越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 ロバート・コノリー監督『渇きと偽り』

2022年09月12日 | 映画
干からびた大地と荒(すさ)んだ心
ロバート・コノリー監督『渇きと偽り』
越川芳明

オーストラリアの辺境(アウトバック)の町を舞台にした犯罪映画だ。

ひとりの中年男、アーロン・フォークを中心に展開する。かれの職業は連邦警察官だが、担当はデスクワークの財務捜査で、金融詐欺。

アーロンは高校時代の親友ルークが死亡したとの知らせを受け、メルボルンからはるばる車で五時間ほどかかる故郷の町へ向かう。かれを葬儀に呼んだのは、親友の父親で、その手紙には謎めいた言葉が書かれていた。

「ルークは嘘をついた。きみも嘘をついた。葬儀で会おう」と。

冒頭のシーンで、二つの対照的な風景が映し出される。

旱魃に襲われ、乾燥しきった大地を上空から俯瞰するショット。やがてクローズアップになり、雑草も生えていない、ひび割れた耕作地が映る。どちらも薄茶色を基調にして、不作ぶりが強調されている。

一転して、高層ビルに覆われた都会のダウンタウンのショットに切り替わる。アーロンはビルの大きなガラス窓から外の摩天楼を無表情に眺めている。こちらは冷たいブルーが基調の風景だ。

アーロンの都会から故郷への旅は、二つの時空のベクトルを持つことになる。

ひとつは、現在の故郷で親友が起こしたとされる心中事件の謎に向かうベクトル。

事件を担当した警察によれば、ルークは農場経営に行き詰まり、妻と息子を射殺して、その後、自殺したという。しかし、父親は警察の捜査を疑っており、息子の残した帳簿にあたってほしいとアーロンに頼む。

もうひとつは、二十年以上前に自分に容疑がかけられた友人エリーの死をめぐる謎に向かうベクトルだ。かつて警察の捜査で、エリーの死因は自殺ということになったが、住民たちはアーロンが殺したのではないか、と疑っていた。

というのも、アーロンはエリーの死の直前に、ノートの紙切れに「川で会おう」と書いて渡していた。おまけに、エリーはかれの苗字が書かれたメモを残していたからだ。

そうしたふたつのベクトルの旅を、現在と過去の二つの時間軸を行ったり来たりしながら語る。

たとえば、中年のアーロンが田舎道を車で走っている映像のあとに、同じ道をピックアップトラックの荷台に乗る二人の女の子と、それを楽しそうに追いかける若者のアーロンとルークが出てくる。

また、中年のアーロンが水の涸れた川を歩くシーンのあとで、かつて水が豊富にあった同じ場所で、警察がエリーの死体を捜索するのをアーロン少年が木の陰から目撃するシーンが出てくる。

このように、並行モンタージュを多用する形で、現在と過去と交互に挟みながら、次第に明らかになってくるのは、ふたつの事件の真相というより、主人公の心の闇のほうだ。

アーロンは「正義」を体現する法の番人ではあるが、そのかれにも後ろめたい過去があるという事実が。

映画には原作があり、イギリス出身でオーストラリア在住の女性作家による推理小説に基づく。

小説と映画のオリジナル・タイトルは共に「渇き(ザ・ドライ)」である。

このタイトルもまた二重の意味を担わされている。

「渇き」とは、伝統的な農業地帯の風景だけでなく、人々の心象もあらわす。

冒頭シーンの干からびた大地から始まり、かつて満々と水をたたえていた川は涸れ川となっており、森も枯れ木ばかりが目立ち、いまにも山火事がおこりそうだ。

地球温暖化の影響を受けたオーストラリア辺境のリアルな風景だ。

急激な気候変動は、人間の心にも影響を及ぼさざるを得ない。

この地の住民たちは、もともとよそ者に対して排他的である。

かつてアーロンに容疑がかかったとき、住民たちはいやがらせや迫害によって、アーロンと父を追い出したいきさつがある。

地元で生まれ、地元で育った者しか受けつけない狭隘な保守性に加えて、主要産業である農業の不振は、住民たちの心を潤いのない、荒(すさ)んだものに変える。

だから、久しぶりのアーロンの帰郷にも、地元民の態度は冷ややかだ。

とりわけ、エリーの父親とその甥はあからさまに敵意をむき出しにして、かれを町から追い出そうとする。

アーロンに協力的なのは、親友ルークの両親以外には、アーロンが宿泊するホテルのマネージャーや小学校の校長夫婦、当地に赴任してすぐに厄介な心中事件に遭った巡査部長など、よそ者ばかりである。

かつて高校時代にアーロンが親しく遊んだグレッチェンという「ファム・ファタール(運命の女)」にあたる女性も登場する。

彼女はアーロンにとって、死んだエリーやルークと仲良しグループの一員だったが、謎の多い女性に変わっている。

主人公アーロンは敵愾心をもった住民に囲まれ、謎の女性に翻弄され、犯罪事件と正面から向き合う。

これは殺伐としたオーストラリア辺境を舞台にした、新手の「フィルム・ノワール」だ。


『すばる』2022年10月号、pp.366-367.

映画評 ヴェルナー・ヘルツォーク監督『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』

2022年09月12日 | 映画
「放浪(ノマディズム)」の哲学  
ヴェルナー・ヘルツォーク監督『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』
越川芳明

 ニュー・ジャーマン・シネマの旗手のひとり、ヴェルナー・ヘルツォーク監督がイギリス作家ブルース・チャトウィンに捧げたオマージュ。

だが、このドキュメンタリー作品(二〇一九年)は、監督自身も断っているように、チャトウィンをめぐる「伝記映画」ではない。
 
ふたりの接点は、一九八三年のメルボルンでの邂逅だった。そのときは、昼も夜もずっと語り明かしたという。

すでにチャトウィンは、ヘルツォーク監督の『生の証明』(一九六八年)に魅せられていた。斥候としてギリシアの孤島に送られた若いドイツ軍兵士が、一万個もの風車がまわる風景にめまいを感じて銃を乱射するシーンがお気に入りだったという。

一方、ヘルツォーク監督はチャトウィンの小説『ウイダーの副王』(一九八〇年)が気に入り、その小説を原作にして『コブラ・ヴェルデ 緑の蛇』(一九八七年)を制作した。ブラジルの極貧の白人が西アフリカに渡り、奴隷商人として巨万の富と地位を築く物語だ。

ふたりには共通する世界観があった。人類の故郷は「砂漠」にあり、その本質は「放浪(ノマディズム)」にあるという考えである。

チャトウィンの頭の中には、約十五万年前に東アフリカで生まれ、アジアやシベリアを通過して、北米に渡り、南米に向かい、その先端のパタゴニアにたどり着いた人類の放浪「グレートジャーニー」があった。

なぜ人類は放浪したのか?

チャトウィンは『ソングライン』(一九八七年)の中でいっている。

「東洋では、かつては全世界で信じられていた考えがいまも生きている。放浪は、人と宇宙のあいだにもともと存在していた調和を回復させる、というものである」

 余談になるが、この思想は中沢新一が『対称性人類学』で唱えている哲学に近いように思える。中沢によれば、日本人は古来、非日常的な儀式や祭り(たとえば、盆踊り)をおこなってきたが、それは崩れかかった宇宙のバランス(非対称性)を整えるためだったという。
 
 ヘルツォーク監督自身も映画の中で似たようなことをいっている。

 「放浪の生活が消えると、人は定住し、都市生活が主流になる。つまり人類の大部分が技術に支配される。そのせいで人類は今、崩壊しつつあると思う。ブルースは人間の脆さを知っていた」と。

 ヘルツォーク監督もチャトウィンも、西洋的で快適な近代生活(テクノロジー万能社会)に疑問を抱き、真逆の世界を生きてきた人々を追いかけた。

 現代の「放浪者」として、オーストラリアの荒野を歌を歌いながら歩くアボリジニに惹かれたのである。それは文化人類学者によって、「ドリーミング・トラック(夢見る跡)」と呼ばれている。いわば、人々と土地とを結びつける絆のことだ。

 音楽家・作家のグレン・モリソンはいう。「中央オーストラリアのアボリジニたちは、砂漠を旅する際、現代の私たちがGPSを使って土地を移動するように、歌や物語を記憶の助けとした。アボリジニ―の人々は死が近づくと、長い旅をして、生を受けた場所に還っていく。それが、(チャトウィンの)『ソングライン』のメッセージだと思う」と。

 古代から継承されてきたアボリジニの歌がGPSであるというのは、とてもわかりやすい比喩であるが、歌がかれらの旅の道具や手段と捉えてしまうと、誤解を招きかねない。

 というのは、アボリジニの歌には、先祖とつながる霊(スピリット)が宿っているからだ。アボリジニは、歌(や物語、踊り)がなくなれば、儀式もできなくなり、風景もなくなってしまうと考える。

 風景とはそのとき、「人と宇宙とのあいだに存在する調和」のことであり、その崩れかかった調和を回復させるために、アボリジニは歌を歌う旅に出るのである。それを、ヘルツォーク監督は「魂の風景」と名付けている。

 アボリジニ(アリヤワッレ族)の老人は、「動物たちも木々も、風景の中で育ってきた。風景が先か、歌が先か、どちらが先とはいえない。鶏と卵のようなものだ。この大いなる謎について考えるのは楽しい」という。

 この老人がいいたいのは、風景と歌は一体である、ということではないのか。どちらもスピリチュアルな存在である、と。

 また、別のアボリジニ(アレント族)の老人は、「時々、飛行機が大きな弧を描いて飛んでいくが、もっと少しずつ進めばいいのに。空には“ソングライン”はない。飛行機はただ外国へいくだけだ」という。
 
 これはいわずもがな。ただの移動と「放浪」の違いに触れているのである。

 ヘルツォーク監督は「世界は、徒歩で旅する人に、その姿を見せる」と述べるが、そうした「放浪の哲学」を証明しようとするかのように、監督自身による映像の数々が披露される。
 
 先ほど触れた孤島の中の一万個の風車のシーンや、パタゴニアの洞窟の壁に残されたおびただしい古代人の手形、南サハラの砂漠で、女性たちの前で化粧をした美を競う若者たちの美の儀式(『ウォダベ 太陽の牧夫たち』(一九八八年)からの引用)、そして、アボリジニの老人による「ソングライン」の歌の実演などである。

 本作はチャトウィンの創作と同様、ヘルツォーク自身が人類とは何か、どうして人類は放浪するのかをめぐって思索をくりひろげ、「放浪の哲学」を追究する優れた芸術作品である。

(『すばる』2022年7月、pp.422-423)

映画トレイラー;https://www.youtube.com/watch?v=oWvHjnhGEow

映画評 キリル・セレブレンニコフ監督『インフル病みのペトロフ家』

2022年03月20日 | 映画
雪むすめの冷たい手               
キリル・セレブレンニコフ監督『インフル病みのペトロフ家』
越川芳明
 
ロシアの地方都市を舞台に、新年を迎える労働者階級の市民の狂気の日常をSFドタバタ喜劇調に扱う怪作。アレクセイ・サリニコフという小説家の同名のベストセラー小説(2016年)が原作だという。

主人公は、ペトロフという名の中年の自動車整備士だ。離婚した妻ペトロワとの間に息子が一人いるが、妻は息子の病気を口実によくペトロフの家にやってきて、元夫と性的な関係をつづけている。二人に共通するのは妄想癖が強いことである。とりわけ、暴力的な妄想にとりつかれている。

たとえば、ペトロフはインフルエンザのひどい咳に悩まされ、高熱のために意識が朦朧とするなか、満員のトロリーバスから降りる。すると、いきなり義勇軍のような集団に取り込まれ、武器を渡され、政府要人たちの処刑に立ち会うはめに陥る。

このシーンは高熱の妄想のなせるわざなのか、現実の出来事なのか。映画は現実と妄想を切り分けて描くわけではない。観客は現実に起こっていることなのか、それとも登場人物の頭の中で起こっていることなのか、区別できない。

図書館司書をしている妻のペトロワの場合も同様だ。不満ばかりを言う息子の首をナイフで刎(は)ねたり、図書館でサド侯爵の全集や強制収容所文学など、風変わりな本ばかりを借りる「変態男」や、図書館で集会をおこなう文学サークルの鼻持ちならない詩人、書棚の陰で図書館員の女性を脅している男をことごとく殺害する。彼女の場合、性的な妄想も激しい。

生と死の区別もあいまいだ。ペトロフは病気にもかかわらず、大酒飲みの友人イーゴリに誘われて、霊柩車の中で酒盛りを始める。その後、車内にあった死体が消えてしまうという事件が発生する。果たして死者は生きていたのか。

フロイト心理学によれば、妄想や夢は人間の現実(性的抑圧や欲求不満)を映し出すという。この二人に限らず、ほかの市民たちもまた現状に不満であり、フラストレーションの塊である。ソ連時代を懐かしみ、「昔は、毎年サナトリウムへ無料で行けたものなのに、ゴルバチョフとエリツィンのせいで生活は最悪だ」と不平を漏らす。だが、彼らにその時代に戻りたいかと問えば、きっと厭だというだろう。

冒頭に、バンドネオンの歌が流れる。「われらの時代は、過ぎ去る鳥のように・・・」もとに戻ってこない。過去は美しく飾られる。だから、誰もが「ノスタルジー」にひたりたがる。

ペトロフも例外ではない。作品の中で時間的なねじれがあり、彼はインフルに罹った息子を妻に反対されながらも新年の祭りに連れてゆく。そこでも妄想が出てきて、自分が子供の頃、雪むすめの冷たい手に触れた思い出にひたる(しかし、小説家を志す、ペトロフの友達のセリョージャの記憶として映像化されていて、ここでもどちらの話なのか判然としない)。そこに、雪むすめを演じるマリーナの物語がそこに挿入されて、旧ソ連時代の新年の祭りに接続される。

ロシア帝国時代からつづく新年の「ヨールカの祭り」について一言触れておこう。ヨールカというのは、西洋ではクリスマスに飾るモミの木のことである。ピョートル大帝(1672-1725)が世界創造紀元をキリスト紀元に改め、元日を1月1日としたことに由来するようだ。いわば、スラブ文化のヨーロッパ化・キリスト教化を象徴する行事である。

そして、スラブ文化の中には、もともとジェド・マロースという名の「霜」のお爺さんが子供たちにプレゼントを持ってくるという、西洋のサンタクロースに似たおとぎ話があった。白髭のお爺さんには、青と白の毛皮のコートを着たスネグーラチカという雪むすめ(雪の妖精)が付き添っていた。

しかし、ロシア革命以降のソ連では、サンタクロースの登場するキリスト教のクリスマス行事はブルジョワ的だとして廃止される。ヨールカの木と雪むすめの新年の行事だけが生き延びたという。ペトロフ(そして、セリョージャ)の、雪むすめの冷たい手の思い出は、そうしたソ連時代を思い起こさせる出来事なのだ。

そして、現代のシーンで登場する雪むすめにはギャグが効いている。長い金髪の雪むすめの仮装をした中年女性の車掌がいるからだ。ソ連時代にはほとんど無料同然で乗れたはずの公共交通だから、切符を買い渋る客がいるらしく、彼女は車内を動きまわってしつこく切符の点検をおこなう。そして「運賃免除だったら、パスを見せて。拝見、はい、免除のクズ人間ね」などと毒ある皮肉を言い放つ。

ロシア帝国時代からペレストロイカを経て、現代までをリアリズムの手法で撮るとすると、長大な歴史物語になるだろう。しかし、本作は現代ロシアを視点に据えて、新年の風習をSF的な時間操作(モノクロで展開する旧ソ連時代のマリーナの物語の挿入)で、とてつもない時間を行き来できるのだ。

舞台となっている地方都市に注目すると、それがもっとわかる。エカテリンブルグという、首都モスクワから遠く1600キロ離れている、ウラル地方では最大の都市である。この名前はピョートル大帝の妻のエカチェリーナ皇后に由来している。

ソ連時代の幕開けを象徴する出来事もここで起こった。ロシア帝国のニコライ二世一家は、この都市のイパチェフ館にボルシェヴィキによって監禁され銃殺されている。その後、この都市はボルシェヴィキの指導者の名前をとって「スヴェルドロフスク」と呼ばれるようになる。

さらに、この映画の中で、ロシア連邦初代大統領のエリツィンはソ連時代を懐かしむ市民たちによってやり玉に挙げられるが、実はこの都市の出身者である。そして、1991年のロシア連邦の成立とともに、この都市の名前もエカテリンブルグに戻されている。

セレブレンニコフは、ウクライナ侵略を試みるプーチンのロシアには批判的な映画作家である。
アメリカのコーエン兄弟やタランティーノなどを彷彿させる、社会批評を忘れない上質のエンターテイメント映画だと言える。
(「すばる」2022年4月号)

映画評 ホン・ウィジョン監督『声もなく』

2022年01月08日 | 映画
「善人」と「罪びと」とのあいだをゆく   
ーーーーホン・ウィジョン監督『声もなく』

現代韓国のどこにもあるような、それほど大きくない都市とその郊外が舞台だ。

中年男と青年の二人は、生卵の移動販売を生業にしている。毎日、小型トラックに生卵のパックを積んで街に出かけていって、人通りの多い路上で売りさばく。中年男はチャンボクといい、片足が不自由で、見るからに冴えない田舎のオッサンである。一方、助手の青年はテインといい、大柄で小太りで、耳は聞こえるが口がきけない。

二人の身体障害は、社会の周縁に追いやられた者の象徴となっている。

というのも、かれらは生業だけでは暮らしていけずに、裏の稼業にも手をだしているからだ。裏の稼業というのは、反社会的組織の末端で、組織が処分した人間の死体処理を請け負うことである。自分たちが殺人を犯すわけではないが、証拠が残らないように安物のヘアキャップやレインコートを着て、死体をビニールシートで包み、裏山へ運んでいき、穴を掘って埋葬する。

二人はこうした作業を生卵売りと同様に、淡々とこなす。そこに「罪意識」はないかのようだ。むしろ、敬虔なクリスチャンのチャンボクは、埋葬するときにポケット版の聖書を取り出して死人の罪を償ってあげたり、テインひとりが穴に死体を安置した後で、「北枕」の縁起を気にしたりと、その善人ぶりは尋常ではない。

チャンボクは青年を小さい頃から父親代わりに面倒を見てやっているらしい。青年の障害もあり、「人をうらやんではだめだ」とか、「謙虚に生きないとだめだ」とか、「(買ってやったキリスト教の)テープを聞け」とか、のべつまくなしにお説教を垂れる。

もちろん、チャンボク自身も、目上の者に対しては一切反抗しない。それどころか、言葉遣いは丁寧すぎるほど丁寧だ。

だが、この映画が提示する最大の皮肉は、そうした社会的に「善」として認められた価値観(韓国社会の儒教的な道徳観)が裏目に出ることだ。

チャンボクは、反社会組織の長である「キム様」からあることを頼まれる。ちょっとだけ人を預かってほしい、と。いったんは専門外の領域なので、と断るが、「キム様」に凄まれて、しぶしぶ応じてしまう。

映画の提示するもうひとつの大きな皮肉は、「キム様」のかかわった身代金を目的にした誘拐が「善良」な二人を本当の「罪びと」にしてしまうことだ。

誘拐犯が連れてきたのは十一歳の少女で、チョヒという。「キム様」の計画では、弟のほうを誘拐するはずだったらしい。韓国社会の男尊女卑の風潮を反映して、そのほうが身代金を高く要求できるからだ。しかし、二人が預かるのはその姉で、チャンボクはテインにその少女を押しつける。口のきけないテインは激しく抵抗するが、しぶしぶ引き受けざるを得ない。ここでも映画は韓国社会特有のノーと言えない上下関係を揶揄している。

かくして、テインは幼い妹と一緒に暮らしている人里離れた小さな家に少女を連れていく。面白いのは、社会階層の違う、テインやその妹と少女の三人の作る疑似家族の描写である。

妹はムンジュというが、髪がぼさぼさで野生児のようなムンジュは、兄が帰ってくるなり、「腹減った」と兄に訴える。中西部の大都市である大田(テジョン)の富裕な家庭で育つ少女は、服が乱雑にちらかった部屋で、ムンジュに服のたたみ方を教えて、部屋をきれいに整理する。また、食事のときも、床で食べるのではなく、折り畳み式の小さなテーブルを出してきて、テインが街で買ってきた料理をのせる。そして、ムンジュが先に食べようとすると、少女は「お兄さんからよ」と諫(いさ)める。テインはそう堅苦しいことを言わなくても、といった怪訝そうな顔つきをしながらマンドゥに箸をつける。

このシーンから、少女チョヒの家庭環境を覗き見ることができるが、映画は少女の中に内面化された「良妻賢母」という価値観を美化しているのではない。むしろ、それが少女への抑圧になっていることをしめそうとしているのだ。

それがわかるのは、少女がムンジュと一緒にたらいで洗濯をするシーンだ。

水をたっぷり含んだ大きなタオルを絞るのは、二人の女の子には大変な作業で、そこにテインが割ってはいる。そして、庭に張った洗濯ロープに濡れた衣類を吊るす。おそらく少女の家庭では、父親なり弟なりが洗濯をすることなどないのだろう。

「家族」がそろって洗濯をする体験は、少女の心を知らないうちに解放する。その証拠に、身代金をなかなか払おうとしない少女の両親にあてて、写真つきで手紙を出すという誘拐犯のアイディアで、チャンボクがポラロイドカメラで少女の写真を撮ろうとするとき、少女は緑の田園風景をバックに明るく笑っているからだ。

この映画では、町の保育園や養鶏場の経営者たちが児童誘拐や人身売買に関係している。かれらは善良な市民を装って、陰で犯罪行為に手を染めている。韓国社会の表と裏を描きながら、「本当の犯罪者は犯罪者の顔をしていない」というパラドックスが効いている、優れた寓話である。
(『すばる』2022年1月号、312-313頁)

書評 ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』

2022年01月04日 | 書評
災害を生きた「救済」の物語
ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』
越川芳明

十五歳の黒人女子高校生が語る物語。

舞台は米国南部ミシシッピ州の架空の町、ボア・ソバージュ。フランス語で「野生の森」という意味だ。

メキシコ湾を臨む浜辺や湿地帯(バイユー)から遠く離れ、堅固な樫の木などからなる森を切り開いてできた黒人貧困層の人たちの共同体だ。 

いまなお鹿やキツネの生息するそうした「野生の森」に、少女は飲んだくれの父親や三人の十代の兄弟と住んでいる。母親は七年前の、末っ子のお産のときに亡くなっている。

少女の語る物語は、社会の周縁に追いやられた人々のそれだ。具体的には、二〇〇五年にルイジアナ州ニューオーリンズやミシシッピ州に甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナがやってくる十二日間の出来事が一日ごとに語られる。

少女は、父や三人の兄弟、そして兄たちの遊び友達という男ばかりの世界で、次兄が並々ならぬ愛情を注ぐメスの闘犬の出産と生きざまに魅せられる。そして、母親と過ごした日々の記憶が彼女の中に鮮明に残っている。

この小説が素晴らしいのは、語りの文体にある。

まるで人生の辛酸をなめた黒人ラッパーのように、自分に妥協しない言葉が吐き出される。

地の文では基本的に動詞の現在形が用いられているが、ときどき短いフレーズやリフレインが挟まれる。そうしたスピード感のある文体によって、描写の場面がまるでいま目の前で起こっている出来事のように読者に迫ってくる。

忘れてならないのは、文学好きの少女が夏の課題として読み進めているというギリシャ神話へのたび重なる言及だ。

少女はメディアという、愛と憎悪と復讐の人生を生きたコルキスの王女に感情移入する。それは、王女メディアが少女と同様に、たくましい女性だが、好きな男性の前ではからっきし無力で、そして大きな代償を払ってまで尽くすにもかかわらず、最終的には裏切られてしまうからだ。

ここで好きだった男の子に妊娠させられて苦難を味わう少女の物語は、男性中心主義社会における女性の孤軍奮闘という、より普遍的なテーマにつながってくる。

ハリケーンを「生き永らえたわたしたちは這うことを学び、残されたものを拾いあさる」と少女は言う。「死と再生」の通過儀礼を通して、少女が「希望」を獲得する、優れた救済の物語だ。
(「日経新聞」2021年11月6日)

書評 中村寛、松尾眞『アメリカの<周縁>をあるく』

2021年12月30日 | 書評
もう一つの<アメリカ>を探して
中村寛、松尾眞『アメリカの<周縁>をあるく』

若い文化人類学者と写真家による、知的な刺激にあふれる「旅」の記録である。「旅」といっても観光旅行ではなく、フィールド・ワークだ。

巻頭のエピグラフで、少女が「地図を燃やさなきゃ」と仲間の少年に語りかける。そして、ふたりは熾した火で地図を燃やす。ふたりが燃やす「地図」とは、マスメディアの報道や、子供たちが学校で使う教科書、親や教師の教える「常識」の比喩と読める。

それは、この本の「旅」を思い起こさせる。このふたりの旅人は、既成の「地図」があるために、私たちが気づかずにいる世界を覗きみようとするからだ。ちょうどイギリス作家ブルース・チャトウィンがオーストラリアでどんな地図にも載っていないアボリジニの「歌の道」(名著『ソングライン』)を発見したように。

たとえば、プエブロ・インディアンの居留地がたくさんあるニューメキシコは、そんな「旅」に格好の行先だ。

彼らはそこで出会うべくして出会った先住民のひとりから興味深い事実を教えてもらう。この土地は「サント・ドミンゴ」という、征服者のスペイン人たちが名づけた名称で呼ばれているが、地元の先住民たちは太古の昔から「ケワ」と呼んでいる、と。土地の名前が違うだけではない。使っている言語も世界観も違う、もう一つの「アメリカ」がここにある。

ふたりは八年ほどかけてハワイ、アラスカ、ロッキー山脈地帯、米国北部などを歩きつづける。

その間に、オバマ政権からトランプの政権へと移り、マスメディアで報道される動向も、ヘイトクライムやそれに反対する集会など、よりセンセーショナルなものが多くなる。そこで、ふたりはトランプ支持のプア・ホワイト(貧乏白人)の住むアパラチア山脈の山麓を訪れる。 

既成の地図をわきに置いて、この本を読むことをお勧めする。新しいもう一つのアメリカ、そしてもう一つの日本が見えてくるだろうから。

(時事通信より発信、「長野日報」2021年9月21日ほか)

書評 栗田大輔『明治発 世界へ!』

2021年12月25日 | 書評
「強さ」の秘密
栗田大輔『明治発 世界へ!』


著者の栗田さんは、明大体育会サッカー部の監督である。

夏の総理大臣杯で5年連続の決勝戦進出を果たし、2年前は冬のインカレを初めとして大学生が獲得できる優勝杯をすべてものにした。

監督歴「6年間でタイトル10個」「プロ50人以上輩出」とオビに謳(うた)われているように、結果をだしつづけている。

だから、これはいま全国の高校生年代のサッカー選手たちがあこがれる明大サッカー部の強さの秘密に迫った、タイムリーな本だ。

だが、栗田さんの本職は一部上場のゼネコンのばりばりの営業マンである。

家庭人でもあり、地域のサッカースクールも経営している。その上、僕が瞠目(どうもく)するのは、選手たちにやる気を起こさせる「教育者」としての姿勢だ。

「大学の四年間で「変化する瞬間」が2〜3回ぐらいあるんです。(中略)私はその瞬間を見逃さないようにしています。ここだと思った瞬間に、相手にズバッと響く話をします」と、栗田さんは語る。

営業活動で磨いた言葉の力を若い選手の「育成」に活かすその手腕は、職場で若い人たちに接している中間管理職の皆さんにも参考になるはずだ。

書評 吉田朋正編『照応と統合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』

2021年05月10日 | 書評
「窮極の一冊」  隠し絵のような光彩を放つ   
吉田朋正編『照応と総合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』(小鳥遊書房)

 ポルトガルの詩人・フェルナンド・ペソアは、まるで多重人格者を地でゆくかのように、いくつものペンネームを持ち、さまざまな文学的ペルソナを演じた。土岐恒二は、名前こそ変えないが、長い論文も短い評論も翻訳もこなし、好みの詩人や作家も多様性に富み、ペソア顔負けの八面六臂の多才な芸を見せる。

 ペソアが多言語に通じていたように、土岐もおそらく英語以外にスペイン語やフランス語などの外国語にも堪能だったはずである。そのことが彼を狭い専門領域にとどめなかった要因の一つであるように思える。

 神秘主義者スウェーデンボリのいう「普遍的類似」の影響を受けたボードレールやブレイクの「照応理論(コレスポンダンス)」を研究するうちに、土岐も自身の書き物に「照応理論」を取り入れ、自家薬籠中のものにしていたようだ。

 伝統的に専門性を重んじる英文学の世界において、世紀末文学やロマン主義文学に造詣が深く、オスカー・ワイルド、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ブレイク、ワーズワース、コーリッジ、W ・B・イェイツについての論考がひときわ光彩を放つ。だが、それらの著作は一種の「隠し絵」なのだ。つねにフランスのボードレールやランボーの詩の思想や、ラテンアメリカのボルヘスやコルターサル、米国の象徴主義詩人・エズラ・パウンドの詩論がキャンバスの下地に塗り込まれているからだ。

まず、土岐が「ペイターの中心思想」と指摘する「消滅への憬れ」を見てみればよい。過去は消滅したとしても、現代によって影響を受け蘇るというパラドックスを主題にした絵画(著作)があるとしよう。土岐によれば、ペイターは古典を「世代が交替するごとに更新される「現代性」」を帯びたものだと捉えていて、そのことを未完の長編『ガストン・ド・ラトゥール』によって示そうとしたという。だが、そうしたパラドックスを描いた絵の下地には、ボードレールのいう古典的な芸術作品の「現代性」という思想が隠されている。ボードレール曰く、「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家一人一人にとって、一個ずつの現代性があったのだ」(242)と。

次に、土岐は「廃墟、遺跡、遺物、墳墓、墓碑銘、古写本、美術品の破片、日記といった、時間の海に洗われて消滅してゆく過程においてかろうじて消えのこった壮麗な過去の残闕(ざんけつ)」(216)(「ウォルター・ペイターの印象批評」)こそ、ペイターの創作の原動力だという。そうした欠片・断片こそ過去の大いなる栄光や汚辱を映し出す鏡だという発想は、ボルヘス読解の鍵として提示される「迷宮の構造式」に通じるものだ。すなわち、それは「部分が全体を、縮小が極大」を反映するという、もう一つのパラドックスである。ボルヘスは文学の媒体である言語の細部(極小)をつき詰めていけば、宇宙(極大)にたどり着くと考えた。小さな図書館こそ大宇宙の象徴だった。

さらに言えば、土岐がボルヘス全集における同一作品の重複採録の謎を解き明かすために持ち出す、作家の「パリンプセスト理論」とは、前に書いた文字を消してその上に重ね書きすることだが、それはボードレールのいう「窮極の書物」「ある一冊の絶対的書物」という観念と「照応」する。

 おそらく土岐は、すぐれた文学論は、そうした「パリンプセスト理論」に基づくものだと考えていたはずである。詩人や作家の作品に上書きする文学作品としての文学論を目指したと思われる。なぜなら、土岐の著述には自身の手になる日本語の素晴らしい引用が散りばめられているからだ。読者にとっては、土岐の論考を読みながら、詩人や作家の残した「宝石」の輝きに触れることができる。

 土岐は広大かつ多様な領野を切り拓くにあたって、世紀末やモダニズムの英米文学であれ、現代ラテンアメリカ文学であれ、一見別のものの中に共通点を見つける、折口信夫のいう「類化性能」を駆使して、浩瀚な著述を残した。それが「照応理論」に基づく「隠し絵」だった。

編者・吉田朋正は、それらの遺稿を分類・整理するという非凡な「別化性能」を発揮して大部な本に「統合」した。この仕事によって、類稀なるユニークな「窮極の書物」が出来あがった。誠に慶賀に堪えない祝事(ほぎごと)である。
初出 『図書新聞』2021年2月6日

映画評 クリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』

2021年05月10日 | 映画

よみがえる「水の精」の神話  
クリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』
越川芳明

 ひと組の男女が朝のカフェ・レストランのテラス席にいる。男が別れ話を持ちだしているらしく、女のほうは別れたくない様子だ。そのうち、女が仕事に向かわねばならない時間がきてしまう。

 女の名前はウンディーネといい、レストランに隣接している博物館でガイドとして働いている。巨大な都市模型を前にして、ベルリンの都市開発の歴史や思想などを解説するのだ。静かにゆっくりと話す姿から彼女の知的な人間性が浮かびあがる。

 三十分ほどのガイドの仕事を終えて、カフェに戻ってみると、すでに男の姿はない。その男の名はヨハネスといい、後でわかるが、富裕層に属し、プール付きの大邸宅に住み、女癖も悪い。

 ウンディーネは、後を追ってきたもう一人の男にお茶に誘われる。彼の名前はクリストフといい、潜水作業員をしている素朴な男だ。地方のダム貯水池で、水中のタービンなど機械の修理や点検などをしているらしい。

 ここまで話すと、通俗的な「恋愛の三角関係」をテーマにしている映画に思われるかもしれないが、同監督の『東ベルリンから来た女』(二〇一二年)でもそうであったように、そうしたテーマは表層でしかない。ベルリンの壁の崩壊後の世界から、それ以前の過去(東ドイツの現実)に光を当ててステレオタイプな解釈から救い出したように、監督は二十一世紀のベルリンを舞台に古代の「水の精」の神話をよみがえらせる。

 だが、すでに二百年以上も前に、ドイツロマン派のフリードリヒ・フケーが中世の騎士道物語形式を用いて、その神話の復活を試みている。ゲーテによって絶賛されたという、『ウンディーネ』(一八一一年)という小説は今も世界中で読み継がれ、一つの神話モデルに定着している。その影響は他ジャンルにも波及し、幻想小説の鬼才E ・T・ A・ホフマンや、ロシアの作曲家チャイコフスキーによってオペラに仕立てられたりしている。

 それでは、どうしていま監督はこの神話をよみがえらせようとするのだろうか。近代科学の発達した時代において、私たちは古代の人々が身のまわりの世界に見ていた「目に見えない力」(例えば、精霊)を看過しやすい。目に見えない存在を迷信や俗信とみなして、人間の知性を過信しがちだ。だが、人間の知性がカヴァーできる領域は限られている。科学によって宇宙のすべてが解明できるわけではない。

 フケーの小説の「水の精」ウンディーネは、恋人の騎士にこのように説明する。
「四大の精霊のなかには、ほとんどあなたがた人間と同じ外見をしていながら、あなたがたの前にはめったに姿を現さない精霊がいます。炎のなかで戯れ輝くのは、妖異な火竜のサラマンダーです。地中奥深くには、痩せこけた狡賢(ずるがしこ)い地霊グノームが潜んでいます。森のなかを飛びまわって番をする森の精は、風の世界の住人です。海や湖、川や渓流には水の精という広く知られた種族がいます」(フケー『水の精(ウンディーネ)』光文社古典新訳文庫、88-89)

 映画のなかのウンディーネは、自分が「水の精」であることを告白したりしないが、水にまつわるエピソードは、数多く出てくる。まず、潜水作業員クリストフと初めて遭ったとき、レストランの入口ホールにある大きな水槽が倒壊して、下にいる二人が水浸しになる。この出来事が縁になり、二人は付き合い始める。

 また、クリストフが仕事で潜るダムの貯水池の中には、ウンディーネの仲間(もう一人の「水の精」)とも思える巨大なまずが棲んでいる。クリストフは、何度かその堂々とした池の主の姿を目撃する。

 さらに、ガイドをしているウンディーネの口から、ベルリンという都市の考古学的な知見がもたらされる。ベルリンという名称は、スラブ語で「沼」や「沼の乾いた場所」を意味するのだ、と。映画には登場しないが、シュプレー川がベルリンの市街地を流れている。もしウンディーネの仕事場が国立博物館だとすると、それはこの川沿いにある。

 ウンディーネが都市開発の歴史の専門家であるという設定は、注目に値する。今は無機物のコンクリートの道路と建物に覆われていたとしても、シュプレー川を中心にしたベルリンの土地は、古代人や中世人にはどのように使われていたのか。機能主義的な都市開発が行なわれたベルリンの地勢図を「アースダイバー」(中沢新一)してみれば、古代や中世との繋がりが見えてくるはずだからだ。その意味で、面白いのはウンディーネが専門外の建物の説明をしなければならないシーンが出てくることだ。それは、つい最近オープンしたばかりの「フンボルト・フォーラム」と呼ばれる複合文化施設である。シュプレー川に面した一角にあり、もともとは中世に造られ、歴代の君主によって改造や増築を繰り返され、第二次大戦で消失したベルリン王宮を復元したものである。人は絶えず「過去」を再利用(リサイクル)しているのである。

 英文学者の鈴木雅之は、ある論文の中で、神秘主義者のスヴェーデンボリを援用して次のように述べている。すなわち、霊界とは霊と天使が住む世界であり、自然界とは人間が住む世界である。霊界は自然界に先立って創造され、自然界のすべては何らかの仕方で霊界と「照応(コレスポンド)」する。霊界と自然界の照応関係は、いわゆる論理的思考による「因果関係」ではなく、何か非直線的な「縁」のようなもので結ばれた関係である・・・。(鈴木雅之「見えざる世界の証明」吉川朗子・川津雅江編著『トランスアトランティック・エコロジー』彩流社、2019年)

 このようなスヴェーデンボリの「照応理論」を考慮に入れると、この映画はペッツォルト監督が現代の女性に「水の精」との「照応」を見いだし、作りあげた物語であると言えるかもしれない。今後は「地の精」と「風の精」をモチーフにした作品が予定されており、合わせて「精霊三部作」になるそうだ。

初出は『すばる』2021年4月号

映画評 ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』

2021年05月10日 | 映画


伝統と近代化のはざまに苦しむ辺境の女性
ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』
越川芳明

ここはヒマラヤ山脈の北に広がるチベット自治区の高原地帯。辺境に暮らすチベット族はだいたいが伝統的な牧畜に従事しているという。

本作に登場するのは三世代にわたる家族で、現代のチベット族の典型的な家族と言えるかもしれない。父タルギェと妻ドルカル、タルギェの老父、そして子供三人である。

冒頭で「中国政府は、一九八〇年代から家族計画を実施した」というクレジットが流れる。中国の人口動態に詳しい若林敬子によれば、中国が一人っ子政策を始めたとき、チベット自治区の遊牧民の少数民族は四人まで子供を持つことを許されていたらしい(「中国少数民族の人口研究序説」国立社会保障・人口問題研究所、一九八八年)。

そうした家族構成の変化は、牧畜の働き手としての子供をたくさん産むことを義務づけられた女性たちの意識をも変化させる。夫にタバコや酒以外に気晴らしがないように、妻ドルカルも、日常の家事の他に羊の世話で忙しく余暇を楽しむ余裕などはない。だが、夫婦は乏しいお金を使ってでも子供たちに教育を受けさせようとする。

この家庭でも長男ジャムヤンは、家を離れて都会の寄宿中学校にいる。親たちは牧畜以外の仕事に就かせようとしているのかもしれない。

伝統的な暮らしの変容と言えば、昔は交通手段として馬を使っていたが、今では、タルギェもドルカルもオートバイを乗りまわしている。これは近代化の象徴なのかもしれないが、何千年と続いてきた遊牧のための土地が国家戦略で縮小させられて、狭い土地に定住せざるをえなくなった結果、わざわざ馬で移動する必要がなくなったのだ。

映画には一貫してチベットの「伝統と近代化」というテーマが流れている。その一つの変奏として、宗教と科学の対立がある。チベット族に根づく仏教の教えと、医療の浸透とが時にはげしくぶつかりあう。

仏教の教えを説くのは、妻ドルカルの妹シャンチュと老父である。シャンチュは恋愛に破綻をきたし出家して尼僧になっている。お寺の本堂の修理がおこなわれることになり、近隣の住民たちに寄進を募りに帰ってくる。

かたや字の読めない老父は、羊の皮をなめすときにもひたすら呪文を唱えている。これは、観世音菩薩の慈悲を説くマントラ(真言)の一種で、チベット語で六文字となることから「六字真言」ともいわれる。これを飽きずに一億回唱えると成仏して、その後、この世の誰かに転生できるという考えだ。この二人によれば、長男は亡くなった祖母と同じホクロが背中にあるので、祖母の生まれ変わりだという。

一方、科学を代表する人物は、ドルカルが避妊手術を頼みにいく診療所の女医だ。女医は、自分には子供が一人しかいないが、それでもなんの不都合もない、とドルカルに告げる。都市社会で男性と対等に生きている、合理的な現代人である。四人目の子を宿したドルカルに中絶を勧める際も、まったくブレがない。科学の「進歩」というイデオロギーを信奉しているからだ。

かくして、ドルカルはその胎児が急死した老父の生まれ変わりであると信じる妹や夫、長男から産むように言われ、一方、女医からは産んではいけないと言われ板挟みにあう。

ところで、ツェテン監督は漢語とチベット語の両言語で書くことのできるバイリンガル作家である。本作は彼自身の小説を映画化したものだ。それは『すばる』二〇二〇年三月号に、大川謙作によって翻訳された「風船」である。大川の解説によれば、小説は漢語で書かれているというが、映画はチベット語である。ツェテンは「チベット語母語映画の創始者として国際的に名高い映画監督」だという。

両言語に堪能であるということは、漢族とチベット族の双方を外から見られるということで、「他者」の視点を生かした創作が可能になる。たとえば、ドルカルの中絶についても、ドルカルの深い悩みに寄り添う。決して「宗教」や「科学」のイデオロギーのどちらかにくみしたりしない。

さて、原作と映画とでは、大きく異なるシーンも出てくる。ここでは三つだけ取りあげておこう。一つは、尼僧になった妹シャンチュだが、小説では尼僧になった動機は明かされないが、映画でははっきりと男女関係のもつれが原因であるとわかるようになっている。相手の男性が長男の学校の先生として登場する。

辺境に暮らすチベット族は、従来、未婚率も高かったといわれるが、この二人のエピソードは、都市に暮らすチベット族の現代の「家族問題」、とりわけ自由恋愛と離婚に言及しているのだろうか。

二つめは、長男を都会の寄宿学校に連れていった後に、タルギェが雨の中しばし文成公主(ぶんせいこうしゅ)の大きな像の前で佇むシーンである。文成公主は、七世紀の唐の時代に、中国からチベットに嫁いできた女性で、チベットと唐との和親に貢献したと言われる。だから、このシーンは遊牧民のチベット族文化を代表するようなタルギェが、中国文化(妻の中絶の決断)を理解しようとした瞬間なのだろうか。

三つめは、父親が町で買ってきた赤い風船が空に飛んでいってしまうシーンだ。小説では、飛んでいく風船を眺めるのは子供たちだけだ。父親にねだってせっかく手に入れたものなのに、取り合いをしているうちに飛んでいってしまう。その風船には、子供たちの後悔や失望、父親の徒労感が重なるような気がする。

一方、映画では、子供たちだけでなく、登場人物たちのほとんどが空を見あげている。僕には、飛んでいく風船は亡くなった老人の魂、あるいは、老人の「生まれ変わり」として生まれてくるはずだった赤子の魂の象徴のように思える。ドルカルは中絶するが、その後、妹に連れられて山籠りを決心するので、女医と違ってドライでなく、死者の霊魂は信じている。

最後に特筆すべきことに、チベットの大自然の美しさをことさらに誇示するような映像が一切出てこない。むしろ雨にぬかるんだ舗装されていない道路や布団をしまう場所もないほど手狭な家の中など、地を這うリアリズムの手法で撮られている。そんな中で、この風船の飛んでいくシーンだけはあまりに幻想的で、一瞬だけ観客に想像する機会を与え、多義的な解釈の余地を残す。

牧畜に従事するチベット族の女性の生きづらさに焦点を当てながら、国家戦略としての近代化のしわ寄せを食ってしまう辺境に暮らす女性たちにも思いを寄せることができる素晴らしいボーダー映画である。2625字 6枚半 ゲラで25行オーバー。
『すばる』2021年1月号に加筆。

書評 石山徳子『「犠牲区域」のアメリカ』

2021年01月04日 | 書評
核の汚染と人種差別
石山徳子『「犠牲区域」のアメリカ』(岩波書店)
越川芳明


米国ニューメキシコ州のロスアラモスは原爆開発の「マンハッタン計画」の拠点として有名であるが、本書では原爆に関連する米国内の各拠点を辿っていく。

長崎に投下された原爆のプルトニウム生産現場のハンフォード・サイト(ワシントン州)、ウラン開発地コロラド高原(南西部)、高放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場候補地ユッカ・マウンテン(ネバダ州)、放射性廃棄物の中間貯蔵施設を誘致したスカルバレー(ユタ州)など。

これらの地名はあまり知られていないが、共通する点はなんだろうか。

どこも大都市からはるかに遠く隔たった辺境であり、誰も住む者がいない「不毛の土地」と見なされている点だ。

本書はそうした「不毛の土地」という常識のウソを暴き立てる刺激的な研究書だ。

というのも第二次大戦から冷戦期にかけて、米国の原爆開発にかかわったこれらの場所は「不毛の土地」どころか、古代から先住民たちが土地の精霊たちをうやまい、動植物と共生しながら生きてきた「神聖な土地」だったからだ。

「ストックホルム国際平和研究所」のデータ(2019年)によれば、世界の軍事費の四割を米国が占めているという。

軍事予算は約七千億ドルで国家予算の一割弱だ。

「国家安全保障」という大義名分のもとで、軍事大国アメリカの基盤とも言える原子力開発。

それに伴う多少のリスクは仕方ない、と誰しも考える。

なぜなら、リスクは大都市に住む市民ではなく、「不毛の土地」が負うのだから。

核による汚染は、米国の人種(先住民)差別と分かちがたく結びついている。

被害を受けるのは、きまって社会の周縁に追いやられた先住民だ。

日本でも「核のごみ」の最終処分場の選定をめぐって、財政難で苦しむ北海道の過疎の村や町が危険を承知で候補地に志願している。

政府が膨大な「調査費」を提示しているからだ。

ここにも資本主義世界で「犠牲」になる人々がいる。本書はそんな現代日本の課題をも考えさせてくれる。

書評 ハワード・ノーマン(川野太郎訳)『ノーザン・ライツ』

2021年01月04日 | 書評

青春小説、多文化主義を内包 
ハワード・ノーマン(川野太郎訳)『ノーザン・ライツ』(みすず書房)
越川芳明

十代の白人少年を主人公にした「青春小説」だ。白人といっても父はウクライナ系、母はイギリス系である。

舞台は一九五〇年代後半のカナダ中央部・マニトバ州の秘境。冬には昼でもマイナス十四、十五度になる極寒の土地だ。

少年は母の計らいで、詫(わび)しく閉ざされた実家から一五〇キロほど離れた辺境の村で五回の夏を過ごす。

少年に部屋を提供してくれるのは、サム(イギリス系白人)とへティー(クリー族)の老夫婦で、少年とほぼ同世代の、夫婦の甥ペリーも同居している。

少年はそこで自分の英語文化とはちがう先住民の文化と触れ合うことになる。

少年はまずバイリンガルのへティーからクリー語のてほどきを受け、簡単な挨拶ぐらいはできるようになる。だが、サムからは「話し方を学ぶのはいい、でも白人がクリー語で考えることはできないのを、忘れてはいけないよ」と、釘を刺される。

キリスト教の宣教師たちが先住民を「野蛮人」とみなし「教化」しようしていることを戒めているのだ。

へティーの老父にはクマ狩りにつれていってもらうことになるが、ペリーが少年に「人間と自然(動植物)との共生」という先住民の世界観を伝える。

「動物たちはいつも聴いているんだ。食べるものがたっぷりあることをぼくらが当たり前に思っているとわかったら、彼らは狩りのときにその身を捧げてくれない」と。

その辺境の村はもともとクリー族の村だったが、フィンランド語の葬送歌を歌う大男をはじめ、フレンチ・カナダ人やノルウェイ人など、英語を母語としない人々も住みついている。

カナダは世界にさきがけて一九七一年に「多文化主義」の導入を宣言した。

文化に優劣は存在しないとして、先住民文化をはじめとするエスニック集団の文化と英仏文化とが平等であることを、のちに憲法に明文化した。

それまでは英仏系を頂点にしたエスニック・ヒエラルキー(階層性)が存在して、その最底辺に先住民がおいやられていた。

現代でも優れた国策にもかかわらず都会に住む先住民が過酷な境遇にさらされている。

主人公の少年が多感な時期に過ごす辺境の村は、「多文化主義」をじかに肌で教わる「学校」だった。

そういう意味で、この物語は少年少女の読者には「多文化主義」を学ぶ格好のテクストになるだろう。

『日経新聞』2020年12月19日

島田雅彦 『君が異端だった頃』

2020年04月05日 | 書評

「私小説」を逸脱する「私小説」 
島田雅彦 『君が異端だった頃』(集英社)
越川芳明

島田雅彦に「アイアン・ファミリー」という、ブラックユーモアに彩られた傑作短編がある(『暗黒寓話集』所収)。

紀元前に大陸の秦(ルビ:しん)からこの島国にやってきて、「鉄の文化」(刀や鉄砲といった武器や、仏塔といった建造物や、貨幣の鋳造など)をもたらした、秦(ルビ:はた)一族の系譜をたどる、抱腹絶倒の「寓話」だ。

寓話であるから、権力や先入観に対する風刺が効いている。秦家の末裔だという「私」が嘘くさい系譜をひもとくとき、容易に想起されるのは「万世一系」という天皇家の系図をめぐる虚構性だ。そもそも私たちが世界に類のないものだと誇っている「日本文化」の根っこの部分も、起源をたどれば、大陸や朝鮮半島からのそれと混じりあった、ハイブリッドなものでないか。そういう皮肉の笑いが聞こえてくる。

系譜というのは、後からやってきた人間(子孫)が自分の立ち位置を確認したり、自分をよりよく見せびらかしたりするために作り出すフィクションである。

島田雅彦は、「系譜フェチ」みたいなところがあり、二人称の「君」を語り手にしたこの小説でも、「系譜」が出てくる。文壇での立ち位置を模索する若い「君」が編み出す、日本作家の「異端」の「系譜」である。大学在学中に文芸誌『海燕』で鮮烈なデビューを飾るものの、文壇の大御所からは無視されつづけ、芥川賞候補になること六回、ことごとく落選の憂き目をみる。

そんな逆境のなかでも「青二才」の「君」を支援してくれる先輩作家たちもいた。大江健三郎、安部公房、埴谷雄高、古井由吉、後藤明生。たとえば、大江からは異質な存在に冷淡な日本社会で「異端」の生き延びる方法(面従腹背やダブルスタンダードで、洗脳を免れる)を学んだという。とはいえ、なんといっても読んでいて面白いのは、「君」を激しく抑圧しながら可愛がる理不尽な怪物、中上健次の存在だ。ニューヨークに逃亡する「君」を「来襲」して、マンハッタンの危険地帯で一緒に飲みまわる。

「文豪列伝」と題された最終章は、文壇での「ニッチ(居場所)」を探求する「君」の二十代の物語だ。新宿界隈の文壇バーが舞台で、そこは編集者と作家と批評家が高い頻度で顔を付き合わせて研鑽を積んだ(ただクダを巻いて酒を飲んでいただけ、という説もあるが)「創作学校」だった。作家たちのおかしな生態が描かれていて退屈しないが、これは平成のインターネット時代になって消えてしまった「文壇」という文学共同体に関する貴重な証言でもある。

だが、この小説は文壇をめぐるものだけではない。

むしろ、作家個人の「系譜」、すなわち自伝である。「私小説」の形式で、多摩の山を切り開いた新興団地で過ごした幼少時代(のちに作家が「郊外」という文学トポスを発明することになる原風景)、工業地帯で過ごした高校時代(思春期の「君」の心身に刻まれる、強烈な異文化としての「カワサキ・ディープ・サウス」)、そして、これまた「君」の日本語を異化してやまない「ロシアン・スタディ」を学ぶ大学時代などが、クロノジカルに語られる。

友人や知人、恩師などの実名が数多く登場するが、小説の真骨頂は、二人のアメリカ人娘の登場する性愛の物語だ。ニューヨーク滞在中に、「君」は妻には内緒で、二人の大学院生のニーナとの自堕落な恋にうつつを抜かす。とりわけ、コーネル大学のニーナとはのっぴきならない関係になる。彼女は日本にまで追いかけてくる。ここでも「君」は持ち前のマゾヒストの才能を発揮して、彼女に沈滞している創作意欲の起爆材になってほしいと願う。

「彼女に振り回されることで大きな遠心力を得て、自分を何処かに飛ばすことはできるはずだった」(273)。この関係はやがて妻の知れるところとなり、泥沼の様相を呈す。その修羅場は、壇一雄『火宅の人』を彷彿させもする。

では、なぜいま「私小説」なのだろうか。島田雅彦にとっては、「系譜」作りも「私小説」も、同じ理屈のフィクションなのかもしれない。

「君」は言う。「「自分を捏造する癖」は誰もが持っているが、その悪癖を最後まで捨てないのが小説家というわけである」(235)と。

また、「私小説」についても、「君」はこう言う。「私小説は嘘つきが正直者になれる、ほとんど唯一のジャンル」(298)だ、と。

さて、話を「異端」に戻せば、十六世紀に宇宙の無限性を唱えて、コペルニクスの地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノがドミニコ会修道士(キリスト教徒)であったように、「異端」とはアウトサイダーのことでは決してない。

ある共同体や組織の「周縁」を住処にして、そこから「異言」を唱える「奇人」や「変人」である。

生物多様性が、地球に棲むすべての生物のための環境維持に欠かせないように、文化の多様性をもたらす「異端」の存在も、共同体を活性化するのに役立つ。

かくして、秦氏をめぐる寓話は、ここでは日本の近代文学の歴史に接続されて、小説のジャンル自体を批評する寓話へと変身を遂げる。

各章には、雑誌掲載時にはなかった「縄文時代」「南北戦争」「東西冷戦」「文豪列伝」といった寓意を込めたタイトルが付けられていて、ただの「君」自伝を超えた読解へと誘う。

あけすけなまでに自己暴露の「私小説」でありながら、「私小説」というサブジャンルから逸脱して、そこに安住する正統派を笑う、とても手の込んだ「異端」の小説だ。

(初出『すばる』2019年9月号、294-295頁)

今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』

2020年04月05日 | 書評

深い思索を促す「哲学」の書 
今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』(慶應義塾大学出版会)
越川芳明 


 ボルヘスは、小説家や詩人といった肩書きより、ことばの「創造者」という名称がふさわしいような気がする。

 今福龍太はアルゼンチンの「創造者」を「自己分裂の冷徹な目撃者」(14)と称する。自己分裂するのは人間一般である。我々は誰しもが「分裂症」であり、「生と死、この世とあの世、現と夢、自意識と無意識、死と不死の夢のはざまで」生きていて、自己分裂を強いられるからだ。

 今福は、ボルヘスの「分裂症」の世界観を「虎」という形象に託して論じる。たとえば、ボルヘスの「Dreamtigers(夢の虎)」という文章は、「幼いころ、わたしは熱烈に虎にあこがれた(中略)縞模様の、アジア産の、王者のごとき虎にである」という告白で始まるが、すぐに「ああ何と無力なことか!わたしの夢は決して、願いどおりの猛獣を生み出せない。なるほど虎は現われる。しかし、それは剝製にすぎない」とつづく。

 「夢の虎」とは「有限の時間」であり、「宿命」であり、「直線的な時間の流れ」であり、「宿命を背負ったわたし」だ。今福に言わせれば、「虎の探求は、人間という存在の現世における限界をおのれに知らしめることにもなった」(6)

 と同時に、ボルヘスは「ただひたすら「いま」という瞬間の充満によってのみ「永遠」へと侵入」しようとするという。「彼の時間への反逆は、「ボルヘス」という人格でありつづけることの「不幸」からのまったき自由を、どこかで夢見ていた」(8)と。そういう意味では、「夢の虎」は、「永遠」(「いま」という瞬間の無限の連鎖)であり、「夢」であり、「迷宮」であり、「不死のボルヘス」なのだ。

 このように、ボルヘスの「夢の虎」は両義的な特性を帯びた存在であり、人間の自己分裂の隠喩となる。

 ボルヘス自身の自己分裂を端的に表しているのは、「ボルヘスとわたし」という創作である。それは「さまざまなことがその身に起こっているのは、もう一人の男、ボルヘスである」という二重人格者のような発言で始まる。まるでみずからの尾をくわえるウロボロスのように、「ボルヘス」という「創造者」は文学伝統、言語そのものに呑み込まれ、「わたし」は「ボルヘス」に呑み込まれる。

 「「わたし」とは、生身の人間としてついには無に帰する「死すべき」mortal存在である。一方、「ボルヘス」はすでに言語あるいは伝統に属するものとして「不死」immortalの属性を与えられている」(17)と、今福はいう。

「自己の分裂、分身、アルター・エゴ、鏡、円環的時間の主題。ボルヘス自身が「フィクション」において探求したすべてのテーマが、この一文で「わたし」と「ボルヘス」の関係としてすでに語られている」(18)と。

 シェイクスピアを論じた「Everything and Nothing ――全と無」というボルヘスの文章も、イギリスの文豪に言及しながら、実はボルヘス自身について語ってもいるようで、パラドックスに満ちていて面白い。ボルヘスによれば、シェイクスピアは自分が何者でもないという恐れを抱き、実に多くの別の人間を演じつづけたが、死の直前には「ただひとりの人間、わたし自身でありたい」と神に願う。すると、どこからか、神の声が聞こえてきてこういう。「わたしもまた、わたしではない。(中略)お前はわたしと同様、多くの人間でありながら、何者でもないのだ」と。

「神の夢見(創造)の産物であるかもしれぬ人間が、その神から、自分もまた世界を夢見ることを通じて無数の他者へと転生していたのだ、と告げられたとき、唯一無二の絶対者へと向けられるべき儚い人間の魂の救いはどこにあるだろう? すべてであり無。神もまたこの宿命から逃れることは、ボルヘスの世界においては、できないのである」(144−145)と、今福は告げる。

 別の見方からすれば、ボルヘスの文学は、自己言及のそれであり、作者の「オリジナリティ」は否定され、「すべては「異本」であり決定版は存在しない」(51)のだ。

 今福の訳したボルヘスの詩「夢」には、どこか他の作品で聞いたようなフレーズが木霊(こだま)する。
 
 わたしはユリシーズの漕ぎ手たちよりはるかに遠く
 人間の記憶の及ばない
 夢の領野へと赴くだろう。
 (中略)
 死者たちとの対話
 ほんとうは仮面である顔
 とても古い言語に属する言葉
 (中略)
 わたしは万人であり、何者でもないだろう。
 わたしは他者であり、それがわたしであることを知らないだろう(146)

 ボルヘスの文章からは、宿命と不滅のはざまに生きる「創造者」の夢見る、逆説に満ちた「宇宙」が窺われるのではないか。
ボルヘスの「分裂症」の世界観は、逆説の宝庫とも言える。「極小であり、極大である世界」を志向し、「ボルヘスのどれも短い物語が語るのは、つねに一つの限定づけられた世界。(中略)にもかかわらず、(中略)大宇宙へと果てしなく拡大する」のである。また、「バベルの図書館」では、「無限に向けて開かれていたはずの空間が、極限の幽閉空間になってしまう」(85)のだ。 

 本書には、詩や短編やエッセイや講演など、ボルヘス自身のことばが例文として(著者自身の名訳で)豊富に挙げられており、これからボルヘスを読もうとする者にとっても、すばらしい入門書になるだろう。だが、だからと言って、ボルヘス理解が容易になるわけではないのだが。

 というのも、今福は「客観的にボルヘスという作家を同定し、解説的に叙述すること」(20)を意識的に避け、彼なりのボルヘス解釈を通じて、わたしたち自身に人生や死、自己や宇宙についての深い思索を促す、「哲学」の書を目指そうとしているようだから。(了)

初出『図書新聞』(2020年3月21日号)

映画評 スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

2019年09月10日 | 映画

インディアンになった騎兵隊の兵士たち 
スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

越川芳明

十九世紀末のアメリカ西部の旅を描くロード・ムービーだ。

この時代設定には、意味がある。合衆国国勢調査局によれば、フロンティア(辺境)とは、一平方マイルにつき人口が二人以上六人以下の地域をいい、その地域を結んだ南北の線を「フロンティア・ライン」と呼ぶが、一八九〇年の国勢調査で、フロンティア・ラインの消滅が明らかになったからだ。一八三〇年の「強制移住法」をはじめとして、アメリカ政府がインディアンの土地の収奪をおこなってきたのがその理由である。この時点で、この大陸からインディアンが自由に移動できる土地はなくなったことを意味する。

主人公は騎兵隊大尉ジョー・ブロッカーだ。かれはニューメキシコから、コロラド、ワイオミングを経て、カナダと国境を接する北のモンタナまで約千五百キロの大移動をすることになる。

ブロッカー大尉は、「ウーンデッド・ニーの虐殺」にかかわった経歴をもつらしい。その虐殺事件とは、一八九〇年の年末に、サウスダコタ州の辺境ウーンデッド・ニーでおこった。合衆国第七騎兵隊がミネコンジュー族の長ビッグ・フットや、そこに身を寄せていたスー族の者(ほとんどが子供や老人、そして非武装の男女だった)に対して民族浄化をおこなったのだ。四百人ほどいた中でインディアンの戦士は、百人足らずだったという。

そんな筋金いりの「インディアン・ヘイター」である大尉が、上官からとうてい受け入れがたいようなミッションを与えられる。長年、捕虜になっているシャイアン族の長とその家族を故郷に送り届けるよう、命じられるのだ。銃の名手であり、荒野の地理に通じていて、部族語も流暢に話せる点が起用の理由だった。

ところで、映画が始まる前に、あるイギリス作家の言葉が引用されている。“The essential American soul is hard, isolate, stoic, and a killer. It has never yet melted.”(本質的なアメリカの魂は硬直して、孤立して、禁欲的で、殺し屋である。それは未だに硬直したままだ)。一九二〇年代に二年ほどニューメキシコのタオスに移り住んだD・H・ロレンスだ。ロレンスは当地で『アメリカ古典文学研究』という独自の文学論を上梓し、ジェイムズ・フェニモア・クーパーの、無学だが、インディアンさながらに大自然で生きる知恵をもつ白人猟師ナッティー・バンポーをめぐる、植民地時代から建国時代にかけての年代記(五部作の「革脚絆物語」シリーズ)を高く評価している。

またケビン・コスナーが監督・主演した画期的な西部劇『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』(一九九〇年)は、南北戦争時代の西部を舞台にした、北軍の中尉ジョン・ダンバーが「失われる前に辺境を見ておきたい」と、サウスダコタの砦へと赴任する物語だ。荒れ果てた砦で自給自足の生活を始めるが、近隣のスー族とのつき合いなかで、「シュンカマニトゥタンカ・オブワチ(狼と踊る男)」という名前をもらうまでにインディアンの心をつかむ。

本作のジョー大尉の造型に、ナッティー・バンポーやジョン・ダンバーといった、荒野に生きる白人という、神話的なヒーローが関与しているのはまちがいない。というのも、この大尉の場合も、旅の最後には、シャイアン族の長の埋葬をめぐって、部族の儀式を尊重するまでに、精神的な覚醒がもたらされるからだ。

 また、十四歳のときから軍隊に入ったというメッツ曹長は、これまで二十年もインディアン討伐にかかわり、「動くものは何でも殺した。男も女も、子供も」と、部下に述懐する。だが、かれもまたコマンチ族の兵士の襲撃から、シャイアン族が守ってくれた事件をきっかけに、大きく内面の変化を見せる。かれは「シャイアン族のかれらにも、殺す権利はある」と、クロッカー大尉にいう。シャイアン族の長には、部族語で「インディアンの扱いをめぐっては、自分たちがまちがっていた」と、謝罪すらする。

先コロンブス期には数百万人はいたと推測されるインディアンも、一八九〇年代には二、三十万人ぐらいに激減していた。白人によるジェノサイドや、外から持ち込まれた伝染病の蔓延などが原因である。それに伴い、三百はあったといわれる部族語も、いまでは二十まで減少しているという。十九世紀末から連邦政府が「同化政策」を推進し、インディアンの子供たちにキリスト教と英語を強制したからだ。

そうした負の歴史を振り返り、白人がインディアンの部族語に敬意を払うハリウッド映画が出てきたことは、文化の多様性を声高に否定するトランプ政権下のアメリカにあって、大変意味あることだ。

ただし、この映画は白人の視点で描かれており、ここが到達点ではないだろう。インディアンの視点で、インディアンの部族語で作られる次世代の映画が期待される。

実は、そうした試みはすでに文学の世界では始まっており、余田真也によれば、部族語と英語のバイリンガルの作家が登場しているという。英語にメスクワキ語を交ぜた詩を書くレイ・ヤング・ベアという作家をとりあげて、余田はこう述べる。「高度な言語意識を武器に、複数の視点や多様な声で作品の輪郭を曖昧にし、主流言語(英語)の安定を脅かし、紋切型とはまるで違う先住民の姿を浮かびあがらせる」(「アメリカ先住民の文学」阿部珠理編『アメリカ先住民を知るための62章』明石書店」289-293)と。

(初出『すばる』2019年10月号、340−341頁)