越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

ファビオ・ヴィスコリオージ 『モンブラン』

2018年10月20日 | 書評

「謎」を詰め込んだ「スーツケース」
ファビオ・ヴィスコリオージ『モンブラン』 
越川芳明 
 
 作家自身を襲ったある出来事が小説の題材になっている。そういう意味では、「ミニマルな宇宙」を書いていると見えなくもない。
 語り手の「僕」は、三十一歳のときに突然、両親を失くしてしまう。フランスとイタリアの国境に位置する「モンブラン」のトンネル内で、火災事故に巻き込まれたらしい。 

 突然、「孤児」になってしまった「僕」は、両親を巻き込んだトンネル事故を追いかける。何の前触れもなく悲劇はやってきたように感じられるが、果たしてその前兆がなかったのかどうか? 事故当日(一九九「九年三月二十四日」のテレビニュースの映像はもちろん、三十九名の死者を出すことになった事故に関するデータを片っ端から集め始める。その資料ファイルは、なんと六十五巻に、資料ナンバーは4559にまで膨れあがる。だが、事件の真相は「探偵小説のように謎めいた展開」を見せていく。
 
 「僕」は、十年間、トンネル事故の真相を探求した結果、ある意味で両親の「墓碑銘」というべき「文学的な記録」を残す。それが本書である。「文学的な」と称するわけは、そのエクリチュールにある。

 この「記録」はいくつもの短い断章をつなぎあわせたものだが、一つひとつの断章にはいろいろな「謎」が埋め込まれている。たとえば、両親の葬儀は地域の教会で行われるが、そこで流れるBGMは「僕」がダビングしておいたジャンゴ・ラインハルトの「雲」という曲だったという。ジャンゴ・ラインハルトといえば、知る人ぞ知るジプシーギタの名手である。だが、なぜそのスウィングするジプシージャズを葬儀の曲に選んだのだろうか。「僕」はまるで事実をシンプルに告げただけだというかのように、何の説明も加えない。「僕」が両親の悲劇にまつわる「謎」を追求するように、読者も小説に埋め込まれたいくつもの「謎」について考えざるをえない。

 「人は特殊な状況に置かれると、実際にはなんの関係のないもの同士に相関関係を見出して解釈したくなるようだ」(42ページ⇦ゲラでトル)とあるように、やがて「僕」は何を見ても「モンブラン」の事故と結びつけて考えてしまう。「僕」は「モンブラン」に呪縛され、パラノイア(偏執症)患者みたいに、「実際、モンブランはどこでも僕についてきた」と記すまでになる。

 さらに、事件の「謎」を追求しているうちに、「僕」はメランコリーに陥る。胸部に痛みを覚えて、循環器内科の診療所を訪れる。そんな場違いな場所で、まともな診断をしてもらえることもなく、「僕」は自分の失望を描く代わりに、診察室にかかっている絵画にさりげなく触れるだけだ。

 「医師の左側にはヴァザルリのポスター、反対側にはマティスの複製画ーーちなみにそれは画家一九〇四年に発表したエポックメーキング的作品『豪奢、静寂、逸楽』だったーーがかかっていた」と。

 ここにも「謎」が埋め込まれている。ヴァザルリのポスターとマティスの絵画である。私(筆者)が少しだけやってみた「謎解き」によれば、ヴァザルリは一九三〇年代に幾何学的な抽象性を追求したハンガリー系フランス人のアーティスト。六十年代にアメリカで「オプアートの先駆者」として見出されている。理知的な計算にもとづき、錯視効果をもたらす抽象画に特徴があるようだ。
 
 一方、マティスの作品は「野獣派(ルビ:フォーヴィズム)」の出発点とも言われるものだが、一九〇四年に南フランスの保養地コート・ダジュールで製作されている。太陽が燦々と輝く海岸リゾートで楽しむ人々を多彩な原色で描いている。ついでに言えば、その絵画のタイトルは、ボードレールの『悪の華』の一節「旅への誘い」から取られているらしいが、ボードレールは「かの国にては、ものみなは秩序と美、豪奢、静けさ、はた快楽」(堀口大學訳)と書いたが、マティスは最後の部分だけを「引用」して、なぜか「秩序と美」は排除している。それはさらに追求すべき「謎」だ。いずれにしても、診療所に飾ってあった二つのアート作品は、「僕」の暗く混乱した内面のメランコリーとは正反対な世界を表現していると言えそうだ。

 そんなメランコリーを癒してくれるのは、文学にほかならない。というのも、「僕」に言わせれば、真に優れた文学は現実の相反する二面性を映し出し、多義的な解釈を許すからで、それによって自分を見つめ直す機会が得られるからだ。

 「僕」のお気に入りの文学作品は多国籍にわたっている。ボルヘス、ジョルジュ・ペレック、レーモン・ルーセル、ルイス・キャロル、カフカ、ペソア、ポー、ジャック・ロンドン、ジャック・ケルアック、フィッツジェラルド、小林一茶など・・・。

 中でも、注目すべきはスペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスであり、その名前は二度登場する。「持ち運びができるスーツケースのように作品を軽量化するというアイディア」こそ、ビラ=マタスが「大切にした精神」だと述べる。いうまでもなく、ビラ=マタスは『ポータブル文学小史』(一九八五年)で、マルセル・デュシャン、マン・レイ、ベンヤミンなどを「ポータブルなもの」を偏愛した作家として取りあげている。

 ファビオ・ヴィスコリオージの「小宇宙」を扱った、この小ぶりな作品は、いわば「ポータブル性」を追求した「スーツケース」のような小説の実例なのだ。

 「スーツケース」の中に詰め込まれた「謎」は、音楽や文学、芸術、映画、スポーツなどにまつわる固有名詞だが、それらは「僕」の哲学(「小説同様、人生にはつねに笑いと涙が混在する」を暗示するようになっている。しかも、私が一部の箇所で試しにしてみたように、それらの「謎」をリンク機能でデジタル的に追いかけていけば、果てしなく大きな世界を旅することができる。一個のスーツケースを持って大きな宇宙を旅するのは、読者なのだ。(『図書新聞』2018年11月?日号)


書評 今福龍太『ハーフ・ブリード』

2017年12月22日 | 書評

絶望を希望に反転する思想 
今福龍太『ハーフ・ブリード』
越川芳明
 
 メキシコで頻繁に使われる独特なスペイン語表現で、直訳すれば「犯された女の息子」を意味する罵倒語「イホ・デ・チンガーダ(こんちくしょう)!」がある。
 その語がメキシコ人の神話的な起源にかかわるということは、注目に値する。十六世紀のスペイン人征服者によるインディオ女性の「凌辱」から生まれた「私生児」というルーツ。それは自分ではどうしようもない過去の「恥辱」である。
 通常「混血児」を意味する「ハーフ・ブリード」とは、そうした理不尽な「恥辱」を抱えて生きている人たちのことだ。その中には曖昧な性の境界地帯に生きる同性愛者やトランスジェンダーの人たちも含まれる。
 アメリカに渡ったメキシコ人は「チカーノ」と呼ばれ、トランプ大統領の支持者たちを代表とする白人社会で、さらなる差別や障害に遭い、出口のない「閉塞感」に駆り立てられる。
 本書は、あえてそうした逆境を引き受け、「自由」に向けて血のにじむような意識変革を成し遂げたチカーノ詩人たちの思想を、著者の浩瀚な知識に基づいて、熱くかつ詳細に語った優れた研究書である。
 著者は「絶望」を「希望」に反転させるダイナミックなチカーノの思想を長い年月をかけて追い求めてきた。先人の詩人や思想家の本を何度も読み返し、自らが社会の最底辺の側に立って行動することで、おのれの思想を鍛え直してきた。
 チカーノ運動の第一世代のアルリスタから始まり、南西部の大地に根を下ろした抵抗のレスビアン詩人アンサルドゥーアや、国境地帯の文化の多層性を多様な仮面と声で例証したゴメス=ペーニャ、監獄詩人のサンティアゴ・バカ、ベケット劇のスペシャリストで監獄俳優のリック・クルーシー、根気よく国境の壁の写真を撮り続ける写真家のギリェルモ・ガリンドなど、大勢の一線級のチカーノ・アーティストたちが出てくる。
 中でも、著者によって特権的に「きみ」と呼びかけられる詩人のアルフレード・アルテアガは良き先人として、ちょうど地獄めぐりをするダンテのための案内人ベアトリーチェの役割を果たす。
 「思想には羽が必要である」(p.73←ゲラでトル)と、著者はいう。本書にはたくさんの優れたチカーノ詩が訳出されている。それらが強靭なチカーノ思想を軽やかに空高く飛翔させる「羽」であることは言うまでもない。

(『日経新聞』2017年11月25日朝刊に、若干、手を入れました。)

書評 若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』

2017年12月22日 | 書評
若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』 越川芳明  冬でもめったに気温が二十度以下にはならない常夏キューバ。二〇一五年の春にアメリカとの国交を回復して以来、欧米の観光客で賑わっている。  ハバナには、世界中のどこに行っても見られないものが二つある。一つは、一九五〇年代のアメリカ製クラシックカーが今なお健在なことだ。もちろん、エンジンや内装は改造されているが、ボディは元のままだ。  もう一つは、旧市街地から何キロも続く海岸通り。日が落ちる頃には、住民たちが浜風にあたりに散歩に訪れる。この海岸通りには、世界中の観光地にあるスターバックスやマクドナルドの建物がない。まだ「新自由主義」に汚染されていない「聖域」に欧米の観光客も憧れるのかもしれない。  ハバナをめぐるこの旅日記にも、海岸通りが出てくる。著者は言う。「この景色は、なぜぼくをこんなにも素敵な気分にしてくれるんだろう?」と。ふと著者は広告の看板がないことに気づく。東京やニューヨークは広告だらけで、それによって「必要のないものも、持ってないないと不幸だ」といった、物質主義の価値観を無意識のうちに押しつけられる。  風景はそこにあっても、見る人の心の有り様によって、映る姿が違ってくる。著者は、「広告の看板がなくて、修理しまくったクラシックカーが走っている、この風景はほとんどユーモアに近い強い意志だ」と言いはなつ。そこに解放感の笑いがこみ上げてくる。  ハバナ湾のカバーニャ要塞や革命広場、コッペリア・アイスクリーム店などハバナの名所を精力的に歩きまわる。だが、実は、著者が自分に向かって行う「内省(つぶやき)」にこそ、本書の真骨頂がある。とりわけ、亡くなったばかりの父親をめぐる感慨は読者の胸を打つ。 「亡くなって遠くに行ってしまうのかと思っていたが、不思議なことにこの世界に親父が充満しているのだ」と発見する。スケジュールに追われる日常を振り返るためにこそ、わざわざ遠いキューバに旅したとも思えるほどに、誠実で自虐的な言葉に溢れた好著だ。

書評 木村哲也『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』

2017年12月22日 | 書評
愚直な行動力、あふれる熱い詩情 
木村哲也『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』
越川芳明 

  一九九〇年代半ばごろから十年以上にわたって、東村山市の多磨全生園をはじめ、全国のハンセン病療養所を訪ねてハンセン病者の詩人たちにインタビューした。これは、その「探訪記」であり「聞き語り」である。

 一九五〇年代前半に、詩人の大江満雄が編集に尽力した『いのちの芽』という、ハンセン病者たちの詩の詞華集(ルビ:アンソロジー)がある。著者が訪ねたのはその詞華集に作品を寄せた、知られざる詩人たちである。大江がハンセン病療養所の人々にどのような影響を与えたのか、大江とハンセン病者との間に、どのような交流があったのか、聞いてまわる。

 かつて『「忘れられた日本人」の舞台を旅するーー宮本常一の軌跡』(河出書房新社)でも、著者の愚直なまでの行動力と、淡々とした筆づかいの中にふとのぞく熱い詩情に魅せられたが、本書でも僕の期待は裏切られなかった。現在の「忘れられた日本人」とも言うべきハンセン病者の文芸活動に焦点をあてて、それを歴史に刻んでおこうという姿勢に心打たれる。

 著者と大江満雄との関係についても触れておくべきだろう。著者は、中学生の頃に一度この詩人にあっているという。そのとき、「老人の性」という特集を組んでいた雑誌を差し出される。大江がそこに書いていたものは、ハンセン病療養所に暮らす女性との対話だった。著者は、自分を子供扱いしなかった大江に強烈な印象を受ける。大江の死後、絶版で読めなくなっていた大江の著作集の刊行に奔走し、『大江満雄集 詩と評論』(思想の科学社)の編者として名前を連ねることになる。さらに、ハンセン病をめぐる大江の文章を集めて、『癩者の憲章ーー大江満雄ハンセン病集』(大月書店)を編纂した。ここには、たった一度の出会いで強烈な印象を残した大江にたいする、著者の常に変わらぬ熱意と敬意がうかがわれる。
 
 本書では、知られざる詩人たちの手になる多くの優れた詩が、大江の評とともに、紹介されている。ここで取りあげられなかったならば、おそらく一般の目に触れることはなかったに違いない、いずれも選り抜きの、社会性と隠喩表現に富んだ詩ばかりである。

 中でも、瀬戸内海の長島愛生園の小島幸二(本名は近藤宏一)という、盲目の詩人は忘れがたい。盲目というハンデキャップに加えて、指先が知覚麻痺になり、唯一の残された舌先で点字を読むのである。

「唇で頁をくると ふっと匂うしみの匂い/舌先にとけこむ ほろ苦い味/点 点 点/
・・・・・・・・・・・・点は文字となり/文字は言葉となって流れる」

 大江はこの盲目詩人の作品を読んで「詩人というものは盲人になるとき、はっきりするとおもいます。一流の詩人でも、このような詩人に学ばねばならぬとおもいます」と語った。それにたいして、著者はこう付け加える。「大江が舌で点字を読むことを教え、近藤さんが舌読を身につけ、それを詩に表現し、今度は大江の心を動かす。この相互の響きあいが、無言のうちにおこなわれていたのである」

 著者が草津の栗生楽泉園で面会した亡命ロシア人の子トロチェフも忘れがたい。ロシア革命から逃れてきたロシア人貴族の二世という数奇な生まれと、ハンセン病を発症して以来、目覚めたという詩作をめぐって、著者はこう言う。「この世に住む人びとを単色で眺める、というのとは違ったものの見方を教えてくれる」と。

 多様な人間の存在と生き方を認めようとする姿勢は、本書全体に反映されている。ともすれば、「絶望と死」というステレオタイプなレッテルを貼られやすいハンセン病者の、様々な「個性」が浮き彫りにされているのだ。

 さらに、一般読者にとっては知られざる事実の数々が披露される。例えば、戦後間もなく、米国で発見された特効薬プロミンが日本にも入ってきて、ハンセン病は不治の病ではなくなったが、それでも偏見と隔離政策はなくならなかった。とはいえ、ハンセン病者への理解者もいた。例えば、一九五三年から草津の栗生楽泉園で患者たちの自主的な活動として「教養講座」が開設され、スポーツや芸術や医学をめぐって、鶴見俊輔(哲学)、佐藤忠男(映画)、大西巨人(作家)、山本健吉(文芸評論)らが講演を行なっている。

そうした文化人の中でも、大江満雄の関与はひときわ目立つ。全国のハンセン病療養所を訪れて、詩の指導にあたったほか、各療養所で発行する同人誌の詩の選者になったりした。大江は社会常識にとらわれなかったらしい。患者に対して、隔離政策も何のその平気で彼らの懐に入っていった。患者の書く詩に対しても、絶望や死をめぐる作品でなく、社会性のある未来に向かう詩を奨励した。

 大江自身には、「癩者の憲章」という素晴らしい詩がある。

「ぼくは抵抗します。/癩菌の植民地化に。(中略)ぼくは憎悪の中の愛です。/癩菌よ癩民族のために栄よと非癩者を憎しみながら、/その滅亡を、ひそかに祈っている少年です。」

 最後に、タイトルの「来者」とは、大江満雄の造語であるという。「ハンセン病」という言い換えは、かつての「らい病」への差別を忘却させることになりかねない。そう考え、「過去に負の存在とされた「癩者」を、私たちに未来を啓示する「来るべき者」と、読み替える方法をとったのだ。著者はその大江の詩人らしい読み替えを再利用したというわけである。

 先ごろ、政府は隔離政策という「負の歴史」を後世に伝えるために、全国のハンセン病療養所の、老朽化が進んでいる施設を緊急に補修工事することを決めた。

 本書は、ハンセン病者の詩人の紹介という体裁をとっているが、実は、著者自身が自負するように「知られざる戦後史、文学史、社会運動史」の優れた実戦の書なのである。

(『図書新聞』2017年12月9日号)


書評 西村賢太『芝公園六角堂跡』  

2017年05月09日 | 書評

 

落伍者の流儀  西村賢太『芝公園六角堂跡』  

越川芳明

 

 「落伍者には、落伍者の流儀がある。結句は、行動するより他に取るべき方途はないのである」(72)

 作家が自虐のユーモアを込めて「低能の中卒」(178-79)と称する主人公は、あれこれ悩んだ末に、そう覚悟する。

 表題作「芝公園六角堂跡」から始まり、「終われなかった夜の彼方で」「深更の巡礼」「十二月に泣く」と続く連作集だ。時間的には2015年の、2月から12月までの1年間を扱い、等身大の主人公に仮託して、作家自身の内面を掘り下げる。

 テーマと文体の両面から見ていこう。

 まずは「初心にかえる」という全四作を貫くテーマから。北町貫太は、いま48歳にならんとしている。29歳のとき以来、私小説作家の藤澤清造(ともに旧字体)の「歿後弟子」を自称し、藤澤の作品を唯一の心の支えにして生きてきた。だが、最近は、そのことを忘れがちになっているようだ。

 ちなみに、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の中に、次のような一節がある。

「彼はこの画家の中に誰も知らない彼を発見した。のみならず彼自身も知らずにいた彼の魂を発見した」と。

 「或る阿呆の一生」の主人公と画家の関係は、北町貫太と藤澤清造の関係にそっくり当てはまる。なぜなら、人生の「落伍者」であるのを自覚している北町貫太にとって、藤澤の作品こそが「救いの神」(59)であり、「泉下のその人に認めてもらう為だけに書く意慾」(54)を持ってきたからだ。誰も知らない藤澤の素晴らしさを「発見」して以来、所詮、「死者への虚しいーーあくまでも虚しい押しかけ師事に他ならない」(180)と知りつつ、能登の菩提寺で師匠の月命日の供養を欠かさず続けてきた。

 そんな「落伍者」が、あろうことか、数年前に、最高に栄えある文学賞を受賞。それにより一気に「虚名」があがり、テレビ出演のアルバイトも舞い込むようになる。少年時代にひたすら憧れていた有名歌手とも、親しい付き合いをしてもらえるようになる。

 だが、北町貫太は、何かがおかしいぞ、と自覚する。「自身の出発点たる思いの意識がいつか薄いものになってゆき、頭の片隅ではその不手際を認識しつつも、立ち止まって、つくづく省みるまでには至っていなかったのだ」(79)

 要するに、「何んの為に書いているかと云う、肝心の根本的な部分を見失っていた」(70)と気づき、「野暮な初一念に戻」る(179)決心をくだすのである。

 法哲学者の土屋恵一郎によれば、「初心忘れるべからず」という名言を日本人で最初に吐いたのは、能役者の世阿弥だという(『世阿弥の言葉』)。その意味は、現代とは少し違っていて、世阿弥は私たちが生涯において三度、「初心にかえる」必要性と向き合わねばならないと説いた。私たちは青年期、中年期、老年期にそれぞれに異なる身体的、精神的な課題を突きつけられるからだ。

 土屋は青年期の「初心」について、『風姿花伝』の言葉を引く。

「ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気など、すぐに消えてしまうのに、それも知らないで、いい気になっていることほど、愚かなことはない)(『世阿弥の言葉』112)

 「新しさはいつでも次の新しさに取って代わられる。新しさゆえに注目を集める時は、「初心」の時である」(113)。土屋はそう解説し、続いて中年期、老年期の「初心」について述べるのだが、ここでは割愛する。

 北町貫太は、芝公園のホテルの一角で開かれた人気歌手のライブに「ご招待」される。世間的に見れば、作家先生として順風満帆である。だが、会場に着いて、なぜか彼は近くの公園の方には背を向けている。そこは、かつて敬愛する作家が野垂れ死にした場所であり、見て見ぬふりをしているのだ。

 年齢的には中年期に達しているが、作家としてはまだ「新人」の部類にすぎない。いっときだけの珍しさで花を咲かせても仕方がない。北町貫太はそのことに気づくのだ。

「やはり無意味な交遊、華やかな思いなぞは遠慮なく壊してでも、彼は野暮な初一念に戻りたいのである」(179)。

 西村賢太の文体についても触れておきたい。確かに、偽悪的で自虐的な語り口が目立つ。「彼は所詮、わけの分からぬ五流のゴキブリ作家なのだ。/何しろ性犯罪者の倅(ルビ:せがれ)である。おまけに人並みの努力は何一つできなかった、学歴社会の真の落伍者である上、正規の職歴も持たぬ怠惰な無用の長物である」(70)。

 だが、この調子で突き進むと思いきや、たくさんの異名を有するポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアばりの「多重人格」ぶりを発揮するのである。

 例えば、作家は愚者であり賢者でもあるような両義的なキャラクターとして北町貫太を創造する。性格が病的に誇り高い一方、根の稟性(ひんせい)がかなり下劣であるとか、傲然と行動するくせに根が気弱な後悔体質でできていているとか、陰気な一方、根が目に余る調子こきにもできているとか・・・。そのように、たった一人の北町貫太の中にたくさんの周縁に追いやられた「他者」の声をそそぎ込み、それを文体に反映させる。「私小説」でありながら、ラディカルで斬新な印象を受けるのは、そのせいだ。

 言い換えれば、それは「演技者」としての自覚とも結びつく。北町貫太は、複数の人間を演じる謎の存在なのだ。「五十年前の田舎者」のような、みすぼらしい「ユニフォーム」を身にまとっているが、ただの汚い身なりの浮浪者ではない。田中英光、藤澤清造、川崎長太郎らの、私叔する「私小説書き」たちの心意気に倣いつつ、作品に登場する主人公のダサいイメージを壊さないように、わざと「ダメ人間」を演じているのだ。

 かくして、作家は次なる「初心」のときが来るまで、「私小説」という形式をこの作家でしかできない仕方で鍛え直す。まるでかつてのヒット曲を、声の出し方を工夫して歌い続ける有名歌手のように。それが「落伍者の流儀」なのだ。(了)

 (『新潮』2017年6月号、pp.248-249)

 

 

 

 

 


書評 四方田犬彦『署名はカリガリーー大正時代の映画と前衛主義』  

2017年04月11日 | 書評

 

ハイブリッドな工夫を凝らした啓蒙書 

四方田犬彦『署名はカリガリーー大正時代の映画と前衛主義』

越川芳明

大正期(1910年代ー20年代)に日本に現れた、映画と演劇をシンクロさせて上演する独特なスペクタル形式を「連鎖劇」と呼ぶが、本書は、複数のテクストを機能的にハイブリッドした一種の「連鎖劇」だ。  

例によって「四方田節」としか名付けようのない、個人的な視座に立った饒舌で軽快な語りに導かれてページを括っているうちに、私たちはジェットコースータに乗ったかのように、めくるめく別世界へと旅している。  

そうした語りの方法を、著者自身は「迂回のエクリチュール」と告白している。何のことはない、本書自体がポストモダンの「メタフィクション(入れ子細工)」の実践の書だと思えばよい。  

とはいえ、難解な研究書ではない。大正期の日本に異常発生した前衛芸術(映画と文学)を題材にしていて、作家周辺のゴシップネタを挟むなど、一流の芸人顔負けのサーヴィス精神が旺盛だ。  

例えば、一風変わった芸術家肌の女子大生に導かれて、谷崎潤一郎の『痴人の愛』のモデルと思しき老女と会うくだりはワクワクする。「和嶋せい」という名の、この女性は谷崎の妻千代の実妹であり、一時は愛人として作家と同棲もしていただけでなく、日本映画草創期の「女優」(葉山三千子)でもあったという。これだけでも、読者が思わず身を乗り出す「物語」でないだろうか。 

全編は三部からなり、奇しくも十九世紀末生まれの、四人の小説家や映画監督(谷崎潤一郎、大泉黒石、溝口健二、衣笠貞之助)が俎上にあげられている。文章の端々に偶像破壊の意図が見え隠れする。従来の固定的な作家/監督像を打ち壊し、もう一つの作家/監督像を提示しようとする強い意思に貫かれているのだ。  

例えば、王朝文学の旗手の谷崎は、ドイツ表現主義の映画に魅せられた野心的な映画人として、あるいは、ぐうたらな浮浪者を主人公にした初期チャップリンの反市民的な映画に魅せられた映画人として、読者の前に立ち現れてくる。身分違いの恋の破滅や女性を社会主義的なリアリズムで描くことに定評がある溝口健二は、実験精神に満ちた映画人として浮かびあがる。  

いうまでもなく、ドイツ表現主義の傑作『カリガリ博士』は、夢遊病者を扱い、人間の「不安」や「恐怖」や「悪夢」の表象ーーデフォルメされて歪んだ舞台装置、黒白の衣装や化粧ーーが散りばめられている。この作品に代表されるアヴァンギャルドな作品を生み出した美学運動は、文学、音楽、絵画のみならず、様々な分野にも及んだが、著者によれば、新しいモノ好きの大正モダニスト映画人もいち早くそれに呼応したという。  

本書の白眉は、四人の作家や監督の残した前衛的な作品についての丹念な分析にある。それぞれ、「『人面疽』を読む」、「『血と霊』を読む」、「『狂った一頁』を観る」と題されているセクションがそれだ。内外の先行研究はもちろん、当時の映画評の類の小さな文献まで渉猟して、比較検討しながら結論を導き出す。ここは映画研究者の見本である。  

『人面疽』は谷崎の幻の映画の原作。怪奇小説の様相を帯びた、「ホフマンやポーに耽溺する悪魔主義的な心身小説家」の前衛作品だ。人面疽というのは、聞き慣れない言葉だが、「人間の腹部や膝に人間の顔に酷似した不気味な腫瘍が生じ、モノを言ったり、寄生主に向かって要求をするという病気」だそうだ。もちろん、これは架空の病気だが、そうした病気に取り憑かれた初期の谷崎のゴシックな想像力は、ただの倒錯的なフェティシズムではなく、秩序転覆の「政治性」も帯びていたに違いない。  

大泉黒石は、ロシア人の父と日本人の母との間に生まれた混血作家。孤児としての流謫の生を送った。著者は、長崎の「支那人」居留地を舞台にした犯罪小説『血と霊』を取りあげ、作家の異邦人としての周縁性に焦点を当て、「のがれがたき宿命への洞察とそれを語ろうとする黒石の情熱は・・・ホフマンには、とうてい及びもつかないものであった」と、高く評価する。

とりわけ秀逸なのは、衣笠貞之助による実験映画『狂った一頁』の分析だ。この作品は、精神病院を舞台にしたものだが、「監禁と隠蔽を旨とする近代社会への異議申し立て」であり、すぐれた「近代批判の芸術テクスト」として絶賛される。  

著者は、一瞬のきらめきを放つ前衛芸術の宿命を重々承知している。だが、それでも「挫折を余儀なくされた、前衛芸術の試みが万が一成功していたら・・・」といったSF的な想像へと読者を誘う。有り得たかもしれない作家の生(仮想世界)に思いを馳せながら、不朽の名作ではなく、一瞬のきらめきを放った作品に焦点を当てて、蕾から花を咲かせるのだ。本書の最大の功績は、僕のような一般読者に、谷崎の『人面疽』や、溝口/大泉の『血と霊』や、衣笠の『狂った一頁』といった、「小さな巨人」たちの魅力を知らしめたことだろう。そういう意味で、すぐれた啓蒙の書と言わなければならない。

(『図書新聞』2017年4月15日号、1面)


書評 柴崎友香『かわうそ堀怪談見習い』

2017年04月09日 | 書評

「死者の世界」を覗き込む  柴崎友香『かわうそ堀怪談見習い』

越川芳明  

エドガー・アラン・ポーの「黒猫」や「告げ口心臓」などがいい例だが、怪奇小説やゴシック小説の中には、霊感の強い、「信頼できない語り手」が登場するものがある。真実なのか、それともただの語り手の妄想なのかはっきり判別できない物語を提示することによって、作者は語り手の不安や恐怖を読者にも共通体験させようとするのだ。  

だが、「怪談(見習い)」を冠した本作の場合、語り手の「わたし」(谷崎友希=小説家)は、信頼できそうな語り手だ。「感情が乱高下するようなことは、日常生活でも、小説の書き方でも得意ではない」とか、恋愛も怪談も向いていない、と告白する。  

そういうわけで、語り手(=作者)は入れ子構造(伝聞形式)の語りを採用することになる。賢明にも、自分より霊感の強い人たちの言葉を「引用」するのだ。  

とはいえ、「わたし」自身も、通常「超常現象」と言われる事象に対して鋭い感性がないわけではない。中二の時に、友達と一緒に侵入した謎のマンションで目に見えない存在に気づいてから、「それまで暮らしていた世界と、別の世界との隙間みたいなところに」生きるようになったからだ。   

「隙間みたいなところ」とは、わたしたち生者が死者と出会うトポスに他ならない。「わたし」は現世を死者の視線で見ることができるので、「超常現象」に対しても、不安や恐怖を感じることなく、平静でいられるのだ。  

かくして、「隙間みたいなところ」ばかりが出てくるが、それは幽霊屋敷のようなおどろおどろしい場所ではなく、街の古本屋だったり公園だったり、漁村の古い家だったり都会の真ん中の奥まった路地だったり、ワケあり物件のアパートだったりビジネスホテルだったり、大阪環状線の電車の中だったり・・・。要するに、わたしたちにとって、身近な生活空間の中の「ちょっと違った世界」なのだ。  

それぞれが短い、数多くの物語の中で、「桜と宴」と題された作品は秀逸。「わたし」は、友人のたまみに誘われて商店街の桜見に出かけていく。そこで、ある会社員の若い女性に紹介され、彼女の「幽霊話」を聞く。彼女は中二の頃にいじめに遭い、安らぐ場所がないまま、環状線の電車に乗って過ごす。すると、自分と同じように電車から降りない人たちの存在に気づく。あるとき目をつけた上品な婦人を家まで追いかけ、そこで彼女は自分自身に死者の姿を見抜く能力があることを発見する。  

注目すべきは、その話を聞きながら、「わたし」が彼女の眼球にある「穴」を見つけることだ。その「穴」こそ、「どこか遠いところへつながっている暗闇」に通じる入口であり、「死者の世界」の換喩に他ならない。ポーとは違った語り口で、わたしたちのすぐ身近にある「死者の世界」を描いた洗練された「ゴシック小説」だ。

(初出『文學界』2017年5月号)  

 

 


書評 ポール・オースター『冬の日誌』

2017年04月06日 | 書評

 

「肉体」たちの記憶を語る   ポール・オースター『冬の日誌』

 越川芳明    

 著者は冒頭で本書を要約する、こんな言葉を発している。

「この肉体の中で生きるのがどんな感じだったか、吟味してみるのも悪くないんじゃないか。五感から得たデータのカタログ」と。  

 そう、「カタログ」と称するからには、退屈であろうとなかろうと、何から何まで一応網羅しなければならない。例えば、三歳半のとき、デパートで遊んでいて、左頰に長い釘が突き刺さって顔半分が引き裂かれたエピソードから始まり、初老の男の肉体が記憶しているこれまでの怪我や傷の数々。  

 「君」という二人称で、読者に語りかける記述方法に特徴がある。なぜ自分自身の過去について語るのに「私」でなく、「君」を主語にするのか。  

 もちろん、それは自分自身の過去の出来事を突き放して見つめるための創作上の工夫に違いない。だが本書のテーマ(身体の記憶カタログ)とも密接に関わっているはずだ。  

 著者が引き合いに出すイギリス作家ジェイムズ・ジョイスの逸話にヒントがあるかもしれない。ジョイスはパーティの席上で、ある貴婦人から、あの傑作の『ユリシーズ』を書いた手と握手させてくださいと言われ、「マダム、忘れてはいけません。この手は他にもたくさんのことをやってきたのです」と、答えたという。  

 私たちがこのエピソードから類推できるのは、本書の「君」が、たんに著者の過去の分身というより、むしろ、現在の著者とは別の生き物としての「肉体」たち、過去の様々な瞬間にいろんな反応を見せた「肉体」たちではないだろうか。  

 たんに執筆に取り組むだけでなく、自我意識に目覚めた三、四歳の頃から、性の虜になる思春期を経て、母の心臓発作による死や、著者の判断ミスによる交通事故で妻や娘を殺しかけた五〇代、そして老いを意識しだした六〇代まで、実に数々な事件や出来事に遭遇した無数の「肉体」たちの物語。

 それを掌編小説みたいに巧みに語ったものが本書である。 (「デーリー東北」2017年3月26日朝刊ほか)


書評 ハーパー・リー『さあ、見張りを立てよ』 

2017年04月04日 | 書評

 

50年代の差別問題を見つめる  ハーパー・リー『さあ、見張りを立てよ』 

越川芳明  

  米国南部では、十九世紀半ばの奴隷制廃止後も九十年近く、黒人を差別する人種隔離政策(「ジム・クロウ法」)がまかり通っていた。白人たちは、「血が汚れる」ことを恐れ、暴力で黒人の「人権」を押さえつけようとした。一九六三年、二人の黒人学生がケネディ大統領の後押しでアラバマ大学に入学登録しようとした時、ウォレス州知事(もちろん白人)は州兵を繰り出し、それを阻止しようした。

 この小説の舞台は、そうした公民権運動が激化する前夜、五〇年代の深南部アラバマだ。二十六歳の女主人公ジーンが二十年ぶりに南部に帰ってくる。いっときは、おてんば娘として今は亡き兄たちと楽しく過ごした過去の思い出にふけることができる。久しぶりに見る弁護士の老父も、株で大儲けして四十代で引退した「学のある変人」の叔父さんも、ズボンをはかない生粋の南部レディの叔母さんも、誰もが健在で、健全に見えた。だが、リビングルームで下劣な黒人差別パンフレットを見つけてから、彼女の牧歌的な世界が崩れ始める。絶対的な信頼と尊敬を寄せていた父が白人優越主義の団体のメンバーであることが発覚するからだ。

 社会の周縁に追いやられた「他者」の視点に立つことは、易しいことではない。だが、この女主人公は、子供の頃から観察力が鋭く、そうしたことができたようだ。黒人女性たちがわざと「無知」を装う「知恵」を持っているのを見抜いていたのだ。黒人のメイドは立派な英語をしゃべれるのに、「客人の前では動詞を落として黒人っぽくしゃべったりするのだ」と。

 文学的価値では、同じ南部の白人作家であるフォークナーやオコナーの諸作品に敵(かな)わないのに、同じ作者による『アラバマ物語』(1960年)がこれまで圧倒的な人気を誇ってきたのはなぜか。主人公の女の子が「なぜ差別がなくならないの?」という根源的な問いを大人の世界に投げかけ、差別を決して是認しなかったからだ。

 だが、もう一つの『アラマバ物語』というべき本書は、差別問題をめぐって主人公を諭す叔父の理屈に見られるように、やや後退してしまっている印象を受ける。

 今でも科学的な根拠の欠けた、人種偏見を抱いている人が大勢いる。だから、二つの『アラバマ物語』の果たすべき使命はまだ終わっていない。

(『日経新聞』2017年3月11日朝刊読書欄) 


書評 西村賢太『東京者がたり』

2015年11月06日 | 書評

自虐のユーモアの下に隠された冥界の匂い

西村賢太『東京者がたり』

越川芳明

 後楽園球場、隅田川、蒲田で始まり、芝公園でおわる「目次」に騙されてはいけない。「はじめに」という章で、著者自身が「極私的な東京方眼図」と称しているように、これは「東京者」(オシャレな「東京人」ではない)である著者が、田舎者とは違った独特の視点とスタイルで、自分のかかわった土地や人間について語ったものだ。

 十八歳のときに上京してきた純粋に田舎者である私は、この「随筆」を面白く読んだ。その理由について書こう。一つ目は、著者が「事大主義」を毛嫌いしているのがよく分かるからである。たとえば、後楽園球場が好きだという。少年時代に日ハムファイターズのファンだったからだ。野武士のような無骨な選手たちが身につけたダサいユニフォーム姿に微笑ましい滑稽さを感じたのだという。すでに自分だけの有望選手を贔屓する小さな「旦那」である。

 私が自分の小遣いで初めて入った野球場はかつて南千住にあった東京球場である。カクテル光線の明るさは後楽園以上と言われ、確かに芝生がまぶしく光ってみえた。小山、木樽、成田の三本柱が牽引する「ロッテオリオンズ」の本拠地だ。だから巨人や阪神が好きではない著者の嗜好はよく分かる。同じ流れで、著者は都区で言えば、白金台とか表参道とか渋谷とか、きらびやかな町をまったく受け付けない。田舎者が、粋な町としてそこにたむろするからだ。

 二つ目に面白いのは、これが一見東京探訪のかたちをとっているが、実は著者の文学修業のプロセスをかいま見せるものになっている点だ。江戸川区在住のころ、母のお伴で錦糸町でのショッピングについていった折りにご褒美に買ってもらった「プロ野球事典」から始まり、中学時代に見つけた横溝正史や江戸川乱歩のミステリ、十五歳で初めて一人暮らしをした鴬谷のラブホテル街の三畳間と神田神保町界隈の古本屋めぐり、長じて新宿花園町の高層マンションの「豚小屋」と田中英光の探求へとつづく。

 三つ目に面白いのは、著者の探訪がすでにこの世にない世界の復刻版であることだ。自意識過剰な自虐的なユーモアの陰で、その復刻版は侘しい死の世界に彩られている。冥界を訪れるダンテのように、著者は田中英光や藤澤清造など、遠い昔に物故した作家に惹かれ、先人との対話から創作のエネルギーを得ている。オシャレな場所とか生きている人間なんぞどうでもいいのである。

 『すばる』2015年12月号315 頁。


書評 今福龍太『ジェロニモたちの方舟』

2015年04月23日 | 書評

反逆者が精神を解放する 今福龍太『ジェロニモたちの方舟』

 越川芳明

砂漠の小さな茂みが人目につかないところで地下茎を伸ばしているように、世界には「抵抗思想」の見えない鉱脈が広がっている。著者は、世界の大海にうかぶ数々の小さな孤島をそうした鉱脈の一部(まさに、「氷山の一角」)と見たて、それらが海でつながっていると発想する。本書は、いわば抵抗思想の考古学的発掘作業だ。  

著者は一九世紀に米国が関わった二つの歴史的事件に着目する。「インディアン強制移住法」(一八三〇年)と「米西戦争」(一八九八年)だ。前者はジャクソン大統領ら民族浄化主義者たちが先住民という「内なる他者」を征服した後、「外なる他者」への侵略行為に踏み出した。米国の「欲望」の起源をそれらの事件が規定することになったという。  

「国家の天命」として、領土を拡張しようと米国のゆがんだ深層心理が繰り出す「暴力」の触手はハワイ、キューバ、中南米へと伸び、フィリピンやベトナムで殺戮(さつりく)を引き起こす。そして、今世紀のイラク戦争へとつづく。著者によれば、「インディアン戦争」は、まだ終わっていない。  だが、圧政に立ち向かうジェロニモたちも「群島」のようにあちこちに存在する。書名のジェロニモとは、米国政府軍に抵抗した先住民アパッチ族の勇敢な戦士。本書の試みは、そうした反逆者たちの亡霊を召喚し、それによって非人間的な経済的効率主義や軍事的な欲望(大陸的な縄張り意識)に対抗する、多様性の「海」や「群島」の思想を鼓舞することだ。  

まさにキューバの思想家ホセ・マルティの言葉、「思想は他者に奉仕するためにある」の実践だ。  

米国の諸制度に反対し、正しい人間のいる場所は「牢獄」であると言いきった19世紀の思想家H・D・ソローをはじめ、太平洋の思想家ハウオファ、フィリピンの詩人フランシアらが召喚される。これらの反逆者たちは、本書によって新たな生命を獲得し、私たちの硬直した精神を解放してくれる。

(『共同通信』2015.3)


書評 田中慎弥『宰相A』

2015年03月08日 | 書評

全体主義的国家のグロテスクな寓話ーー田中慎弥『宰相A』

越川芳明  

 「私」こと、Tが母の墓参りのためにO町を訪れる。小説家である「私」は、最近ネタが尽きており、約30年ぶりの墓参りを切っ掛けに浮上をはかろうという魂胆だ。  

  だが、「私」がOの駅に到着したとたんに、物語は一転して、パラレルワールドの世界に突入する。「私」が迷い込む世界は、もう一つの「日本」だ。  

  「私」が迷い込んだもう一つの「日本」は、先の大戦後に、アングロサクソン系のアメリカ人が占拠して、そのまま「日本国」を継承。公用語として自分たちの言語である英語を採用。それまで日本人だった者(モンゴロイド系)は、「旧日本人/先住民」として特別なゲットー(居住区)に押し込められたという。  

  このもう一つの「日本」の特徴は、次の三つだ。一つ目は、アングロサクソン系の日本人は皆、緑色の制服を着ている。「制服/軍服」の着用は、「日本人」の重要な義務の一つである。  

  制服と私服の対立がこの小説に、「善」と「悪」をめぐる二元論的思考という変奏を加える。三島由紀夫の自害(一九七〇年)と映画『ゴッドファーザー』(一九七二年)が小説の中で何度も言及されるが、三島の場合は、私服を捨てて軍服に着替えた例(軍人)として、『ゴッドファーザー』のマイケル(アル・パチーノ)は、逆に軍服を捨てて私服に着替えた者(マフィア)として好対照をなす。軍服による殺人は、「戦争」という大義ゆえに許容され、ときに「武勲」として称えられるが、私服での殺人は、マイケルの場合のように、悪辣な「犯罪」と見なされる。同じ殺人なのに、倫理的な観点からすると、その違いはどこにあるのか、とこの寓話は問う。  

  二つ目の特徴は、「民主主義」を政体の根幹に据えておきながら、このもう一つの「日本」のやっていることは、全体主義的な独裁である。個人の自由は許されず、芸術家や小説家も国家のための道具にすぎない。国家と関わりのない表現は「反民主主義」的な行為と見なされる。「旧日本人」でも、新生「日本」に忠誠と貢献を誓えば、「日本人」になることができる。その代表的な例が、この小説のタイトルにもなっている「宰相A」である。「日本」を作り出したアングロサクソン系の者たちは、国民の三分の二以上をなす「旧日本人」の反乱を怖れ、政府のトップに「旧日本人」のAを据えたのだ。もちろん、「宰相A」は傀儡(ルビ:かいらい)にすぎない。  

  三つ目は、アメリカと同盟を結んで、「平和のための戦争」をくり返す「好戦性」だ。「宰相A」は、「戦争こそ平和の何よりの基盤」とか、「戦争は平和の偉大なる母」とか、詭弁を弄する。そうした詭弁は、理解不能なまでにねじ曲げられて「宰相A」の所信表明となる。すなわち、「最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります」と。

  思えば、メイフラワー号に乗った清教徒(ルビ:ピューリタン)たちの「新大陸」への到来以来、アメリカは内外に敵を作りあげ、たえず戦争を仕掛けることで生き延びてきた国家である。ニューイングランドにいた先住民の虐殺を手始めに、イギリス、スペインなどのヨーロッパ勢に挑み、19世紀半ばにはメキシコを、冷戦時代にはソ連と東欧を、現代ではイスラム国を相手に・・・。国内でも、17世紀末に清教徒たちは「魔女狩り」に熱をあげる。その後、国内の黒人(奴隷制)、中国人(1882年の中国人排斥法)や日本人(1924年の排日移民法)をやり玉にあげ、1950年代初頭には「赤狩り」というもう一つの「魔女狩り」が生まれる。清教徒の「血」の中に、「浄化する(ピューリファイ)」というDNAがある限り、「異物」を排除しようとする欲望は消えない。  

  というわけで、登場人物の「宰相A」は、自身の英語へのコンプレックスゆえに小学生から英語を習わせようとしたり、国民の命や暮らしを守るために、憲法第9条を見直して、安全保障法制の整備をする、などと述べたりしている、どこかの首相(これもなぜかAだ)を容易に思い出させる。だから、これは現在の日本にまっすぐつながる怖くてグロテスクな「寓話」なのだ。  (『波』2015年3月号)


書評 柴崎友香『パノララ』

2015年03月08日 | 書評

バランスの悪い家族ーー 柴崎友香『パノララ』

 越川芳明  

 柴崎友香の芥川賞受賞作『春の庭』には、東京・世田谷の洋館が出てくる。かつて写真集になったこともあるというその水色の建物を、近所の古い賃貸アパートに住む主人公は「バランスが悪い」家だと感じる。「一見すると趣と歳月を感じる建物なのだが、しばらく眺めていると、屋根と壁とステンドグラスと塀と門と窓と、それぞれが別のところから寄せ集めたように見えてきた」

 本作『パノララ』にも、「バランスが悪い」家が登場する。いや、「バランスの悪さ」では、ずっと過激かもしれない。路地の奥まったところにあるそれは、三種類の構造物からなり、一つはコンクリートの三階建て、そのそばに黄色い木造二階建て、さらにそのそばには、赤い小屋が乗った鉄骨のガレージが、まるでそのつど思いつきで継ぎはぎされたみたいにつながっている。

 「それぞれの一階と二階がずれているし、壁が重なっているところも隙間があいているところもある。ブロックで遊んでいて同じ種類のが足りないから別の積み木で継ぎ足した、という感じ」 

 よく「名は体を表わす」というが、この場合は、「家は人を表わす」というべきか。というのも、「下北沢」という街をモデルにしたとおぼしき「S駅」から徒歩十五分の、この怪獣キメラみたいなへんてこな家には、「寄せ集め」みたいな家族が住んでいるからだ。  

 住人は父母と三人の子供(といっても、皆もう成人だ)。父・木村将春(ルビ:まさはる)は、小さな建設会社「木村興業」の社長、母・志乃田みすず(本名は正子)はベテラン女優。子供は上から文(ルビ:ふみ)、イチロー(壱千郎)、絵波で、母親がみすずであるのは同じだが、父親は三人とも違う。イチローの父は将春、文の父はみすずが将春と会う前に不倫関係を結んだらしい著名な演出家、絵波の父はイチローが四歳のときにみすずが家出して、一年ほど一緒に失踪していた男(正体不明)といった具合に。  

 いうまでもなく、この小説のテーマは、「家族とは何か」である。  

 語り手の「わたし」こと田中真紀子は、いま二十八歳で、関西から東京に出てきて六年になるという。小さな広告企画会社に勤めているが、不安定な非正規雇用者だ。だが、彼女にとって、もっと深刻なのは「過干渉」の母親の存在だ。  真紀子の母親は、ひとり娘のためによかれと思って、着るものから食事、就職、習い事と、なにごとにも口を挟む。その一方で、自分が聞きたくない娘の意見には、無反応を決め込む。娘は、一方的な母親の押しつけを優等生的に聞き入れることで、ストレスや不安を内に溜め込む。そうやってずるずると生きていると、いつまでも自立ができないし、主体的な選択もできない。  

 つねに相手の言動を気にして、頭の中で自分の言葉を反芻しているうちに、会話が終わってしまう。真紀子の優柔不断な態度が、この小説の自意識過剰な語りの文体に反映している。  

 たとえば、会社の中で、先輩にあたるかよ子さんに対して反論したくなったときも、「神経質とは言ってないしちょっと違うんじゃないかなと思ったが、うまく説明できそうになかったし、説明することをかよ子さんが望んでいないかもしれないから、言わなかった」

 万事、こんな具合なのである。真紀子は母だけでなく、他人に対しても積極的に態度を表明しないし、喜怒哀楽を表に出さない(出せない)。  

 物語は、真紀子がアパートの更新料が払えなくなり、さほど親しいわけでもないイチローの好意により、木村家の一室(ガレージの上に乗っかった赤い小屋)を安く貸してもらうことから始まる。  

 彼女は木村家というとんでもない「異世界」に入り込み、そこの住人との交流を通じて、徐々に自立する手だてを学ぶ。確かに、実家の父母とは違って、こちらの父・将春は冬でも暑いと言ってリビングで全裸になってしまうし、母・みすずはロケ撮影や舞台を理由に、まったく家に寄り付かない。天真爛漫というか、無頓着で気のおけない人たちだ。  

 一方、子供たちにしても、真紀子より二歳年上の文は、中学時代に自傷行為に走ったことがあるらしく、また、大学を出て入った会社も上司によるセクハラで辞めてしまい、その後、ほとんど家にいることになり、そのことに後ろめたさを感じているようだ。そのせいか、家族のために料理だけは力をこめて作る。そのくせ、料理を作った後は皆と一緒に食べずに、自室に閉じこもってしまう。真紀子はそんな文に親近感を持っているが、大学生の絵波は文とほとんど口をきかない。それどころか、文について「不幸顔しちゃって」と、嫌味なことばかり言う。イチローを除いて、木村家の住人はみな相当に「濃い」キャラクターばかりだ。  

 この小説の白眉は、木村家で暮らし始めてちょうど一年たったある土曜日、悪夢的な出来事がつづくその一日を、ちょうどドラッグでバッドトリップしたみたいに、真紀子が何度もくり返し経験してしまう、最後のほうの数十ページだろう。その日は、母が薬の過剰摂取をして、救急車で病院に運ばれたとの連絡が父からあり、病院に向かうために、S駅のホームで電車を待っていると、送りにきてくれていた絵波が彼女を逆恨みした若者によって線路に落とされてしまう。真紀子は、そんな同じ一日が繰り返し襲ってくるあいだ、そこから抜け出したいと思っているが、なかなか抜け出せない。  

 それは、真紀子にとっての「通過儀礼」というか、自立のための真の成人式なのかもしれない。木村家は、その「バランスの悪さ」によって真紀子を救う。「バランスの悪さ」というのは、逆にいえば不定形ということであり、フレクシブルに姿を変えられるということである。真紀子が実家からもどってくる(文は金沢へ引っ越しする)ことによって、木村の家族もキメラのごとく形を変えるのだろう。これが「正しい」という家族の形など、初めからないのである。そんなことを考えさせてくれる、バランスのいい小説だった。 (『文学界』2015年3月号)


書評 尾崎俊介『ホールデンの肖像』(新宿書房)

2015年03月08日 | 書評

「大衆文学読み解く眼力」ーー尾崎俊介『ホールデンの肖像 ペーパーバックからみるアメリカの読書文化』(新宿書房)

 越川芳明

 「ジャケット買い」と言えば、かつて音楽がレコードの形で売られていた時代に、カヴァージャケットの格好いいデザインや絵を見て、中身を聞かずに買うことを意味した。  

 著者はアメリカのペーパーバック(廉価版の紙表紙本)を「ジャケット買い」する収集癖があるようだ。そうした収集の合間に、『紙表紙の誘惑』という優れた研究書を上梓してしまった。  

 通常、学問の大道をゆく学者たちが目を向けたりしない、一見軽薄に見える分野(物語がワンパターンの「ハーレクィン・ロマンス」のような「大衆文学」)の歴史を丹念にひもとき、文学研究の盲点を突く。  

 本書には、大きく三つの柱がある。

 一、ペーパーバック(廉価版の紙表紙本)の出版史、二、イギリスから始まる「ロマンス」史、三、ブッククラブの歴史。  

 課題へのアプローチの仕方において立派な学者の本だが、それを記述するさいの視点は「上から目線」ではない。たとえば、専門家でない読者に向けて、ページの最下段に丁寧な脚注が付されていて、しかも文章がウィットに富んでいる。隅々まで気配りが効いているのだ。  

 どの論文やエッセイをとっても、謎解きのように話が展開する。中でも、本のタイトルにもなっている「ホールデンの肖像」というエッセイは、読み応えがある。ペーパーバック版の表紙に描かれた絵めぐる、人気作家サリンジャーと出版社の攻防を論じたものだが、この作家のこだわり(悪く言えば、変質者ぶり)がよくわかる。その他にも、「ハーレクィン・ロマンス」とフェミニズムとの戦いの歴史を丁寧に跡づけたエッセイや、テレビ番組「オプラ・ブッククラブ」に象徴される、文学を商売に変えるアメリカ的な「錬金術」を論じるものなど、まさに目から鱗が落ちるものばかり。  

 優れた著述家になくてはならない鋭い観察力や、借り物ではない知識がどのエッセイにもにじみ出ている。乾いた喉をうるおすグラス一杯の冷水のように、読後感が心地よい。 (『北海道新聞』2014年1月11日)


書評 目取真俊『目取真俊短編小説選集』1、2、3(影書房)

2014年08月07日 | 書評

「異臭」を放つ偉人たち 『目取真俊短篇小説選集』(1、2、3)影書房

 越川芳明   

  昨年の10月、すでに初冬の気配のするシカゴを訪れた。紅葉もほとんど散った寒々としたシカゴ大のキャンパスで日本文学を研究する人たちの集まりがあり、目取真俊の作品について話した。実のところ、余計なお世話だが、頭の柔らかいアメリカ人がいれば、目取真俊の作品を英語に翻訳してくれるように頼もうと思っていたのだった。  

  そのときすでに目取真俊の短篇選集は2巻刊行されており、その2冊を携えて会場に乗り込んだ。だが、アメリカ人研究者の意識の高さに驚かされた。「世界の警察」とうそぶき、弱小国の独裁者に武器を提供したり、民主化運動を押しつぶしたりしてきた自国の政府に批判的な研究者が多いせいだろうか、米軍基地のある沖縄で執筆する文学者への関心は高かった。しかも、同じパネルで「人類館事件」(演劇)についての発表をおこなった沖縄人四世カイル・イケダ氏(バーモント大助教)らが、すでに目取真を含めた、沖縄の作家や詩人たちの英訳に着手しており、それが間もなく刊行されるという。  

  このたび、3巻そろった短篇選集を通読してみて抱いた感想を述べておく。いくつもあるが、論点を3つに絞って話を進めるよう。  

      一つめは、いま述べた翻訳にかかわる問題だ。それは出版社をめぐるものと、翻訳技術をめぐるものとがある。出版社に関して言えば、イケダ氏らの行なっているような「沖縄文学」という括りだと、アメリカでは地域研究の一環と見なされて、出版社は割と探しやすいかもしれない。とはいえ、目取真は沖縄が生んだ優れた作家に違いないが、「沖縄文学」といった狭い括りの中に閉じ込めておくべき作家ではない。目取真作品の単独の翻訳が出れば、もっと広いコンテクストの中で、たとえばメキシコのボラーニョやトルコのパムクといった、他国のすぐれた作家たちと一緒に論じることができるようになるだろう。村上春樹を遥かにしのぐ作家が日本にまだいるということが、外国の文学者に分かるはずだ。だから、今回の選集を定本にして、まず目取真の短編集の英語訳を出してほしい、と述べた。  

     次に、方言の処理など、翻訳技術をめぐる難関もある、シマ言葉と呼ばれる「方言」と「標準語」が入り交じる目取真作品特有の難しさは、標準語だけで書かれた作家の比ではない。それだけに、イケダ氏らの訳している作品の一つが、「面影(*ルビ:うむかじ)と(*ルビ:とぅ)連れて(*ルビ:ちりてぃ)」だと聞いたとき、思わず笑みがこぼれてしまった。というのも、この作品は「魂込め(*ルビ:まぶいぐみ)」や「群蝶の木」などと共に、いち早く翻訳が出てほしいと願っていた作品だったからだ。  

    「面影と連れて」は、目取真にしてはめずらしく大人の女性を語り手に据えた小説である。しかも、家族や共同体から周縁に追いやられたその女性が「霊力(さー)」の高さを発揮する物語でもある(だからといって、「救われるいい話」とは限らないのだが・・・)。  

     この作品以外にも、「内海」や「帰郷」、「ブラジルおじい」などの中にも、神懸かりの能力を持ち、死者と交流する「霊力(*ルビ:せじ)」の高い人物が多く出てくる。それは、死者の霊が生者の間近にいる沖縄の文化土壌を文学にみごとに活かした例であり、「オキナワン・マジックリアリズム」と呼べるものだ。しかし、その一方で、目取真はブームとしての超能力、商売としてのユタに対しては釘を刺す。「オキナワン・ブック・レヴュー」という、スタニスラフ・レムの『完全な真空』ばりの、架空の書評集の体裁をとった「短編」によって、なにがなんでも沖縄万歳式の「沖縄ナショナリズム」や「大琉球時代への回帰」を風刺している。  

      二つめは、目取真俊の小説の魅力についてである。目取真の小説は、権力に虐げられた歴史を語る「叙事詩」と、リリカルな詩情に訴える「叙情詩」の魅力を併せもち、知と情に訴えてくる。辺野古への基地の移設問題を持ち出すまでもなく、いまやどんな片田舎の町でも、アメリカ主導のグロバリゼーションや、本土の政治権力や利権と分ちがたく結びついており、権力ピラミッドの最下層の人間がそうした権力の犠牲になっている。目取真は、そうしたことをただ指摘するだけでなく、その一方で、犠牲者がそうした障害をすり抜ける<エピファニー>の瞬間を提示する。たとえば、「伝令兵」という作品では、基地に駐留する米兵三人に追われる主人公が、沖縄戦のときに亡くなった沖縄の若者の浮遊する魂に救出される話だ。艦砲射撃の犠牲になった「鉄血勤皇隊」の「伝令兵」の魂がさまよっているという設定だが、この作品の言外の意味は、沖縄戦は終わっていないということだ。そうしたメッセージは、「水滴」や「魂込め」や「群蝶の木」など、かつて沖縄戦を経験した老人たちを主人公にした代表作にも見られるが、こちらは、あとを絶たない米兵による少女暴行事件、現代の基地問題と絡めたところが斬新である。   

     三つめは、優れた文学には必ず見られる逆説のレトリックが冴えわたっているということだ。「異臭」を放つ老人たちの「活躍」が目につき、しかも「異臭」は、特別な意味を帯びている。通常、小さな集落では、「異臭」を放つ変人たちは住民から白い目で見られ、排除される存在だが、目取真作品では、「異臭」は、彼らが「偉人」であることを表わす「聖痕」である。  

    「平和通りと名付けられた街を歩いて」の老女ウタは、痴呆症で失禁しても分からず、あたりに鼻をつく匂いを放つ。「群蝶の木」の老女ゴゼイは、何日も同じ着物を着っぱなしで、その異臭が遠く離れたところにも漂ってくる。「馬」に出てくる掘っ建て小屋に住むよそ者の老人は、「珊瑚の腐ったような」匂いのする髪を伸ばしている。「ブラジルおじいの酒」の老人は、「魚の腐ったようないやな匂いのするシャツ」を着ている。共同体の周縁に追いやられたそうした老女や老人が、異常とも言える厳戒体勢をかいくぐって、過激派もなし得ないような「革命的な行為」をおこなったり、共同体のご都合主義的な「秩序」を撹乱したり、自分を理解する数少ない少年を助けたり、貴重な知恵を授けたりするのだ。  ついでに付け加えておけば、少年のホモセクシュアリティ(「魚群記」「赤い椰子の葉」「黒い蛇」「水滴」など)も、いま述べた痴呆症患者、狂人(*ルビ:ふりむん)、娼婦、よそ者など、社会の底辺で生きる主人公たちの放つ「異臭」と同様に、逆説的な意味を帯びる。  

      今回の短篇選集は、これまで未収録作品も収めており、目取真俊のファンにはたまらない企画だ。影書房からは、すでに『虹の鳥』と『目の奥の森』といった挑発的な長編小説も刊行されており、これで目取真作品はすべて読めるようになった。まとも読書人が、「沖縄文学」という括りではなく、単独で目取真作品と向かい合える時が来たことを率直に喜びたい。 (『図書新聞』2014年3月1日号)