどころか、愛車「シビック」に象徴されるように、中産階級的な小さな安逸に浸っているだけなのだ。

さて、舞台であるメキシコ湾に面したルイジアナ州南部は、合衆国のなかでも得意な歴史と文化を持つ土地である。

もともと先住民たちのものであったが、十七世紀にフランスとスペインが植民地支配するようになる。

しかし、「クレオール」と呼ばれる、植民地のスペイン系やフランス系のカトリック教徒の人たちの他に、先住民やアフリカ黒人のプレゼンスもあり、
そんな多様な人びとによって、ブリキの洗濯板を楽器に応用した「ザディコ音楽」をはじめとして、独自のまぜこぜ文化が培われてきた土地柄である。

英語アングロ文化中心のアメリカ社会のなかで、こうした混淆文化が息づいている土地はめずらしい。

なぜリンクレーターはそうした土地を舞台にして、冴えない中年男性を主人公にした映画を作ろうとしたのだろうか。

思いかえせば、初期の『恋人までの距離(ディスタンス)』(一九九六年)から、この映画監督は移動や旅が人間の精神にもたらす化学変化を描いてきたのだった。

とりわけ、男女関係において、それまでの他人同士が旅の途上で出会い、共通の失敗や事故を経験することで、お互いの心に何か恋心のようなモノが芽生える。

しかし、それは恋心とはっきり言えるモノではないかもしれないが、確実にお互いの内面に変容をおこしていく。

本作でも、若者をけしかけながら、自分は何もできない中年男性が、ふとしたことがきっかけで惰性の生活からの脱却を余儀なくされる。

警察では安全な機械技師をしていたが、おとり捜査のための殺し屋(ヒットマン)を演じる任務へと配置転換される。

名前を変え、毎回あれこれ扮装して別の人間を演じる。

知らず知らずのうちにかれの自身の自己発見の旅が始まっている。

ハリウッド映画特有のハッピーエンドで終わる痛快コメディにもかかわらず、リンクレーター風のひねりが効いている。

アメリカ人好みの「自己啓発」のテーマがそっと隠されているのだ。ミッドクライシス(中年の危機)にある人びとのための教訓が・・・。

合衆国は「自己啓発本」の一大産地である。

その名も『アメリカは自己啓発本でできている』(平凡社刊)という本のなかで、著者の尾崎俊介は、なぜアメリカで自己啓発本が流行るのか、明快に説明している。

ふたつの条件があることが重要であるらしい。

ひとつは、どのような出自であろうと、どこに住んでいようと、男性であろうと女性であろうと社会的な成功(「出世」)を望めば、それが実現できる社会環境・流動性あること。

もうひとつは、そうした成功を望んで努力を惜しまない人たちが大勢いるかどうかということ。

そういうふたつの条件が揃った十八世紀以降のアメリカで、例えばベンジャミン・フランクリンという、貧しい職人の子に生まれながら、アメリカ植民地の代表にまで上り詰めた立志出世の巨人が現われる。

現代にいたるまで、成功への道を歩むにはどうしたらよいかを説く指南書(「自己啓発本」)が続々と生まれている。

確かに、本作では出世というより恋愛成就に重きがあるが、それでも「自己啓発」「自己発見」という中心軸は揺るがない。

これもリンクレーターの思想を背後から支えていると思うので、最後に触れておこう。

ニューオーリンズ文化を彷彿とさせる音楽が満載である。

冒頭から、二十世紀初頭のニューオーリンズ・ジャズを牽引した天才ピアニスト、ジェリー・ロール・モートンのアップテンポな曲が流れてくる。

ラグタイムやブルースなどをフュージョンしたユニークな曲を作ったモートンは、人種差別に異を唱え、アームストロングをはじめ、のちの優れた黒人アーティストのために道を切り開いたといわれる。

さらにバックウィート・ザディコによる「スペース・ザディコ」をはじめとして、ニューオーリンズを本拠地にして活躍したミュージシャンが目白押しである。

リズム・アンド・ブルースのジューン・ガードナーやアルヴィン・ロビンソン、アラン・トゥーサン、ラッパーのロブ49、ジャズトランペッター・キッドのトーマス・ヴァレンタインなど。

とりわけ、白人でありながら、十九世紀の有名なヴードゥ教(ハイチの黒人宗教)の司祭の名前にあやかって演奏活動したドクター・ジョンは、この映画のなかで二曲も採用されている。

ニューオーリンズは合衆国の南の果てであるが、見方を変えれば、カリブ海のフランス語文化圏の北の果てでもある。

マルティニークやハイチなどフランス植民地の「クレオール文化」と強く結びついている。

十八世紀半ばにあった「フレンチ・インディアン戦争」で、イギリス軍によって追放されたカナダ南東部アカディアのフランス系の人々が大挙してこの地に流れてきた。

かれらはここでは「ケイジャン」と呼ばれ、
土地で獲れるザリガニや小エビなどの魚介類にオクラや香味野菜をつかったシンプルなケイジャン料理(ごった煮の「ガンボ」が有名)や、アコーディオンを主楽器にしてフランス語で歌うケージャン音楽など、ユニークな文化を生み出す。

そんなわけで、本作の最後に流れてくるブードゥ教司祭を演じるドクター・ジョンの「サッチ・ア・ナイト」という甘いメロディーは、この中年男性の「自己啓発」をテーマにしたコメディにぴったりである。

こんな夜は こんな夜は
甘い混乱が 月夜の下で
こんな夜は こんな夜は
駆け落ちに ぴったりなとき

君の目が僕の目をとらえ
一瞥で 君は僕に教えてくれた
いまこそ 僕のチャンスだと
だけど 君はここにやってきた
僕の親友のジムと一緒に
で僕はいま必死なんだ
君と駆け落ちしようとして
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書評 中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』

2024年08月31日 | 書評
「精神的な異邦人」となることを恐れずに  
書評 中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』
越川芳明

中沢新一は述べる。
「いわゆる言語学主義的な構造主義の限界を突破して、それを生命と物質の領域にまで押し拡げていかなくてはならない。この本はそういう要求に応えて、レヴィ=ストロースの構造主義に新次元を開こうと試みた」と。

いかにしてレヴィ=ストロースの「構造主義」が過去の遺物(研究対象)などではなく、むしろ未来に開かれた、新次元の「革命的科学」になりうるのか。

「構造主義」の現代性を説くべく、三元論の諸構造の「奥」で作動しているとされるものをトポロジーの助けを借りて論証する第三章といい、
北米大陸の北西海岸(ブリティッシュ・コロンビア)の先住民のふたつの対照的な仮面をめぐるレヴィ=ストロースの考察を引き継ぎ、
それらと日本列島の山人や山姥の仮面との共通性を論じ、「環太平洋圏」に共通の基層文化層が存在するという大胆な仮説を打ち立てる第四章といい、
本書の後半で中沢が繰り出す論法(レトリック)は、まるで熟達の大道芸人のダイナミックなジャグリングのように、我々を飽きさせない。  

我々は本書を読み進めるとき、レヴィ=ストロースの「構造主義」のどこに「革命性」があるのかを語る著者の手捌きを、驚嘆を覚えながら楽しむことができる。

ここではとりわけ前半のふたつの章に絞って論じていこうと思う。

詩人と量子物理学者
レヴィ=ストロースは「神話的思考と科学的思考」と題したエッセイの中で、量子物理学の父のひとりニールス・ボーアのことばを取りあげ、面白いことを言っている。

ボーアは量子物理学が見かけ上の矛盾を乗り越えるために、詩人や民族学者に目を向けるべきだという。
とりわけ詩人は、この世界の「現実」を表現するさいに、常識や定説(ものごとの表層)に惑わされないために、たとえば複数の視座に立ったり、相容れない意味を含んだ言葉を並置させたりする(撞着語法と呼ばれる)ことばの使い方をする。
そうした一見矛盾をはらむようなイメージや表現によってこそ、「記述という直接的な努力からはこぼれ落ちてしまう構造」(本書のいう、構造の「奥」)が知覚可能になるのだという。

撞着語法とは、身近な例で言えば、「チベットのモーツァルト」のようなことばの使い方で、ごく初期の頃から、中沢は詩人(=革命的な民族学者)として、見かけ上の矛盾を乗り越えようとしていたわけである。
その姿勢は、四十年以上もたった現在でも変わらない。

しかしながら、いま我々が注目したいのはそこから先である。

レヴィ=ストロースは、先のエッセイで量子物理学者のことばを引きながら、神話(古代人の思考の産物)と科学(近代人の思考の産物)というように、一見対立するふたつの項に第三の項(民族学と詩)を持ち出すが、
中沢によれば、近代思考(二元論に代表される)の行き詰まりや矛盾を突破し、構造の「奥」にたどりつくためにも、そうした三元論的思考が必要らしい。

のっけから、度肝を抜かれるような論考が待っている。
「仏教の中の構造主義」と「構造主義の中の仏教」と題された考察がそれである。
一見、これも撞着語法のように感じられるかもしれないが、そこにはかならずしもパラドクシカルな飛躍はないようだ。

というのも、「構造主義を仏教の光によって新しく照らし出してみるとき、それはふたたび、現代の人類を導く有力な思想として蘇ってくるに違いない」という信念が中沢にはあるからだ。

レヴィ=ストロースの「構造主義」が「未開社会」の分析を通して、最も進化しているとされる西洋近代の思考が、古代人の「非二元論のダイナミズムを失った変形ないし硬直化」でしかないことを明らかにしたように、
仏教もまた、生と死、善と悪といった二元論的思考を否定して「現実」を観察する方法をとっている。

仏教では、たとえば形を持たないもの、名付けられないもの、自我と無我のあいだにあるものなど、いわゆる「中道」を追い求める。
それはまさしく対立するどちらのグループにも属さない実在である。
僕なりの理解では、それは集合でいう重なりの部分である。
たとえば、Aという集合とBという集合があるとして、ふたつの集合が重なる部分だ。
AでありAでない、BでありBでない、AでもありBでもある、そんなボーダーの「実在」を仏教は追い求めた。
おそらく、それこそが構造の「奥」なのであろう。とはいえ、そう理解しても、修行を経ずしてそれを体得するのは、それほど簡単なことではない。

五〇年代初頭レヴィ=ストロースは東パキスタン(現バングラデシュ)を訪れていた。
そのとき、彼は直感したようだ。「私は実際、私が耳を傾けた師たちから、私が読んだ哲人たちから、私が訪れた社会から、西洋(オクシデント)が自慢の種にしているあの科学からさえ、継ぎ合わせてみれば木の下での聖賢釈尊の瞑想に他ならない教えの断片以外の何を学んだというのか?」と。

要するに「西洋がつくりだしてきた思想も、学問も、科学も、仏陀の瞑想に包摂される教えの断片にすぎないのではないか」
アジアで仏教の本質を学んだ(と中沢が想像する)レヴィ=ストロースが、本書で「生まれながらの仏教徒」と呼ばれるゆえんだ。

プロレタリアの民族学
我々の楽しい驚嘆はさらにつづく。
「構造主義と仏教」という、一見異質に見えるふたつの対立項が論じられるさいに、第三項としてマルクス主義が登場するからだ。

具体例として、レヴィ=ストロースの弟子のひとりであったリュシアン・セバークが引き合いに出される。
セバークこそ、民族学(構造主義)を使ってマルクス主義を完成に導いていくことができる人だった。

「今日、不成就の状態で足踏みと後退と裏切りを続けている資本主義の姿を正確に映し出すことのできる、このような人間科学を真に必要としている」のであれば、セバークの仕事(マルクス主義的民族学)に期待しないほうがおかしい。

プロレタリアをほかの領域にも応用できる「理念」としてとらえるセバークにとって、「民族学は資本主義そのものを照らし出す、歪みない鏡となることのできる稀有な人間科学」となるはずだった。

だが、セバークは志半ばにして斃れてしまう。
だからこそ、本書はセバークになり代わり、「構造主義」のマルクス主義的展開を試みるのだ。

読者諸賢の愉しみを奪うことになると思うから、これ以上は深入りしない。その代わり、僕の心に響いたセバークをめぐることばを最後に挙げておこう。
「民族学者は自分の生きている社会の価値に呑み込まれてしまうことのできない生き方を自ら選んだのであるから、その社会の求める思考法をそのまま受け入れることはできない。彼は自分の生きている社会の中で、精神的な異邦人となる」

「精神的な異邦人」となることを恐れずに、本書の数々の刺激的な論考をさらに発展させていくのは、若い人類学者たちに課せられた使命だろう。

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映画評 ミハウ・クフィェチンスキ監督『フィリップ』

2024年07月15日 | 映画
恐怖の中で生きる男女
ミハウ・クフィェチンスキ監督『フィリップ』
越川芳明

主人公のフィリップは、第二次世界大戦中(一九四三年)にナチスの鉤十字の旗が街中にはためき、秘密警察(ゲシュタポ)によるユダヤ人狩りが行われているフランクフルトで、フランス人といつわって暮らすユダヤ系ポーランド人だ。

二年前まで、ドイツに占領されたワルシャワに設けられたユダヤ人ゲットーにいたが、恋人と劇場でダンスを披露しているとき、ドイツ兵がいきなり襲ってきて、恋人や両親、親せきを殺されてしまったのだった。

フィリップは背が高くイケメンだが、ときどきシニカルで反抗的な態度を見せる。

それはおそらく、繊細で壊れそうな心をおおう仮面である。

かれは一流ホテルのレストランでウェイターとして働いている。

故郷で恋人と身内を失ってからからどのようにこの都市にやってきたのか、どのようにこの仕事を見つけたのか、詳しい事情は説明されない。

だが、おそらくポーランド人の工場長スタンシェクの手助けがあったものと思われる。

二人はともにポーランド人であり、誰ひとり信用できない環境で、お互いに信頼を寄せあっているようだった。

フィリップは工場長の金稼ぎのために、こっそりホテルの高級ワインを持ってきてあげていたし、工場長もフィリップのために国外逃亡のための偽造パスポートを作ってやっていた。

工場長が言う。「ポーランド人は好きだ。好きなユダヤ人は君だけだ」と。

そして、つづけて「祖国のゲットーは消滅した。ユダヤ人は皆殺しだ。君以外は。私のほかに心を許せる者はいるのか?」と訊く。

フィリップは、きっぱりと「いない」と答える。

実は、フィリップには心を許せる者がわずかながらいた。

戦時中ドイツの異邦人

そのうちのひとりはウェイター仲間で、同室で暮らすピエールだった。

かれはドイツの占領地ベルギーからやってきていた。

レストランの高級ワインをちょろまかし、フィリップにわけてくれる。

さらに、一緒に市中のプールに出かけていき、夫が外地に出兵して孤独をかこつドイツ人女性たちをナンパしてまわる。

ピエールはあるとき焦燥感を募らせるフィリップに問う。

「食うのにも困っていないのに、何が不満なんだ。ここはアウシュヴィッツよりもマシだろ」と。

しかし、ユダヤ人のフィリップにとっては、それほどの違いはなかったのだ。

レストランの給仕スタッフは、支配人によれば「ヨーロッパ中から集められた精鋭揃い」である。

イタリアや、ハンガリーのようなドイツの同盟国、あるいはオランダ、ベルギーなどのドイツの占領国から集められたらしい。

丸刈りにされた女たち

第二次大戦中にドイツ兵と愛し合い、解放後に「対ナチの協力者」の烙印を押されたフランス人女性たちを取りあげ、その後を追った『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅』の著者・藤森晶子は、映画のパンフにエッセイを寄せている。

それによれば、戦時中の労働力不足を補うために、ドイツは農場や工場で七六〇万人もの外国人を働かせていたという。

戦時中のドイツにそれほど多くの外国人がいたというのは驚きであるが、本作は、それらの外国人労働者の中でもエリートと見なせるかもしれない外国人ウェイターたちの、存在の「象徴性」に観客の目を向けさせる。

一言でいえば、十人ほどいる外国人ウェイターは二重の意味で「奴隷」だということだ。

ひとつは、給仕する側と給仕される側の階級によるものだ。

給仕されるのは、ドイツの上流階級の家族や将校たちであり、かれらは給仕するウェイターたちを同じ人間と見なしていない。

もうひとつは、外国人恐怖症(ゼノフォビア)のナチス思想に染まった環境では、外国人はドイツ人の「純血」を汚す、穢らわしい存在でしかない。

いずれにしても、かれらは虫ケラ同然なのだ。

たとえばオランダ人のルカスは、ナチス将校に、目の前で「アムステルダムは、汚い町だ」と侮辱される。

ルカスに反論は許されないので、「お前も同様に、汚い人間だ」と揶揄されているのに等しい。

ルーマニア人の美少年イリエは、ナチス将校によって「性的虐待」を受ける。

戦時下の女性たちの描かれ方にも触れなければならない。

とりわけ、ドイツ女性のブランカの描かれ方は注目に値する。

外国人ウェイターたちと付き合い、それが当局に発覚して、見せしめに丸刈りにされる。

外国人とドイツ人女性との恋愛について、先ほどの藤森晶子はこう書いている。

「『ドイツ人女性やドイツ人男性と性交した者やみだりに接近した者には死刑が科される』とされた。/ドイツ人女性も、民族の純血を汚したとされれば、厳しく罰せられた。公衆の面前で丸刈りにされるという辱めを受けた」と。

狭隘なプロパガンダ(国家イデオロギー)に染まらない女性たち

フィリップがプールで誘惑するドイツ将校の妻たちは、ポーランドやポーランド人を侮辱する発言をする。

だが、ブランカはそんな当局のプロパガンダ(ナチスドイツの国歌にある「ドイツ、あらゆるものの上にあれ!」)に染まらずに、自分に忠実に生きる人間として描かれている。

髪を切られたブランカが救いを求めてフィリップの部屋にこっそりやってくる。

フィリップは高級ワインと食事とタバコをあげて、彼女を励ます。

「この腐った世界に迎合しないで生きてくれ」と。

同じことは、フィリップと恋に落ちるドイツの上流階級の女性リザにも言える。

周囲の者たちが白い目を向けるにもかかわらず、白昼堂々と外国人のフィリップとデートを重ねる。

現代にも通じる戦時下の恐怖や不安を描く

さて、本作はティルマンドという名の、ユダヤ系ポーランド人作家の自伝小説を基にしている。

小説は一九六一年に政府の検閲により大幅に削除されて出版されたが、たちまち発禁処分になったという。

映画は第二次大戦の「戦闘」を描くものではない。

むしろ、フィリップやブランカなど、戦争が生み出す「難民」や「犠牲者」の、恐怖の中での生き方に焦点を当てている。

そういう意味では、パレスチナ、シリア、ウクライナなどで、次々と生み出されている現代の戦争難民の、恐怖や絶望や怒りに通じるものがある。

監督自身もこう言っている。

「この映画は戦争映画ではありません。

トラウマに苦しむ孤独で疎外された男性についての映画です」と。

この映画は観客に、フランスやドイツをはじめ、ヨーロッパ各国で、移民を嫌悪する自国中心主義的な勢力が力を増している昨今の実情をも憂慮させるものだ。
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草生亜紀子『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』

2024年07月14日 | 書評
何役もこなした翻訳家の人生   
草生亜紀子『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』
越川芳明

シェイクスピアの翻訳で知られる松岡和子は昭和十七(一九四二)年、日本が中国の東北地方に樹立した満州国で生まれた。

本書は、和子とその家族が経験した出来事を伝記風につづった「ファミリー・ヒストリー」。背景である時代も知ることができる。

父親は帝大出のエリートで、満州国の高級官吏だった。

日本の敗戦により、中国の八路軍(はちろぐん)(のちの人民解放軍)によって連行され、その後消息不明になる。

母は四歳の和子と妹と、父の連行十日後に生まれた弟を連れて、一年近く中国をさまよい、なんとか無事に帰国。

行方不明だった父は、十一年間ソ連で抑留生活を送ったのち帰国を果たす。

和子は十四歳になっていた

明治生まれの母は東京女子大英文科卒だった。

父の不在のあいだ英語教師の職を見つけ、「母子家庭」に向ける世間の冷たい目にも屈せずに、幼い子供たちを養った。

やがて和子も母と同じような「キャリア・ウーマン」の道を歩む。

東京女子大英文科を出たあと、演出家をめざして新興の一小劇団の研究生になる。

さらにシェイクスピアを本格的に学ぼうと、東大大学院英文科に進む。

東大紛争まっさかりの一九六八年、エンジニアと結婚。

その後、母校をはじめ大学で教える傍ら、二人の子を育て、夫の母の介護もしながら、せっせと小劇場に出かけ、劇評を書き、海外の現代劇の翻訳をこなす。

一人で何役も引き受ける、多忙な毎日だった。

著者は言う。「……演劇は和子を嫁や母であることの義務から、ほんのひととき救い出してくれる解放の時間だった」と。

和子は人生の節目で、さまざまな人脈に恵まれている。

なかでも「彩の国さいたま芸術劇場」の芸術監督に就任した蜷川(にながわ)幸雄は、シェイクスピア全作を上演するプロジェクトで和子による翻訳を採用することに決めた。

和子の未来の仕事に期待した異例の抜擢だった。
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ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

2024年07月12日 | 書評
世界を救うための寓話 
ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

スペインの首都マドリードを舞台にした現代小説だ。

交互にめまぐるしく視点を変え、サスペンスあふれる小説の前半には、主要人物がふたり出てくる。

ひとりはマティアスという男で、四九歳になるタクシードライバー。

三十年以上連れ添った十七歳年上の妻を亡くしたばかりだ。

妻の残した捨て子の犬二匹と暮らしているが、孤独感は癒しがたく、「世界は難破船の残骸のように漂う」と感じている。

一方、ダニエルは、救急センター棟に勤めている四十五歳の医師。

ばりばりのキャリウーマンである妻マリーナとの十五年間に及ぶ結婚は破綻している。

かれは妻の目を盗んでコンピュータゲームに没頭。

素性のわからない女性たちと、アバターを使ってヴァーチャルセックス(サドマゾプレー)に耽る。

冒頭で、作家は人間を二つのタイプに分類している。

「人々は夜、ベッドにもぐりこむことを楽しむ人々と眠りにつくことに不安を覚える人々に分かれる」と。

確かにマティアスもダニエルも、その日の暮らしに行き詰まる困窮者ではない。

にもかかわらず、夜に眠りにつくときに不安を覚えるタイプなのだ。

なぜふたりは不安を覚えるのか?

マティアスはアルコール依存症の母に育児放棄され、不幸な少年時代を送ったという。

盗みを働き少年院に入れられたり、マリファナに溺れたりするストリートキッズだった。

かれがいま深夜勤務を望むのは、母の代わりにかれを育ててくれた最愛の妻を失って、孤独の夜を直視できないからだ。

ダニエルは医療補助者だった父のようになりたくないからという不純な理由で医者になったものの、二十年間まったく研鑽を重ねることなく、怠惰に生きてきた。

深夜勤務を選ぶのは金のためだ。だが、昼夜逆転の生活で、不眠症とうつ病に陥ってしまう。

周縁に追いやられた人物
小説の後半には、このふたりのほかにスペイン(キリスト教)社会の周縁に追いやれた人物たちが登場する。

いわば社会の底辺に生きる「見えない人たち」が持っている、もう一つの価値観が提示される。

ひとりはマティアスから人種にまつわる偏見で暴力を振るわれてしまうモロッコの少年ラシッド。

かれはのちにイスラム原理主義に染まり、自爆テロに走る。

本国では理工系の優秀な学生であったが、スペインで差別に遭ううちに、「西洋人はみんなそうだ。人種差別主義者で、攻撃的で、抑圧者で、帝国主義者だ。(中略)アラブ人の敵であり、虐殺者だ」と、過激思想に走るようになる。

さらに、若いアフリカ人の娼婦ファトマが登場する。

シオラレオーネからの難民で、パスポートも滞在許可証も売春宿のオーナーに奪われてしまっているようだ。

そんな社会的な弱者である彼女だが、マティアスやダニエルにはない精神的な強さがある。

その基礎になっているのは、故郷で培われた輪廻転生の思想だ。

彼女のそばには、つねにペットのヤモリがいる。彼女と弟は七万五千人もの死者を出したシエラレオーネの内戦(一九九一年から二〇〇二年まで)に巻き込まれたが、弟はそのとき殺されてしまった。

ヤモリは死んだ弟の精霊だと、彼女は信じている。

その後、難を逃れたスペインでさまざまな男と関係をもたされて、彼女は父親のわからない子を身ごもってしまうが、その子を弟の生まれ変わりだと信じて産む決心をする。

性善説の寓話
本書は前半、妻の急死を不審に思ったマティアスによる担当医ダニエルの誘拐・拘束という、犯罪小説めいた面白い展開を見せる。

しかし後半、あるメッセージ性を有した寓話へと変化する。

それに寄与するのは七十すぎの老女セレブロの存在だ。

彼女はかつて最年少で主任教授の座を射止めたものの、弟子の大学院生による(おそらくパラハラの)告発でその座を追われたらしい。

いま醜くなった老女は酒場でマティアスに、不当に冷遇を受けたと思える二十世紀の科学者をめぐって、独自の講釈を垂れる。

なかでも、とりわけアーロン・フィールドマンというユダヤ人科学者の唱えた仮説が興味深い。

かれはナチスから逃れてアメリカに渡り、ロス・アラモスでの原爆実験「マンハッタン計画」に参加したという。

実在の人物であるオッペンハイマーと同様、この科学者は敵国ナチスドイツよりも早く、敵国にまさる破壊力を持つ武器を作るという使命を帯び、原爆の開発にかかわった。

だが、戦争末期においてその武器の使用に恐怖を覚え、パラノイアに陥ったという。

フィールドマンの学説は「コップの理論」と呼ぶもので、老女いわく「人間の行動は物理的世界、地球とほかの生き物の現実に影響力をもつということだった。(中略)生き物はエネルギーをもった統一体を形成していると言われる。あらゆる生き物は何らかの形で、ハエからローマ法王まで、お互いに影響を及ぼしている。そして我々がしたことに依存しながら、ものを秩序立て、調和を作ろうとする。さもないと物事が混乱し、不安定と混乱への道を解き放つことになるからである」

世界は調和に向かうのか、それとも混乱に向かうのか? 

その二つの可能性のうち、作家は、たとえ匿名のものでも小さなものでも、「良い行いは世界をより良くする」と信じているようだ。

終盤のマティアスの慈善行為も、ダニエルの改心もそんな作家の性善説に基づいたものであり、「世界を救出するための方法」であるに違いない。

いま(二〇二四年四月)世界に目を向ければ、ロシアとウクライナの戦争は膠着状態のままである。

イスラエルのガザ攻撃よるパレスチナ人の殺戮は三万人を越え、まったく歯止めがかからない。

フィールドマンの学説で言えば、世界は確実に悪い方向に向かっている。

だからこそ、われわれ一人ひとりが良い行動をとらなければならない。これは作家がそういう倫理的なメッセージをこめた寓話である。
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映画評 ファティ・アキン監督『RHEINGOLD ラインゴールド』

2024年04月25日 | 映画
獄中ラッパーの誕生
ファティ・アキン監督『RHEINGOLD ラインゴールド』
越川芳明

 「2010年シリア」という字幕が流れ、鉄のフェンスがある荒地を一台の軍用トラックがやってくる。

トラックは放牧の羊の群れを追い散らすようにして、要塞の塀の中に入っていく。

そこは収容所で、トラックから手錠をかけられた三人の男が降りてくる。

まずは三十歳近くのクルド人の主人公ジワ。
幼馴染みのパレスチナ人のサミー、そしてクルド人のミラン。
お互いに「兄弟」と呼び合う仲だ。

ジワとサミーはドイツで大きなヘマをして莫大な借金を抱え込む。

一発逆転をねらい、金(きん)の輸送車を襲って、ミランのコネで外国への横流しに成功。

だが、強盗仲間のひとりの軽はずみな行為で足がついてしまう。

中東に逃げるもドイツ当局の執拗な捜査によって、シリアの山岳リゾートで捕えられる。

三人はシリアの収容所に八か月半年ほど勾留される。

数々の非人道的な拷問にも屈せず、金のありかを吐かない。

ドイツへと強制送還され、シュトゥットガルトで裁判になる。

それぞれ七年から八年までの禁錮を言い渡される。

皮肉にも、時間がたっぷりある刑務所にいるあいだに、ジワのラッパーとしての才能が開花する。

ひそかに獄中で自作のヴァースを録音し、塀の外にいる知り合いのプロデューサーの協力で人生初のCD制作に漕ぎつける。

CDのジャケットにつけられているラッパーの名前も「カター415」。

「カター」というのは、クルド語で「危険な奴」という意味で、415は、ジワの囚人番号。

まさに獄中ラッパーの誕生だ。

ドイツにおける少数民族クルド系のラッパー。

もともとジワの父はイラン在住のクラシックの作曲家で、母も名家の出で音楽家だった。

しかし、一九七〇年代末の「イラン革命」によって、親欧米体制のパプラヴィー朝が打倒され、欧米の娯楽(とりわけ、音楽)は禁止される。

クルド人は、イランでの自治権の獲得をめざしたが、ホメイニ師の革命政府によって弾圧され、山岳に立てこもり戦闘状態になった。

そんな戦闘のなかでジワは生まれる。

三歳のときに、逃亡先のイラクで、両親と一緒に監獄に入れられる。

ジワは後日、実の娘に向かって「人生で最初の記憶は刑務所だった」と、述懐する。

ジワは生まれてから一箇所にとどまることがない。

まるでクルド民族の遍歴をなぞるかのように、めまぐるしく各地を転々とする。

幼児の頃にイランからイラクやドイツのボンへ亡命。

少年時代には麻薬密売人として少年刑務所に入れられ、出所後オランダ(アムステルダム)へ渡る。

そこでは音楽院で音楽ビジネスを学びながら、ミランのコネを使って、警備会社を設立して、クラブに用心棒を独占的に派遣することに成功。

しかし、ジワは自己のレーベルを作ることを夢見てドイツに舞い戻る。

その際、コカインの密輸に失敗し多大な借金を抱え、強盗事件を引き起こし、中東各地をさまよったあげくにシリアの山岳地帯で逮捕される。

そうした波瀾万丈の半生が、ラップのヴァースに活かされている。
 
ママは父親代わり/ストリートが俺の手本
当時はつるみ 今は金(きん)を探す/多くを見てきた あらがえなかった
 (中略)
一〇ユーロで俺らはメジャー/敵がくれた名前はカター
五〇〇万儲かる話/俺の場合 大赤字
アムスのマフィアに大借金/首をかけて借金返済
助かったが代償は巨大/沈黙は金だから

さて、クルド人は中東のトルコ、シリア、イラク、イランなどの各国が接している山岳地帯(クルディスタン=クルド人地区)に住んでいる。

その人口は、三千五百万人から四千八百万人といわれている。

ジワやミランの家族のように、ヨーロッパにも亡命している。一言でいえば、国境をまたいで暮らす民族。

多くがイスラム教徒だとはいえ、敬虔とはいえない世俗主義者(日々の祈祷をおこなわない)といわれる。と同時に、仲間意識が強く結束は固い。

とはいえ、この映画では、クルド人の戦闘は両親のそれ以外は描かれない。

むしろ、ヨーロッパに暮らすジワのサバイバルゲームに焦点を当てている。

本作は、実在の人物ジワの自伝をもとにしているが、独自の脚色・変更も行われている。

とりわけ、ふたつのクラシック音楽が注目に値する。

それらは親子の愛情というテーマに結びついているからだ。

ひとつには、ジワの父親の作曲した、「ペルシャ音楽とヨーロッパ音楽の融合」をめざした交響曲がジワの人生の節目のシーンに流れてくる。

父に反発しているとはいえ、ラッパーとしてのジワに多大な影響を与えたことは否定できないからだ。

もうひとつは、本作のタイトルの「ラインゴールド」に見られる。

もちろん、これは一九世紀のドイツの作曲家ワーグナーの大河オペラ『ニーベルングの指環』の、序夜『ラインの黄金』に由来する。

ニーベルング族(死者の国)のアルベリヒは、ライン川の川底の黄金を守る乙女たちに、世界を支配することができる黄金の指環を作るには愛情を断念する必要があると知らされる。

アルベリヒは愛情を捨てさる決心をして、ラインの黄金を乙女たちから奪い、指環を作る。その「ニーベルングの指環」をめぐって、いろんな神々や巨人族が画策する。アルベリヒは奪われた指環に呪いをかけて、結局、それを手にした巨人族の兄弟は殺し合いになる。

そんな神話時代の物語と同様、現代ドイツを舞台にした本作でも、世界を支配できるという黄金をめぐる争いに、ジワをはじめとする登場人物たちが翻弄される。

最後に、ジワは幼い娘に、本当に黄金を盗んだりしたのか?と問いただされ、「大昔にね」と答える。

さらに、その黄金はいまどこにあるのかと聞かれ、ジワはそっと娘に耳打ちする。

「ライン川の川底に眠っていて、三人の乙女が守っている」と、答えたに違いない。

それは、結局は手にしてはいけないモノであったというメッセージだったのかもしれない。

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映画評 小林且弥監督『水平線』

2024年04月24日 | 映画
底辺の生活者から死者の弔い方を考える
映画評 小林且弥監督『水平線』
越川芳明

二〇一一年三月十一日の東日本大震災から、まもなく十三年目を迎えようとしているが、いまだに避難生活を余儀なくされている方々が約二万八千人(復興庁 2023)もいる。つまり、大震災は終わっていない。

本作は、ポスト3・11の福島の港町を舞台に、津波で妻が行方不明になった中年男性(井口真吾)と、水産加工場で働くその娘(奈生)を中心に展開する。

真吾はもともと漁師であったようだが、いまは海洋散骨の個人会社(寄り添い散骨 ウィズユー)を営んでいる。
東北では震災のあと多くの遺体を弔わなければならなくなり、海洋散骨の需要が増えたらしい。

全国的に見ても、海洋散骨は、自宅葬や樹木葬、永代供養墓などと同様、この十年あまりで急激に広がりを見せているようだ。

こうした主人公の職業設定ひとつをとってみても、本作は日本社会の家族制度の弱点を鋭く突いている。

海洋散骨の近年の広がりについて、村田ますみ(一般社団法人日本海洋散骨協会代表)は、これまでの日本におけるお墓を含めた相続のあり方が、少子高齢化の影響を大きく受け、変容を余儀なくされていると指摘している。

「お墓のような祭祀財産は、分割して相続することができないため、現行民法第 897 条【祭祀に関する権利の承継】では、『祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する』と規定されています。(中略)しかし、核家族化が進行して子供の数が減っている現在、お墓を継承する後継ぎ(墓守)のいない家が増えています。2015 年の国勢調査では、(中略)全世帯の実に6 割が、単身あるいは二人世帯という社会構造になっています。墓守のいない人々の、お墓の悩みは切実です。(中略)継承者を前提としている従来のお墓のシステムが制度的に現在の家族の状況に適合しないケースが増えていることから、永代供養墓や海洋散骨のような、継承者を必要としない遺骨の行き先が求められているといえます」(報告「海洋散骨の現状と広がっている背景」日本生活学会第46回研究発表大会 公開シンポジウム「弔いと生活―死をめぐる現在をとらえる―」『生活学論叢』35 号 2019年)

あるとき、真吾はいわくつきの遺骨を預かることになる。依頼人は松山という若者で、兄の遺骨を散骨してほしいと真吾に頼む。

松山がいくら払ったかわからないが、松山の前に、一人暮らしの老婆が真吾に将来の自分の遺骨の処理を依頼して、一万円で請け負わせるシーンが出てくる。

いずれにしても、家族が乗船せずに散骨する「代行委託プラン」の場合、三万円から五万円が相場のようだから、真吾の会社はそうとう格安だ。

真吾自身も老婆に、業界最安値と説明していた。

慎吾の顧客は、高齢者や生活困窮者など、社会の底辺で暮らす人たちだ

ここに日本社会の別の問題が浮かびあがってくる。現在、海洋散骨が人気を博す別の理由があるのだ。

従来のお墓での埋葬に比べて、圧倒的にコストが安いのである。

監督自身も、海洋散骨の実態は「(いまの日本社会における)貧富の格差」を顕在化させる、と述べている。

そうはいっても、ともすれば閉鎖的な日本社会では海洋散骨業は反発も受ける。だから散骨業者も低姿勢である。

「散骨が新しい葬送方法である点、ご遺骨を海に撒くという特殊な行為である点などから、散骨について否定的な見解をお持ちの方々もいらっしゃるという事実も真摯に受け止めなければいけません」(一般社団法人日本海洋散骨協会のウェブページより)。散骨業界も会社も、いまだ日陰の存在と言わざるを得ない。

散骨と「風の電話」

しかし、これまで述べてきたことは、本作の社会学的な側面にすぎない。もっと注目すべき思想的な問題をこの映画は提起している。

人間にとって、死とは何か、という根源的な問題である。

死んだひとの肉体は、ただのモノなのか? 果たしてひとには魂があるのか? もしそうだとするならば、肉体は滅びても、魂は生き延びるのか? 

津波によって、真吾の妻は亡くなった。

遺体は見つからなかったので、本当は亡くなったどうか不明だ。

真吾は不在の妻があるときひょっこりと帰ってくるかもしれない、という想いを抱いているらしい。

だから、妻がいたときと同じように、毎日を淡々とすごす。

仕事が終われば、夜はスナックに通って、酒を飲んでカラオケに興じる。

ここで私たちは岩手県の佐々木格氏が自宅の敷地に設置した「風の電話」を思い出す。

生存者が震災で亡くなった家族への想いを風に乗せて伝えられるように設置された電話ボックス。

多くの被災者たちがボックスの中に入り、回線のつながっていない電話を手に取り、行方不明になった家族と魂の会話をおこない、心を癒されたという。

おそらく真吾は、お客の散骨のために船で海に出ていくたび、まわりに誰もいない沖で、目に見えない「風の電話」を使って妻と会話をしているはずだ。

一方、娘の奈生は母の死を消化しきれていない。

母の急な「喪失」が心の中に大きな空洞を作っているようだ。

奈生がアルバイトの休憩時間に岸壁にすわり海を眺めてタバコを喫うショットが何度も出てくる。

母の肉体は海のどこかで朽ちているはずだが、奈生には母と会話をする「風の電話」がない。

だから「骨などに価値はない。心が大事」という父に対して、「母の骨がほしい、たとえひと欠けらでも」と、父に訴える。生きるヨスガとなるモノが必要なのだ。

小さい「声」と大きい「声」

そうした違いがあるとはいえ、父娘とも、この社会では見えない存在で、「声」が小さく、スポットライトが当たらない人たちだ。

だから、私たちはかれらの「声」に耳を傾けなければならない。

このふたりに比べれば、「声」の大きい登場人物がふたり出てくる。

ひとりは都会からやってくる江田というジャーナリストだ。

江田は、松島という男の持ち込んだ遺骨は十二年前に世間を騒がした通り魔殺人事件の犯人のものだと告げ、そんな殺人者の骨を大勢の被災者が眠る海に撒いていいのか、と真吾に詰め寄る。

さらに、犯人に娘を殺されたという母親を連れてきて散骨をやめるよう迫り、応対にこまる真吾を動画に撮りSNSで拡散させる。

被害者の代弁者と称して、江田は「政治的正しさ(正義)」を盾にして、ずかずかと真吾の心の中に入り込んでくる。

もうひとりの、隼人という漁師の若者は、普段から漁師仲間の声を代表しているという口ぶりで真吾の仕事にケチをつけるが、犯人の遺骨を海に撒いたりしたら、また風評で魚が売れなくなってしまう、と真吾に苛立ちを爆発させる。

真吾は共同体の同調圧力にも晒されるのだ。

真吾は果たして、そうした内外の圧力に負けて、娘の願いにも折れて、殺人犯の遺骨の散骨をやめてしまうのか。

いま私たちは、先祖とのつながりはおろか、身近な死者との絆も失いつつある。

まるで老人の虫歯を抜くように、日本列島のあちこちで「墓じまい」がおこなわれている昨今、本作は私たちに現代の弔いのあり方を考えさせてくれる、非常にタイムリーな映画である。
(『思想運動』二〇二四年三月一日号)
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書評 ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

2024年04月23日 | 書評
世界を救うための寓話
書評 ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』
越川芳明

スペインの首都マドリードを舞台にした現代小説だ。

交互にめまぐるしく視点を変え、サスペンスあふれる小説の前半には、主要人物がふたり出てくる。

ひとりはマティアスという男で、四九歳になるタクシードライバー。

三十年以上連れ添った十七歳年上の妻を亡くしたばかりだ。

妻の残した捨て子の犬二匹と暮らしているが、孤独感は癒しがたく、「世界は難破船の残骸のように漂う」と感じている。
 
一方、ダニエルは、救急センター棟に勤めている四十五歳の医師。

ばりばりのキャリウーマンである妻マリーナとの十五年間に及ぶ結婚は破綻している。

かれは妻の目を盗んでコンピュータゲームに没頭。素性のわからない女性たちと、アバターを使ってヴァーチャルセックス(サドマゾプレー)に耽る。

冒頭で、作家は人間を二つのタイプに分類している。

「人々は夜、ベッドにもぐりこむことを楽しむ人々と眠りにつくことに不安を覚える人々に分かれる」と。

確かにマティアスもダニエルも、その日の暮らしに行き詰まる困窮者ではない。

にもかかわらず、夜に眠りにつくときに不安を覚えるタイプなのだ。

なぜふたりは不安を覚えるのか?

マティアスはアルコール依存症の母に育児放棄され、不幸な少年時代を送ったという。

盗みを働き少年院に入れられたり、マリファナに溺れたりするストリートキッズだった。

かれがいま深夜勤務を望むのは、母の代わりにかれを育ててくれた最愛の妻を失って、孤独の夜を直視できないからだ。

ダニエルは医療補助者だった父のようになりたくないからという不純な理由で医者になったものの、二十年間まったく研鑽を重ねることなく、怠惰に生きてきた。

深夜勤務を選ぶのは金のためだ。だが、昼夜逆転の生活で、不眠症とうつ病に陥ってしまう。

周縁に追いやられた人物
小説の後半には、このふたりのほかにスペイン(キリスト教)社会の周縁に追いやれた人物たちが登場する。

いわば社会の底辺に生きる「見えない人たち」が持っている、もう一つの価値観が提示される。

ひとりはマティアスから人種にまつわる偏見で暴力を振るわれてしまうモロッコの少年ラシッド。

かれはのちにイスラム原理主義に染まり、自爆テロに走る。

本国では理工系の優秀な学生であったが、スペインで差別に遭ううちに、「西洋人はみんなそうだ。人種差別主義者で、攻撃的で、抑圧者で、帝国主義者だ。(中略)アラブ人の敵であり、虐殺者だ」と、過激思想に走るようになる。

さらに、若いアフリカ人の娼婦ファトマが登場する。

シオラレオーネからの難民で、パスポートも滞在許可証も売春宿のオーナーに奪われてしまっているようだ。

そんな社会的な弱者である彼女だが、マティアスやダニエルにはない精神的な強さがある。

その基礎になっているのは、故郷で培われた輪廻転生の思想だ。

彼女のそばには、つねにペットのヤモリがいる。

彼女と弟は七万五千人もの死者を出したシエラレオーネの内戦(一九九一年から二〇〇二年まで)に巻き込まれたが、弟はそのとき殺されてしまった。

ヤモリは死んだ弟の精霊だと、彼女は信じている。

その後、難を逃れたスペインでさまざまな男と関係をもたされて、彼女は父親のわからない子を身ごもってしまうが、その子を弟の生まれ変わりだと信じて産む決心をする。

性善説の寓話
本書は前半、妻の急死を不審に思ったマティアスによる担当医ダニエルの誘拐・拘束という、犯罪小説めいた面白い展開を見せる。

しかし後半、あるメッセージ性を有した寓話へと変化する。

それに寄与するのは七十すぎの老女セレブロの存在だ。

彼女はかつて最年少で主任教授の座を射止めたものの、弟子の大学院生による(おそらくパラハラの)告発でその座を追われたらしい。

いま醜くなった老女は酒場でマティアスに、不当に冷遇を受けたと思える二十世紀の科学者をめぐって、独自の講釈を垂れる。

なかでも、とりわけアーロン・フィールドマンというユダヤ人科学者の唱えた仮説が興味深い。

かれはナチスから逃れてアメリカに渡り、ロス・アラモスでの原爆実験「マンハッタン計画」に参加したという。

実在の人物であるオッペンハイマーと同様、この科学者は敵国ナチスドイツよりも早く、敵国にまさる破壊力を持つ武器を作るという使命を帯び、原爆の開発にかかわった。

だが、戦争末期においてその武器の使用に恐怖を覚え、パラノイアに陥ったという。

フィールドマンの学説は「コップの理論」と呼ぶもので、老女いわく「人間の行動は物理的世界、地球とほかの生き物の現実に影響力をもつということだった。

(中略)生き物はエネルギーをもった統一体を形成していると言われる。

あらゆる生き物は何らかの形で、ハエからローマ法王まで、お互いに影響を及ぼしている。

そして我々がしたことに依存しながら、ものを秩序立て、調和を作ろうとする。

さもないと物事が混乱し、不安定と混乱への道を解き放つことになるからである」

世界は調和に向かうのか、それとも混乱に向かうのか? 

その二つの可能性のうち、作家は、たとえ匿名のものでも小さなものでも、「良い行いは世界をより良くする」と信じているようだ。

終盤のマティアスの慈善行為も、ダニエルの改心もそんな作家の性善説に基づいたものであり、「世界を救出するための方法」であるに違いない。

いま(二〇二四年四月)世界に目を向ければ、ロシアとウクライナの戦争は膠着状態のままである。

イスラエルのガザ攻撃よるパレスチナ人の殺戮は三万人を越え、まったく歯止めがかからない。

フィールドマンの学説で言えば、世界は確実に悪い方向に向かっている。

だからこそ、われわれ一人ひとりが良い行動をとらなければならない。

これは作家がそういう倫理的なメッセージをこめた寓話である。
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書評 ブレンダ・E・スティーヴンソン『奴隷制の歴史』

2024年02月01日 | 書評
なぜ民主主義の国で、いまなお人種差別がなくならないのか?  ブレンダ・E・スティーヴンソン『奴隷制の歴史』(所康弘訳、ちくま学芸文庫)
越川芳明

「奴隷制とは何か?」という問題提起で始まる本書は、米国の奴隷制に興味を持つ者にとっては、まるで最新の携帯電話<アイフォン15>みたいに、小ぶりながら膨大な情報量と知的刺激にみちた良書だ。

著者のスティーヴンスンは、「訳者あとがき」によれば、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史学教授だという。

豊富な資料を丹念に読みとき、淡々と「歴史的な事実」を積み重ねるその叙述法には、歴史学を専門とする学者の手堅い姿勢がうかがわれる。

逆に言えば、文学作品のような感情の昂りを表現することを極力抑えている印象だ。

著者のとおい祖先が16世紀から始まる大航海の時代以降にアフリカから新天地に運ばれた奴隷であること、
つまり、自身がアフリカン・ディアスポラの末裔であるということがあえてそうしたスタンスを取らせているのかもしれない。

制度への憤怒は内にとどめておくことによって、逆に読者の中に奴隷制に関する知見だけでなく、そうした制度への憤怒を醸成させることを意図しているかのように。

著者は語る。「奴隷制とは何か? 
これは簡単な質問のように思われるかもしれない。ほとんどの人々は、奴隷制とは南北戦争が終わる前にアメリカ合衆国で暮らしていた黒人の状態のことだと信じている。……
(中略)ほとんどの学生が知らないのは、奴隷制が歴史上、最も一般的な制度の一つであるとともに、最も多様な制度の一つであるということだ。
ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア、オーストラリアなど、ほとんどすべての地域の文明で何らかの形の奴隷制が存在していた。
……(中略)さらに奴隷制はほとんどの場所や地域で、今なお存在している。
実際、世界中で推定二〇〇〇〜三〇〇〇万人の人々が債務奴隷、性奴隷あるいは強制労働者として、いまだに奴隷状態にあると考えられている」

確かに第1章で、古代から大航海時代(つまり奴隷貿易)が始まる頃までに世界各地で見られた奴隷制について概説しているが、
本書の真骨頂は、やはり著者の得意分野である北米の奴隷制である。アフリカと大西洋の奴隷貿易(第2章)、北米の植民地(第3章)、
南北戦争以前の米国の奴隷制と反奴隷制(第4章)というように、質量ともにそのことをしめしている。

アフリカン・ディアスポラの歴史
歴史学者ポール・ラヴジョイによれば、アフリカから新天地に連行されたアフリカ人は、推定で1200万人だという。

奴隷貿易にかかわったヨーロッパの帝国は、ポルトガル、スペインのほかに、オランダ、フランス、イギリス、デンマークなどだった。

18世紀にヨーロッパの諸帝国に莫大な富をもたらし、その力で産業革命を成功させ、飛躍的な発展をもたらした影の功労者は「奴隷貿易」であり、植民地での「奴隷制」だったと言っても過言ではない。
アフリカから連行されたディアスポラの民の、血と涙の労苦なくしてはそうした繁栄はなかったに違いない。

本書によれば、アフリカ奴隷の出身地としては、コンゴ・アンゴラなどの中央アフリカが40パーセント、ベニン湾岸の西アフリカが20パーセントと、それだけで全体の60パーセントを占めていたという。
奴隷の到達地としては、ブラジルが400万人、スペイン領植民地が200万で、奴隷の約半数を占めていた。

さらに、奴隷制を経済的な観点からいうと、アメリカ大陸で売られた奴隷の価格は、17世紀後半から18世紀後半にかけて、4倍以上に値上がりし、しかもその数も3倍弱にふくれあがったらしい。

「一般的には、17世紀後半から18世紀を通じて、対外的な労働力需要の増加に伴い、奴隷の価格は上昇した。たとえば、この時期の奴隷の平均価格は4倍から5倍ほど上昇した。これに対し、奴隷の出荷数は二倍から三倍ほど増加している」

要するに、この時期に奴隷貿易は儲かる産業と化していたことがわかる。その産業に加担していたのが、アメリカ建国の父たちとされる偉人だったのいうのもアメリカ史の逆説だ。
たとえば、独立宣言を執筆した大陸会議の委員長を務めたヴィアージニアのリチャード・ヘンリーは五十人以上の奴隷を所有していたし、第二回大陸会議の議長を務め、アメリカ合衆国の独立に尽力したサウス・キャロライナのヘンリー・ローレンスは奴隷商人かつ最大の奴隷所有者だった。

「奴隷体験記」の活用
本書の特色を一、二挙げるならば、まず網羅的であるという点がある。

大西洋奴隷貿易に果たした「中間航路」の役割から、北米における奴隷制反対運動や逃亡奴隷の活動まで、あるいはイギリス植民地時代の奴隷制と経済から独立以降の米南部の奴隷の生活まで、もれなく詳述されている。

さらには、語る主体として表に出てこなかった奴隷自身の「身の上話」もたくさん引用されていることが重要である。

誰もが認めるように、歴史はメディア(活字や伝達媒体)を占有する者によって作られてきた。アフリカ奴隷はつねに歴史の対象となっても、主体にはならなかった。

ここにきてようやく、歴史学者たちがオーラル・ヒストリーの「奴隷体験記」を史料としてつかうことによって、奴隷あるいはその末裔が歴史の主体となることが可能になったのだ。

フレデリック・ダグラスやハリエット・ジェイコブズらの著作は、すでに有名になっている「奴隷体験記(スレイヴ・ナラティヴ)」だが、
本書では、無名の奴隷による「体験記」を数多くつかっていることが注目に値する。

一例を挙げれば、オラウダ・エクイアーノという男の話がとても印象的である。

「……身の上話の中で、ナイジェリア出身のイボ族と名乗っている。
奴隷を所有していた裕福なコミュニティのメンバーの息子だったが、妹と一緒に誘拐され、西アフリカで何度か売られた後に、イギリスの植民地へ送られた。

誘拐された当時、一一歳だったエクイアーノは、自分と妹が二人組の男女に捕えられた瞬間を鮮明に覚えていた。二人組は屋敷の壁を乗り越えてきて、二人を掴まえ、「口を塞いで」、「すぐ近くの森まで」連れて行き、手を木に縛りつけた。

翌日、誘拐犯はエクイアーノと妹を引き離し、それぞれ別の人間に売り渡した。「二人をばらばらにしないように頼んでも無駄だった」。

「妹は私から離され、すぐに連れ去られた。私は言葉では言い表せないほどの混乱状態に陥った。

私は泣き続け、嘆き、数日間、彼らが私の口に無理やり押し込んだもの以外は何も食べなかった。……(中略)オラウダの最初のアフリカ人の主人は金細工職人であった。

そのため昼間はその仕事を手伝い、夜は家事奴隷の女性と一緒に働いていた。その後、一七二個のタカラガイとの交換で再び売られ、同じ年頃の裕福な少年の遊び相手となった。

エクイアーノは西アフリカの奴隷社会の習慣にならって、その家族に養子縁組されることを望んでいたが、再び売りに出された。

「こうして私は時には陸路で、またある時には水路で、様々な国や地域を旅し続け、誘拐されてから六〜七ヵ月が経った頃、海辺に辿り着いた」

すぐさまエクイアーノは大西洋をわたってカリブ海に向かう奴隷船に乗ることになった。

このような無名の奴隷の語られざる「物語」が何百万、何千万とあるに違いない。つまり、人類をめぐる「歴史」は、まだ書き換えられる可能性があるということである。

私のような読者は、このような「物語」をもっと読んでみたいという衝動に駆られる。

そのような読者のために、ありがたいことに巻末に「注」のかたちで出典情報が載っている。さらなる奴隷制をめぐる「読書の森」へと誘うためである。

また、本文中の固有名詞(人名や土地名など)には、原語がカッコで添えてある。

これもまた小さい工夫だが、興味を抱いた読者がネットや図書館で調べる糸口となるはずだ。

訳文は平易でこなれており、読みやすい。

米国の奴隷制に興味がある初心者に基本的な知見をもたらすだけでなく、いまなおどうして民主主義の国で人種差別がなくならないのか、その理由を読者に示唆する優れた図書だ。
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書評 コルソン・ホワイトヘッド『ハーレム・シャッフル』

2024年02月01日 | 書評
「アメリカン・ドリーム」の黒い寓話  コルソン・ホワイトヘッド『ハーレム・シャッフル』 
越川芳明

マンハッタン島の北に位置する黒人街(ハーレム地区)を舞台にして、まだ学校やバスやレストランなどで人種隔離による差別が平然とおこなわれていた頃、つまり六〇年代前半のアメリカを扱った小説だ。

夢破れて一流ダンサーからレストランのウェイトレスになった中年女性から、自分を見下す北部人に反発を覚える南部人の強盗まで、
あるいはロースクールを出て、注目される公民権関連の事件を好む弁護士から、ギャング間の抗争に巻き込まれるドラッグの売人まで、これまで一般の読者に知られることのなかった人間群像をいきいきと蘇らせる。
もちろんこれらの登場人物は、ほとんどが黒人だ。

一見すると、「犯罪小説」のようである。第一部では高級ホテルを舞台にした金庫破り、
第二部ではやり手の銀行家を失墜させるために仕組まれた策略、
第三部では白人の不動産財閥の家から盗まれた物品をめぐってその強奪戦が、それぞれ描かれているからだ。

だが、そうした事件に巻き込まれる我らが主人公レイ・カーニーは、しがない家具屋の経営者にすぎない。
父親はいわく付きの犯罪者だが、かれには周りの環境に染まらないところがあり、父親とは違う真っ当な生き方を模索する。

とはいえ、一方では世渡り上手でもあり、盗品の電化製品や宝石を横流しして小銭を稼ぎ、警官には賄賂を、ギャングにはみかじめ料を払ったりもする。
その甲斐もあって、商売は順調で、次第に「アメリカン・ドリーム」の階段を登っていき、最終的には有力な事業主だけの会員制クラブに入会を許されるまでになる。

この小説に鋭い風刺のパンチが効いているとすれば、黒人街のこの「小悪党」の成功の物語が、白人の「大悪党」による、もっと大規模な成功の物語へとつながっていくからだ。

マンハッタン島の南地区には、ラジオ街と呼ばれた小さな電気屋の立ち並ぶ横丁があった。六〇年代の半ばにそこに世界貿易センタービルの建設が決まる。
そのとき白人の不動産王がその周辺の土地の地上げをおこない、莫大な利益を得ることになる。

おそらく、これこそが作家の書きたかった、知られざるアメリカ現代史の真相である。
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映画評 今泉力哉監督『アンダーカレント』

2024年02月01日 | 映画
水の中に隠された秘密ーー今泉力哉監督『アンダーカレント』
越川芳明

関口かなえは、下町で「月乃湯」という公衆浴場を経営している。昨夏に父が亡くなり、その後を継いだらしい。風呂屋さんの二代目である。

ほとんどの銭湯が燃料として重油を使っている昨今、めずらしく薪(まき)を焚(た)いてお湯を沸かしている変わりダネだ。薪焚きは人手がかかる。薪割りと薪をくべる作業を誰かが担当しなければならない。客からすれば非常に贅沢な風呂である。

薪焚きというのは、この映画の重要なモチーフである。

新しく銭湯に雇われる堀という、謎めいた無口な男の、その人となりを表すのに最適である。最初に持参した履歴書には「甲種危険物取扱者免状」や「特級ボイラー技士免許」をはじめとして、さまざまな資格が記されていた。にもかかわらず、小さな個人経営の銭湯で、チェーンソーで薪を作ったり、それを窯(かま)の中にくべたりという、地味な作業をコツコツとこなす。不器用で実直な性格であることが作業ぶりからわかる。

だが、なぜこの銭湯で働かねばならないのか、謎は深まるばかりだ。

そもそも新しく人を雇わなければならなくなったのは、四年ほど生活を共にしたかなえの夫が突然、行方をくらましたからだった。地元の銭湯組合の旅行に出かけたおり、誰にも何も告げずに蒸発してしまったらしい。

近親者の失踪というのは、しばしば文学作品に見られるテーマである。

人間存在の謎を問うのに最適だからだろうか。たとえば、十九世紀アメリカ文学を代表する作家のひとりに、ナサニエル・ホーソーンがいる。
ホーソーンの短編「ウェイクフィールド」では、十年間一緒に連れ添った夫が、ある日こっそり失踪する。
「夫は旅行に出ると偽って、自宅の隣の通りに間借りし、妻にも友人にも知られることなく……二十年以上の年月をそこで過ごしたのである」

作家は、そんな「奇人」の行動に対して「共感力に訴える」と理解をしめす。誰しも「現実逃避」の欲望があり、そうした衝動を抱えて生きているからだ。
「人はみな、自分はそんな狂気に走らぬとわかっていても、誰か他人がそうしても不思議はないと感じるのである」

かなえはある日、偶然スーパーで遭遇した大学時代の友人、菅野に事情を打ち明け、彼女に探偵を紹介される。のらりくらりとして頼りなさそうな探偵役のリリー・フランキーがいい(コミカルでシリアスな)味を醸し出す。

それはともかく、その探偵はかなえから聴き取りをしたあとで、夫のことを「過去をすっかり消したいか、足がつかないようにしたのですな」と、断定的に述べる。
むかついたかなえは、あなたに夫の何がわかるの?と噛みつく。そのとき、探偵は何気なく「人をわかるってどういうことですか?」と尋ねる。

探偵から二週間ごとに報告される夫の新事実によって、かなえはいかに自分が夫を知らなかったかを思い知らされる。

そう思ったとき、あるシーンがフラッシュバックする。客のいない浴場で、かなえと夫が浴槽の縁にこしかけ、話をしているシーンだ。
かなえが、いずれはバーナーで重油を燃やす方式にしたほうがいいかもね、子供だってできるかもしれないし、薪だと手間がいろいろとかかるから、といったようなことを夫に話す。
夫は何か言いたそうにするが、その言葉を飲み込んでしまう。

夫だけではなく、かなえは自分自身すらもわかっていなかった。冒頭、浴場の掃除を終えたあと、浴槽の縁にすわっていて、後ろ向きにお湯の中に沈んでいく夢のようなシーンが出てくる。
プロットとはまったく関係なく、こうした水の中に仰向けに沈んでいくシーンがその後も何度か出てくる。
それはかなえ自身もわからない、もうひとりの自分が顕(あらわ)れる瞬間かもしれない。少女時代に水をめぐる恐ろしい事件で負った心の傷が、押し込めていた心の奥底から、本人の意識を突き破ってくるのだ。

タイトルの『アンダーカレント』とは、水の「底流」とか表面の思想や感情と矛盾する「暗流」という意味であるという断り書きが作中で提示されるが、それはかなえの意識下に眠る、本人も自覚していない「怪物」のことだろう。
それこそが水の中に隠された秘密なのだ。と同時に、それは堀という男の中に押し込められていた秘密をも示唆するにちがいない。

本作は、かなえが銭湯を再開させる六月から、探偵が見つけ出してきた夫と再会する十一月までの半年間を扱う。
夫の失踪をきっかけに、かなえは水をめぐる認識論的な不安に陥り、自分のアイデンティを問い直す。

一方、最後に登場する夫は、自分のアイデンティティをめぐり、さらに深い不安を抱えている。かなえと再会した夫は、自分というものがわからない、と正直に打ち明ける。
どうして失踪したのか、と問うかなえには、自分はうそつきだった、みんなうそが好きで、本当のことなど知りたくないんだ、と言う。
それでは自分に言ったことも全部うそだったのか、という問いには、自分でもよくわからない、あまりにうそを重ねてきたから、誰かに求められる自分でいることができて、そうやって過ごしたから、と答える。

うそと真実との境界はつねに曖昧である。ひとりの人間の内部も曖昧である。履歴書のようにきちんと整理できるわけではない。
何気ない日常生活の中で、そうした曖昧な人間存在に対する不安を描き、しかもそれを飼い慣らす方法をやさしく最後に示唆する優れた映画である。


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映画評 アリス・ディオップ監督『サントメール ある被告』

2023年09月14日 | 映画
いくつもの「壁」を越えて、母と娘の物語を語る   
アリス・ディオップ監督『サントメール ある被告』 
越川芳明
 
ラマという名の、パリで生まれ育った黒人女性が主人公。
セネガルからの移民の二世で、主な職業はフリーランスの作家だ。

周知のように、西アフリカのセネガルは一九六〇年に独立するまでフランス領だった。
いまでも公用語はフランス語である。
ラマも職業柄、フランス語は堪能だ。

フランス社会では、人種にまつわる紋切り型の物の見方、というか肌の色に対する先入観があり、黒人(とりわけ女性)は知的ではない、とみられがちだ。
黒人女性がフランス語を流暢に喋ったりすると、白人に驚かれる。
ラマのような知的な女性にとって、日々の暮らしのなかで、目に見えない人種の壁(先入観・偏見・差別)が立ちはだかる。
だが、その壁は白人には見えない。

ラマは、フランスの地方都市ベルク・シュル・メールで開かれる裁判に興味をもち、出版社に新作の企画を持ち込む。
そして、裁判の傍聴に出かける。

なぜラマはこの裁判に興味を抱いたのだろうか?

裁判は、ラマとほぼ同年代の三十代半ばの黒人女性による赤児殺し事件を扱っていた。
黒人女性は自分の子を殺した罪に問われているのだった。

被告の黒人女性はロランス・コリーといい、セネガルの首都ダカールで生まれ育ったらしい。
セネガルの高校を卒業してから、フランスにやってきていた。
裁判での本人の証言によれば、幼い頃は経済的に恵まれていて、広い家に住んでいたという。
しかし、父は生まれてすぐに愛人のもとへ去り、ロランスは母と祖母と暮らした。
祖母には大切に育てられたらしい。ロランスはひとりっ子で、本が好きの文学少女だった。

イスラム教徒の多い環境で、あえて娘にカトリック系の学校へ通わせているというあたりに、親の意図が見える。
特に、母は教育には厳しく、ロランスに母語のウォロフ語を喋ることを禁じたという。
「母はわたしのフランス語を完璧にして、わたしを出世させたがった」と、ロランスは証言する。

一般的に、ヨーロッパによる植民地では人種にまつわる差別が歴然としていた。
思想家エメ・セゼールも、植民地の「差別構造」をこう指摘している。
「(植民地の黒人が)劣等意識を抱くことは、ヨーロッパ人が優越意識を抱くことの土着的相関物である」と。

黒人は白人による差別を内面化してしまいやすく、劣等感を克服しようとして、自分たちの子供を白色化(教育によって、あるいは結婚によって)しようとする。

ロランスの両親は、娘に社会の階梯を登らせようとした。
ロランスは、黒い肌のフランス人になるべく訓練されたのだった。

映画では、ロランスの実際の証言をそのまま使用したらしいが、彼女が法廷で流暢なフランス語で抗弁すればするほど、彼女の悲劇性が高まる。

そういう意味では、被告ロランスは、ラマの「分身(ドッペルゲンガー)」のような存在である。
ともに、ヨーロッパの白人社会を生きぬくために、母から厳しい躾とフランス語教育を施された優秀な女性だった。
だが、ロランスの場合は、どこかで歯車が狂ってしまい、いま裁判の被告になっていた。
ラマは裁判を傍聴するあいだに、次第に精神が不安定になってゆく。

ロランスは妻子のいる三十歳以上年上の白人老人と同棲し、その老人の子を出産していた。
ラマも白人ミュージシャンの恋人がいて、その恋人の子を妊娠しているようだ。
ラマにとって、ロランスの証言はおそろしかった。自分の未来を予想させるからだった。

『ヒロシマ・モナムール』へのオマージュ
冒頭、ラマがどこかの大学で講義しているシーンが出てくる。
ラマが教室で使っている教材が注目に値する。
それは映画のモノクロ映像で、何人もの女性が群衆の前で、無理やりハサミで剃髪(ていはつ)され、さらし者にされている。
背後に、ナチスの占領から解放されて、市民たちが歌うフランス国家「ラ・マルセイエーズ」が流れている。
おそらく、髪を切られた女性たちは、戦時中に犯した行為によって、「非国民」として糾弾されているのだろう。

講師のラマが説明する。
これは作家のマルグリット・デユラスによる『ヒロシマ・モナムール』で描かれたものと同じだ、と。

デュラスの原作『ヒロシマ・モナムール』を基にアラン・レネ監督が作ったモノクロ映画『二十四時間の情事』(一九五九年)がある。
主人公のフランス人女優が反戦映画を撮るために、戦後、広島を訪れ、いきずりの恋で日本人の建築家と一夜を共にする。
そのなかで、女優の少女時代のトラウマが明らかにされてゆく。

女優は、少女時代に彼女の田舎の町を占領していたドイツ兵と恋仲になったらしい。
戦後、それが発覚して、恋人から引き離されるだけでなく、彼女自身、髪を丸刈りにされ、「非国民」扱いを受け、精神に異常をきたした。
そのため、しばらく社会から隔離され、文字通り「地下生活」を送ったことがあった。

このトラウマを抱えた白人女優と、いま裁判にかけられているロレンスという黒人女性との共通点はどこにあるのだろうか。

一見したところ、時代も違うし人種も違う。共通点などなさそうだ。

だが、よく見ていくと、一方は「非国民」として、他方は「赤児殺し」として、ともに社会から「恥ずべき烙印」を押された女性であるという点は共通している。

そこで注目すべきは、ラマの職業である。
それはマルグリット・デュラスと同じ作家だ。
ラマもドゥラスと同様、対象になっている女性を安易に「狂人」扱いするのではなく、ひとりの個性のある人間として見て、描こうとする。
言葉を紡ぐことで、ロランスのために、マスコミや世間から押される「恥ずべき烙印」をはぎ取ろうとする。

被告席で終始仏頂面ロランスがたった一度だけ微笑むシーンが出てくる。その視線は、誰あろう、ラマに向けられていた。

そういう意味では、ロランスを担当する女性弁護士もまた、紋切り型の発想を避ける「作家」としての役割を担っていると言える。
女性弁護士が最後に雄弁に語る。母の遺伝子の一部は娘に受け継がれる。

それと同じように、娘の遺伝子の一部も母に影響する。
母と娘は相互影響関係にあり、その影響は相手が生きていようが死んでいようが、変わらないのだ、と。

『思想運動』(小川町企画)No.1092. 2023.9.1発行
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映画評 マリナ・エル・ゴルバチ監督『世界が引き裂かれる時』

2023年09月07日 | 映画
戦場と化したウクライナの国境の村   
マリナ・エル・ゴルバチ監督『世界が引き裂かれる時』
越川芳明

二〇一四年、ロシアとの国境に近いウクライナのドンバス地方(ドネツク州グラボべ村)が舞台だ。
紛争さえなければ、牛の放牧にふさわしい広大でのどかな田園地帯だが、戦争前夜の張りつめた雰囲気があたりを包んでいる。

初めての出産を間近にひかえた中年女性イルカが主人公だ。

冒頭、真っ暗な中で、姿の見えない夫婦の会話が流れる。
「私の夢が知ってる? すべてが終わったら、穴に大きな窓をはめる」
「ヨーロッパの家みたいに?」

イルカの言う「すべて」とは、次のような事態を踏まえてのことだ。
二〇一四年二月に激化した首都キーウでの反政府デモで、親ロシア派の政権が崩壊。
その後、二月二十四日からロシア軍がクリミアに侵攻し、ロシア領への「編入」を宣言。さらにドンバス地方の二州(ドネツク州とルハンシク州)で親ロシア派勢力が行政庁を占拠し、
四月にウクライナからの「独立」を宣言。

こうしたロシア軍の介入と、親ロシア派勢力による強引なやり口に対して、ウクライナ軍はドンバス地方で、親ロシア派武装勢力と本格的な戦闘を開始。

そして、この映画で扱われる七月十七日が訪れる。

親ロシア派武装勢力によるふたつの「誤爆」が題材として描かれている。

ひとつめは、夜明け前にイルカの家に砲弾が飛んできて、壁の一つが吹き飛ばされる。
夫婦ふたりともこれが親ロシア派勢力による「誤爆」だと気づいている。
というのも、夫トリクは、どちらかと言えば親ロシア派(というか、
穏健な体制順応派といったほうがいいのかもしれない)で、
幼馴染みのサーシャ(親ロシア派勢力に加担している)から、撃ち間違いだった、
いずれ修理をするから、と謝罪される。

そのとき、さりげなく二人は児童施設で一緒に育った仲である、と示唆されることから、
彼らがウクライナ社会の底辺に追いやられた労働者階級の人間だと推測される。

キーウのような都会で、西洋的な価値観に染まったインテリ(たとえば、イルカの弟)に対する反発があるようだ。

イルカも「あいつら(サーシャたち)の大砲は曲がっているの?」と、夫に不満を述べる。
イルカにとっては、破壊された家の壁もさることながら、
砲弾によってベビーカーが壊されてしまったことが当面解決しなければならない問題だ。

もうひとつの誤爆とは、この日の夕方四時ごろに村の上空で起こった、マレーシア航空17便の撃墜事故である。
乗客二百八十三名と乗務員十五名が死亡し、こちらはマスメディアにも取りあげられ、
乗客が最も多かったオランダ主導の調査団は、ロシア製の地対空ミサイルによるものだと結論づけた。

一方、ロシア側はそれを「陰謀論」だとして受け入れなかった。 

ウクライナ・ロシア両陣営に加えて、
マスメディアや調査団もGoogleEarthや DegitalGlobeなど人工衛星を利用した画像を証拠に、
原因を究明しようとしたため、最新のデジタル科学捜査の様相を帯びた。

だが、画像編集ソフトによる証拠物件の改ざんなどもあり、すんなりとはいかなかった。

本作では、ロングショットで捉えた風景の中を、
ロシア製と思われる移動式地対空ミサイルが通る映像が二度流れるので、
この事件は親ロシア派勢力の引き起こしたものと示唆しているのは明らかだろう。

そのことを裏づけるかのように、
イルカが自家製のトマトソースの瓶詰めを母屋から離れた地下室に運びいれたときに爆破音がして恐怖にとらわれるシーンがあり、
この爆破音はマレーシア航空機の墜落と結びつくにちがいない。

その直後に、親ロシア派勢力の兵士たちが無惨な死体
(乗客のものかもしれないし、航空機の残骸に当たって亡くなった親ロシア派の兵士のものかもしれない)
を回収しにくるシーンがつづく。

通常、戦争映画は、敵対する軍隊同士の戦闘を描くが、
本作は、一般市民の日常生活に及ぶ戦争を描く。

本来は、戦場であってはならない場所が戦場と化し、兵士ではない市民が犠牲になる。
そのことを強調するかのように、イルカの日常が淡々と描かれる。

納屋に飼っている乳牛の乳搾り、台所でのトマトソース作りと瓶詰め作業、
外の水道でペットボトルに水を詰める作業。
そして、砲撃で汚れた壁紙を雑巾できれいに拭こうとする彼女が、
苦しそうな仕草を見せるのは、ただ単に突き出たお腹のせいばかりではなさそうだ……。

この戦争を残忍なものにしているのは、ロシア側が雇っている傭兵隊の存在である。
これまでの歴史上の戦争でも正規兵の補助となる傭兵は存在したが、ロシアの傭兵は特殊である。

プーチン大統領と親しいとされるエフゲニー・プリゴジンが創設したロシアの民間軍事会社「ワグネル・グループ」は、
これまでもシリア、リビアなどの内戦に参加しているが、ドンバス地方へも傭兵を派遣している。

ロシア政府と連携して、多くの囚人や受刑者を徴用し、前線に送り込む。
彼らは正規軍と行動をともにせず、一般市民に略奪や乱暴狼藉を働くのもいとわない。

事件のあった次の日の夜明け前に、ロシアの傭兵隊がイルカの家にやってきて、
破水したばかりのイルカに銃を突きつけて、朝食を作れ、と命令する。

一方、夫のトリクはキーウの大学で学ぶイルカの弟(ウクライナ民族主義者)を殺すように銃を渡される。
そのとき傭兵隊の隊長は「戦争は敵が全員死ぬまで終わらない」と、うそぶく。

まるで生まれ育った土地から逃げたくても逃げられない一般市民の命を犠牲にしても、
俺たちは戦争をつづけるのだ!と言いたいかのように。

このときの構図は、ウクライナの親ロシア派市民と反ロシア派市民あいだに、
「ワグネル」というロシアの戦争のプロが介入した奇妙で複雑な形である。

ロシアの軍事・安全保障を専門とする小泉悠氏は、
本作で扱われた二〇一四年のドンバスでの紛争を「第一次ロシア・ウクライナ戦争」と呼び、
それが二〇二二年二月に始まったロシアによる侵攻(「第二次ロシア・ウクライナ戦争」)
に先立つ火種だったと捉えている(『ウクライナ戦争』ちくま新書)。

「すべてが終わったら……」という、イルカの願いは、いまでもまだ実現していない。
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