吾妹子の肌なまめかしなつの蝶 山頭火
山頭火にもこんなに色っぽい、艶めかしい句があるのだ。山口県の郷土の文芸誌『青年』の同人となり定型句を発表しているので、その当時の句作と思われる。『青年』は明治44年、山口県下の同好の士を集めて創刊したものだが、その中心は山頭火で、ツルゲーネフなどの翻訳を載せている。また、田螺公の俳号で俳句結社「椋鳥会」に所属していた。
さて掲句の「吾妹子」はどんな女性かは定かでない。少年時代に母の自殺という、心の傷を受けた山頭火だったが、高校・大学生活で一人くらい憧れの女性がいたとしてもなんら不思議はない。通りすがりの若い女性の肌に艶めかしさを感じても、正常な反応だろう。また、たとえ密かに恋していた女性がいたとしても、誰も非難はできない。むしろそれが健全は青春時代だろうが、山頭火から色恋の匂いがしてこない。とすると、「吾妹子」はいやいや一緒になった結婚間もない妻のサキノと考えても不自然でない気もする。
また、女性嫌いと宣告する山頭火だが、この俳句に接するかぎり、その後の女性への偏見や結婚の失望感など全く想像できない。
姉の死、末弟の死と続き、自己の不幸を思えば思うほど、母が恋しさは募る。母への思いは時間が経って薄れるどころか増々強くなる。結婚しても、山頭火にはサキノはあくまで妻であり一人の女性であって、けっして母の代わりにはなれないのだ。更に、結婚後の山頭火の女性観は、必ずしも健全とは思えない方向へジャンプする。
そうした山頭火の人生観と句を観賞するには、どうしてもその生い立ちを知る必要がある。そこでまずは、山頭火の誕生から佐藤サキノと結婚し、その翌年長男健の出生に至るまでの略歴をみてみたい。
明治15年(1882)12月3日山口県佐波郡西佐波令村第136番屋敷(現・防府 市八王子2丁目)、父竹次郎、母フサの長男として誕生。本名は正一。種田家は「大種田」といわれるほ どの大地主だった。
竹次郎は、地元の政治に巻き込まれ、また遊蕩にふけって、事業も家庭も顧みなかった。
明治25年(1892)11歳。三月のこと、母親のフサが自宅の井戸で投身自殺している。享年33歳 だった。夫竹次郎の度のすぎた遊興が一つの原因と考えられる。竹次郎は傾く家の財産を顧みず地方の政 治に奔走し、遊蕩は続いた。
明治35年(1902)21歳。9月、早稲田大学大学部文学科に入学する。
明治37年(1904)23歳。神経衰弱症が原因か、それとも生家の経済的な事情かにより、早稲田大 学を退学し帰郷する。
借財が重なり、種田家の屋敷が一部売却される。
明治39年(1906)25歳。祖先代々の家屋敷を売却し、隣村大道村の酒造場を買収し、一家で移 住。種田酒造場を開業した。
明治42年(1909)28歳。8月、佐藤咲野(サキノ)と結婚。山頭火は乗り気でなかったが、両家の親の熱心さに負ける形だった。
明治43年(1910)29歳。8月、長男健出生している。
父の勧めを断れず、明治42年8月に近村の佐藤サキノと結婚式をあげているが、二十歳のサキノは美人で物静かな女性だったという。
サキノの父光之輔も地方の政治に関わっていた。とすると、親同士の政治がらみの結婚であったのか。しかしまたもや父竹次郎の遊蕩が原因で、種田酒造場は没落し、一家離散となる。山頭火は親子三人で、新天地の熊本をめざした。
後年、山頭火は日記で次のように述べている。
『私は恋といふものを知らない男である。かつて女を愛したこともなければ、女から愛されたこともない(少しも恋に似たものを感じなかったとはいひきれないが)、わたしは何よりも酒が好きだ、恋の味は酒の味のやうなものではあるまいかと、時々考へては微苦笑を洩らす私である。酒は液体だが女は生き物だ、私には女よりも酒が向いてゐるのだろう!
女の肉体はよいと思ふことがあるが、女そのものはどうしても好きになれない』
これは女性に対する嫌悪感でも不信感でもなかろう。自己に自然に起こる反射的な罪意識のような気がしてならない。つまり女性を愛し、女性にふれた瞬間に起こる反射的な拒否反応である。
とはいえ、結婚一年目にして、長男健が誕生しているし、妻への愛と父親らしい感情もあっただろう。神経は多少疲弊していたというものの、山頭火にも家長としての社会的責任の自覚も芽生えたことだろう。
それは次の短歌に、山頭火の心理を読むことができる。
一杯の茶のあたたかさ身にしみてむしろすなほに子を抱いて寝る
金のこと思ひつづけつけふもまた高きにのぼり見おろしてけり
子とふたり摘みては流す草の葉のたゞよひつつもいつしか消ゆれ
山頭火の心が微妙に揺れていることがわかるが、加えて結婚後の心境を詠んだ短歌があるので紹介したい。
美しき人を泣かして酒飲みて調子ばづれのステヽコ踊る
旅籠屋の二階にまろび一枚の新聞よみて一夜をあかす
酒飲めど酔ひえぬ人はたゞ一人、欄干つかみて遠き雲みる
酔覚の水飲む如く一人に足らひうる身は嬉しからまし
回覧雑誌「初凪」通巻十四号(大正二年)に掲載。「百弁せり夜」と題した中に旧作として記したもの。
山頭火のこのような心境を形成した一つの原因に、少年期にであった母の自殺が背景にあることは容易に察することができる。母の死後40年の日記に「母に罪はない、誰にも罪はない、悪いといへばみんなが悪いのだ、人間がいけないのだ」、「あゝ亡き母の追懐!私が自叙伝を書くならばその冒頭の語句として――私一家の不幸は母の自殺から初まる――と書かなければならない」と、少年の頃に受けた傷は一生心に残ったのである。
酒、酒、後悔、また酒。あげくの自殺願望。それらを俳句や日記に託した山頭火だったが、総じて自傷的人生だったというべきか。ただ、幸いにも句友・知人に恵まれて多大な支援を得、また後輩に慕われたことは山頭火の仁徳を物語ってはいるが。
*****************************
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます