4月5日(日)
朝から小雨。風はないが、肌寒い。
トレーニングウェアの上に、長いダウンジャケットを羽織って外出。駅前のコンビニで『東京中日スポーツ』(首都圏版)を買う。裏一面に関東大学サッカーリーグの記事が出ていることが多い。案の定、キャプテン和泉竜司君(政経学部4年)のもとへ笑顔で駆け寄る明大選手たちの写真が大きく載り、「明大執念」「2度追いつき最後は主将の右足」「和泉快幕弾」の文字が踊る。
東京中日スポーツ
電車で新宿に出て、喫茶店で新聞を読み、原稿のつづきを書く。
人間も60歳(かんれき)をすぎれば、すでにサッカーの試合でいう「インジュリータイム」。それは「アディショナルタイム(追加時間)」とも呼ばれるが、副審がボードで、残り時間があとどのくらいあるかを教えてくれるサッカーの試合と違って、こちらの残り時間は誰も教えてくれない。
「人生とは、反対側の括弧を待つ括弧にすぎない」*(1)と述べたのは、キューバの亡命作家インファンテ。
反対側の括弧、すなわち「死」の訪れは、いつくるのか、誰にも分からない。
試合終了の笛を聞くのはいつなのか。きょうか、明日か、あさってか。それまでは「カルぺ・ディエム」の精神*(2)で行くことにしよう。
電車で八幡山のグラウンドへ。サブのチームが専修大学とトレーニングマッチをやると聞いた。しばらく雨を避けて、ジムの中で学生たちと話す。
きょうの目的は、学生たちの学習面での問題点の聞き取り調査。農学部3年の学生M君は、専門の理数科系の科目が難しいと言っている。高校時代の教科書からやり直さないと付いていけない、と。政経学部4年のS君は、就職活動の最中。いろいろと先輩の話を聞いたり、会社訪問したりして、進路先を模索している様子。
そのうち、専修大学との練習試合を終えたサブのメンバー全員がジムにやってきて、FW三苫元太君(政経学部4年)を中心に一カ所に集まり、反省点を洗い直している。試合中にディフェンスとオフェンスのあいだに、守りの温度差があったようだ。試合中に互いの意見を伝えあい、修正することが大事だと確認していた。
専修大との練習試合
さて、きのうは西が丘スタジアムで、関東大学リーグの開幕戦があった。どんよりとした曇り空だった。桜は満開だが、温度は低く肌寒かった。もっともゴールからゴールまで百メートルあるスペースを走りまわる選手にとってはちょうどいいくらいかもしれないが。
本蓮沼へ向かう電車の中で、和田勇樹君(国際日本学部3年)に会う。明治高校出身で、自宅から通っているという。駅から一緒にスタジアムまで歩く。チェーンでない弁当屋がある。和田君によれば、安くてうまいと評判の店らしい。すべて二百八十円。スタジアムへ向かう人たちが列をなしている。ニンニクの芽と豚肉炒め弁当を買う。
和田君は試合に出る選手の代わりに、開会式に出るらしい。会場入口で主務の西原天童君(政経学部4年)に入場証をもらい控え室へ向かう。すでに学連の仕事をしてくださっているOBで総務担当の石井譲二さんの顔も見える。まだ2時間前なのに、いつもながら早い。そのうちに栗田大輔監督、三浦佑介ヘッドコーチも到着。ユニバーシアードの代表選手を連れて韓国に遠征に行っていた神川明彦総監督も、井澤GMも顔を出す。控え室では、和泉キャプテンだけトレーナーの入念なマッサージを受けている。このあとミーティングをおこなう。
きょうのテーマは「絶対に勝つ」。ここ5年ほど初戦に勝ったことがないらしい。それほどのスロースターターなのだ。去年は秋シーズンを無敗で終えて、専修大と勝ち点47で並んだのに、得失点差で優勝を逸したのだ。14勝5敗3分け。監督によれば、今年は勝ち点50(以上)をめざす。16勝4敗2分け(勝率82パーセント)以上で、達成できる。そのためにも、開幕ダッシュは大事なのだ。
とはいえ、2月、3月と新チーム結成時に、全日本学生選抜チームに多くの選手を輩出。チームプレーの練習時間が少なかった。だから、コンビネーションは、うまく行くはずがない。それは折り込み済みだ。ミスをしてもそれを修正すればいい。そう栗田監督は指示を出す。
関東学連のビラを見ると、順天堂大学の監督は、かつての日本代表選手、堀池功氏が就任したらしい。大榎克己、長谷川健太とともに、「清水東三羽烏」のひとり。栗田監督の先輩でもある。
試合は、前半9分に早くも守備を崩されて失点を喫する。得点を決めたのは、全日本学生選抜のFW長谷川竜也君。さすが順大の背番号10。パスを出したのは新里諒君。まだ2年生のMFだ。
守備の距離感が悪かったようだ。ただちに、栗田監督と三浦コーチの指示が飛ぶ。ボランチの柴戸海君の動きがよくなり、相手ボールを奪う機会が増えてくる。前半のうちに同点に追いつきたい。 そう思っていると、右サイドバックの室屋成君(政経学部3年)から道渕諒平君(農学部3年)に絶好のパス。道渕君、得意のドリブルでゴールまでまっしぐらに突き進み、シュート。キーパーが弾いてゴール前は混戦に。詰めていた誰かがシュートを放ち、同点ゴール。最初は誰だったのか、ベンチから見えなかった。あとで聞けば、FW藤本佳希君(文学部4年)が決めたようだ。 前半は1−1で折り返す。
後半は開始直後に順天堂のMF原田鉄平君(2年)に三十メートルのスーパーシュートを決められ、ふたたび追う展開に。ベンチは、慌てることなく指示をだす。こういうシチュエーションをどうやって克服するか、それだけに集中して楽しもう、と。
選手もそうだが、どう修正するか、ベンチも試されている。点を失ってからただちに、FW小谷光毅君(政経学部4年)の代わりにFW木戸皓貴君(文学部2年)を投入。その直後に、右コーナーキックを得て、差波優人君(政経学部4年)の蹴ったボールを木戸君が見事なシュート。絵に描いたように見事なセットプレイ。誰もがあっと驚いた。
それで、2−2の同点に追いつく。それにしても、その日のファーストタッチでゴールを決めた木戸君の技術には舌を巻いた。藤本君に木戸君と、明治の得点は文学部ドイツ文学専攻の学生によるもの。さながら独文学会シンポジウム。スタンドの応援席から、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が流れてくる(なわけないか)。最前列に陣取るサッカー部員の応援席は大いに沸く。
さらにその数分後に、ふたたびセットプレイがまわってきて、ペナルティエリアのゴール右側から、和泉君が倒れながらゴールを決め、ついに3−2と逆転。
逆転してからの残り15分+3分のロスタイムは、順大の攻撃のチャンスをボランチの柴戸君がことごとく詰みとる。マン・オブ・ザ・マッチには和泉君が選ばれて、インタビューを受けた。影のマン・オブ・ザ・マッチは柴戸君かもしれない。
こういう厳しいプロセスをへて勝つ。こんな幸せな気持ちに浸れることはそう多くはない。すべて選手たちと、監督をはじめスタッフのおかげである。トルコの現代作家もこう言っている。
「幸せになろうと努め、“時間”を忘れることに挑めるのは、ただ人間だけである」*(3)
「時間を忘れることに挑む」とは、分かりにくいかもしれない。人間は「忘却する動物」だから、いま味わった「幸せ」もいずれは忘れてしまいがちだが、そうならないように努めるということ。そう僕は解釈した。
註(1)ギジェルモ・カブレラ・インファンテ『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』(現代企画社、2014年)403ページ。
(2)カルぺ・ディエム Carpe Diem 「この日をつかめ」という意味のラテン語。古代ローマ詩人ホラティウスの詩から。「いまこのとき」を重視する生き方。「一期一会」という思想にも通じるように思う。
(3)オルハン・パムク『無垢の博物館』(早川書房、2010年)下巻、56ページ。