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世界と日本のボーダー文化

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映画評 『東ベルリンから来た女』(監督/クリスティアン・ペッツォルト)

2012年12月08日 | コラム

「踏みとどまる」という「越境」

『東ベルリンから来た女』 監督/クリスティアン・ペッツォルト

 越川芳明  

揺れるバスの中に、一人の女性が立っている。彼女の無表情な顔のアップが映しだされる。やがてバスから降りると、ひとりベンチに腰をおろし、煙草に火をつけて一服する。  

彼女はバルバラという名の医師。西ドイツへの移住申請を却下され、しかも、懲罰として東ベルリンの大病院から、片田舎の病院に左遷させられた。だから、彼女は朝早く病院に着いても、反抗的に始業時間まで仕事を始めない。  

懲罰はそれだけにとどまらず、秘密警察(ルビ:シュタージ)に絶えず見張られ、ときには問答無用の家宅捜索を受け、肛門までさぐられる屈辱的な身体検査を強いられる。  誰もが逃げ出したくなるような警察国家での生活が描かれるなか、興味深いのはバルバラが文学とかかわるシーンが二つ出てくることだ。この映画では文学作品が隠れた機能を果たしている。  

ある日、矯正施設から脱走したステラという少女が、人民警察に捕まり病院に連れて来られる。バルバラは母親のように優しくステラに接し、病院内で唯一彼女の信頼を得ることに。そうした親身な応対の一つが、ステラの枕もとで小説を読んで聞かせることだった。  

バルバラが病院の図書室で選んだ一冊は、マーク・トウェーンの『ハックルベリー・フィンの冒険』である。十九世紀アメリカを舞台にしたこの小説は、孤児のハックが黒人奴隷ジムの逃亡を手助けし、ミシシッピ川を筏で下る場面が有名だが、バルバラがステラに読んできかせるのも、この逃亡にかかわる場面だ。  

朗読シーンの中で、実際にバルバラの声が発せられるのは、次の二つのだ。

「彼ら(町の人々)は僕の死体を探すだろう」(第七章で、ハックが自分自身の逃亡を画策する)と、「森の中で、僕は本を読み、ジムに説明した」(第十四章で、逃亡したハックと黒人奴隷が一緒に過ごすところ)だ。  

なぜこの二つだったのだろうか。プランテーション経営の土台となる奴隷制を敷いたアメリカのミズーリ州と、ベルリンの壁崩壊以前の、秘密警察が目を光らせる監視社会の東ドイツ。時代と場所はまったく異なるが、抑圧的な体制から逃亡したいという願望は、共通している。ハックの手助けが、バルバラの最後に下す決断と遠くつながっていることも、作品を観た人にはわかるだろう。  

文学がかかわるもう一つのシーンは、バルバラが病院の上司アンドレに誘われ、彼の家を訪ねる場面。居間の書棚には小説がびっしり並んでおり、その中の一冊にバルバラが興味をしめす。  アンドレの説明によれば、『郡官医』というその小説は、老医と重体の結核患者の少女のあいだの「恋愛」を題材にしたものだという。少女は、老人とは知らずに自分の担当医を恋い慕い、自分の「恋愛」を成就する。が、やがて病にたおれる。  

恋する人と詩人と狂人は、みな空想の中に生きている――そう言ったのは、シェイクスピアだが、アンドレからこの小説を借りてくるバルバラの心境に引き寄せて考えてみると、空想の中で恋する幸せを得た少女のエピソードは、バルバラにも、空想に生きる「詩人」(周りの人には、「狂人」と映るかもしれないが)の心が宿っていることを我々に伝えるものではないだろうか。  言い換えれば、最終的に自分自身の逃亡よりステラのそれを優先するバルバラには、幸せの尺度は、人間の外部(社会的条件)ではなく、内部(心)にあるということがわかっているのだ。  

その証拠に、バルバラは、東ドイツにやってきて「西に行けば、僕の稼ぎで十分だ。きみは働かなくてもいい」と語る、西ドイツの恋人の言葉に結果的に従わなかった。それでは、何に心の充実を見いだしたのだろうか。  西ドイツへの逃亡を一途に夢見て、体制だけでなく病院の同僚に対しても固く心を閉ざしたバルバラは、ステラをはじめとする患者への治療を通して、「プロの医師とは何か」に目覚めてゆく。バルバラと同じく左遷の憂き目を味わったらしい上司アンドレの存在も見逃せない。たとえ非人道的な国であっても東ドイツに留まり、バルバラが「下衆」と吐き捨てる秘密警察の妻が相手でも「病人なら助ける」と言って、「プロの医師」としての模範をしめすからだ。  

映画はそうしたバルバラの内的変化のプロセスを、余計な説明をいっさい加えずに映像によって語らせる。たとえば、最初のバスのシーンから始まり、アンドレの車に同乗したり、ポンコツの自転車で通勤したり、電車に乗って恋人の調達してくれた逃亡資金を取りに行ったりと、バルバラの移動のシーンが数多く挟まれている。それらは逃亡をめぐって彼女の内部でわき起こる心の揺れ、彼女の内的な葛藤のメタファーになっているのだ。  

とりわけ、強風の吹きすさぶ中、自転車で森の中に逃亡資金を隠しに行ったり、回収しに行ったりするシーンは象徴的だ。バルバラは金を大きな岩の下に埋めるが、その岩の上には、大きな十字架がたっている。それは、人生の岐路に立ってどちらに行くべきか逡巡する彼女の内面のメタファーになっているだろうし、やがて果たされる彼女の犠牲的な行為とその精神をも暗示するものだろう。  

この映画は、西側に行けば幸せになれるといった通念に逆らって、国境(ルビ:ボーダー)の壁を越えない女性を扱う。だが、彼女の精神内部で起こった大きな「移動」を巧妙かつ緻密に描いているという意味で、優れた越境映画なのだ。

(『すばる』2013年1月号、に若干手を加えました)


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