越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

『無垢の博物館』(その3)

2011年05月21日 | 書評
 ケマルはニシャンタシュの高級住宅地を出て、ファーティフの貧民街のホテルに逗留し、下町チュクルジュマのフュスンの家を我が家のように感じる。

「イスタンブルの津々浦々は、もはやフュスンを想起させる表徴と一体化してしまった」と吐露するケマルの、フュス ンの亡骸を追いかける彷徨は、近代化の象徴ともいうべき裕福な新市街と、ロマやクルドの人たちも住む貧しい旧市街とのあいだの見えない壁を越える旅である。

と同時に、それは精神の旅でもあり、フュスンの母ネスィベ婦人に代表される謙虚な下町の人の視点を獲得するほどにケマルは変身を遂げる。

 初めのほうで、僕は前半が退屈の極みだと言った。

しかしながら、それはゆったりとケマルの内的宇宙を押し広げてゆき、恋愛小説として成立させようとするパムクの意思の表れだった。

それなくしては、いま述べたような多層的な構造も意味をなさなかったはずだから。

ケマルは、プルーストが好きだったというギュスタヴ・モロー美術館に想を得て、フュスンにゆかりのものを展示する博物館の創設を思い立つ。

参考のために世界中の博物館をしらみつぶしに見てまわるが、その偏執狂ぶりは、フュスンの残した吸い殻のコレクションが四二一三本、訪ねまわった博物館は五七二三にのぼるといった指摘をはじめ、かれの数字へのこだわりに見てとれる。
 
我々は死を克服することはできないが、ケマルの「無垢の博物館」のように、幸せを感じた生の一瞬を保存し、忘却の嵐に抗うことはできる。

本書は、声高に叫ばれる政治の「正義」の荒波の中で「失われた瞬間」を求めつづける「偏執狂」の悲しい業を密かに肯定するものではないだろうか。

小説の執筆も、また多かれ少なかれそうした「敗者」のつぶやきを拾う営みに他ならないからであり、とすれば、パムクがケマルの代理人として語るというメタフィクションの仕掛けも、ただの文学的なお遊びの域を超えて、文学の心意気に支えられたものであると言えるだろう。

『図書新聞』2011年5月7日号
コメント
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