越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

村上春樹『1Q84』をどう読むか

2009年07月21日 | 小説
「卵と壁」を超える瞬間
――村上春樹『1Q84』を読む
越川芳明


 村上春樹のエルサレム賞受賞と受賞式出席でのスピーチがマスメディアを賑わせたのは、まだ記憶に新しい。村上の英語スピーチは、「さすが世界のムラカミ!」という単純で好意的なものから、「どうせだったら、卵を壁に投げつけるパフォーマンスぐらい見せてほしかった」という皮肉なものまで、日本人の間でいろいろな反応を引き起こした。

 しかし、私にとっては「卵と壁」をめぐる「文学的な表現」が一人歩きしていた印象が強い。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
 そう村上は受賞の席で言った。

 私が初めにテレビや新聞などのニュースでその言葉を聞いたとき一番奇異に感じたのは、マスメディアが揃って、その文学的な表現を、村上によるイスラエル政府批判と受けとっていたことだ。報道関係者は、イスラエル軍によるガザ攻撃に言及しているとして、壁がイスラエル軍で、卵がパレスチナ市民、という単純な構図を思い描いたのだ。

 だが、私はそう受け取らなかった。そうした文学的(多義的/曖昧)な表現では、壁というのは、過激なシオニストたちにだけでなく、イスラム原理主義者にもなりうる。その場合、卵は自爆テロの犠牲になるイスラエル市民をさす。さらに言えば、その表現は、硬直した原理主義一般に対する批判にもなりうる。つまり、「世界のムラカミ」は「私は原理主義が嫌いです」みたいな、分かりきったことしか言っていないのではないか。

 そのときの私の直観では、村上はパレスチナ市民の味方であることを表明したのではない。だから、イスラエル政府があらかじめ村上のスピーチ原稿を読んだとしても、手直しを要求するまでもなかった。

 立野正裕は、私の知るかぎり、村上の受賞スピーチに対して最も苛烈で正鵠(せいこく)を射た発言を行なっている。立野は、ある雑誌に載せたエッセイの中で、「暴力を前にしてあえて自らを卵になぞらえてみせる人間の声が、少しも伝わってこない。これを日本の報道のように、ガザ攻撃批判と言うのは笑止である」と、断言する。

 さらに、村上やソンタグなどの文学者をふくむ有名人を利用する権力システム(それはイスラエル政府にかぎらない)への批判を行なう藤永茂の言葉、「異端的な発言が許されるのは、それを赦しておくことが『言論自由社会』のイメージに貢献する限りにおいてであって、もし実害が生じて、全体の勘定がマイナスになれば、即刻停止ということになる筈です」という言葉を援用しながら、立野は次のように述べるーー。

 「村上が事前に送った原稿が削除や手直しを要求されなかったのは当然だろう。壁と卵をめぐる村上の言葉は前もって検閲するまでもまかったのだ。なぜなら、まさにこういうふうに中辛くらいの味付けで語ってほしい、と「壁」が願ったとおりに「卵」はしゃべって来たにすぎないのだから」(『社会評論』一五七号、二〇〇九年)

 立野の言いたいことは、たとえ村上の発言がどんなに「文学的」な表現でなされたとしても、村上はイスラエル政府によって「政治的」に利用されてしまったということだ。村上のほうも、ノーベル賞への布石としてエルサレム賞受賞を利用した。両者にとって、「世界のイスラエル」と「世界のムラカミ」を宣伝するいいチャンスだった、と。


 村上春樹の『1Q84』は、一九九五年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教をモデルにした寓話として読める。一九七九年に山梨の山中に宗教法人化した「さきがけ」という団体と、その教祖とも呼ぶべきリーダーが出てくる。(ちなみに、オウムの宗教法人化は一九八九年だ)。

 そうした宗教カルト団体は、当然のごとく原理主義的な存在だが、小説の主人公の一人、青豆という名の三十歳になる女性は、そうした原理主義的な存在への嫌悪感を隠さない。

 都内の公立図書館へ行き、新聞の縮刷版で一九八一年に起こった事件を調べているうちに、「エジプトのサダト大統領暗殺」の記事を発見して、宗教がらみの原理主義者たちに対して「一貫して強い嫌悪感」を抱く。「そういった連中の偏狭な世界観や、思い上がった優越感や、他人に対する無神経な押しつけのことを考えただけで、怒りがこみ上げてくる」のだった。

 その少しあとでも、原理主義者は唾棄すべきものとして、「便秘」と比べられる。「便秘は青豆がこの世界でもっとも嫌悪するものごとのひとつだった。家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たちと同じくらい」

 なぜか? なぜそれほどまでに青豆は原理主義者に嫌悪感を抱くのか?

 宗教カルト団体「さきがけ」が壁だとすると、果たして、青豆は、ちょうどイスラエルで村上が英語でカッコよくタンカを切ったように、壁につぶされる卵の側に立つ人間なのだろうか。

 だが、青豆をめぐる物語は、それほど単純ではない。

 少しまわり道をしよう。この小説は、青豆と、彼女と対になる同年齢の主人公、川奈天吾を中心にして、家族の絆や精神的なよすがを失った現代日本人の内面を追いかける新しいタイプの<時代小説>のおもむきを持つ。

 広告代理店の台頭やワープロの普及に象徴される、後期資本主義(情報・消費主義)の到来を彷彿とさせる一九八〇年代半ばを背景に、その市民生活を逐一描写しながら進む。だから、村上文学の意匠としてというより、そうした時代精神の反映として、ファッションや料理、音楽、文学、映画の比喩や言及が交えて語られるのは、小説の内的欲求といえよう。

 だが、この小説はなぜこれほど長くなければならないのか。

 これまでの新聞や雑誌での絶賛の嵐にもかかわらず、私にはこの小説は冗漫に感じられる。一つには、たとえばピーター・ケアリー『ケリー・ギャングの真実の歴史』やオルハム・パムク『雪』と違い、この小説は比喩やアナロジーやメタファーがばらばらに一人歩きしていて、有機的な機能を果たしていない。まるで一つひとつの筋肉の鍛え方は素晴らしくても、全体的には均整のとれていないボディビルダーの体を見ているように、ちぐはぐな印象を受ける。

 さらに、重要なことに、小説を読み進めるうちに次第に明らかになるように、主人公の秘密の開示にあたって、あまりに驚きが少なすぎる。だから心地よいのだ、という読者もいるだろう。最初に謎かけがあり、次第にその謎が解けていくミステリの語り形式の、それが醍醐味だ、と。

 だが、この小説では、主人公の内面の秘密まで、後づけの説明でたいていのことは分かってしまう。だから、後づけの説明に触れることは、この小説に礼儀を欠くことになる。しかし、後づけの説明、すなわち粗筋を語って興味がそがれ、主人公の内面まで分かってしまうとすれば、そのようなものが果たして小説といえるのか。ライトノベルとどう違うのか。


 そろそろ青豆と原理主義的な存在をめぐる話に戻ろう。読者にとって驚きの少ない物語展開の中で、ほとんど唯一といってよいくらいの驚きのシーンが<Book2>の半ばに訪れる。

 それについて語る前に、いくつかの基本的なことについて触れておこう。

 まず、青豆自身が原理主義的な精神を抱えた人間だったということだ。彼女はいわば、内に壁を抱えた卵だった。単なる卵でも単なる壁でもない、複雑な内面を持つ人間だった。

 彼女の出自には、エホバの証人を思わせる「証人会」というキリスト教の原理主義団体がかかわっている。両親が輸血拒否や国家祭事の拒否をはじめ、過激な信仰による戒律を守り、彼女も十歳までその信仰に基づいた生活を送らされてきた。十歳のときに、信仰と決別したとはいえ、それが体に染みついている。

 だから、青豆の原理主義者への批判は、自己批判の色合いを帯びている。だが、あるときまでは、彼女はそれに気づかない。われわれ読者も。そのあるときというのが、<Book2>の半ばなのだ。

 青豆は元来、武闘派である。現在はスポーツクラブのインストラクターをしているが、中高、大学とソフトボール部に属していた。友人らしき者はいないが、生涯でただ一人、親友と呼べる女性がいた。その名を大塚環といい、彼女は同じ高校のソフトボール部に属していた。大塚環は大学のサークルの先輩に無理やり強姦されるが、彼女に代わって、青豆はその男の先輩に個人的な制裁を加えた。先輩のアパートの部屋をバットで完全に破壊した。その後、大塚環が不幸な結婚をして、家庭内暴力から自殺に追い込まれたときには、彼女に代わって元夫に制裁を加え、特製のアイスピックで死に至らしめる。そこにあるのは「弱者のため」という論理であり、正しいことをしたという感慨しかない。

 一方、麻布の「柳屋敷」に住む老婦人もまた、いわば、壁によってつぶされる卵の側に立つといった受賞スピーチの村上に近い立場にいるといえるかもしれない。老婦人は、原理主義的な宗教カルト団体のメンバーに対して、「人格や判断能力を持ち合わせていない人々です」と、断じて憚らない。

 老婦人は家庭内暴力の犠牲になっている女性や子供たちに緊急避難所としてアパートを開放し、青豆には私怨からではなく、「もっと広汎な正義のために」と、家庭内暴力をふるう「卑劣な男たち」の殺人を依頼する。だが、その社会正義への揺るぎない信念は、青豆の言葉を借りれば、老婦人が取り憑かれている「狂気に似た何か」(あるいは、「正しい偏見」)を思わせる。

 老婦人は青豆に対して、仕事のあとに、必ず「あなたは間違いなく正しいことをしました」と、ねぎらいの言葉をかける。ここでは、老婦人にとっても青豆にとっても、正義と悪の境界はあきらかだ。まるで、藤田まことの『必殺仕置き人』を見ているように。


 私が驚きといったのは、そうした卵=正義、壁=悪といった単純な構図が崩れる瞬間が訪れるからだ。

 老婦人が最後に青豆に制裁を依頼する対象となるのがカルト集団のリーダーと目される男だ。老婦人が得た情報によれば、この男は、老婦人のシェルターに脱出してきた、子宮を破壊された少女つばめをはじめ、四人の初潮前の少女をレイプしているらしかった。老婦人にとって、このリーダーは「歪んだ性的嗜好を持つ変質者」であり、この世から抹殺すべき悪だった。

 都内の一流ホテルに出向いた青豆が目にした男は四十代後半から五十代前半で、巨体だった。一通り筋肉マッサージをほどこし、いつもの作業に取りかかろうとしたが、青豆はアイスピックの最後ひと突きができない。

 その男が青豆に語ったところでは、月に一、二度全身の筋肉が硬直し、麻痺状態になる。その奇病は教団では、恩寵/神聖な証と見なされ、その間、勃起したかれと十代の少女たちが後継者を生むために交わる儀式が行なわれている。それが巫女の務めである。交わりはリーダーの肉体を滅びへと向かわせるが、教団はそれを「恩寵」の代償であると考える。だから、ただの世俗的な意味でのレイプではない、と。

 リーダーの男は安楽な死を待ち望む。青豆が殺しにきたのも知っている。青豆はアイスピックのひと突きができない。この男がただの原理主義者でないから。おそらく青豆は自らの内なる原理主義に気づいたから。その男の中に自分の姿を見たのだ。

 最終的に、青豆はこのカルト団体のリーダーを死に至らしめることになるが、自分が老婦人のいうように「正しいことをした」と納得できない。

 「世界のムラカミ」は、イスラエルで多義的な「卵と壁」のメタファーを使って日本のマスコミ煙に巻いたが、この本の著者である村上春樹は、この<驚きのシーン>で、カルト団体のリーダーに象徴されるカリスマに引きつけられる空虚な現代日本人の姿を描いて、「卵と壁」の単純な構図を超えたのだ。

(『村上春樹『1Q84』をどう読むか』河出書房新社、2009年、199-203頁)
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書評 カズオ・イシグロ『夜想曲集 五つの音楽と夕暮れをめぐる物語』

2009年07月16日 | 小説
たそがれの音楽をモチーフにした短編集
カズオ・イシグロ『夜想曲集 五つの音楽と夕暮れをめぐる物語』
越川芳明

 カズオ・イシグロは、若い頃、聖歌隊で歌い、バンドでギターを弾き、夢はプロのミュージシャンになることだったという。
 
 本作は、そうしたアマチア演奏家としての著者の経験が活かされた短編集だ。

 単に、音楽や演奏家についての蘊蓄(うんちく)が小説の中にちりばめられているだけではない。

 たそがれを連想させる「夜想曲」をモチーフにして、長年連れ添った夫婦のあつれきやすれ違いがチェーホフの短編のように巧妙にほのめかされる。

 五つの短編は、すべて一人称の語り手によって語られるが、生計のために妥協を余儀なくされている演奏家たちだ。

 冒頭の短編「老歌手」の語り手のように、ベネチアのサンマルコ広場のカフェで、観光客のために『ゴッドファーザー』のテーマを一日に九回も演奏しなければならないといったように。

 また「モールバンヒルズ」には、ティーロとゾーニャという名の、スイス人の中年夫婦が出てくる。

 夏のリゾート観光地で、スイス民謡やヒットソングなどを演奏して生計を立てている。

 レストランの支配人からスイスの民族衣装を着るよう指示され、夫はそれを「スイス文化の一部」であると楽天的に割り切るが、妻はなぜ暑苦しい衣装を着なければならないのか不満だ。

 著者は、一流ではないミュージシャンを通して、商業世界での成功とは何かを問うている。

 特に、「老歌手」と4番目の「夜想曲」。語り手も舞台もまったく異なる2編には、隠れた細工がなされている。

 両作にシナトラなどと並び称される有名歌手の妻という設定で、リンディ・ガードナーという女性が登場する。

 「老歌手」では、中西部の田舎からスターの妻になるという夢を持ってカリフォルニアにやってきて、その夢を果たすが、結婚で破局を迎えている。

 「夜想曲」では、破局を乗り越えた彼女がいる。努力を信じる彼女と、才能がありながらくすぶっている語り手のミュージシャンとが、成功をめぐって追突する。

 この情報化社会の中で、演奏家が成功するために必要なのは天賦の才なのか、努力なのか。
 
 作品の多くに中年夫婦が登場するが、夜想曲がすべて暗い演奏になるとは限らない。

 「天才」とおだてられた若手の演奏家の落ちぶれた姿を語った最後「チェリスト」のように、ペシミスティックな帰結を迎えるものもある一方、2番目の「降っても晴れても」のように、波風が立った中年夫婦の仲裁を頼まれた男を語り手にしてコミック調に展開、明るい見通しをうかがわせながら終わるものもある。

『時事通信』2009年7月5日
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研究/創作の境界線(ボーダー)を侵犯する「未来の学」

2009年06月27日 | 小説
研究/創作の境界線(ボーダー)を侵犯する「未来の学」
安藤礼二『霊獣 「死者の書」完結編』
越川芳明 


 (感想)僕にとって、この本は今年一番の収穫かもしれない。巷では、村上春樹の『1Q84』が話題だが、こちらの本はたった150頁なのに、村上の小説の3倍中身が濃かった。書評には書ききれないことがいっぱいありました。

 (書評)
  安藤礼二は、「『死者の書』の謎を解く」という講演録の中で、学術研究の中で自らの主体性を問うた折口信夫の姿勢を高く評価している。

 昨今の科学分野でも、科学者自身の立ち位置と研究結果とは切り離せなくなっているとして、「折口学は、未来の学になる」と断言する。いうまでもなく、それは思想家であり創作家でもある安藤自身の表明に他ならない。

 タイトルにある「霊獣」とは、折口が英語やフランス語に通じたハイブリッドな表現者、岩野泡鳴の「神秘的半獣主義」の「半獣半霊の神体」からヒントを得たヴィジョンだ。

「獣と霊は分離することができない」という発想は、肉体的な愛と精神的な愛はひとつであるという、折口のプラトニズム(同性愛)に繋がるだけでなく、神の声を聴く神懸かりの吟遊詩人の登場が文学の始まりとする、折口の古代文学論とも繋がり、さらに、本書で探求される折口の未完の書『死者の書 続篇』の、空海の世界観の解釈へも繋がる。

 一応批評書と呼びうる本書は、しかし、小説を読むようなスリリングな瞬間を味わえる書物である。折口の未完の書を手がかりにして、論理のアクロバティックな飛翔が何度も見られるからだ。とりわけ、藤無染とゴルドン夫人の邂逅が語られるシーンは恐ろしく興味深い。

 無染は折口の同性愛の最初の相手であったとされる九歳年上の、浄土真宗本願寺派の僧侶だが、三十歳で没した。英語のできる僧侶として、キリストと仏陀の生涯の共通点を検討したり、キリスト教と仏教の教義(聖訓)の共通点を見いだしたりして、仏教とキリスト教の「習合」の研究をしていたのだ。

 さらに面白い存在はゴルドン夫人のほうで、彼女はシリアで生まれたキリスト教異端ネストリウス派の神秘主義思想に魅了され来日した。キリスト教の救世主(メシア)として弥勒をとらえる研究をして、『弘法大師と景教』という論考を物したという。
 安藤によれば、ゴルドン夫人は藤無染に会っていなければならないという。夫人は無染に会い、弥勒こそが仏教とキリスト教を繋ぐ鍵であり、そのことを最も良く理解していたのは空海であると伝えていた。折口は生前の無染からそのことを聴いていて、空海を主人公にした『死者の書 続篇』を書こうとしたのだ、と。

 安藤は後記において「研究は創作に、創作は研究に近づき、一体とならなければならない」と語るが、まさに本書は、そうした境界線の侵犯をみごとに実践してみせた「未来の学」といえるだろう。

(『すばる』集英社、2009年8月号、313頁)

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書評 デニス・ジョンソン『ジーザス・サン』

2009年05月01日 | 小説
「貧困大国アメリカ」を幻視する。
デニス・ジョンソン『ジーザス・サン』(白水社)
越川芳明

 11個の短編からなるが、アメリカ社会の底辺で起こっている出来事がドラッグ漬けの「俺」によって、オープンエンディング形式で語られる。

 短編集というより、これはシャーウッド・アンダースンの『ワインズバーグ、オハイオ』のような、グロテスクな人間群像を描いた「小説」と呼ぶべきだろうか。

 行き場を失った「俺」にとって最後の砦ともいうべき酒場「ヴァイン」は小説の象徴的なトポスだ。

 「ヴァインは列車のラウンジカーがなぜか線路から外れて時の沼に入り込んで解体用の鉄球を待ってるみたいな感じの場所だった。そして鉄球は本当に迫ってきていた。都市再開発で、ダウンタウン全体が壊され、捨て去られている最中だったのだ」
 
 そう、80年代後半から全米各地の都市部において盛んに「都市再開発」が行なわれ、地価や家賃が上がって低所得者たちが追いたれられた。そうした強者の論理への批判がこの小説の隠し味になっているが、それと同時に、マスコミによって喧伝される「いつわりの夢」の潰えたあとの無惨な風景が「廃墟」のイメージとして全編を貫いている。

 著者はウイリアム・バロウズにも似たドラッグ中毒者の文体の中に社会風刺を取り込む。時に幻覚と現実との境目が見えない風景を描きながら、「貧困大国アメリカ」の実態を幻視する。

 ハンター・トンプソンの小説をもとにしたテリー・ギリアムの映画『ラスベガスをやっつけろ』と、レイモンド・カーヴァーの短編をもとにしたロバート・アルトマンの映画『ショート・カッツ』を足して二で割ったようなユニークで印象ふかい小説だ。

 ここに描かれているのは、負け犬としての低所得者階級からなるアメリカに他ならない。ドラッグ売買やアルコール中毒、戦争後遺症、性犯罪、銃、病院、デトックス、アルコール中毒者更正の会合、離婚、シングルマザー、酒場通い、失業、バス通勤などがキーワードだ。

 とりわけ、真ん中に置かれた「仕事」という作品では、バスの窓から見えるこの街がリアリティの失せた「スロットマシーンの絵柄みたい」に映る。幻覚が現実で、現実が幻覚であるようなアメリカの(心象)風景を捉えた好編だ。

(『エスクァイア日本版』2009年5月号、26頁)

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書評 巽孝之『想い出のブックカフェ』

2009年03月24日 | 小説
文学を愛する人への贅沢な贈り物
巽孝之『想い出のブックカフェ 巽孝之書評集成』(研究社、2009年)
越川芳明

 旅に本は欠かせない。

 つい先日のこと、北海道で「キューバ映画祭」なる粋なイヴェントがあり、トマス・グティエレス・アレア監督の作品を見るために、冬の札幌に飛んだが、その時携えていったのは、今福龍太の『群島–世界論』だった。

 裕に五百頁を超すメガブックなので、とにかく時間を見つけて読み続けた。

 だが、雑誌で依頼されたのは、たったの九百字の書評。

 そもそもこうした超重量級の読書には、マラソン選手並みの持久力が必要だが、書評の執筆時には百メートル競争の瞬発力が要求される。
 
 そんな折り、巽孝之の積年の書評を集めた本書が届けられた。

 巽は誰もが認めるように、持久力も瞬発力も兼ね備えた書評界のマルチタレントだ。

 新聞や雑誌の短い書評も、八千字以上の学会誌の書評も、楽々とこなしてしまう(ように見える)。
 
 巽自身は、快楽主義者的なミュージシャンの比喩を用いて、次のように述べている。
 
「新聞書評が即興的で瞬間的なライブ感覚を要求されるとすれば、学術書評はじっくり時間をかけて密室で練り上げるスタジオ録音に近いかもしれない」

 本書には、著者自身が書評委員を勤めていた読売新聞(一九九七年-九九年度)や朝日新聞(二〇〇五年-〇七年度)の百二十本を超える書評をはじめ、雑誌『すばる』などの読書日記風のエッセイがまとめられているだけでなく(第II部「新聞書評の戦略―書評委員の仕事」)、バベルプレス刊行の『eトランス』ほか、アメリカ文学会などの学会誌を舞台にした学術書評(第III部「学術書評の方法―批評的研究の仕事」)なども掲載されている。

 巽による書評の特徴は、一つに選択の多彩さにある。

 現代日本文学では斉藤美奈子、新書本では永江朗といった書評のスペシャリストがいるが、巽は文学・批評を中心にした人文科学分野のオールラウンドプレーヤーだ。

 専門である外国文学(主に英語圏文学)だけでなく現代日本文学も扱い、小説や批評やノンフィクションも、純文学やSFや幻想文学も俎上に載せる。
 
 ジャンル越境の冒険心あふれる選択がいかにも巽らしい。

 とりわけ、それ自体がジャンル侵犯的なプログレッシヴ・ロックの愛好者だけあって、複数のジャンルを融合させたハイブリッドな本が好みであるようだ。

 巽自身、「音楽小説が好きだ」といって憚らない。

 実際に音楽小説として取りあげられているものは、篠田節子『讃歌』、山之口洋『完全演技者』、古川日出男『サウンドトラック』などだが、その他にも、青柳いづみこ『音楽と文学の対位法』をはじめ、スコット・ジョプリンやエルヴィス、ドビュッシー、ラップやジャズに関するノンフィクションが目白押しだ。
 
 もちろん先端的なSF批評やポストモダン文学批評の専門家だけあって、その方面の作家の本の書評も数多くある。

 アーサー・C・クラークや安部公房、J・G・バラードのほか、メタフィクションの歴史改変もの(高野史緒、皆川博子、小林恭二、高橋源一郎、村上龍、ジョン・ファウルズ、ロバート・クーヴァー、ルイス・シャイナー)、ジェンダー撹乱もの(ル=グウィン、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア)など、枚挙に暇がない。
 
 もう一つ特徴は、その技術的な創意工夫ともいうべきもので、私なりに切れ味鋭い書評を分析したところ、次のような結論に達した。

 巽の書評の極意とは――
 (1)導入部(つかみ)の工夫。(2)的確な内容解説(あらすじ)。(3)最後の決めゼリフ。

 とりわけ(3)の決めゼリフは見事であり、そのまま本のオビに使えそうな惹句ばかりだ。

 一つだけ例をあげれば、「二・二六前後の世界史そのものを耽美的なる性の歴史として読み替えるという、これはあまりに大胆な思考実験の成果である」(野阿梓『伯林星列』)。
 
 とはいえ、本書を副題にあるような「書評集成」と呼ぶのはあまりに謙虚な過小表現(アンダーステートメント)ではないだろうか。

 というのも、本書には、書評以外の部分も同じくらいの分量のエッセイや対談が収録されており、本のディズニーランドともいうべき趣向が凝らされているからだ。
 
 たとえば、第I部「ブック・クラブ文学の愛と死」では、読書共同体としてのアメリカのブック・クラブの発祥とその現在のかたちについて蘊蓄を傾ける。
 
 第IV部「お茶の時間―または読書の達人たち」では、新書をめぐって沼野充義と、師弟をめぐって四方田犬彦と、奇想をめぐって高山宏との対談を収録。

「理論と情報だけでは師匠になれない」(四方田犬彦)など、読書の達人たちの名言の数々を引き出す対談の名手としての巽の才能がいかんなく発揮されている。
 
 第V部「読書共同体の決戦―ティプトリー賞戦記」は、二〇〇七年にアメリカの文学賞の審査委員を勤めて、他の委員とメールで激論を交わしたその経緯を綴ったもの。

 各自のバイアスのかかった文学観で相手をねじ伏せようとする、凄まじいメールの応酬の記録は、「戦記」と呼ぶにふさわしい。
 
 新聞社の書評委員会の楽屋裏の話など、書評を読む楽しさを味わわせてくれるだけでなく、書評が文学への愛であることを読者に実感させてくれる、これは文学を愛する人への贅沢な贈り物だ。

『週刊読書人』2009年3月27日号

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「エスクァイア日本版」休刊宣言に一言

2009年03月06日 | 小説
「エスクァイア日本版」休刊宣言に一言

 今年22周年を迎える『エスクァイア日本版』が今年5月の刊行分をもって、休刊するという。http://www.esquire.co.jp/

 聞くところによれば、プライムローンの破綻に端を発した米国の不況や、広告の減少がおもな理由ではないようだ。

 いまでも、ファッション界をはじめとす る広告は数多く載っており、採算ベースはそこまで不調ではないようだ。それなのに、なぜだろう?
 
 文芸春秋が『諸君』を休刊し、集英社が『月刊プレイボーイ』を休刊するのは、広告収入の減った大会社がリストラクチャーするための窮余の策だろうが、 『エスクァイア日本版』の版元は、TSUTAYAであり、そういった大出版社の事情とはちがうようだ。

 思えば、10年前にスティーヴ・エリクソンの来日をプロヂュースしたときは、『エスクァイア日本版』に頼んで、小林恭二さんとの対談をセットしてもらったのだった。

 数年前の「アフリカ特集」では、アメリカ作家とモロッコという切り口でウィリアム・バロウズやポール・ボウルズの文章を書いたことがあった。

 近年のヒット作(と思える)のは、ピアノ特集号で、あるテレビ番組のヒットにあやかったものとはいえ、その号を会議の始まる前に見ていると、数名の同僚がほしがったものだった。

 最近の『エスクァイア日本版』は、最新の映画やアートや書物を扱う文化欄の充実には、目をみはるものがあった。

 とりわけ映画コーナーは3種類もある。

 1作を二人が論じるクロスレビュー、柳下毅一郎による映画評(毎回刺激的な作品をとりあげ、信頼のおける評価をくだすので楽しみにしていた)、さらに映 画監督インタビュ-(カラー写真と相まって、中身の濃いページ)がくる。

 最新本紹介のコーナーも充実していて、毎回、話題作家のインタビュ-があるだけ なく、本1冊を丁寧に紹介するコーナーもある。

 もちろん、書評欄があり、文学(日本と外国)を中心に据えて、大人の男のファッションの内側に迫る。それ はヘミングウウェイやフィッツジェラルドなど、ロストジェネレーションのアメリカ作家たちが発表の場としてきた『エスクァイア』本誌の伝統につらなるも のである。

 私は、年に何度か書評を書かせてもらったが、活字中心の新聞とも文芸誌ともちがう、オシャレにデザインされた本の写真と共に書く喜びがあっ た。

 私がそう感じるのも、たぶん私が付き合ったエスクァイアの編集者の人たちに負うところが大きいのだろう。

 アメリカのファッションの流行を追うだ けでなく、かといって、日本の伝統文化にあぐらをかくわけでなく、日本文化を日々更新するような斬新なセンスを編集者に感じることができたから だろう。

 そんなわけで、私は『エスクァイア日本版』の続刊をつよく望む。


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書評 黄晳暎『パリデギ 脱北少女の物語』

2009年03月03日 | 小説
アジア的な世界観で、二十一世紀の平和を希求する
黄晳暎『パリデギ 脱北少女の物語』(青柳優子訳、岩波書店、二〇〇九年)
越川芳明

 八十年代に北朝鮮に生まれた少女を主人公にした波瀾万丈の物語。

 パリという名の主人公は、生まれた時には、すでに女ばかり六人産んでいた母によって林の中に置き去られ、飼い犬のおかげで辛うじて一命をとりとめる。

 祖母の歌に出てくる、「見捨てられし者」という意味の「パリデギ」がその名の由来だという。

 しかし、その名には苦難を経て「生命水」なるものを得たあと家族に幸せをもたらすという「パリ王女」の伝説に由来するポジティヴな意味もある。

 物語は、二つに分かれ、前半では九十年代後半の北朝鮮や中国での主人公の苦難が語られる。

 金日成の死亡後、北朝鮮が大飢饉に襲われるなか、叔父が韓国へ亡命したとの嫌疑をかけられ、パリは父母と切り離されて、祖母と逃げるうち、中国の山奥で天涯孤独の身の上に。
 
 後半は、主人公が中国の港から乗り込む密航船の劣悪な環境と女性が辱めをうける状況が描かれたあと、ロンドンの下町での出来事が中心となる。主人公が出会うのは、同じような境遇にある移民や難民。
 
 アフリカやアジアや東欧など、冷戦構造が崩れたあと、新自由主義のシステムから取り残された周縁地域からの経済難民や、紛争で難民化した人々だ。
 
 小説は9.11米国同時テロ事件やイラク戦争をも取り込み、西洋のキリスト教社会で理不尽な嫌がらせをうける異文化の「他者」の視点を引き受ける。朝鮮人のすべての家族を失った主人公は、パキスタンからのイスラム教徒の二世と結婚し、新たな家族を築き始める。

 主人公は幼い頃から巫女(ふじょ)の才能を発揮して、危機に陥るたびに祖母の霊を呼び出し、窮地を脱することができる。

 自ら産んだ子を失うなど、様々な試練を乗り越えた末に、「戦争で勝利した者は誰もいない。この世の正義なんて、いつも半分なのよ」と、作者の主張を代弁するかのような言葉を吐く。

 本書は、かつて列強の植民地としての辛酸をなめた東アジアから出発し、グローバルな視野を持って、「譲りあいの精神」や「他者への寛容」など、アジア的な「世界観」を提言する。二十一世紀の世界平和を希求する優れた寓話だ。

 黄晳暎(ファン・ソギョン)
1943年中国生まれ。韓国人作家。『客地』『懐かしの庭』など。

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書評 今福龍太『群島ー世界論』

2009年02月26日 | 小説
世界の死者たちの声をつなぐ。
今福龍太『群島–世界論』(岩波書店、2008年)
越川芳明

 原稿用紙にして千枚を超える、おそらく今福龍太の代表作になるはずの大著だ。

 だけど、そう言いきってしまうことは、著者の企図に反するかもしれない。

 なぜなら、本書で、今福はシャーマン(語り部)のごとく、おびただしい数の死者(詩人、映像作家、思想家、ミュージシャン)の霊を呼び出し、その声を引き出しているからだ。

 今福が死者の声に拘泥するのは訳がある。

 一つには、「自分たちが生きていると感じるためにこそ、私たちは死者を必要とする」(ルーマニアからの亡命詩人コドレスク)からである。
 
 そして、奴隷船から大西洋やカリブの海に投げ捨てられた無数の黒人奴隷をはじめとして、「歴史」から見捨てられた人々の「救われなかった舌=ことば」をかり出し、それらを世界規模で繋ぎあわせることによって、従来のヨーロッパ中心の、「他者」を疎外する世界像を反転させられると信じるからだ。

 本書は全二十章からなるが、それぞれの章が海に浮かぶ群島のごとく、独立していながら隣り合う章とゆるやかにつながる。

 整然と書かれた「歴史」とは対極にあり、国家が推奨する国家語や国語に対して、ダイアレクト(方言)やクレオール語で語られたり書かれたりしたことばの響きや霊気に重きを置く。

 ウラ(心、浦、裏)や、シマ(島、集落、縞)など、ことばの類推(アナロジー)に誘われて、北米ミシシッピデルタ、カリブ海、アイルランド、奄美、済州島、ブラジル、ガイアナなど、従来の世界地図の上に、コロンブスの航海に始まる植民地主義、その近現代版ともいうべき資本主義的国家主義の「征服」と「収奪」の犠牲になった者たちの抵抗と連帯の糸線を縦横無尽に引きながら、群島の縞模様を織りなす。

 特質すべきは、新しい世界ヴィジョンのために採用されたユニークな叙述法である。

 それは、例えば、この地球の「本質」は「水」にあると捉える思考に導かれて、十九世紀北米のソローや古代ギリシャの哲学者タレース、折口信夫、島尾敏雄、ダーウィンなどを「島」と見立てて渡り歩くような、通常はあり得ない空間錯誤(アナロキスム)と時間錯誤(アナクロニスム)を意図的に採用する「誤読」の方法論だ。

 本書は、近年に刊行された人文学・思想系の書物でこれを凌ぐものはないと断言できるほど重要な作品であり、私は大いなる知的な刺激を受け、かつ読書の興奮を覚えた。

(『エスクァイア』2009年4月号31頁を改訂)

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書評 半沢隆実『銃に恋して 武装するアメリカ市民』

2009年02月21日 | 小説
なぜアメリカ市民は銃規制に積極的にならないのか?
半沢隆実『銃に恋して 武装するアメリカ市民』(集英社新書、2009年)
越川芳明

 二〇〇七年のバージニア工科大学での乱射事件など、米国では銃犯罪が頻発しながら、銃規制の運動はなかなか盛りあがらない。

 そんな武器依存症のアメリカの実態に迫った本書が採用するのは、映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でM・ムーアが採った銃=悪といった単純な図式ではなく、現場主義者のクールな文体だ。

 イラク戦争やロス暴動も取材したことがある新聞記者の著書だけに、統計的な数字とインタビュー取材に特徴がある。

 著者自らロサンジェルスの射撃訓練場で銃を撃ってみたりさえする。
 
 数多く挙げられた統計の中で驚かされるのは、アメリカ市民が二億二千三百丁の銃器を所持しているという事実である。

 それは国民の七五パーセントが銃を持っていることを意味する。

 さらに、銃犯罪による経済的損失を計算すれば、年間で一千億~一千二百億ドルになり、それは二〇〇五年夏にルイジアナ州などを襲ったハリケーン・カトリーナの被害額に匹敵するという。
 
 銃規制に反対する団体に全米ライフル協会(NRA)と米銃所有者協会(GOA)がある。

 著者は彼ら銃愛好者への取材からある「理屈」を引き出してくる。

 彼らが「革命権」なるものを信じている、と。

 銃は圧政(たとえば、かつて自分たちの独立を阻もうとしたイギリス政府)に立ち向かう道具であるという考えだ。

 そこでは、銃は民主主義のシンボルともなり、銃で武装することは神が与えてくださった基本的人権とさえなる。

 しかし、十九世紀末以来、米国政府が中南米の農民革命を軍事力で潰してきたのは歴史的事実であり、銃愛好者たちがそれに異論を唱えたことはない。

 著者が指摘するように、最大のアイロニーは、テロリストに射撃訓練場をつかう機会を与えたり武器を流出させたりして、現代アメリカははからずも「テロの支援国家」になってしまっているということだ。

 銃による犯罪が絶えることがないのに、なぜアメリカ市民は銃規制に積極的にならないのか? 

 本書は、オバマ大統領の暗殺計画説が巷に燻るキナ臭いアメリカ社会の真相を知る絶好の書だ。

(『青春と読書』(集英社)2009年3月号、74頁)

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書評 清水良典『文学の未来』

2009年02月06日 | 小説
文学の未来は外部からやってくる
清水良典『文学の未来』(風媒社、2008年) 

越川芳明

 冒頭に、純粋文章(それを短くした形で純文章)という語が出てくる。「純粋」とか「純」なんて、右翼っぽいなと思うかもしれないが、これは反語である。

 というのも、「純文章」とは、「雑文」と等価といえる概念だから。「雑文」より上にある小説――そんな文壇の常識を覆すという大胆な意図があり、誤解を避けて「雑文主義」といっていないだけだ。著者の心意気は在野精神にある。なぜなら・・・

 「純文章」とは、著者によれば、(一)既成のジャンルに属さない。(二)名づけられない種類の「文」をカテゴライズする名称である。(三)ジャンル横断的な文章を評価する方法である、からだ。

 たとえば、著者はともすれば批評家から見過ごされがちな作家を高く評価している。谷崎松子、幸田文、武田花、島尾伸三、青木奈緒ら、「文学者の縁者」の「雑記」や「作文」を取りあげ、かれらの文章が「小説」や「随筆」といった既成のジャンルに収まりきらない野性の力を秘めているという。

 著者のいわんとするところは、誤解を恐れずに一言でいえば、日本の近現代文学自体も、そういった「純文章」の担い手たちによって形成されてきたということだ。

 正岡子規の「写生文」にしても、夏目漱石の『吾輩は猫である』にしても、当時としては小説とも随筆とも名づけられない「純文章」だったのであり、硯友社の尾崎紅葉の装飾的な文章への対抗として生まれてきた。

 二葉亭四迷をはじめ、泉鏡花にしろ永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、内田百﨤にしろ、前世代の慣習的な様式の外部に立ち、「異形」や「異物」と見える新文章の創出によって次世代の作家が登場してくるのが日本文学の伝統なのだ、と。
 
 その点は、有島武郎と同様、英語で書いたものを日本語に翻訳することでデビュー作『風の歌を聴け』の文体を創出したという村上春樹でも、「みすぼらしい」を「偉大な」と言い換えるなど、文章の一切を反語法で書き換えた『さようなら、ギャングたち』の高橋源一郎でも同じであり、さらには笙野頼子、川上弘美、赤坂真理、小川洋子、柳美里ら現代作家にも当てはまる。
 
 著者は一世を風靡した『高校生のための文章読本』の編者の一人でもあった。本書でも、これ以上はない適切な例文を引き合いに出しながら、畳み掛けるように説得力をもって語りかけるが、その内容は挑発的だ。

 書店の「小説」という棚に置かれているもので、どれだけ「純文章」を実現しているものがあるだろうか、と。

 『すばる』2009年3月号

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トウガラシ講義

2009年01月24日 | 小説
1月22日(木)夜に、国際交流基金(四谷)で、トウガラシの講義をした。受講生は、みな社会人であった。パワーポイントをつくるのにむちゃくちゃ時間がかかったので、講義はその余力をかって、がっとこなした。十分間の質疑応答が二十分ぐらい延びて、そのあとを受講生の方々から名刺をいろいろといただいて、教えていただくこと多し。

メキシコのオアハカの市場で買ってきたローストしたトウガラシの匂いを嗅いでもらったり、自分で酢につけておいたハバネロピクススを味わっていただたりした。前回は、ジャガイモの講義があり、さらに次回はトウモロコシ、と中南米原産の農作物にまつわる講義が連続して木曜日の夜におこなわれる。予定表をみれば、僕自身も聴きたい。

http://www.jpf.go.jp/j/culture/civil/cross/lecture/csa/index.html
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書評 クロード・レヴィ=ストロース+今福龍太『サンパウロへのサウダージ』

2008年12月31日 | 小説
失われた「時」を探索(もと)めて
クロード・レヴィ=ストロース+今福龍太
『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房、2008年)
越川芳明

 とても贅沢な本だ。まるで西洋音楽とアフリカ音楽が一度に楽しめるサンバのように、本来二冊になるはずの本が一冊に纏められているのだから。

 さらに、そこに写真と活字からなる重層的なテクストという贅沢が加わる。

 タイトルにもある「サウダージ」という言葉は、レヴィ=ストロースにいわせると、日本語の「あわれ」に似て、「ノスタルジー」に近い意味を持つという。

 ただし、過ぎ去ったものを懐かしむというのではなく、今という時間のはかなさを懐かしむ気持ちのことだ。

 今福もそれを受けて、「私はたえず「いま」という時の瞬間的な充満と喪失に配慮するこの特異なブラジル的悲嘆のあり方を、「サウダージ」という翻訳不可能な深い感情複合体の核心に感じとった」と、共鳴している。
 
 本書の前半は、レヴィ=ストロースの写真集(今福による活字テクストの翻訳を含む)。

 オリジナル版は一九九六年に刊行されているが、写真はすべて彼が一九三五年から四年にわたってサンパウロに滞在した時に撮ったものだ。

 レヴィ=ストロースは「カメラのレンズの後ろに目を置くと、何が起こっているのか見えなくなり、それだけ事態が把握できなくなる」と、写真を撮ることの逆説を説いている。

 おそらく撮る前に、なんども都市を歩き回り、撮ることを逡巡したに違いない。
 
 現在、人口が二千万人と南米一のメガロポリスと化したサンパウロは、一九三〇年代はまだ百万人の新興都市であり、植民地の名残をとどめていた。

 レヴィ=ストロースの写真集でも富裕層の街区のそばに貧困層の街区が隣接し、近代的な路面電車のそばを家畜が通るなど、街の多様性を窺うことができる。

 さらに、「無秩序な都市化」の様相もかいま見ることができる。

 象徴的なのは、当時唯一の摩天楼として屹立していたマルティネッリ・ビルの写真であり、今福が六十五年後に同じ構図で撮った同ビルのまわりには高層ビルが乱立している。

 ビルは存在しても、現在の文脈では意味が変わっている。

 レヴィ=ストロースの写真集の中の、洗濯物がはためくイトロロの谷とか、サンパウロ初の近代的なアパートビルのコロンブス・ビルなどはすでにない。

 ここに収められた写真は、未来を幻視する「消失のヴィジョン」で撮られたに違いない。
 
 本書の後半は、「時の地峡をわたって」というタイトルの、今福龍太による刺激的なエッセイと写真集からなる。

 今福自身、レヴィ=ストロースの写真集に触発された再撮影の旅を「時の微細な痕跡をさがす彷徨」と名づけ、敢えて時間をかけて自分の足でかつてレヴィ=ストロースが歩いた場所を歩く。

 その足の下に、時の重層的な重ね書きを感じ、「時の回廊」を発見するために。

 実際、リベルダージ大通りの、屋根の石像をはじめ、今福の写真集のあちこちにその小さな、しかし重要な「発見」を見つけることができる。
 
 今福のエッセイの中で圧巻なのは、植民地主義的暴力と遠く繋がる民族学における写真撮影の意味を問い直している点である。

 ブラジルの学者から『悲しき熱帯』を、民俗誌的データの収集にもとづく体系的な記述でないと批判する声があり、今福はその限界こそ可能性だと切り返す。

 それは「力の探求」としての民族学が破綻する試みだったからだ、と。

 学問が植民地主義的暴力を助長しているケースはいまなおあり、学問の対象とされる「他者」からの眼差しを限りなく意識した本書の意義はとても大きい

(『STUDIO VOICE』2009年2月号、86頁)

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チアパスの詩人

2008年12月29日 | 小説
ペンクラブ主催の、アンバル・パストさんを「囲む会」が24日(水)にあった。パストさんは、チアパスのサンクリストバル在住の女性詩人。もともとは米国のノースカロライナ生まれだが、いまはメキシコ国籍をとり、先住民の言語ツォツィル語やスペイン語で詩を書く。

民話調の、ユーモアのある、ときにセクシャルな詩である。土曜美術社の『現代メキシコ詩集』に、細野豊氏の翻訳がある。会場で、彼女の詩集を二冊買い求めた。

会のあと、久しぶりにお会いした野谷文昭さんと喫茶店に行き、コーヒーを飲みながら雑談した。野谷さんは、某社の翻訳で缶詰になっているとのこと。岩波書店から今年の初春に出されたコルタサルの翻訳の話や、キューバやメキシコの話をうかがった。



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書評 コラム・マッキャン『ゾリ』

2008年11月25日 | 小説
放浪者(ノマド)の女性の物語
コラム・マッキャン『ゾリ』(栩木伸明訳、みすず書房)
越川芳明

 本書は東欧のロマの女性を扱った読み応えのある小説だ。しかも、翻訳はまるでロマの金物細工みたいに、一言一句にまで心憎いほど技術が行き届いている。

 作家はロマの血を引く者ではない。アイルランド人の作家である。当事者でない作家が書くマイノリティの物語は、往々にして紋切り型のステレオタイプをなぞった物語になりやすく、それゆえに逆に、世間一般の覗き趣味を満たすものとして好評を博したりする。

 しかし、この小説は、その手のウケを狙ったものではない。ロマでない作家がロマについて書く難関を、語りの構造に工夫を凝らすことで巧みにくぐり抜けている。
 
 たとえば、作家は視点人物や語りの人称に工夫をこらす。一つに、作家自身を投影したと思えるスロヴァキア人のジャーナリストが登場する章を挿入して、ロマの人々にカモられる非ロマの文筆家の姿を被虐的にコミカルに描く。そうすることで、作家はロマに対するお気楽な思い込みを巧みに回避する。

 主人公の女性ゾリ(本名はマリエンカ・ボラ・ノヴォトナー)についても同様であり、ある章では一人称の「あたし」で、また別の章では三人称の「彼女」で語っている。

 作家は女主人公の内面と、外なる歴史的背景の両方から語ることで、20世紀の歴史(ドイツナチスやファシストによるロマの虐殺や、東西冷戦下の東欧社会)という大きなコンテクストの中でマイノリティの女性の生き方をしめしている。逆に言えば、この小説はヨーロッパ史を語られざるロマ史から影絵のように切り取ろうとしたものだ。
 
 この小説には、いかに飢餓に身を苛まれようとも時の体制がおしつける同化政策や定住政策などに屈しない気高いロマも、また平気でモノを盗んだり嘘をついたりするロマも出てくる。

 主人公のゾリはその両方の特質を有し、読み書きを覚えてはならないという一族の掟を破って永久追放の裁きを受けた、いわば汚染(マリメ)を被った女性だ。しかし、幼い頃に家族をファシストによる虐殺で失った彼女がもっとも大事にしているのは、彼女とともに唯一生き延びた祖父の言葉だ。

 「よく見てごらん、川の水は深く静かに流れてるだろう。川の流れは未来永劫変わらないんだ・・・そこにある水の流れは誰のものでもない。俺たちのものでさえないんだ」
 
 スロヴァキアのロマでありながら自らの仲間の中では生きられず、戦後も放浪を重ねてついにイタリアのチロル地方の山奥に最終的な生き場を得たノマド(放浪者)のゾリ。

 ロマと非ロマの二つの社会の狭間に生きることを余儀なくされた彼女の生き方は、今日、個人レベルでも国家レベルでも「川」を所有することに躍起になっている我々に鋭い問いを投げかけてくる。世界は誰のものなの、と。
(『エスクァイア日本版』2,009年1月号、29頁)

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書評 宇沢美子『ハシムラ東郷』

2008年11月22日 | 小説
「偽装」の日系人、アメリカ社会を笑う
 宇沢美子『ハシムラ東郷 イエローフェイスのアメリカ異人伝』(東京大学出版)を読む
 越川芳明

 日系人ハシムラ東郷は、二〇世紀の初めに米国の新聞や雑誌のコラムの書き手として登場した。彼の書いたコラムは、ユーモア文学の大家マーク・トエィンにも絶賛されるほど人気を博した。

 どこかおかしい日本人英語に、ばか丁寧な言い回し。中国人や日本人など黄禍論が盛んだったときは、「私たち日本人にも有色人排斥のお手伝いをさせてください」などと、トンでもないギャグをかましていた。

 自虐的なユーモアで自らを笑い者にしながら、同時に黒人や日系人らの少数民族の人たちを無能扱いする米国社会の人種差別を笑う仕掛けだったのだ。

 一人称で語るハシムラ東郷には、自分の顔かたちの描写がなかった。そのため、文章に添えられたイラストが米国の多様な価値観を反映していた。コラムやジャポニズムの人気を受けて、ハシムラ東郷を扱ったハリウッド映画が作られる一方、カリフォルニアでの排日運動を反映したような、差別意識のつよいゴリラまがいのハシムラ東郷のイラストも登場した。

 ところが、ハシムラ東郷とは、実は白人作家ウォラス・アーウィンによって生みだされた「偽装(イエローフェイス)」の日本人だった。ハシムラ東郷は、学僕(住み込みの家事手伝いによって学費を稼ぐ苦学生)という“設定”であり、その仕事は日系社会からも蔑視されていた。

 白人作家アーウィンは、そうした最下層の有色人の道化の仮面をかぶることで、自らへの批判を逃れ、社会風刺を繰り出すことができたのである。

 とりわけ、『グッド・ハウスキーピング』という中流女性向けの雑誌では、学僕という女性的役柄を活かし(男でありながら女の仕事をするという意味で、ジェンダー・クロッシングをして)米国家庭の奥深くに入り込む。そして、掃除機の使い方すら知らないなど、その無能さを笑われる一方で、笑うママたちの親バカぶりや人種偏見、マニュアル通りの子育てなどを笑い返す。

 米国は「白人キリスト教文明」の国という自民族のアイデンティティを確立するために、黒人やアジア人などが自分たちより劣った有色人種というステレオタイプ(紋切り型)を作り出してきた。そして、学問としては極めて怪しい優生学によって人種差別を正当化しようとした。

 一方、ハシムラ東郷は白人に憧れる、日系人たちの同化論すらも揶揄した。そのように社会的弱者すらも笑いのめしていることが「政治的な正しさ」という考えが浸透した今日、ハシムラ東郷を論じることを難しくしている、と宇沢は述べるが、その点こそがアーウィンの文章が文学として後の世まで生き残れなかった理由ではないのだろうか。つまり、作者の立ち位置が高すぎたのではないだろうか。

 結局、二十世紀前半に人気を誇ったハシムラ東郷のコラムは、米国における日本人のステレオタイプの形成を助長して終わった。ハシムラ東郷の名も秘めた意図も忘れ去られ、劣った日本人というイメージが残ってしまった。

 宇沢が十年も費やし、忘れられた「偽装の日本人」を追いかけた本書は、米国のマイノリティを題材にした非常にユニークで示唆に富む「文化研究」である。それはまた、わたしたち日本人が在日外国人に対して持つステレオタイプを考える上でも大いに参考になる試みと言えよう。
(『琉球新報』2008年11月16日付の原稿に若干手を加えました)

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