歴史の断片から創作する作家
エドゥアール・グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』
越川芳明
一応、フォークナー文学をめぐる「評論」と呼ぶこともできる。
だが、本書は「評論」と呼ぶにしては息の長すぎる叙述法によって、
あたかも著者自身がフォークナーの文学の特徴として挙げる「渦」や「めまい」を作りだすかのように、
結論を宙づりにする。
周知のように、
フォークナーはアメリカ深南部ミシシッピ州の小さな町を舞台に、
白人の家系の没落や崩壊を描き出した。
南部白人にそうした破滅をもたらす「病毒」は、
プランテーション経営の前提となっていた「奴隷制」であり、
そこから派生する人種問題だった。
フォークナーの作品において、人種差別はイデオロギーではなく、
一人ひとりの心の内奥の問題として描かれた。
白人純血種への偏執によって、皮肉にも「混血」の裏切りを受けるトマス・サトペンのように。
本書のタイトルの一部「ミシシッピ」は、州名であると同時に、
呪われた「宿命」を背負わされた歴史の<場>の象徴でもある。
だが、それらの文学作品は、果たして黒人奴隷の末裔たちの読解に耐えるのかどうか。
グリッサンのフォークナー論はその点に焦点をあて、
作家の実生活と創作における人種差別をめぐる分裂/葛藤を扱っていて、大変興味深い。
ただし、それだけではない。
本書には、フォークナー作品の読解という表向きの顔の下に隠された、
もう一つの企図があるのだ。
それは<クレオール文学論>とも<世界文学論>とも呼びうる、自己の文学論を提示したことだ。
その特徴の一つは、本書で<痕跡>とも<踏み跡>とも訳されている歴史の断片、
アフリカ奴隷のような無名人たちが遺した欠片から、小説を創作するということである。
それは権力者の遺した史料から「ナショナルヒストリー」を書く試みとは正反対の創作行為だ。
言うまでもなく、数多くの世界の作家たちがそのことに取り組んでいる。
本書でも、コロンビアのマルケスほか、「フォークナーの血族」が紹介されているが、
我が国でも、大江健三郎や中上健次のみならず、
目取真俊(「ヤンバル」)、古川日出男(「トウホグ」)、田中慎弥(「赤間関」)など、
優れた作家たちがそれぞれの「ミシシッピ」を掘り下げて、歴史の暗部をえぐり出している。
(「日経新聞」2012年9月23日に、若干手を加えました。)