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書評 サマンタ・シュウェブリン『救出の距離』

2025年01月22日 | 書評
農村呪う「謎」迫るサスペンス  
サマンタ・シュウェブリン『救出の距離』
越川芳明

 一種の「心理スリラー」ともいえるこの小説は、全編に不穏な雰囲気をただよわせている。

「わたし」は、アマンダという都会の女性で、いまだに動物の縫いぐるみが手離せない幼児と一緒に、大豆畑が広がるのどかな農村にバカンスにやってくる。

通常サスペンス・ドラマというのは、最後に「犯人」がわかり、犯罪のタネあかしがなされる。

いくら不可思議な出来事が世界にあふれていようとも、一つひとつの事件は、人間の知恵や科学的な捜査によって解決される。

しかし、現実はどうであろう。

この小説で、「わたし」は「謎」の有害物質に触れたらしく、田舎の救急診療所に運ばれ、薄れゆく意識のなかで数日間の出来事を回想している。

形式的に見れば、せん妄状態に陥った「わたし」と、「わたし」が見るダビ(九歳ぐらいの少年)の幻覚らしきものとの会話からなりたつ。

ダビは地元の農場で経理担当として働く女性カルラの子だ。

「わたし」がカルラから聞いた話によれば、ダビは六年前に汚染された小川の水に触れたために瀕死の状態に陥り、そのときは命拾いしたものの、頬や口のまわり、体じゅうに染みなどの障害が残ったという。

しかし、不穏なのは、ベッドに横たわる「わたし」に向かって、「虫を、虫に似たものを見つけて、そいつらが最初にきみの体に入りこんだのはいつか、正確につきとめなきゃならない」と語る、少年の大人びた口調のほうだ。

「わたし」はこの村で障害や奇形を抱えた大勢の子どもたちを目撃するが、果たしてダビが言う「この十年間、村を呪いつづけてきたもの」とは何なのか?
 
この小説はエドガー・アラン・ポウ以来の恐怖(ゴシック)小説の伝統にのっとり、「わたし」というあやふやな視点(「信頼できない語り手」)を最後まで貫きとおす。

そうすることで、農薬や除草剤が人間や動物にもたらす脅威を、未解決のサスペンス小説に仕立てた傑作である。
『東京新聞』2024・10・26

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