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越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

辺野古(2)

2010年07月07日 | 小説
(写真は、辺野古のちかく、299号線の路上に咲いていた黄色い「ハイビスカス」)

6月23日の「慰霊の日」ですが、いつものことのように、那覇から南の糸満(ひめゆり記念館などがある)へ向かう道路は、朝から大渋滞だったようです。

僕は、午前中にホテルで締めきりの原稿(メキシコの作家の翻訳書について)を書いて、お昼前にバイクを借りて、辺野古まで北へぶっ飛ばしました。

・・・といっても、50CCなので、限界はありますが(笑)。。。


沖縄本島の西海岸に58号線が走っていますが、今回は、東海岸を行くことにしました。

普天間基地のちかく、北中城(きたなかぐすく)あたりの交差点で、先頭で信号待ちをしていると、もう一台、小さなバイクが僕の横につきました。


ヘルメットをかぶった顔をそちらに向けると、黒いシャツを着た、20代前半と思われる青年でした。

ちょっこと頭を下げて「こんにちは」と、笑顔で挨拶されました。

僕は「天気よくないね」と、語りかけました。

青年は僕を地元の人だと思ったらしく、「那覇からやってきました」



これから長旅であるような口ぶりでした。

僕は「気をつつけて!」と、父親(おやじ)みたいな気分になって言いました。

実際、そんな年の差でした。

「馬鹿みたいだけど、こんなバイクで名護まで行くんだよ」と、言おうと思いましたが、すでに信号は青になっていました。


沖縄市(コザ)を抜けてから、330号線から299号線に入り、石川、金武あたりを走っているときに、ちょっと空模様が怪しくなり、ぱらぱらと雨が降ってきました。

めがねに雨水をしたたらせながら、なんとか辺野古崎までたどり着きました。



最初、幹線道路をはずれて辺野古の村に迷いこんだとき、戦前の「昭和の世界」にワープしたような錯覚に陥りました。

住宅地に、廃れたような小さなスナックや飲み屋の建物が、まるで蜂の巣みたいに乱立していましたが、外には人っ子ひとりいませんでした。

そのとき、僕は廃墟をイメージしましたが、夜は米兵相手の不夜城なのでしょうか。

そこから、下の崖のほうを覗くと、小さな港が見えたので、ぐるりと迂回して、港まで降りていきました。







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高橋源一郎『「悪」と戦う』

2010年07月05日 | 小説
「悪」って何だ?――追求される言葉の多義性 
 高橋源一郎『「悪」と戦う』
 
越川芳明

 「悪」と戦うのは、昔から「正義」に決まっている。西部劇だって、チャンバラ映画だって、お子様向けのアニメだって、「正義」が「悪」をやっつけるのだ。

  戦争好きだった前のアメリカ大統領だって、「アメリカにつくのか、それともテロリストにつくのか、いずれか決めよ」といって、自分は「正義」の顔をしていた。

 でも、「悪」って何だろう? ひょっとしたら、「正義」の人ために、「悪」が作られるのではないのか。

 「大人のための童話」ともいうべきこの作品の、タイトルが素晴らしい。高橋源一郎のセンスが出ている。

 「と」という語に、日本語独特の曖昧さが込められている。

 この「と」を英語に訳すとしたら、against the ‘Evil’ (「悪」と対決して)なのか、それとも with the ‘Evil’(「悪」と一緒に)なのか? 

 日本語の「と」は、まったく反対の意味を一度にしめすことができるのだ。
 
 それから、括弧つきの「悪」である。

 語り手「わたし」の上の息子、三歳児のランちゃんは、弟のキイちゃんや公園で一緒に遊ぶミアちゃんと一緒に、ある一線を越えて通常は行けそうにない領域に侵入し、そこで悪を括弧でくくらねばならなくなるような体験をする。

 夢か現か分からないある境界領域でランちゃんは中学生だったり高校生だったりするが、あるとき「殺し屋」をしている彼は、シロクマをはじめとして、いろいろな動物から、彼らを虐待してきた人類に対して「罰」を与えてほしいと依頼される。

 しかし、罪に見合うだけの罰を与えることはためらわれる。

 「ねえ、もしかしたら、「悪」の方が正しいじゃないかって、ちょっとだけぼくには思えたよ、マホさん。だったら、ぼくは、正しい「悪」をやっつけちゃったのかもしれない。じゃあ、ぼくの方が、ほんものの「悪」じゃん! 違うのかなあ、マホさん。」(270頁)
 
 ランちゃんはそこで、世界の奥行きを知る体験をして、本来いるべきところに帰還を果たす。

 世界の奥行きとは、語り手の「わたし」によれば、「この世の中には、わからないことがたくさんある――わたしにわかっているのは、それだけでした」(72)ということだ。
 
 政治の世界は、言葉で決めつける。それをプロパガンダという。

 文学の世界は言葉の多義性を追求する。それは、一見非政治的な行為に思えるかもしれないが、実は、「いずれかに決めよ」というプロパガンダの声に対峙する、きわめて「革命的な」行為なのだ。
(『すばる』2010年8月号、318頁)

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辺野古(1)

2010年06月27日 | 小説
辺野古に行ってきました。

沖縄は、梅雨が明けたといわれていますが、篠つく雨のなか、那覇からバイクを飛ばして、約2時間半、名護の辺野古岬にたどり着き、この目で大浦湾を眺めてきました。2004年から座り込み(監視)を続けている辺野古テント村の方々の説明を聞きながら、のどかというしかない港を見ていると、遠く山の中でパンパンと実弾射撃の音がひっきりなしに響いています。すぐ隣に米軍基地(キャンプ・シュワブ)があるからです。数年前に車で近くの高速道路を通ったときも、金武(きん)をすぎたあたりに、グロテスクな道路標識が立っていました。「実弾に注意!」

民主党(菅政権)も、ここにV字型滑走路を作ると言っています。

僕が知らなかったのは、辺野古の海は遠浅で、米軍基地から海へ、また海から米軍基地へと、軍事訓練は日常茶飯事であるとのことです。ヘリコプターから軍人が降りたり上ったり、陸海両用の戦車で突っ走ったり。。。

のどかな辺野古は、いわば「戦場」でした。





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管啓次郎さんとの対談(2)

2010年06月21日 | 小説
○ノートを持って旅に出る
越川 僕はね、九十年代のはじめにポール・ボウルズに会いに行きました。彼の住んでいたタンジールに二回行って、それぞれ一週間くらい滞在しました。夕方になると彼のアパートメントにノーアポでただ行く。そうしていると、色々なところからいろいろな人が来るんですよ。ジャーナリストとか写真家とかがね。そのうち十人くらいになって、お茶なんか飲みながらみんなで話す。翻訳もしたんですけれど、そういう作家との出会い、付き合いっていうのも、僕にとって影響が大きいですね。管さんは、会いたかった人はいますか?

管 そうですね、けっして会いたくはなかったけれども大きな影響を受けた作家はブルース・チャトウィンですね。実際に会ったら、たぶんすごく嫌なやつだったろうと思うけど。チャトウィンの小説に対するアプローチの仕方には、文体にも主題にも形式的な実験にも、強く印象づけられました。『ソングライン』なんて、終わりのほうはノートだけですからね。

越川 あれは死にそうだったからじゃないの?(笑)でもあのノートはすごいですよね。僕も『ソングライン』は、いま研究室にある本を十冊残して全部捨てろと言われたら、残す一冊のうちに入るかな。とんでもない本ですよね。

管 チャトウィンの文章は何度読んでも戦慄を覚えますけれど、あのぶっきらぼうなくらいシンプルな文体を学んだのがヘミングウェイなんですよね。特に初期短編集の『49短編集』をつねに鞄に入れていた。

越川 でもヘミングウェイなんかよりずっといいと思うけどなあ。確かに、初期の頃の、ニック少年を主人公にした短編集は素晴らしいと思うけど、正直、『老人と海』など、どこがいいのかさっぱりわからない(笑)。何回読んでも好きになれないんですよね……。ジャック・ケルアックもそうです。青山南さんには悪いけど、僕は三十ページくらいまでしか読めませんね。

管 そうかあ、ぼくはヘミングウェイの文体は大好きだけどなあ。ケルアックというと『オン・ザ・ロード』のことですか?

越川 僕は、あれはちょっとね。ドルの優位性にあぐらをかいた自己満足という意味で、文化的なマスターベーションだと思うんですよね。そういう要素が自分にもあるから嫌なのかもしれないけど……。

管 僕も『オン・ザ・ロード』はずっと読めなくて、何でここまでラディカルに退屈なものをみんなよろこんで読むんだろうって思っていたんですよ。ところがあるとき、マット・ディロンが全文を朗読したCDを買ってダラダラと聴いていると、そのおもしろさがわかった気がした。車の運転とかしながら聞くといいんです。友達と長距離ドライブをしていて、疲れ果てて何も話すことがなくなったときに初めて出てくる思いがけない思い出話ってあるでしょう。そんな作品だと思います。

越川 じゃあ、読んじゃいけない本なんだね(笑)。『本は読めないものだから心配するな』がここで効いてくる訳だ! なるほど、今日は勉強になりましたー(笑)。
ついでに言うけれど、ケルアックにメキシコ・シティを舞台にした『Tristesa』っていう中篇があるんです。当地に滞在していたときに、この場所で読んだら意見が変わるかなと思ったんですが、結局すっごくつまらなかった(笑)。こんなものをメキシコ人が読んだら怒るぞ、と思いましたね。素朴なアメリカ人が読んだら「メキシコってこんなところなんだ」と思うかもしれないけど。自意識の欠如した、ただの観光客のような視線が嫌でした。

管 ああ、なるほど。彼の小説で一番面白いと思うのは、『The Dharma Bums』という作品があるでしょう? ゲイリー・スナイダーがモデルになっているという。あれはすごくいいですね。完全にフィクションの人物より、ずっとおもしろい。

会場: 越川さんは、外国に行かれると市場と墓場に必ず行かれるそうですが、その理由をお聞かせ願えますか?

越川 市場っていうのは食い物がある場所ですよね。生きていくために必要なものが売っている、人の欲望があらわれる場所ですね。世界中どこの市場に行ってもにぎわってるし、何も買わなくても楽しいところだと思います。あとは墓場。死っていうのは、我々がみな必ず行き着く終着駅、ターミナルじゃないですか。墓場に行くと、その土地の人たちが死者たちをどのように扱っているかがわかって、とても面白いですね。死者を手厚く扱っているところは生者にも優しい。メキシコの一番南のチアバス州のサン・クリストバルという標高の高い街から車で三〇分くらいのところにチャムラという先住民の村があります。そこの墓地が面白かったです。そこの墓地にはいろいろな色の十字架が埋まっているんですよ。黒は老人、青は若者、子どもは白とか。面白いのはね、墓地のまわりがなんだか汚いんですよ。コーラのビンやペットボトルなんかが散らばっている。どうも、死者はコーラとか、炭酸が好きらしいんです(笑)。だから、空瓶はゴミじゃなかったんです。先祖へのもてなしかたとかも、墓場を見ればわかりますし、面白いですね。メキシコには十一月一日に死者の日というのがあって、是非そこに行かれるといいと思います。お墓を花で飾り立てて、食べ物を置いて、家族が集まる行事になっています。日本にいたときはお墓などに興味はなかったんですが、メキシコに行ってその重要さを再認識しました。

会場:旅をするときには、現地で本を出会ったり、以って行かれたりするのでしょうか? それとも、旅をされるときには読書はされませんか?

管 僕は旅をしているときもしていないときも、常に十冊くらい本を持ち歩いています。習慣ですね。旅先でも本屋に行きますから、そこでの本との出会いももちろんあります。でも実際に移動中に読むかというと、あまり読まないですね。ぱらっと開いてはあるページが「よく書けてるなあ」と感心したりとか、その程度です。でもそんな印象が思いがけないところで変なつながり方をし、新しい方向性を感じることがある。それに導かれるようにして別の場所に行ったりすると、また新しい発見があったりします。昔からメアンドルシェルシュという造語で呼んできたのですが、それはメアンドル(曲がりくねった)とルシェルシュ(探求)の合成からなる、方法なき方法論。いつもそうです。

越川 この前キューバ映画祭のために二泊三日で北海道に行ったのですが、一日に四本くらい映画を観て、寒い時期だったからホテルの部屋で本ばかり読んでいました。だからその旅では、北海道の風景はほとんど見ていないんですよね。そういう旅もあれば、旅先では本など読まずに人と会ったり体験したりすることを重要視することもあります。旅に本を持って行くかどうか。これは難しい選択ですね。最近、本は置いていくことが多いです。本に頼らずに、自分の経験を書き留めることにしている。本は帰ってきてから読む。だから、旅にノートはたくさん持っていきます。去年の夏一ヶ月ほどキューバにいたんですが、僕のノートパソコンではネットもメールもできないんですよ。ホテルのロビーに一時間くらい並べばメールぐらいできるんですが、それも何だか馬鹿馬鹿しい。だから、まるまる一ヶ月ネットもメールもやらずに過ごしました。すごく新鮮でした。そのとき経験したアフリカ的な儀礼や、魔術的な治癒の仕方などをノートに書き綴って過ごしましたが、そんな旅もありますね。

司会 本日はありがとうございました。 
(「図書新聞」2010年6月5日)  
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書評 コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』

2010年04月20日 | 小説
血塗られた戦争空間としての「西部」を描く
コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』
越川芳明

 十九世紀半ばの米国南西部を舞台にした小説だ。かつてのハリウッドの西部劇は、たいていこの時代の西部を扱っているが、この小説は映画でロマンチックに描かれた西部を、アメリカ人と先住民とメキシコ人の三すくみの「殺戮」や「強奪」に血塗られた戦争空間として書き直しをおこなっているという意味で、「歴史修正小説」(リンダ・ハッチョン)と呼んでもよいだろう。
 十九世紀半ばといえば、米国が政治的混迷をきわめるメキシコに乗じて戦争を仕掛け、メキシコ領土の北半分をぶんどった「米墨戦争」が思い出されるが、主人公の「少年」がテネシー州の小屋から西に向かって放浪を始めるのが、まさしく戦争真っただ中の一八四七年だ。それ以降、ヨーロッパの列強から世界覇権を奪い取るために米国の仕掛ける様々な戦争を思い起こせば、この時代の西部を扱うということには、この国の本質(好戦性)の原点を抉るという意義があったのだ。
 「少年」は、社会の底辺に暮らすプアホワイト(貧乏白人)だ。出産時に母が亡くなり、読み書きができずに、不潔な体にほとんど着の身着のままで、「見境のない暴力への嗜好をすでに宿している」。小説の中で最後まで固有名を与えられておらず匿名であり、十四歳にしてすでに父のもとを離れる。「孤児」としての主人公は『白鯨』のイシュメイルや『ハックルベリーフィンの冒険』のハックなど、アメリカ文学の専売特許だが、直感と本能のおもむくままに自己の才能(銃撃ち、馬の足跡を読む力など)だけを恃む「少年」の姿は、世界制覇に挑む米国の写し絵と映る。
 「少年」は、主体的な視点人物として、米国に編入されたばかりの西部の歴史を生きる。彼はテキサスでアメリカの非正規軍に徴用される。だが、非正規軍とは名ばかりで、要するに体のいい盗賊である。メキシコへ行って、土地やモノをぶんどるだけだから。メキシコ北部で逮捕されるが、運よく釈放され、次に入るのは、テキサスのお尋ね者グラントン将軍に率いられた荒くれ集団で、アパッチ族をターゲットにした頭皮狩り隊だ。
 アパッチ族頭皮狩り隊の中で、アメリカの「荒野」を体現する人物はホールデン判事だ。二メートルを越す巨体でありながら、顔を見れば禿髪で眉も睫もなく、手は子供のように小さい。ほら吹きの名人としてキリスト教の伝道師を罠にかけたりする一方、植物学者や考古学者として、砂漠に残る遺物をノートに克明に記録したり、誰も知らない数々の外国語を自由に操って皆を驚かせる。「自然を裸にすることで初めて人間はこの地球の宗主になれる」とうそぶき、人知や科学への過剰な思い入れを抱きながら、ゲーム感覚で人間を殺すことを躊躇わない。この判事のような、一見魅力的でカリスマ的な「超人」の造形にも、米国が仕掛ける「戦争」への批判が込められていると言える。
 最後に、見逃してならないのは、南西部の「砂漠」をはじめとする大自然の描写だ。ただの小説の背景というより、むしろ、小説の真の主人公かもしれない。小説は、一八七八年に「少年」が四十五歳なったところで終わっている。その頃、彼はテキサス北部でバッファローが絶滅するところを目撃する。皮を取るために、八〇〇万頭もの死骸がころがっていたという記述があり、一部であれ自然を破壊し尽くす人間の暴力はとどまるところを知らない。だが、「正午(メリディアン)が夜の始まりである」をはじめ、物語の中に何度か差し挟まれるタイトルに引っかけた逆説的な言い回しが示唆するように、血(ブラッド)まみれの絶頂(メリディアン)だった時、すでに米国の凋落が始まっていたのだ。
(『週刊読書人』2010年4月16日号)
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書評 前田塁『紙の本が亡びるとき?』

2010年02月09日 | 小説
デジタル時代の「文学」の行方は?
前田塁『紙の本が亡びるとき?』(青土社) 
越川芳明 

 今日、アメリカではアマゾン社の「キンドル」や、マッキントッシュ社の「iPad」というデジタルブックの専用末端が販売される一方、日本では広告出稿先が紙媒体からネットに移り、広告収入に依存していた雑誌が休刊に追い込まれている。検索エンジンのグーグル社が著者に無断で書籍をスキャナーで読み取り、それらをアーカイブ化するという知らせに日本の出版業界が騒然としたのもつい最近のことだ。

 そんなデジタル情報化の時代に「文学」はどうなるのだろうか。著者が「確信に近い結論」として、あらかじめ差し出しているのは次の一点だ。

「紙の書籍が遠くない未来、これまで果たしてきた役割を終える」

 「もちろんそれは、「本」がなくなることを意味するものではないし、紙の本が完全に失われることでもない。しかし、かつては当然だった写真の「プリント」が、わずか十年のあいだにほぼすべてデジタル化されたように・・・「紙の書籍」は人々の日常から離れてゆくだろう」

 その根拠として著者が挙げるのは、紙の本の商品としての側面だ。小売店のビジネスモデルに問題があり、長年、「販売委託」制度に依存していた小さな書店が次々につぶれている。輸送・人件費の比率が上昇し、そうした制度が大きな岐路に立たされている。

 では、このデジタル時代に、「文学」は亡びてしまうのか? アメリカの作家ロバート・クーヴァーは、早くからブラウン大学の創作科で電脳小説(ルビ:ハイパー・フィクション)を推進し、文学的な想像力を、CG(ルビ:コンピュータ・グラフィックス)における技術的な革新に結びつける努力をしてきた。前田氏もまた「ジャンル・クロスオーバー」の可能性を示唆している。

 「創作者は(すでに行なわれている)メディア・ミックスに加えて従来とは逆の発想つまり他ジャンルのコンテンツのテキスト化に比重を移すこともできる(・・・たとえば松浦寿輝や堀江敏幸といったテクスト巧者による恋愛ドラマやコミックのノベライズが実現してみたら、デュラスのような作品が生まれるかもしれない)」と。

 本書は、これまで書いてきたエッセイを集めたものであり、「紙の本が亡びた」後の見通しについて、安易な答えが導きだされているわけではないし、体系的に書かれているわけでもない。むしろ、電子メディアの特徴として著者が挙げる「非・線型性」を反映して、あえて断片的に語り、編んだ本にも見える。「紙の本が亡びる」というテーマを、紙の本で語るというパラドックスを演じたのかもしれない。

(『すばる』2010年3月号、315頁)
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青山ブックセンターで、「オマージュ津田新吾」

2010年01月29日 | 小説
青山ブックセンター本店(表参道)で、「オマージュ津田新吾」展をやっているとのことです。

津田新吾さんは、昨年夭折した優秀な編集者(文学、人文科学系)です。

病気で辞められるまえは、「ユリイカ」や「現代思想」といった雑誌を出している青土社の編集者でした。

吉増剛造、今福龍太、管啓次郎、野崎歓、堀江敏幸をはじめ、津田さんのかかわった本は、まるで魔法使いの秘伝の粉をまぶされたかのように、まぶしく輝くだけでなく、管さんの言葉ではないですが、どの本も「本の島々」のように、津田さんを架橋にして、どこかで繋(つな)がっているようでした。

津田さんとは一緒に本は作れませんでしたが、「現代思想」がチェ・ゲバラ特集を組んだときに、声をかけていただきました。ちょうどメキシコへの取材旅行が入り、成田に行く前にぎりぎりで原稿を送り、ユカタン半島のメリダでゲラを受け取ったのがおもいだされます。

また、『現代詩手帖』に連載していたときにも、気にかけてくださっているようで、なにかの機会に会ったときに、実際に連載のコピーを手にして、書き込みすぎた文章を指摘していただきました。たったの一カ所ですが、するどい指摘でした。

文章を書くときには、津田さんの言葉を思い出します。書きすぎるな、という。

青山ブックセンターの記事に、詳細が載っています。
http://www.aoyamabc.co.jp/12/12_201001/541_2_3_4.html





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特別シンポジウム  都市と文学--「マイナー文学」の表現をめぐって

2010年01月17日 | 小説
明大大学院文学研究科 特別シンポジウム
都市と文学--「マイナー文学」の表現をめぐって

日時:2009年1月22日(金)午後6時分~8時40分 
明大駿河台キャンパス、リバティタワー19階 119HI教室
               (予約不要、入場自由)

司会:越川芳明(明大教授、アメリカ文学)
講師:斉藤修三(青山短大教授、アメリカ文学)「ディフラシスモの街--East LAとチカーノ」
   久野量一(法政大准教授、ラテンアメリカ文学)「ガルシア=マルケスとバランキーリャ」
   浜崎桂子(立教大准教授、ドイツ文学)「もうひとつのベルリン―「飛び地」から
                            「首都」になった都市の片隅で」
パネリスト:中村俊彦(明大大学院博士後期、英文学)
      太田翼(明大大学院博士後期、日本文学)
      徳植隆真(明大大学院博士後期、ドイツ文学)
(概要)
 東京を日本の首都たらしめているのは、実はコリアンタウン新大久保に象徴されるような異文化の存在であり、日本文学を活気づけるのは、必ずしも日本語を母語としない人びとの創りだす、いわゆる「マイナー文学」だ。
 3名の講師には、都市(ロサンジェルス、コロンビアのバランキア、ベルリン)のバリオ(スラム地区)を創作の根っこに活躍している文学者の<越境>をめぐる「表現」について語っていただき、日本語とは何か、日本文学とは何かについて考えるきっかけにしたい。
 3名のパネリストには、それぞれの専門分野から、同様のタイトルに関して提言と質問をしていただく。
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書評『エクスタシーの湖』2

2010年01月12日 | 小説
 『エクスタシーの湖』の書評が、文芸誌『新潮』2月号(264-265ページ)に載りました。評者は、小説家の円城塔氏。

 『Xのアーチ』で一つのピークを迎えたエリクソンがいったん『アムニジアスコープ』で疲弊し、『真夜中に海がやってきた』とこの小説によって、世紀ごえに成功したという趣旨。

 「濃密な文体と描写をひたすら追いかけるうちに速度の中に巻き込まれ、歴史とともに噛み砕かれる。そこにあるのは快楽だ」と、結論づける。

 さらに『東京新聞』と『中日新聞』にも、栩木(とちぎ)玲子氏による書評が載りましたので、こちらは全文、転載いたします。

 「切実な愛と喪失の恐怖描く」
 [評者]栩木 玲子氏 (法政大教授・米文学)

 ロサンゼルスの真ん中にできた穴から水がわき出し、街を呑(の)み込み、若き母クリスティンはその湖が幼い息子カークを奪いに来ると信じて怯(おび)える。そして恐怖の根源を突き止めるため、湖の底をめざしてダイブし、息もたえだえに再浮上すると息子は銀のゴンドラから忽然(こつぜん)と姿を消していた。

 こうして読者は、およそ九十年にわたる黙示録的迷宮世界に誘い込まれる。息子を失ったクリスティンは、ルルという別人としてSMの女王/湖畔の予言者となり、革命の英雄ワンや、生まれてくるはずだったカークの双子の妹ブロンテ、死にゆく建物の声を聞くことができる女医などと不思議な縁を結び、航跡を交わらせてゆく。

 SF、ファンタジー、北米マジックリアリズム…そのいずれでもあるようなないようなこの小説はジャンルの枠からもするりと身をかわし、生々しいビジョンを炸裂(さくれつ)させる、と思いきや、やがて読者は気づくはずだ。奔放に見えるスタイルもストーリーも孤独と喪失のテーマをより鮮烈に伝えるため…つまりは全(すべ)てが意図されていることに。

 たとえば本書に特徴的な活字レイアウトさえ、一見野放図に思えて実はテーマに貢献する巧みな演出だ。水源にある<十三個の喪失のホテル>を一部屋ずつめぐるときのページの余白は、喪失がもたらす心の余白だろうか。一方、本書三分の一から終盤まで、見開き左側の活字群をタテに貫くクリスティンの独白は孤独な登場人物たちの物語とハーモニーを奏で、ともに混沌(こんとん)と闘っている。

 無意識がもたらす夢のような、でもきっちり設計された作品世界から伝わるのは、身を切るように切実な愛と、それを失うことの底なしの恐怖や哀しみだ。定型破りの向こうには、小説ならではのカタルシスが随所に用意されている。現実をなぞるのではなく、超越することによってこそ得られる結末が、優しくも美しい。


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書評 目取真俊『眼の奥の森』

2009年12月21日 | 小説
森の洞窟(がま)に響け、ウチナーの声
目取真俊『眼の奥の森』(影書房、2009)
越川芳明

 米国東部の小さな大学で教えている若い日本人の友人が、目取真俊の短編を教材にしているという。興味をひかれて、どの作品をテクストにしているのか、と訊いてみた。「身体と文学」といったテーマの授業で、日米の文学やアニメや映画など数多くのテクストを扱うらしく、手塚治虫、塚本晋也、宮崎駿、押井守、村上春樹、クローネンバーグ、オクタビア・バトラー、J・G・バラードらの作品にまじって、目取真俊の「希望」という短い作品(英訳)がリストに挙げられていた。

 このリストはいろいろなことを考えさせてくれた。一つには、日本文学や沖縄文学といった文脈を取り払うだけでなく、文学やアニメといったジャンルの枠も取り払って、文学作品を脱コンテクスト化することで、目取真俊は意外な作品群と呼応しあうのだ、という新鮮な驚きを得たことだ。だが、その一方で、目取真俊の作品には、リストに挙がっている他の作品にはない切迫したアクチュアリティがあり、まるで接合を拒む膿(う)んだ生傷のように、リストのそこだけグサリと穴があいてしまっているような、違和感を覚えたのも確かなのだ。

 「希望」という小説は、もともと「朝日新聞」の夕刊(一九九九年)に掲載されたものであり、米兵による沖縄の女性の強姦事件に業を煮やして、アメリカ人の幼児を誘拐して殺してしまう犯人を語り手にした衝撃的な作品だ。語り手は、八万人の抗議集会を何の効果もあげない「茶番」でしかないと考え、「自分の行為はこの島にとって自然であり、必然なのだ」と、言いつのる。

 この小品に見られるようなたった一人の「復讐劇」は、目取真俊の文学の隠れたモチーフだ。たとえば、短編「平和通りと名付けられた街を歩いて」では、皇太子の訪沖に際して、沖縄県警が過剰に自己規制の包囲網を張るなか、一人の認知症の老女が県警の目をかいくぐって糞の付いた手で皇室の車のガラスを汚す。「軍鶏(タウチー)」のタカシ少年は小学五年生でありながら、地域のボスにたった一人で立ち向かう。さらに、前作『虹の鳥』では、暴力団によってクスリ漬けにされていたマユという若い女性が、逃避行の途中で米兵の子供を誘拐して殺す。

 『眼の奥の森』も、太平洋戦争時に、伊江島と思える離島を攻略した米軍の若い兵隊たちによって小夜子という若い女性が強姦され、それに対して、盛治(せいじ)という地元の男がたった一人で行なう復讐が主たるモチーフとなっている。

多彩な視点と語り
 『眼の奥の森』がこれまでの小説と大きく違う点は、まるで万華鏡を覗くかのような、語りの視点の多彩さだ。
 戦時中から現在までのスパンで、<戦争>という現実が、十個の語りのプリズムによって乱反射する。被害者側の視点もあれば、加害者側の視点もあり、過去の視点もあれば、現在の視点もある。

 だが、それはただの「薮の中」の手法といった、ある意味で気楽な、相対的な世界の提示と違う。
 なぜなら、目取真俊がある企図のもとに、こうした語りのプリズムを用いているからだ。
 全体の語りの視点と内容について簡略に触れておこう。なお、小説には章立てがないが、ここでは便宜的にナンバーをつけておく。

① 国民学校四年生のフミと十七歳の盛治。三人称の語り。戦時中の離島。四名の米兵による小夜子の強姦事件。盛治による銛での米兵刺傷事件。
② 区長の嘉陽。二人称の語り。現代の沖縄。若い女性による戦争体験の聞き取り。
③ 久子。三人称の語り。現在。戦争トラウマ。泣きわめき、走りさる女性の夢。六十年ぶりの沖縄行き。松田フミとの出会い。
④ フミ。三人称の語り。現代の離島。戦争時の回想。発狂する小夜子。盲目になる盛治。
⑤ 盛治。一人称の語り。ウチナー口による独白形式。現代の沖縄。戦争時の回想。米軍による取り調べ。日系人の通訳。
⑥ 若い作家。一人称の語り。現代の沖縄。大学時代の友人Mからの依頼。銛の先を利用したペンダントをめぐるエピソード。
⑦ 米兵。一人称の語り。戦時中の離島。集団で沖縄の女性を強姦する。仲間と海で泳いでいるうちに銛で刺される。
⑧ 沖縄の中学の女子生徒。一人称の語り。現代の沖縄。クラスでの陰湿ないじめ。戦争体験を聞く授業。
⑨ タミコ。一人称の語り。現代の沖縄。中学で戦争体験を語った後に声をかけてくる女子生徒たち。戦時中の回想と現在の生活。里子に出された姉(小夜子)の赤ん坊。父の怒り。姉の施設への訪問。
⑩ 日系アメリカ人の通訳。一人称。現代。手紙形式。沖縄県による顕彰の辞退の理由。米軍による強姦事件の隠蔽。

 一般的に、小説の中で、立場の異なる登場人物たちが一人称で語り合い、同じ事件なのに、まったく正反対の「事実」が露呈するというのが<薮の中>の手法の特徴だとすれば、この小説で、根本的な「事実」をめぐって、視点によるぶつかり合いはない。小夜子の強姦事件をめぐって、その被害者や加害者による見え方の違いはあっても、事件そのものを否定するような人物は登場しない。小夜子の強姦という「事実」に関しては、冒頭の三人称の客観的な語りによって提示されてしまっているからだ。目取真俊の力点が「事実」の有無にないのは明らかだ。

 むしろ、この小説では沖縄内部の差異に目が向くような仕掛けがなされている。

 この小説は季刊誌『前夜』の連載がもとになっているが、採用されなかった掲載誌(第一回目)には、外部者や障害者への差別問題が書かれている。その他に、第二章の、かつての区長であった「嘉陽」という老人を視点人物とした二人称の語りが注目に値する。

 「カセットテープを交換し小型レコーダーをテーブルに置いてスイッチを入れると、まだ大学を卒業して二年にしかならないという小柄な女は、お前を見やりかすかに笑みを浮かべたように感じたが、透明なプラスチックの窓の内側で回転するテープに視線を落としたお前は、二世の名前も女の名前も思い出せず、不安な気持ちになりかけていた」(39頁)

 一般的に、二人称の語りは視点人物と読者を一挙に結びつける効果を発揮する。とすれば、これは戦時中に、盛治の隠れ家(洞窟(がま))を米軍に密告した経験のある「悪辣な」区長の立場に読者を追いやる挑発的な試みだ。そこに沖縄人が被害者の立場に安住することを許さない作者の激しい姿勢が見られる。と同時に、この二人称の語りは、記憶の隠蔽や歪曲などの実例をしめし、沖縄で行なわれている戦争体験の安易な聞き取りを風刺するものでもある。

ダイアレクトと世界文学
 短編集『魂込め(まぶいぐみ)』に収録された短編「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」は、これまでに日本文学が達成した独白形式の傑作だったが、残念ながら標準語だった。だが、この小説の第五章は、ルビという方法で、終始沖縄のダイアレクト、ウチナー口で語られる。

 村上春樹が国民作家として、通常は小説など読まない読者層にも支持される理由は、その言語にある。どんなにひどい暴力的な殺人シーンを扱ったとしても、語る言葉が誰にでも分かる標準語であるかぎり、読者は軽く受け入れる。翻訳も容易であるので、海外で紹介されやすく、それによって、村上春樹を世界文学の担い手として持ち上げる批評家が出てくる。

 だが、世界文学は世界のへりから、いわゆる標準語に風穴をあけるようなダイアレクトとの創造的な格闘からしか生まれない。というのも、ダイアレクトは、音の豊かな響きによって微妙な感情を表出し、それによって均質化した日本語そのものを多様性へと導くからだ。結果的に、それはマイノリティの立場に立った多元的な思想を生み出す。

 ガルシア=マルケスのマコンド、フォークナーのヨクナパトーファ、大江健三郎の四国の森、中上建次の路地など、世界文学の先人のモデルを受け、目取真俊もヤンバルの森を想像上のトポスへと確立しつつある。

 だが、、重要なのは、沖縄の言葉をどれだけ小説の言語として創造できるかという点である。それによって、目取真俊は、世界の周縁のカリブ海で「クレオール語」で創作を行なうエドゥアール・グリッサンなどと一気につながる。今福龍太の『群島-世界論』にならって言えば、世界文学は、国籍に関係なく不定形の連なりをなすからだ。

 だから、目取真俊が沖縄から発信する文学は、ダイアレクトとしての沖縄語のハンディキャップを引き受けねばならない。ルビを多用した盛治のウチナー口の独白こそ、その一つの成果だ。

 「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ・・・、風(かじ)に乗(ぬ)てぃ、波に乗(ぬ)てぃ、流れ(ながり)て行きよる(いちゅぬ)我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な?」(103頁)

 これは戦後、六十年以上たった沖縄での独白であり、その中で盛治自身の言葉が日系の通訳の話す標準語や、父母や区長のウチナー口などとも激しく衝突し合い、その総体が彼の記憶となっている。それは、いわばさまざまな言語からなる森であり、読者はその森をかいくぐって盛治の内面に近づく。その凝縮された声が「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ」なのだ。

 この声は、後に妹のタミコが耳にする、精神病を病んだ小夜子がつぶやく声「聞こえるよ(ちかりんどー)、セイジ」(202頁)に鮮やかに対応して、読者に感動を与えないではおかない。

 目取真俊の「抵抗の文学」は、この連作小説に見られる森の洞窟(がま)に響くかのような語りの工夫によってさらなる進化を遂げただけでなく、世界文学の一員として確かな一歩をしるしたと言えるだろう。

(週刊朝日別冊『小説トリッパー』2009年冬季号、434―436頁に若干手をいれました)
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書評『エクスタシーの湖』

2009年12月09日 | 小説
『エクスタシーの湖』の書評がでました。共同通信から各地の新聞(信州新聞、山陽新聞、福井新聞ほか)に配信されたようです。
 佐々木暁さんの労作である装丁も、「装丁から文字組みまで、造本の美しさに惚れ惚れする」と、ベタ褒めでした。


一色こうき
「詩なのか、神話なのか、はたまた夢日記なのか」
 
 なにやら異様な小説だ。「マジックリアリズムとSFと純文学の境界域を越境する作家」と紹介されているが、本作ではもっと別の領域に入り込んでいる。詩なのか、神話なのか、はたまた夢日記なのか、とにかく規格外。

 文字列からして通常の小説の流れから外れ、あらぬ方向へとたゆたい目まぐるしいほど。しかし、豊穣なイメージが続き最後まで飽きることなく読んでしまう。小説はまだまだ進化しうる。そんな可能性さえ感じた。

 ロサンゼルスの街の中心部に突如として巨大な湖が出現する。主人公クリスティンは湖で息子を失い狂女へと変貌。そこに、天安門事件で戦車にひとり立ち向かった男の物語や、舟で湖を巡る女医の話が交差する。小説は無数のエピソードが重なりカオスと化す。

 湖が「レイク・ゼロ」と名付けられているように、舞台は9・11後のアメリカを想起させる。作品で描かれている混乱は、つまりテロ以降に同国で起こったことなのだ。

2009/12/07 10:51 【共同通信】http://www.47news.jp/EN/200912/EN2009120701000216.html
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カリブの黒人文化をめぐるシンポジウム

2009年11月25日 | 小説
ちょっと先のことになりますが、多民族研究学会に招待されて、シンポジウムを開くことになりました。
内容は、次の通りです。カリブ海の非英語圏の黒人文化をとくに信仰に光を当てて、画像/映像つきで語り合います。
(写真は、佐藤文則氏による「ハイチのヴードゥ教のお寺」 著書『ダンシングヴードゥ』より)

日時:2009年12月19日(土)午後3時05分~5時半
   
場所:青山学院女子短期大学 N202教室
(東京都渋谷区渋谷4-4-25、http://www.luce.aoyama.ac.jp/access/map.html)

□シンポジウム
「カリブ海とアフリカをつなぐーー神霊、民間伝承、そして文学」

越川芳明(兼司会:明治大学) キューバ映画にみる奴隷制とサンテリア
工藤多香子(慶応義塾大学)「黒い」キューバを追い求めて――リディア・カブレーラと黒人(ネグロ)の 信仰
佐藤文則(フォトジャーナリスト) スヴェナンスの村からーーハイチの生活とヴードゥ教

カリブ海域の黒人の生活と芸術を論じる。とりわけ、ハイチのヴードゥー教やキューバのサンテリアなど、カリブ海域の黒人奴隷たちが伝えてきた信仰を論点 の中心に据えて、それが生活や民話や芸術(文学や映画)の中でどのような影響 を与えてきたのかを検証する。

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ハシムラ東郷の劇

2009年11月22日 | 小説
少し前に紹介した宇沢美子の労作『ハシムラ東郷』が劇になったようです。
坂手洋二作/演出で、「燐光群」が演じます。
20世紀前半、アメリカで人気を博したニセ日系作家による新聞コラム「ハシムラ東郷」です。
コラムに添えられたイラストが、アメリカにおける日本人のイメージの形成に寄与したといわれています。

来週、高円寺の「座高円寺」に見に行きます。
24日には、坂出氏と宇沢氏のトークがあるようです。

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書評 中村文則『掏摸(スリ)』 

2009年11月04日 | 小説
「父親」のいない「犯罪小説」
ーー中村文則『掏摸(スリ)』(河出書房新社、2009年11月)

越川芳明

 犯罪者の視点から現代日本を見るという、実に小説家ならではの倒錯的な試みに挑戦した作品だ。

 ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』が、高利貸しの老女殺しを行なう男を主人公にして、貧富の格差の激しいロシア社会を見据えたように。

 語り手の「僕」は中年の掏摸(スリ)だ。裕福そうな人間に狙いをつけて、電車の中や雑踏で財布を抜き取るのを生業とする。
 
 そんな「僕」は、子供の頃から塔を幻視してきた。
 
 それは彼方にありながらも、絶えず「僕」を見張っている。

「どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は遠く、美しかった」(144頁)

 「僕」にとって、塔とは何なのか。

 一人称の語り手が読者に隠している情報もあるはずで、家族についてまったく言及しないことから推測するに、もしかすると、「僕」の父親のことかもしれない。

 とはいえ、「僕」にとって、象徴としての抑圧的な父親は別に存在する。

 チェスのコマのように他人の運命を弄ぶのが趣味という、木崎という名の不気味な男だ。

 この男は、スリのようなせこい犯罪はせこい人間のやることだと言う。

 闇社会に生きる彼は大物の政治家や投資家を狙うだけでなく、実行犯として参加させる「僕」やその仲間を犯行後、虫けらみたいに消すことも躊躇しない。

 木崎のように絶大な権力を有する者が、塔によって象徴される屹立するペニス(男性中心的)だとすれば、「僕」がスリのターゲットとするポケットや鞄は、いわばヴァギナや子宮の象徴である。

 母親や妻によって示される女性的価値が、家族のいない「僕」の前には、四年前に自殺してしまった人妻の佐江子や、スーパーで万引きする女性の姿をとって現われるが、彼女らはともに男性の犠牲となっている。

 「僕」は、塔=木崎=権力者に圧倒され、追いつめられながら、ポケット=万引きの女=スリといった「せこい」が、女性的な行為/価値観によって救われる。

 「僕」はひょんなことから「父親」となる。

 万引きする女の息子に慕われて、木崎とは違う、抑圧しない女性的な父親の役割を果たす。

 万引きの手口を少年に教える一方、万引きはやめるように諭し、母親の男の暴力に悩む少年を守るため、施設に入れようとする。

 「犯罪小説」という形を取りながら、新しい父親のあり方を示唆した「家族小説」として読めるところが面白い。

(『すばる』2009年12月号、314頁)
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島田雅彦氏絶賛、エリクソンの新作(翻訳)『エクスタシーの湖』

2009年11月02日 | 小説
手前味噌で恐縮ですが、スティーヴ・エリクソンの新作(拙訳)がまもなく刊行されます。

『エクスタシーの湖』(筑摩書房)です。エクスタシーから何を想像するかは、各自まちまちでしょうが、すぐにシャーマニズムの神がかりや憑依を連想する人はするどいです。

 小説家の島田雅彦氏が帯び文を寄せてくださいました。

 「パラノイア? いやシャーマンだ。他人の夢を奪う現代に夢見る力の点滴を行うエリクソンは21世紀のカウンターカルチャーの導師だ。」

 でも、この本はシャーマニズムに関する本ではありません。小説です。SFとミステリーとSMとがごった煮のごとく、駆使されまくります。過去の歴史と未来を取り込みながら、「アメリカとは何か?」と問うジャンル横断型の純文学です。形式が斬新で、二つの語りが同時併行します。最後に、そられが内容的にも語り形式の上でも見事にドッキングするのですが、どのようにドッキングさせるか、訳者冥利につきます。

以下の文章は、「訳者あとがき」の一部です。

巫女(ふじょ)の予言
 前作『真夜中に海がやってきた』では、主人公のクリスティンは、ダブンホール島のチャイナタウンで叔父によって育てられた「孤児」だった。

 十七世紀以降、親としてのヨーロッパから独立を果たし、新大陸で独自のアイデンティティを確立してきたアメリカ合衆国を「孤児」のメタファーで捉えるのはかならずしも突飛ではない。

 夢を見ない少女時代のクリスティンは、ホテルに泊まる男たちの寝込みを襲ってレイプを行なって、かれらの夢を奪おうとする。それは他者のヴィジョンの強奪という意味で、さしずめアメリカ史における先住民の迫害と虐殺を意味するのだろうか。
 
 さらに、本作ではクリスティンの名前の多様さが注目に値する。クリスティンは、息子を失って五年後にはルル・ブルーと称して別人の人生を歩んでいる。

 さらに、<赤いドレスの狂女>として野次馬たち興味の対象になるかと思えば、<聖クリスティン>として、シャトーXを根城に、怪しいカルト宗教をおこし、<ルル女王様>、<湖上の神託女王>、<ゼットナイトの女王>などとも呼ばれて、経血による占いやSM的行為を繰りひろげる。
 
 ルルになったクリスティンは、神がかり的なエクスタシー(脱魂)の技術によって、巫女(ふじょ)のごとくあの世とこの世の間を行き来する。
 
 小説はそうしたシャーマニズム的様相を帯びる一方、クリスティン=ルルの無意識(子どもを失う恐怖)が米国に民族的・階級的な対立から来る内乱や戦争を引き起こすかもしれないと示唆している。

 つまり、この小説自体が予言者としての巫女の機能を果たしている。
 
 その点で、興味深いのは小説の近未来的設定であり、アメリカ合衆国の各地で武装蜂起があり、内戦が勃発している雰囲気が仄(ほの)めかされていることだ。たとえば、2017(2016)年には、中国人ワンがカリフォルニアの軍事基地で特権的な地位にあり、湖上に人知れず流れてくる音楽が敵によるどのようなメッセージなのか、識者たちと検討しているシーンがある。
 
 2029年には、ブロンテとルルの二人が汽車に乗ってシカゴへ向かうシーンが出てくるが、アルバカーキより西に300キロの北アリゾナの先住民の村プエブロで、二人の旅は頓挫してしまう。それより先は戦時非常事態にあるためだ。
 
 米国における民族的対立のメタファーとして示されるのは、プエブロの隠れた歴史として開示される、スペイン系(白人)大農園主の末裔の男性による先住民女性に産ませた子どもの放棄(それは、ナバホの少女バルブラシタの出産でも繰り返される)である。

 そうした裏切り行為は先住民の虐殺というアメリカ史の禍根を象徴し、内乱はそうした行為への反逆といえる。
 
 そうした禍根の犠牲者で自殺したバルブラシタの幼子を引き取るクリスティンの行為は、負の歴史を引き受けるものであり、贖罪の行為と見なすことができよう。(以下省略)
 
 


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