ヤスエラ・ジュバニッチ『サラエボ 希望の街角』
越川芳明
冒頭に、一人の女性がケータイを使って自分の身体をなめるように動画撮影するシーンが出てくる。
中程でも、ベッドの隣で鼾をかいて眠っている恋人の寝顔をケータイで撮る。
なぜ彼女──主人公のルナ──は、変態と見まがうほどに念入りに、そんな撮影を行うのだろうか。
ルナは国営航空のキャビンアテンダント。恋人のアマルも空港の管制室で働いている。
一見華やかな職場で働くエリートの二人だが、太陽を覆い隠す黒雲のように、ある過去が彼らの暮らしに影響を及ぼしている。
ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した前作『サラエボの花』(2006年)と同様、主人公の内面に深い傷を負わせているのは、過去にあった戦争だ。
1992年4月から数年間つづいたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、この映画の舞台となるボスニアでは人口の半数近い約200万人の難民や避難民が出たという。主人公のルナはその避難民の一人であることがほのめかされる。
セルビア人共和国のビエリナに生まれ育ったという設定だ。
紛争直後にセルビア人の準軍事組織がビエリナに侵攻して、ムスリムの「民族浄化」を実施した。
ルナはそのとき両親を殺され首都サラエボに逃げてきたらしい。
一方、恋人アマルはかつて勇敢な兵士として戦いながらも、弟を喪い、戦後もアルコール依存症を病んでいる。
ガラス越しに女性の顔を撮ることによってその女性の心の闇を表現するのが監督のヤスミラ・ジュバニッチの得意とする手法だ。
前作『サラエボの花』でも、シングルマザーの主人公エスマが付き合い始めた男と一緒にカフェに行き、外の広場に群がり飛び散る鳩たちの姿を眺めているところを窓の外から撮ったショットが印象的だった。
窓ガラスに、鳩の群れの様子とエスマの顔が二重写しになり、本人も言葉にすることができないトラウマを巧みに表現していた。
本作でも、恋人のアマルが勤務中に酒を飲んで停職になり、仕事帰りのルナを迎えに行って、一緒に車で帰る道すがら、無言の二人をフロントガラス越しにカメラは捉える。
同様に、ルナが黒装束に身を包んだ女性の運転する車で、遠い山間のムスリム・コミューン(集団キャンプ場)にアマルを訪ねるときにも、助手席の窓ガラス越しに彼女の顔を捉える。
いずれのシーンでも、我々はイスラムの原理主義にのめり込む恋人に対して不安や不信を抱く穏健なムスリム、ルナの心のうちを窓ガラス越しに覗き込む。
イタリアの学者リディア・クルティによれば、通俗的なテレビドラマでは、女性が家の中に幽閉されて社会参加できないことを表象するイメージとして「窓」が使われるという。
「窓」は、女性にとっての抑圧装置としての「家」の換喩表現なのだ。
撮影監督のクリスティーン・マイヤーは、陳腐になりかねないそうした映像メディアの常套手段を使い、主人公の憂いを含んだ表情を窓ガラス越しの二重写しのショットによって強調する。
とはいえ、本作には唯一例外的なシーンが存在する。
かつて目の前で両親を殺されたという故郷ビエリナの家をルナが幼友達と訪れた後、帰ってきたサラエボの街では折からの犠牲祭のために、女性たちが手をつないで踊っている。
窓ガラス越しの映像は、ルナがその目に浮かべる決然とした表情を捉える。そのショットは、女性同士のホモソーシャルな連帯を暗示し、窓ガラスはルナと外の女性たちとを結びつける解放装置として働く。
アマルは戦争後遺症の克服をイスラムの信仰に求めるのに対して、ルナは恐ろしい過去(故郷の家)を直視することで克服しようとする。
アマルが極端に原理主義的な信仰に頼ることで、報復や暴力への道を示唆するのに対して、ルナは許しと共存の道を選ぶ。
かつてルナのものだった家に住んでいる幼い女の子に「どうして出て行ったの?」と訊かれ、「あなたたちに追い出されたのよ」と答えることはしない。
女の子の頭を片手でそっと撫でるだけだ。
そのシーンにはルナの精神の成長が見て取れる。
ルナは、距離を持って自分自身を見つめることができているからだ。
冒頭で使われる音楽も印象的だ。
民族主義や戦争に反対しているというボスニアの人気ムスリム・レゲエバンド「Dubioza Kolektiv」が歌う「Blam」。
2008年にリリースしたアルバム『Firma Ilegal(違法企業)』の中の、ヒップホップ風の曲だ。
刹那的に高級車を乗り回す金持ちのドラ息子。だけど車をカッ飛ばす道は、お粗末な砂利道で……そんな情景が自虐的に歌われる。
この国のインフラへの批評だけでなく、ルナと同様、距離を持って自己を見つめ、自分自身を風刺と笑いのネタに転化している。
ルナは、大事なものや人を喪うことを恐れて、自らの形見として残しておくかのようにケータイでビデオを撮影していたが、もはやそうした行為に頼ることはないだろう。
ラスト近く、彼女は恋人に「戻ってきてくれ」と言われ、こう答える。「あなたが戻ってきて」
戦争後遺症に苦しみながらも、少しずつ「自分」を回復してゆく姿が心を打つ。
(2010年2月19日(土)より、岩波ホールほか、全国で順次ロードショー)
『すばる』2011年1月号 pp.302-302.
越川芳明
冒頭に、一人の女性がケータイを使って自分の身体をなめるように動画撮影するシーンが出てくる。
中程でも、ベッドの隣で鼾をかいて眠っている恋人の寝顔をケータイで撮る。
なぜ彼女──主人公のルナ──は、変態と見まがうほどに念入りに、そんな撮影を行うのだろうか。
ルナは国営航空のキャビンアテンダント。恋人のアマルも空港の管制室で働いている。
一見華やかな職場で働くエリートの二人だが、太陽を覆い隠す黒雲のように、ある過去が彼らの暮らしに影響を及ぼしている。
ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した前作『サラエボの花』(2006年)と同様、主人公の内面に深い傷を負わせているのは、過去にあった戦争だ。
1992年4月から数年間つづいたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、この映画の舞台となるボスニアでは人口の半数近い約200万人の難民や避難民が出たという。主人公のルナはその避難民の一人であることがほのめかされる。
セルビア人共和国のビエリナに生まれ育ったという設定だ。
紛争直後にセルビア人の準軍事組織がビエリナに侵攻して、ムスリムの「民族浄化」を実施した。
ルナはそのとき両親を殺され首都サラエボに逃げてきたらしい。
一方、恋人アマルはかつて勇敢な兵士として戦いながらも、弟を喪い、戦後もアルコール依存症を病んでいる。
ガラス越しに女性の顔を撮ることによってその女性の心の闇を表現するのが監督のヤスミラ・ジュバニッチの得意とする手法だ。
前作『サラエボの花』でも、シングルマザーの主人公エスマが付き合い始めた男と一緒にカフェに行き、外の広場に群がり飛び散る鳩たちの姿を眺めているところを窓の外から撮ったショットが印象的だった。
窓ガラスに、鳩の群れの様子とエスマの顔が二重写しになり、本人も言葉にすることができないトラウマを巧みに表現していた。
本作でも、恋人のアマルが勤務中に酒を飲んで停職になり、仕事帰りのルナを迎えに行って、一緒に車で帰る道すがら、無言の二人をフロントガラス越しにカメラは捉える。
同様に、ルナが黒装束に身を包んだ女性の運転する車で、遠い山間のムスリム・コミューン(集団キャンプ場)にアマルを訪ねるときにも、助手席の窓ガラス越しに彼女の顔を捉える。
いずれのシーンでも、我々はイスラムの原理主義にのめり込む恋人に対して不安や不信を抱く穏健なムスリム、ルナの心のうちを窓ガラス越しに覗き込む。
イタリアの学者リディア・クルティによれば、通俗的なテレビドラマでは、女性が家の中に幽閉されて社会参加できないことを表象するイメージとして「窓」が使われるという。
「窓」は、女性にとっての抑圧装置としての「家」の換喩表現なのだ。
撮影監督のクリスティーン・マイヤーは、陳腐になりかねないそうした映像メディアの常套手段を使い、主人公の憂いを含んだ表情を窓ガラス越しの二重写しのショットによって強調する。
とはいえ、本作には唯一例外的なシーンが存在する。
かつて目の前で両親を殺されたという故郷ビエリナの家をルナが幼友達と訪れた後、帰ってきたサラエボの街では折からの犠牲祭のために、女性たちが手をつないで踊っている。
窓ガラス越しの映像は、ルナがその目に浮かべる決然とした表情を捉える。そのショットは、女性同士のホモソーシャルな連帯を暗示し、窓ガラスはルナと外の女性たちとを結びつける解放装置として働く。
アマルは戦争後遺症の克服をイスラムの信仰に求めるのに対して、ルナは恐ろしい過去(故郷の家)を直視することで克服しようとする。
アマルが極端に原理主義的な信仰に頼ることで、報復や暴力への道を示唆するのに対して、ルナは許しと共存の道を選ぶ。
かつてルナのものだった家に住んでいる幼い女の子に「どうして出て行ったの?」と訊かれ、「あなたたちに追い出されたのよ」と答えることはしない。
女の子の頭を片手でそっと撫でるだけだ。
そのシーンにはルナの精神の成長が見て取れる。
ルナは、距離を持って自分自身を見つめることができているからだ。
冒頭で使われる音楽も印象的だ。
民族主義や戦争に反対しているというボスニアの人気ムスリム・レゲエバンド「Dubioza Kolektiv」が歌う「Blam」。
2008年にリリースしたアルバム『Firma Ilegal(違法企業)』の中の、ヒップホップ風の曲だ。
刹那的に高級車を乗り回す金持ちのドラ息子。だけど車をカッ飛ばす道は、お粗末な砂利道で……そんな情景が自虐的に歌われる。
この国のインフラへの批評だけでなく、ルナと同様、距離を持って自己を見つめ、自分自身を風刺と笑いのネタに転化している。
ルナは、大事なものや人を喪うことを恐れて、自らの形見として残しておくかのようにケータイでビデオを撮影していたが、もはやそうした行為に頼ることはないだろう。
ラスト近く、彼女は恋人に「戻ってきてくれ」と言われ、こう答える。「あなたが戻ってきて」
戦争後遺症に苦しみながらも、少しずつ「自分」を回復してゆく姿が心を打つ。
(2010年2月19日(土)より、岩波ホールほか、全国で順次ロードショー)
『すばる』2011年1月号 pp.302-302.