越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 中村文則『A』

2014年08月05日 | 書評

巨悪につながる小さな「悪意」--中村文則『A』

越川芳明  

  十三の作品からなる短篇集だ。初出の媒体も時期もまちまちだが、不思議なことにテーストが変わらない。それは、作家の才能の表れなのか、それとも作家の不器用さの表れなのか。いや、作家は自分の不器用さすらも才能に変えてしまう、力技をときに発揮するのだ。  

  言うまでもなく、中村ワールドに特徴的なモチーフの一つは、個人の内面(悪意)による裏切りだ。登場人物たちは内なる「裏切り者」の仕業で、身体に異状をきたす。急に心臓の鼓動や呼吸が速くなったり、嘔吐したり、胸が苦しくなったりする。たとえば、都会の繁華街でストーカーまがいの行為をそれと自覚せずに行なう、短篇「糸杉」の「僕」や、会社の女性を飲みに誘い出して妻には語れない自分の本心を語る、短篇「嘔吐」の「僕」など、彼らは自分の内面(悪意)というミクロな世界の「謎」を追いかける。  

  とはいえ、この短篇集で、私が個人的に最も堪能したのはそうした「心理ミステリ」ではなく、「黒い諧謔」に彩られたグロテスクな作品だった。  

  中でも、「A」はピカ一の短篇だ。外地での日本軍の行動をテーマにしたもので、語り手は見習い士官。彼は「山東省」で、ある「講習」を受ける。上官や部下の前で、刀を持たされ、一人の中国人の首を刎(*ルビ:は)ねさせられるのだ。最初はとうてい人など殺せないが、何かの拍子に刀を振り下ろしてしまうと、それまでの自分でなくなる。彼は上官たちによって、中国人を殺す「勇気」と「度胸」を褒められ、部下の者たちから畏怖の眼差しを向けられる。  軍隊という特殊な世界では、敵を殺すことが、倫理的に善であり正義である。だから、見習い士官は、上官たちから「我々の仲間」になったと言われたとき、「誇り」さえ感じる。  

  だが、小説家はそうした狭い社会で通用するだけの「善」や「正義」をいったん宙づりにする必要がある。  

  短篇「妖怪の村」では、天下りした役人の作った企業が国から特殊な任務を委託されて税金を独占的に吸い上げるといった社会の巨悪が描かれる。  巨悪はそれだけで独自に存在するのではなく、私たちの内なる小さな悪意と結びついている。巨悪の真っただ中にいて、それを描くことができるのは、正義を標榜する大手マスコミではなく、中村のような小説家のみだ。(『週刊現代』2014年8月16・23日合併号)


書評 田中慎弥『燃える家』

2013年12月16日 | 書評

「源平合戦」は、いまも続いている  田中慎弥『燃える家』

越川芳明

 

「源平合戦」は、いまも続いている。だが、もちろん形と名前を変えて。それが、本書の隠されたテーマだ。

 思えば、これまでの田中慎弥の小説も、壇ノ浦の近くの赤間関を舞台に、障害者や在日など周縁に置かれた者の視座から「勝ち組」の価値観を問うものであった。言い換えれば、負け組の「平家」に与するものだった。

 確かに、これは歴史小説ではない。扱われているのは、九〇年代初めからゼロ年代という近過去であり、れっきとした現代小説である。世界的には、父ブッシュ大統領のもとでの湾岸戦争で始まり、子ブッシュ政権時のニューヨークでの同時テロ事件へと到る、アメリカ主導の「世界秩序」の時代。日本国内では、平成の時代になり海部政権下の自衛隊のペルシャ湾派遣から、第一次小泉内閣のあたりまで、アメリカに与する形でナショナリズムの高まりが見られた時代。

 だが、小説の中ではしばしば、八百年以上前に壇ノ浦に入水崩御した安徳天皇への言及がなされ、しかも、後半では、安徳天皇を祀った赤間神宮が舞台となる。赤間神宮では、毎年、亡くなった天皇や平家一門の武士たちの回向(ルビ:えこう)のために先帝祭が催されるが、小説はその祭を大胆に脚色している。

 視点人物が、三人登場する。滝本徹という高校生と、山根忍という、徹の通う高校の女教師、それと徹の父親ちがいの弟、光日古である。

 徹は、学校でも目立たぬ生徒で、同級生からまったく関心を持たれていない。唯一、友達と言えるのが、皮膚が「何度も蝋(旧字)に潜らせて仕上げた人形」(11)のように艶のある相沢良男である。この「蝋(旧字)人形」のような相沢は、風変わりなことを言って、同級生たちにうす気味悪がられるが、人生の意味を模索する思春期の徹は、極端な思想の持ち主である相沢に感化される。

 相沢は、小学二年のときに真っ白な鳩の死骸を葬った小さな墓を作ったり、高校生になってからも、自分の祖母「白粉ババア」を海の中に突き落としたりするが、ついには、この世の「無意味」を追求するために、徹や同級生の女子二人を巻き込んで、女教師山根のレイプを計画するほど過激になる。

 この世界の意味は、いったい誰が決めるのか。

 『平家物語』に窺われる世界観は、言うまでもなく「諸行無常」だ。この世の一切は、絶えず生じて滅び、変化する。永遠不変のものはない。人間や動物だけでなく、政体や制度もまた滅びや変化を免れない。

 それに対して、仏教には「常住不滅」という考え方があるようだ。生滅変化することなく、未来永劫に存在すること。それは、この小説の表現を借りれば、『ジャックと豆の木』の巨人に象徴される絶対的な「力」である。そうした「力」に対峙するのは、山根忍や徹だ。

 山根は、小学生のとき、昼食の時間に十字を切る同級生の男の子に引かれて、キリスト教に興味を抱く。実家の近くのサビエル記念聖堂で入信するが、その信仰はあやふやだ。彼女にとって、絶対的な「力」は、なぜか髭の男を連想させる。イエス、ビンラディン。しかし、彼女自身がレイプ事件に巻き込まれたとき、「神」はなぜ黙って見ているのか、と不信を抱く。

 一方、徹にとって、絶対的な「力」とは、中央政界で活躍する実父、倉田正司の存在であり、その「血」である。倉田の考えは勝ち組のそれに他ならず、中央集権主義だ。倉田によれば、日本は「天皇を中心とする神の国」であり、軍隊を否定する憲法を改正して、偽ものの国から本物の国へと変化を遂げねばならないという。「国民は権力者によって飼育されるだけ」だから、お前は赤間関などにくすぶっていないで、天皇のいる首都にきて、権力者の側に立たねばならない。そう倉田は徹を諭す。

 徹は自分の中の「血脈」を自覚したときから自らの内なる「力」を知ることとなり、倉田を倒す方向に進む。それは、単なる青年期における父親殺しの儀式ではない。日本の政争史における、「権力者(天皇)」打倒という、メタレベルの儀式が重ね合わされていることを忘れてはならない。それが小説のクライマックスでの、徹と倉田の一騎打ちの意味だ。

 さて、この小説には、水と火というモチーフが見られ、それが赤色のモチーフと絡まって、徹や山根を主人公とする、この現代版「源平合戦」を彩る。まず水のモチーフは、海峡の廃船や蟹の大量発生という変奏となり、赤い色を伴って「平家」側の逆襲に加担する。「赤間関の海は名前の通り赤い、と徹には思えるのだった」(8)

 一方、火のモチーフは、本書のタイトル『燃える家』に示唆されるように、サビエル記念聖堂の火事、先帝祭のときの稲妻、という変奏をかなで、赤間神宮の水天門の赤色を伴い、山根や守園、白粉ババアなど、女性たちの「力」の源泉となり、「権力者」の滅亡を象徴する。「世界は娼婦の着物になった」と、徹は言う。つまり、大夫役の守園の(金の縫取りに飾られた)赤い着物が、世界を描いているように見えるのだ。「糸の描く世界は、空では星座のようで、地面に近いところでは戦争のようだった。糸は金色にふさわしく、城や王冠や、またそれらを滅ぼす炎を描き出した」(561)と。

 最後に、徹の父ちがいの弟、光日古に触れておこう。『平家物語』によれば、安徳天皇が天子の位を受け継いだ「受禅」の日に、様々な「怪異」があり、その一つに、夜の御殿の仕切りの内側に、山鳩が入り籠ったという。また、平清盛の妻、二位の尼平時子は、安徳天皇の祖母にあたるが、現世における平家の滅亡を自覚して、「山鳩色の御衣」をまとった八歳の孫を抱き、壇ノ浦に飛び込む。飛び込む際に「浪のしたにも都のさぶらふぞ(波の下にも都はございます)」と、「もう一つの現実世界」を不気味に示唆する言葉を吐いて、幼い天皇を慰めたという。

 父と対決すべく、先帝祭の舞台に登った徹は、ある幻を見る。「空中をついてきていたババアたちの一団は水天門の上に腰をかけ、鳩に乗った天皇は、馬の首に似た金色の飾りに止まって、自らの追悼のために集まった人間たちを見下ろしている」と。(546)。相沢の祖母、白粉ババアは、平時子の再来ともいうべき存在であり、小学二年生の光日古も入水する安徳天皇と同じ八歳だ。やがて、徹の眼には、「鳩に乗った光日古」(558)が見えてくる。

 かくして、徹は「負け組」の死者たちを味方につけながら、体制をコントロールする「権力者」に挑戦する。たとえ、この徹が敗れても、次の徹が登場するだろう。それが、現代の「源平合戦」の意味だ。 (初出『文學界』2014年1月号、288−289ページ)


書評 ハリー・マシューズ『シガレット』

2013年10月09日 | 書評

ダイヤモンドの結晶面のような多彩な物語の光を放つ 

ハリー・マシューズ(木原義彦訳)『シガレット』

越川芳明

  この小説は、十五の断章とエピローグからなる構成に大きな特徴がある。それぞれの断章は、まるで屈折率や分散率の高いダイヤモンド結晶面のように、多彩な物語の光を解き放つ。

 いま、あなたの前にある断章は二つ視点を持ち、「アランとエリザベス」とか「オリバーとエリザベス」といった、対話法(ダイアローグ)めいたタイトルが付けられているが、二人が対話を交わすとは限らない。あくまで視点のぶつかり合いによる対話法であり、あなたはそのすれ違いから生じるアイロニーを楽しむ。そういう仕掛けなのだ。

 あなたは、互いに矛盾することもある対話法の空白を埋めながら読み進める。どうせジグソーパズルの絵は完成しないのだから、誤読を怖れる必要はない。むしろ、このパズルはあなたによる創造的な誤読を誘発しているとさえ言える。

 そういう意味で、これはあなたからの積極的なレスポンス、あなたの鑑賞/干渉を要求する「芸術小説」だ。ちなみに、本書は『人生 その使用法』で有名なジョルジュ・ペレックに捧げられているが、そのペレックやクノー、カルヴィーノらからなる<ウリポ>という芸術家集団に、著者ハリー・マシューズも所属している。彼らは一様に、過去から現在へと時間軸に沿って話を進める凡庸なナラティヴ(通常、あらすじと呼ばれる)を回避して、独自のフィクション、独自の言語宇宙を創造しようとする。

 だからといって、怖れるには当たらない。語りのエクリチュール自体は、非常にオーソドックスだから。内容も日常生活の機微、というか男と女、男と男、女と女の愛憎とすれちがい。舞台は、芸術をもビジネスに変えてしまう魔法の都市ニューヨーク・シティと、その都市の富裕層が夏の避暑地として滞在する州北部オールバニー市近郊。時代は、大恐慌からアメリカが立ち直った一九三〇年代後半と、米ソ冷戦のさなかキューバ危機のあった一九六〇年代前半。

 視点となる登場人物は、全部で十三人いる。彼らは夫婦だったり、恋人だったり、親子だったり、愛人だったり、ビジネスパートナーだったりして、互いに何らかの関係性が存在する。

 たとえば、象徴的なのはある父娘(ルビ:おやこ)だ。保険代理店業の立場を利用して大規模な保険金詐欺で大金を稼ぎ、富裕層の一角に食い込むオーウェンと、ヒッピー時代の洗礼を受け、芸術家を志すその娘フィービ。一方がなりふり構わぬ金の亡者ならば、他方は<反資本主義>の権化。父親は娘に自分とちがった芸術家の道を歩ませたくて、幼い頃から英才教育をほどこすが、いざ娘が自立しようと新進画家に弟子入りしたとたんに、その道を閉ざそうとする。おまけに、娘が甲状腺の異常から体調を崩すと、娘の主治医らに自分の偏見を吹き込んで誤診を招く。

 この小説の大きなテーマの一つは、アメリカにおけるそうした親子間をはじめとして、夫婦間の、男女(ジェンダー)間の、芸術家とエージェント(画廊)間の支配/被支配関係であり、その逆転現象である。そのような現象の口火を切る<激動の六〇年代>といった時代性は、神経衰弱に陥ったフィービがケネディ大統領に送る狂気の手紙のように、「隠し絵」として深層に描き込まれている。

 この小説では、ある断章で視点として大きく扱われる人物も、別の断章では背後に引っ込んで、マイナーな人物に変わる。すべての登場人物が、それなりに主役の役をこなす。とはいえ、著者の世界観や芸術観を反映しているという意味で、他の人物より重要な登場人物が二人いる。エリザベスという謎の女性であり、モリスという狂気の批評家である。

 二人に共通するのは、ともにセクシュアリティに関して因習的な価値観から解放されているという点だ。エリザベスは、さまざまな男性と関係しながら誰からも支配されず、また俗物の夫(アラン)の支配に甘んじている保守的な女性(モード)の性的抑圧を解いてやったりする。さらに、絵のモデルとして新進画家(ウォルター)に霊感を与え、かれを一躍スターにする。

 一方、芸術批評家のモリスは年下の男(ルイス)にSMのてほどきをしながら、文章修行をほどこす。モリスが与える文章レッスンの一つは、「芸術は、連続性や一貫性という<自然らしさ>を回避するところから始まる」というものだ。言うまでもなく、この小説はこうしたモリスの芸術論を反映させた芸術実践に他ならない。

 最後に、小説の冒頭と最後のエピローグだけに登場する語り手の「私」について触れておこう。モリスに先立たれたルイスとおぼしき人物のこの「私」は、死に取り憑かれている。「生ける死者は空想の領域の存在ではない。彼らこそ地球の住民だ」と、自らも死者の霊域に踏み込んだかのような発言をしている。というのも、マシューズのみならず、あなたにとっても、ミューズ(芸術の女神)の霊感と死者たちの霊感、これこそが芸術家に真の芸術を創出させる源だからだ。

(『読書人』2013年9月27日号)


書評 ローラン・ビネ『HHhH  プラハ、1942年』

2013年09月24日 | 書評

ナチス高官の暗殺計画を語る、ポストモダンの「歴史小説」

ローラン・ビネ『HHhH  プラハ、1942年』

越川芳明

 

 ナチス高官ハイドリヒの暗殺計画をめぐって、ポストモダンの語りの趣向を施した「歴史小説」だ。

 ポストモダンの語りというわけは、語り手が自身の語りに対して自意識過剰とも言える言及(寄り道)を行なうからだ。それは、物語の進行をとめて、すでに山ほどもある関連文献(ラングやサークの映画や、クンデラやフローベールなどの文学)に対する語り手自身の評価を差し挟む行為にもつながる。「歴史事件」や「歴史的な人物」を扱う場合、「事実」を積み重ねながら、「捏造」に注意を払わねばならないのだ。だが、小説とは、ある意味「捏造」そのものではないのか。

 一風変わったタイトル「HHhH」は、「ヒムラーの頭脳は、ハイドリヒと呼ばれる」という文章をなす、それぞれの単語の頭文字を並べたものだ。

 語りの前半では、「ヒムラーの頭脳」こと、ハイドリヒの破竹の勢いの昇進が語られる。彼はヒムラーが創設した「国家保安本部」の長官に任命され、「ユダヤ人問題」で大量のユダヤ人の処刑を実地したのち、強制収容所でのユダヤ人の集団虐殺を提案することになる。

 とはいえ、語り手がめざすのは、ホロコーストやナチス高官たちの行状をめぐる物語ではない。後半では、チェコ軍人による秘密計画に比重が移るからだ。チェコスロヴァキア亡命政府によって密かに<類人猿作戦>と呼ばれたこの計画は、首都プラハに保護領総督代理として就任していたハイドリヒを暗殺するというものだった。ほとんど自殺行為に近いこの秘密計画に携わったのは、亡命軍の兵士ヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュという二人の青年だった。かれらを側面で支援し、歴史の暗部に消えていったチェコ市民に対する記述にも語り手の深い共感が感じられる。

 短い断章を変則的に積み重ねるこの物語は、過去の時代を反映するというより、ネオナチが台頭する現代を反映させるべく書かれている。それが、歴史の「捏造」というディレンマを越えて、これが読者の心と記憶に訴える優れた小説になっているゆえんだ。

 時事通信 2013.7


書評 リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』

2013年09月24日 | 書評

遺伝子のベンチャー

リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』

越川芳明

 

 つい先頃、米連邦最高裁判所は、さるベンチャー企業が保有する乳がんや卵巣がんのリスクを高める遺伝子の特許を無効とする判決を下した。だが、合成DNAの特許まで否認されたわけではなく、遺伝子診断ビジネスは留まるところを知らない。

 『幸福の遺伝子』は、そんな最先端の生命工学とベンチャービジネスの絡んだ、実に現代的なトピックを扱う長編小説だ。

 あたかも生まれつき特別な「幸福の遺伝子」を持っているのではないか、と思わせるタッサという二十代の女性が登場する。いつも幸せそうにしているだけでなく、彼女はまわりの人々にも陽気な気分を「伝染」させる。だが、アルジェリア生まれの彼女の人生は激烈そのもので、内戦で父親は暗殺され、母や弟とパリに亡命。母は病死し、弟と一緒にカナダに逃げ、いまはシカゴにある芸術大学で学ぶ。

 彼女は、あるときデートレイプ事件に巻き込まれる。彼女に関して、関係者の一人がうっかり警察に使った心理学用語がマスコミにリークされ、一躍「時の人」に。さらにネット上のブログや人気のテレビ番組によって、「幸福の遺伝子」を持つ特別な人という「虚像」が膨らみ一人歩きする。やがて彼女の遺伝子を検査したいとか、卵子を買いたいというベンチャー企業が現われる。とりわけ、トマス・カートンというゲノム学者をめぐる物語が、現代のファウスト博士の姿を浮び上がらせる。

 ところで、主人公は芸大生タッサの出席する創作の授業で、ノンフィクションの「日記」の書き方を教えるラッセルという二流の作家だ。だが、フィクションとノンフィクションは、ラッセルの教えるように、はっきりと分けられるわけではない。

 時折顔を出す語り手の「私」はこの小説時代が虚構(作り話)であることを訴えるが、そのような虚構性は、小説の専売特許というわけでない。ネットやテレビ番組を初め、いたるところに紛れ込んでいる。そんなことを示唆する優れた現代小説だ。

(『北海道新聞』2013年6月30日朝刊)


書評 コラム・マッキャン『世界を回せ』 

2013年09月13日 | 書評

多種多様なニューヨークの市民像 

コラム・マッキャン『世界を回せ』 

越川芳明

  ニューヨークを舞台にした、9/11以降を見据えた小説だ。

 弁護士や医者、サラリーマンやエレベーターボーイ、掃除夫など、さまざまなニューヨーカーが世界貿易センタービルの上空を眺めている。

 だが、それは二〇〇一年に同時多発テロで崩壊するツインタワーではない。ビル完成の翌年(一九七四年)の夏、ある男(綱渡りの大道芸人フィリップ・プティ)が二棟のあいだに鋼鉄ロープを張って綱渡りを行なった、その有様を見ているのだ。

 この冒頭の描写は、小説の基調をなす。生死を賭けたアクロバティックな行為が、9/11以降に荒んでしまった人々の心に、癒しのヒントを与えてくれるからだ。

 作家は失われたタワーを回復するために三十年ほど過去にさかのぼる。だが、それは過去を美化するだけのノスタルジーではない。その証拠に、アメリカ政治の失態とも呼ぶべきものーーニクソン大統領の辞任劇や、ベトナムや中東を舞台にアメリカが関与する戦争への言及があるからだ。

 とりわけ、ベトナム戦争で息子たちを失った母親の会が象徴的だ。メンバーの中の上流階級の白人女性クレアと下層階級の黒人女性グロリア。出自も階級も人種も異なりながら、悲しみを共有する二人が、誤解を乗り越えて心を通わせる。これも、当事者からすれば、一種の危うい綱渡りなのだ。バランスを失いそうになりながらも勇気を奮って行なう心の綱渡り。異なる人間同士のコミュニケーションの綱渡りが各所で見られるのがこの小説の醍醐味だ。

 小説の語りに注目すると、多種多彩な人物が登場して、一人称と三人称の語りが並存する。とりわけ、一人称の語りは、作家の分身とも言えるアイルランド人キアラン以外に、ほとんどが女性だ。

 中西部出身の大金持ちの娘で、ソーホーでのきらびやかな生活に飽き足らない思いを抱く画家のララ。貧困地区サウス・ブロンクスに住む中年の黒人売春婦ティリー。夫を暗殺されてグアテマラから子供を連れて亡命してきた看護師アデリータ、そして前述したグロリアなど。

 ウォールストリートばかりがニューヨークではない。この都市には実にさまざまな人種や階級、思想や信仰を有した人々が住んでいる。紋切り型でない彼ら一人ひとりの「声」を作り出すこと。それこそ、作家が「グラウンドゼロ」という舞台に仕掛けたアクロバティックな言葉の「魔術」でなくて何であろうか。

(『日経新聞』2013年7月28日朝刊)


書評 ジョナサン・フランゼン『フリーダム』

2013年03月27日 | 書評

米中流家族30年の物語  ジョナサン・フランゼン『フリーダム』

越川芳明

 フランゼンは、米国中西部の家族を描くのを得意にしているが、この小説も、中西部ミネソタ州に生まれた一家に属する人々の成長物語だ。

 時代はレーガンの八十年代から、ブッシュ・ジュニアが二期目の当選をする二〇〇四年を経て、オバマが大統領に就任するあたりまでの約三十年間にわたる。

 たとえば、やがて一家の長になるウォルターは、成績優秀の苦学生で、地元ミネソタの大学で法律を学び、リベラル派の弁護士になる。環境問題や人口問題に関心を持ち、規制を緩めるレーガン政権には反対だ。その一方、新しい世紀に入ると、図らずしてテキサスのネオコンの片棒を担ぐような仕事に就く。

 息子ジョーイは、長じて東部のエリート大学に進み、父が毛嫌いする共和党のシンパになり、ブッシュ・ジュニアのはじめたイラク戦争の後始末で儲けようとする怪しい下請け会社に関わり合いを持つ。

 興味深いのは、書名にもなっている「自由」だ。ヨーロッパでのしがらみを断ち切って、新大陸で国家を建設した歴史を持つ米国人は、「自由」という理念に憧れ、それに「不自由」なまでに縛られる。富裕層は競争の「自由」を訴え、それが人間の「幸福」であると考え、時の政権が「自由」政策を取ることを望むが、その政策によって不幸になる人が出ても、それは無視する。

 そんな保守主義時代に、ウォルターの家族はそれぞれ自分の道を「自由」に選ぶ。だが、互いに勝手に「自由」を求めたときに諍いが起こり、やがて夫婦の心は離れ、家族はばらばらになる。

 この小説の真骨頂は、家族内の諍いを戦争に喩えながら、背景にある大きな「戦争」に読者の想像力を向けさせるところにある。

 「戦争」がやがて終わるように、家族にも和解が訪れる。日本語訳は、そんな家族の愛憎の機微をそれぞれの視点から巧みに訳し分けており、読んでいて楽しい。

(『北海道新聞』2013年3月24日朝刊)


書評 ジョナサン・フランゼン『フリーダム』

2013年02月18日 | 書評

米中西部の中流家族と「自由」ーージョナサン・フランゼン『フリーダム』

越川芳明 

 フランゼンは恐ろしいほど寡作だが、一冊の長編小説の読み応えが数冊分に相当するような作家である。  

 アメリカ中西部に住む典型的な白人系の中流家族を登場させるが、十九世紀のイギリス作家ディッケンズのように、人物の心理描写がとても巧い。弁護士の父、専業主婦の母、優等生の娘、親に反逆する息子といったように、家族構成員のそれぞれの視点から互いの愛憎、離別や再会を描きだす。  

 そのように実にありふれた「家族物語」を装っているが、家庭の外にある「現代政治」を浮かびあがらせる裏技を隠し持つ。  

 小説で扱われている期間は、八〇年代のレーガン政権以降からほぼ三十年間にわたるが、作家は当代のイデオロギーや価値観を登場人物の描写に巧みに織り込む。  

 たとえば、八〇年代のいわゆる「新保守主義」(強いアメリカの復活)の時代に二十代を迎える一家の主人ウォルターは、反体制のロッカー、ボブ・ディランと同じミネソタ州の田舎町の出だ。  

 貧しいながらも弁護士になって、素朴なリベラル派として環境問題に取り組む。どちらかと言えば、富める人の「自由」を制限して、恵まれない人を「平等」に引き揚げる方針をとろうとする立場だ。  

 しかし、「テロとの戦い」というお題目で、ブッシュ・ジュニアがアメリカの軍事覇権主義(別名、「グローバリズム」)を押し進めたゼロ年代に、四十代になったウォルターは時の政権に強力なコネを持つ新興のトラスト会社の社長に気に入られ、首都ワシントンに移って出世街道を歩み始める。アパラチア山脈の炭坑地の買収をめぐって、自然保護という自分の理想にもかかわらず、富める者を利する「自由」に加担するはめに。  

 妻パティや息子ジョーイをはじめ、他の登場人物たちの場合も、父ウォルターと同様、普段は押し隠している欲望や無意識が重要な局面で彼らの価値観や意思を裏切り、本人も想定していなかったちぐはぐな行動をとらせることになる。  フランゼンの小説のコミカルな味わいは、アメリカの「自由」をめぐる個人の思想と行動のあいだのそんなギャップから来るようだ。

(『日経新聞』2013年2月17日朝刊)


書評 ロベルト・ボラーニョ『2666』

2013年01月11日 | 書評

砂漠のような小説

ロベルト・ボラーニョ『2666』

越川芳明

 この小説を読むと、時々、巨大な砂漠に迷いこんだみたいな印象を受けるかもしれない。だが、読解のための鍵がないわけではない。

 その鍵とは、メキシコの北の国境地帯に位置するサンタテレサという架空の都市だ。そこで一九九三年頃から頻繁に若い女性をターゲットにした殺人事件が起こっているという。

 モデルになっているのは、自由貿易協定で関税を免除された多国籍の工場が乱立するフアレス市だが、実際の被害者の数は一説に四千人とも言われ、人権擁護組織「国際アムネスティ」がメキシコ政府に本格的な捜査を促したほどの重大事件である。

 とはいえ、「犯罪の部」と題された第四部を除けば、この女性殺人事件とはまったく無縁に見える。たとえば、第一部は、謎のドイツ人作家アルチンボルディを研究するヨーロッパの学者たちの物語でしかない。だが、それもやがて噂を頼りに作家を探しにいく、学者たちのメキシコ旅行の話へと発展し、さらに最後の第五部まで来ると、作家自身のサンタテレサ行きとゆるやかに交錯する仕掛けになっている。

 さて、そうした仕掛けは自動車で言えばエンジン部分に当たる。高性能エンジンを動かすにはハイオク・ガソリンが必要で、それはボラーニョ一流の偏執狂な語り口だ。

 つまり、この小説の醍醐味は、作家が次々と披露するマニアックなエピソードにある。

 放浪のチリ人学者アマルフィターノが裏庭の物干に幾何学の本を吊るして、夜ごとそれを眺める狂気の瞬間。敬愛する詩人を求めて失踪するその妻の破天荒な放浪の物語。さらに、その妻が墓地で関係を持つ異常性愛の男の物語。精神病院の女性院長が語るさまざまな恐怖症の話。無学でありながら悩める若者たちに慕われる女の薬草医の知恵。戦場から脱走し名前を変えて作家となる青年の運命など、枚挙に遑(ルビ:いとま)がない。

 そんなわけで、私たちにとって『2666』という砂漠は、局所的な犯罪事件として現わるグローバルな問題に関心を寄せながら、そこでの放浪=読書を楽しむためにある。

『週刊文春』2013年1月17日号、128ページ


書評 田中慎弥『夜蜘蛛』

2012年12月10日 | 書評

小説の「歪曲」 田中慎弥『夜蜘蛛』

越川芳明  

田中慎弥にしては、めずらしい書簡体形式の小説である。  

 

しかも、アメリカ作家ジョン・バースの画期的なメタフィクション『やぎ少年ジャイルズ』(一九六六年)のように、

作家である「私」は出版社への仲介者にとどまるという設定だ。

いわゆる「入れ子構造」となっていて、小説家ではない「七十を越えているかどうかの男」(5)が、

小説家の「私」に読んでほしいと書いた(とされる)書簡が作品の中核をなす。

つまり、作家の「私」と書簡の書き手である「私」の、二人の「私」が存在する。  

 

『やぎ少年ジャイルズ』は、アメリカの大学を舞台にしたキャンパス小説で、

その中核は、コンピュータが創作した(とされる)「大学シラバス」。

それが五〇年代から六〇年代にかけての米ソの冷戦構造や学園紛争など、

時代のアクチュアルな実相を比喩的にあぶりだす。  

 

芥川賞を受賞した前作『共喰い』でも、

作家はすでに太平洋戦争のようなアクチュアルな現実と格闘していた。

主人公の母は戦時中の空襲による火事で右手を失い、義手をつけており、

そのことが戦争による「負の遺産」として物語のシルエットをなしている。

だが、そうした歴史の痕跡が、

戦後を生きた一人の女性の生の証として読者の記憶に深く刻まれる逆転劇が用意されており、

不自由な「負の遺産」でしかない義手が血みどろの大立ち回りの主役を演ずるというグロテスクなユーモアが効いていた。

 

『夜蜘蛛』では、昭和の戦争は最初から前景に配置されている。

書簡の書き手である「私」が語るのは、明治四十三(一九一〇)年生まれの父親の生涯であり、

その父親が三度にわたって出征した戦争についてだ。  

 

そうした「歴史小説」への挑戦には、

これまで作家が書きついできた海峡の街「赤間関」を舞台にした寓話から一歩出ようとする気概が見られる。

だが、作家が得意とする濃密な文体と卓抜なグロテスク・ユーモアを犠牲にしなければならないというマイナスの要素もあり、

そうした試みは両刃の剣だ。

その辺のことは後で述べることにする。  

 

書簡の書き手の「私」の父親は、明治三十四(一九〇一)年の生まれの昭和天皇裕仁より九歳年下だが、

日本が軍国主義路線を敷いて中国をはじめアジアに侵略していくなか、

天皇と同じ時代の空気を吸っていたと言えよう。

たとえば、父親は三度も戦争に召集されたという。具体的に見てみると——

1 昭和六(一九三一)年、満州事変のとき。二十一歳。  

2 昭和十二(一九三七)年、盧溝橋事件から日中戦争勃発。二十七歳。  

3 昭和十八(一九四三)年、太平洋戦争のとき。三十三歳。召集されたが終戦になり出征せず。  

 

注目すべきは、戦争について普段は語りたがらない父親が「私」に語ってくれた二度目の出征である。

そのとき父親は部隊が全滅するなか、右足を銃弾で撃ち抜かれ、

同僚兵が折り重なっている場所に寄りかかるようにして死んだ振りをして、中国兵の目を欺いて生き延びたという。  

 

ここで、私たちに突きつけられるのは、語りの「主体」の意識の問題である。

先ほど、この小説には二人の「私」がいると述べた。

しかし、「私」の父親もまたもう一人の語り手として少年時代の「私」に二度目の出征時の体験を話したのである。

私たち読者に届けられるのは、父親の言葉そのものではなく、数多くの語り手が介在する口承伝承の物語のごとく、

語り手の「私」による味付けが加えられた父親の戦争体験だ。  

 

実のところ、『夜蜘蛛』は、作家の十八番であるグロテスク・ユーモアを犠牲にしているわけではない。

書簡の書き手の「私」の意識のなかで、荒唐無稽とも言える妄想がおおいに発揮されている。

ちなみに、書き手の「私」は、太平洋戦争開戦の翌年、昭和十七(一九四二)年の生まれで、戦争は体験したものではない。

むしろ、大人の語るものを聴いたものでしかない。

そこに子どもの空想が入りこむ余地が生じる。  

 

父親は「私」に向かって、自分が中国で命拾いした話だけでなく、

『勧進帳』や『忠臣蔵』のような説話や浪花節も語ったらしい。

そのうち、「私」の中で戦争の話と芝居の筋書きが「ごちゃ混ぜになり・・・、ほどけなくなるありさま」(42)となる。

「父が義経、中国兵が富樫という情景が見えてくることもございまして、この場合も、どこからともなく現れます弁慶が、

日本語中国語の区別つけがたい大音声で白紙を読み上げ、あわやというところを父義経は生き延びるのでございます」(59)

 

極めつきは、昭和七(一九三二)年の関東軍による満州国皇帝溥儀(ルビ:ふぎ)擁立のいきさつが、

「私」の頭の中では、明治十(一八七七)年の「西南戦争」における薩摩と政府の対立と重なってしまうくだりだ。 

「これを見た中国兵、まっこと胆の太かお人でごわす、などと言いながら鄭重に(明治帝を)お連れ申しまして、

溥儀を頂く満州国に対抗し、大薩摩中華人民共和国を、文字通りの旗、すなわち天皇を立てることによってまさに旗揚げする」(62)

 

ここには、二つの歪曲がある。

一つは、西郷隆盛をリーダーとする反乱軍が明治帝を担ぐという点であり、

もう一つは、関東軍による傀儡政府の樹立という作戦に対して、それに抵抗する中華人民共和国のほうに明治天皇が加わるという点。

こうした「私」のとんでもない妄想によって、父親の参加した昭和の戦争がナンセンスなまでに強引に歪曲されている。  

 

バースのメタフィクションは、歴史もまた語られるフィクションにすぎないということを示唆している。

私たちは複雑に絡みあった歴史の事象をまるごと理解することはできずに、

これまでに存在している物語の祖型(ルビ:パターン)を通して理解せざるを得ないからだ。  

 

したがって、いまここで問うべきは、

田中慎弥の『夜蜘蛛』が歴史のアクチュアルな相をあり得ないフィクションの空想で歪めていることの是非ではなく、

むしろ、グロテスク・ユーモアを生じさせるそうした作者の「歪曲」がどれほどの説得力を持って読者に迫ってくるかだ。  

 

だが、そうした「歪曲」が、書簡の書き手の「私」の特殊性に還元されてしまってはいないだろうか。

今後は、田中慎弥にしか書けない濃密かつ執拗な文体で、

周縁者の視座から共同体の“神話”や権力者を笑いのめすようなグロテスク・ユーモアのある「歴史小説」に挑んでほしい。

(『新潮』2013年1月号に、若干手を入れました)


書評 ロバート・クーヴァー『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』 

2012年11月17日 | 書評

ユーモアをこめた大人の「童話」

クーヴァー『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』 

越川芳明 

 アメリカ社会で崇(あが)められている思想や偶像を過激なユーモアによって笑いとばすことにかけて、

 クーヴァーほど優れた作家はいない。

 本書で笑いの対象にされるのは、一世紀も前にイタリアで生まれたピノッキオだ。

 彼はいまや美術史家として数々の著書を世に問い、ノーベル賞も獲得し、アメリカの大学の名誉教授となっている。

 老教授ピノッキオは、中世イタリアの文豪の一人ペトラルカを師と仰ぐ。

 ペトラルカといえば、本書でも名前を挙げられている『わが秘密』の中で、

 あるべき人間の姿について、聖アウグスティヌスに「自分の欲望を理性にのみ従属させ、

 心の動きを理性の手綱で制御している」ことだと言わしめる。

 しかし、老ピノッキオは自叙伝の最終章を書くために故郷ヴェネツィアに帰ってくるが、

 当地で元教え子であるアメリカ娘に遭遇し、彼女の性的な魅力に欲情を覚えてしまう。

 老ピノッキオは、それまで押し殺してきたもう一人の自分に目覚め、自分の「欠陥」を受け入れる。

 老教授が自らの欲望に暴走する後半のシーンは、折しもカーニバルの最中で、

 聖母への冒涜的な描写をはじめ、

 エロティシズムとスカトロジー(ふん尿趣味)があいまったクーヴァー一流のお下劣な笑いが最高潮に達する。

 二十世紀は「アメリカの世紀」と呼ばれた。

 頭でっかちの理屈をこねて「長く輝かしい人生」を送ってきた老ピノッキオに、アメリカ国家の姿が重なる。

 九十年代初頭に刊行された本書は、心身ともにガタがきたピノッキオを描くことで、

 同時多発テロ事件に端を発する今世紀のアメリカの衰退を予想していたのだ。

 さらに興味深いのは、老ピノッキオの最後の決断だ。

 彼は母である青い髪の妖精に、元の木偶の棒の人形を生き返らせてほしいと頼む。

 世界の「非の打ち所のない模範」であることをやめ、たとえ愚かでも他の木の人形たちと仲良くやっていく道を選びたいと言う。

 「大国アメリカ」へのそうした政治的なメッセージを隠し持った大人の「童話」だ。

(『日経新聞』2012年11月4日(日)朝刊)


書評 グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』

2012年09月24日 | 書評

歴史の断片から創作する作家

エドゥアール・グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』

越川芳明 

 

 一応、フォークナー文学をめぐる「評論」と呼ぶこともできる。

 だが、本書は「評論」と呼ぶにしては息の長すぎる叙述法によって、

 あたかも著者自身がフォークナーの文学の特徴として挙げる「渦」や「めまい」を作りだすかのように、

 結論を宙づりにする。


 周知のように、

 フォークナーはアメリカ深南部ミシシッピ州の小さな町を舞台に、

 白人の家系の没落や崩壊を描き出した。

 

 南部白人にそうした破滅をもたらす「病毒」は、

 プランテーション経営の前提となっていた「奴隷制」であり、

 そこから派生する人種問題だった。


 フォークナーの作品において、人種差別はイデオロギーではなく、

 一人ひとりの心の内奥の問題として描かれた。

 白人純血種への偏執によって、皮肉にも「混血」の裏切りを受けるトマス・サトペンのように。

 

 本書のタイトルの一部「ミシシッピ」は、州名であると同時に、

 呪われた「宿命」を背負わされた歴史の<場>の象徴でもある。

 

 だが、それらの文学作品は、果たして黒人奴隷の末裔たちの読解に耐えるのかどうか。

 グリッサンのフォークナー論はその点に焦点をあて、

 作家の実生活と創作における人種差別をめぐる分裂/葛藤を扱っていて、大変興味深い。

 

 ただし、それだけではない。

 本書には、フォークナー作品の読解という表向きの顔の下に隠された、

 もう一つの企図があるのだ。

 

 それは<クレオール文学論>とも<世界文学論>とも呼びうる、自己の文学論を提示したことだ。

 その特徴の一つは、本書で<痕跡>とも<踏み跡>とも訳されている歴史の断片、

 アフリカ奴隷のような無名人たちが遺した欠片から、小説を創作するということである。


 それは権力者の遺した史料から「ナショナルヒストリー」を書く試みとは正反対の創作行為だ。

 

 言うまでもなく、数多くの世界の作家たちがそのことに取り組んでいる。

 本書でも、コロンビアのマルケスほか、「フォークナーの血族」が紹介されているが、

 我が国でも、大江健三郎や中上健次のみならず、

 目取真俊(「ヤンバル」)、古川日出男(「トウホグ」)、田中慎弥(「赤間関」)など、

 優れた作家たちがそれぞれの「ミシシッピ」を掘り下げて、歴史の暗部をえぐり出している。

 

(「日経新聞」2012年9月23日に、若干手を加えました。)


書評 ミゲル・シフーコ『イルストラード』

2012年08月22日 | 書評

文学でフィリピン深層へ

ミゲル・シフーコ『イルストラード』(白水社)

越川芳明 

  語り手の「僕」(著者と同じ名前のミゲル・シフーコ)は、冒頭で、米国に亡命中のフィリピン作家クリスピンの謎の死について語る。

 クリスピンも「僕」もフィリピンの同じ地方の富裕階級の出でありながら、政治ではなく、文学に希望を託す点で共通している。

 物語は、クリスピンの遺作『燃える橋』の原稿の探求をめぐって展開する。

 それは、「何世紀にもわたってフィリピンの支配階級を蝕んできた血族登用、樹木の不法伐採、ギャンブル、誘拐、汚職、その他ありとあらゆる悪徳がその中で見事にすっぱ抜かれているはずの原稿」だった。

 「僕」はその原稿の在処を探しながら、クリスピンの伝記を執筆しようとする。

 「彼の人生について書くことが自分の人生の謎を解く手がかりになると考える」からだ。

 この小説は、小さな筒をまわすたびに異なる絵模様が見える万華鏡のようだ。

 というのも、ポストモダン小説にお馴染みの「モザイク模様」のテクストよろしく、ブリコラージュ(あり合わせの材料を使った「器用仕事」)という語りの方法を採用しているからだ。

 たとえば、クリスピンが書いたとされる小説群(『マニラ・ノワール』という冒険活劇小説や『啓蒙者たち』という自伝小説、『自己剽窃者』という回想録など、十個を超える小説やエッセイ)のみならず、作家が関わったとされる雑誌インタビューや、ローカルなジョーク集など、ときにユーモアたっぷりの語りの断章群が巧みにつなぎ合わせられている。

 感心させられるのは、そうした語りの断章の総体がフィリピンの近現代史の暗面をあぶりだし、十九世紀末の独立戦争時代から現代までつづく少数の富裕層による寡頭政治の「からくり」をすっぱ抜いているということだ。

 フィリピンの地方色をふんだんに取り入れながら、世界文学としての普遍性をそなえた驚嘆すべきデビュ作だ。

(「北海道新聞」2012年8月19日)


書評 中村文則『迷宮』

2012年08月21日 | 書評

震災後の迷路をさまよう

書評 中村文則『迷宮』

越川芳明

 ギリシャ神話で「迷宮」といえば、クレタ島のミノス王が、半獣半人の怪物ミノタウロス(なんと王妃と牡牛のあいだに生まれた!)を閉じ込めておくために名工ダイダロスに設計させた巨大迷路「ラビュリントス」を思い出す。  

 この迷宮をめぐっては、アテナイの英雄テセウスが怪物を退治するだけでなく、「アリアドネの糸」を使って迷宮からの脱出に成功するエピソードが有名だ。  

 つまり、「迷宮」とは、どのように窮地から脱出するか、人間の知恵をためす装置なのだ。  

 この小説の「迷宮」は、そうした目に見える形を取っていない。まるで大空を風に流されてゆく白雲のように変幻きわまりない、人間の暗い「内面」世界を指している。  

 語り手の「僕」は、三十代なかばという設定だ。ある弁護士事務所に勤めている。

 上司や同僚に悪意を抱いていても、それをそのまま口にすることはしない程度には、社会に適応している。

 だが、幼い頃に母親に捨てられたトラウマは消えていない。  

 あるとき、「僕」は紗奈江という中学時代の同級生の女性に会い、彼女のアパートに誘われて泊まる。

 その翌日、探偵と称する男に会社帰りに待ち伏せされて、紗奈江の素性を知ることになる。

 探偵によれば———。  

 かつて日置事件という「迷宮」入りした不可解な殺人事件があった。

 誠実だが平凡きわまりない夫が被害妄想に取り憑かれ、絶世の美女である妻の行動に不信感を募らせ、極度の「嫉妬心」から妻の自転車を壊したり、家中に防犯カメラを取り付けて監視したりする。

 十五歳の息子は不登校になり、妹に性的な接触をもとめたり、気味のわるいプラモデルを作ったりする。

 そのうち、「壊れる家族」を象徴するかのように、凄惨な殺人事件が発生する。

 鍵のかかった家の中で、夫と妻と兄が殺されて、妹だけが生き残ったのだ。

 その生き残った妹は、「僕」がアパートに泊めてもらった紗奈江である、というのだ。  

 小説は、この日置事件に関する「僕」の調査や推理を推進力にして一気に突き進むが、「僕」だけでなく、紗奈江も彼女自身の「迷宮」に閉じ込められていることが分かってくる。  

 自分の中の暗い暴力的なケダモノを飼いならす術を心得ている「僕」は、出口のない「迷宮」を彼女と共にさまよう覚悟を決める。  

 最後に一言添えておくと、小説の時代設定は、あの大震災の数ヵ月後である。

 語り手の「僕」は、震災後のこの時期を既視感を持って捉える。

 つまり、かつて自分が幼かったバブル崩壊後にも、そうした「無力感」を覚えたというのである。  

 ここに来て私たちは「迷宮」が震災後に難局に立たされた日本社会の比喩にもなっていることに気づかされる。

 迷宮からの脱出ではなく、その中で生き延びることを説く寓話だ。(了)

 『週刊現代』(2012年8月11日号、123ページ)より。タイトルを変更しました。

 


書評 広小路尚祈『金貸しから物書きまで』

2012年08月02日 | 書評

資本主義の「正義」にユーモアの矢を放つ

広小路尚祈『金貸しから物書きまで』

越川芳明

 語り手の広田伸樹(三十三歳)は、毎朝、会社に行く前に肩痛と首痛と吐き気に見舞われながら、「死の儀式」を執りおこなう。

 きょう一日、会社の中でつつがなく過ごせるように、駅構内のカフェでコーヒー一杯とタバコの一服によって「地獄」に飛び込む覚悟を決める。それは彼にとって、いわば己を殺すための儀式なのだ。

 彼は、高校を出てからいろいろな職場を転々としてきた。「必死になって受験勉強をしたり、スポーツなどで根性を鍛えたり、就職活動をしたり、仕事を覚えたりしなきゃならなかったはずの貴重な時間を、ふらふら暮らしてしまった」(9)。

 だが、結婚し子供ができると、人並みの生活に憧れるようになる。根性なくふらふらと生きてきた「ダメ男」でも、それなりの報酬をくれるのは、ある中堅の消費者金融会社ぐらいだった。

 待っていたのは、劣悪かつ極悪な労働環境。意地悪な直属の上司(支店長)にはねちねち絞られ、もう一つ上の上司(ブロック長)には細かく持ち出されて怒鳴られる。お客に対しては、法律に抵触しないように、あの手この手で応対せねばならない。

 広田は述懐する。「これほど客と良好な関係を築くのが難しい職業が他にあるだろうか」(68)と。  

 会社で働いているあいだ自我を抑え神経をすり減らすしかない。だから、毎朝、「死の儀式」を執りおこなうのだ。  

 安定した生活が送れない新たな貧困層(プレカリアート)が、日本社会に大勢出現している。この小説はそうした貧困層の側に立つが、社会批評に欠かせない逆説(パラドックス)の顔を持っている。  

 語り手は「おれには学歴がない。根性もない。特別な才能もない」(9)と告白するが、そうした愚直な語りによってこそ、おおらかなユーモアの才能を披露することができる。

 「ああもう、腹立つ。頭が良くて感性の鈍い人とは、きっと話をしてもつまらんだろうな。理屈ばっかで。よかった。おれ、インテリじゃなくて。(中略)そういうつまらないインテリが世の中を仕切ってきたから、このつまらない世の中が出来上がってしまったのだろうけれど、おれには崩せんね、この世の中のシステム。インテリじゃないから」(30)

 崩せないシステムの周縁に置かれた男のつぶやきが、むしろ周縁の「豊かさ」をあぶりだす。

 「ないない尽くし」を「あるある尽くし」に転化することで、作家は常に強者に味方する資本主義の「正義」にユーモアの矢を放つ。

(『すばる』2012年8月号、100頁)