真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道 草田男
昭和二十九年、句集『美田』より。
草田男自身の自句自解によると「ある秋の日の田舎道でのこと、自分の行先を告げ、そこへ行く道順を訊ねたところ、近くにいた一人の白痴が指で道を真直ぐに指し示した」という。その瞬間的な白痴の動作からある啓示を得、この句が生まれたという。
道は「道路」の他に「人生の道」と解釈してもいいだろう。芭蕉の<この道や行く人なしに秋の暮>の道、<この秋は何で年とる雲に鳥>の秋に呼応していると解釈する人もいる。草田男は西洋哲学やキリスト教にも造詣が深かったが、自解の「道」は西洋的な神的な道でなく、東洋的な道徳という道だろう。
しかしそれだけでは単純な鑑賞に終わってしまう。「真直ぐ」とはあれこれ迷わずにということかも知れないが、「往け」の「往」には勢いの意がある。しかし「白痴」とは何を象徴しているのだろうか。
作句の現場に実際に白痴(と見立てた人)はいたのだろうが、山本健吉よれば、この白痴はドストエフスキーの小説「白痴」の主人公ムイシキン侯爵だとする。が、草田男は自ら白痴と自認する川端茅舎を尊敬して、畏敬の念を抱いていた。道を教えてくれた人に茅舎を重ねたのでは、という憶測もできる。
ここでもっと大胆な解釈を試んでみたい。「真直ぐ往け」と示したのは草田男自身でなかったのか。白痴は己に対するパロデーだったのではないかと。神経症に悩んだ草田男であるが、茶目っ気でユーモアな面も持っていたから。この句を得て、草田男はしばし安寧の世界を味わったことだろう。
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昭和二十九年、句集『美田』より。
草田男自身の自句自解によると「ある秋の日の田舎道でのこと、自分の行先を告げ、そこへ行く道順を訊ねたところ、近くにいた一人の白痴が指で道を真直ぐに指し示した」という。その瞬間的な白痴の動作からある啓示を得、この句が生まれたという。
道は「道路」の他に「人生の道」と解釈してもいいだろう。芭蕉の<この道や行く人なしに秋の暮>の道、<この秋は何で年とる雲に鳥>の秋に呼応していると解釈する人もいる。草田男は西洋哲学やキリスト教にも造詣が深かったが、自解の「道」は西洋的な神的な道でなく、東洋的な道徳という道だろう。
しかしそれだけでは単純な鑑賞に終わってしまう。「真直ぐ」とはあれこれ迷わずにということかも知れないが、「往け」の「往」には勢いの意がある。しかし「白痴」とは何を象徴しているのだろうか。
作句の現場に実際に白痴(と見立てた人)はいたのだろうが、山本健吉よれば、この白痴はドストエフスキーの小説「白痴」の主人公ムイシキン侯爵だとする。が、草田男は自ら白痴と自認する川端茅舎を尊敬して、畏敬の念を抱いていた。道を教えてくれた人に茅舎を重ねたのでは、という憶測もできる。
ここでもっと大胆な解釈を試んでみたい。「真直ぐ往け」と示したのは草田男自身でなかったのか。白痴は己に対するパロデーだったのではないかと。神経症に悩んだ草田男であるが、茶目っ気でユーモアな面も持っていたから。この句を得て、草田男はしばし安寧の世界を味わったことだろう。
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草田男を調べていて辿りつきました。
どきっとする句ですね。
この句に自解は何にのっていたものでしょうか?
これは素敵で深い句ですね。初め?でしたが、自句自解で句意が伝わってきたみたいです。私なりの鑑賞文も書いてみたいところです。
これからもちょこちょこ読ませてください。