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書評 グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』

2012年09月24日 | 書評

歴史の断片から創作する作家

エドゥアール・グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』

越川芳明 

 

 一応、フォークナー文学をめぐる「評論」と呼ぶこともできる。

 だが、本書は「評論」と呼ぶにしては息の長すぎる叙述法によって、

 あたかも著者自身がフォークナーの文学の特徴として挙げる「渦」や「めまい」を作りだすかのように、

 結論を宙づりにする。


 周知のように、

 フォークナーはアメリカ深南部ミシシッピ州の小さな町を舞台に、

 白人の家系の没落や崩壊を描き出した。

 

 南部白人にそうした破滅をもたらす「病毒」は、

 プランテーション経営の前提となっていた「奴隷制」であり、

 そこから派生する人種問題だった。


 フォークナーの作品において、人種差別はイデオロギーではなく、

 一人ひとりの心の内奥の問題として描かれた。

 白人純血種への偏執によって、皮肉にも「混血」の裏切りを受けるトマス・サトペンのように。

 

 本書のタイトルの一部「ミシシッピ」は、州名であると同時に、

 呪われた「宿命」を背負わされた歴史の<場>の象徴でもある。

 

 だが、それらの文学作品は、果たして黒人奴隷の末裔たちの読解に耐えるのかどうか。

 グリッサンのフォークナー論はその点に焦点をあて、

 作家の実生活と創作における人種差別をめぐる分裂/葛藤を扱っていて、大変興味深い。

 

 ただし、それだけではない。

 本書には、フォークナー作品の読解という表向きの顔の下に隠された、

 もう一つの企図があるのだ。

 

 それは<クレオール文学論>とも<世界文学論>とも呼びうる、自己の文学論を提示したことだ。

 その特徴の一つは、本書で<痕跡>とも<踏み跡>とも訳されている歴史の断片、

 アフリカ奴隷のような無名人たちが遺した欠片から、小説を創作するということである。


 それは権力者の遺した史料から「ナショナルヒストリー」を書く試みとは正反対の創作行為だ。

 

 言うまでもなく、数多くの世界の作家たちがそのことに取り組んでいる。

 本書でも、コロンビアのマルケスほか、「フォークナーの血族」が紹介されているが、

 我が国でも、大江健三郎や中上健次のみならず、

 目取真俊(「ヤンバル」)、古川日出男(「トウホグ」)、田中慎弥(「赤間関」)など、

 優れた作家たちがそれぞれの「ミシシッピ」を掘り下げて、歴史の暗部をえぐり出している。

 

(「日経新聞」2012年9月23日に、若干手を加えました。)