おびたゞしき靴跡雪に印し征けり 欣一
沢木欣一は大正八年(1919)、富山市梅沢町生れ。父の赴任に伴い、小・中学時代を朝鮮で育った。俳句を始めたのは、昭和十四年、金沢の旧制四高に入学してからであり、間もなく『馬酔木』、続いて『寒雷』などに投句している。
十五年「鶴」にも投稿し、〈雪霏々と十字路の暮ジャズ鳴れり〉他が初入選し、またその年、『馬酔木』四月号の山口誓子選の連作欄「深青集」に「雪と死」と題した〈巨き雪死に行く人も静かなり〉〈巨き雪遺骸を橇に載せゆけり〉〈雪に立つ弔花に雪の音すなり〉の三句が入選している。いずれも純白・清浄に象徴される雪に、遺骸・弔花などの措辞が戦争という暗い世相を暗示しているように思う。
当時の欣一の苦悩を著書『昭和俳句の青春』から引用してみると、
「(昭和十六年)日本はハワイを奇襲、米英蘭に宣戦布告し、文字通り全世界が戦乱の地獄となりつつあった。日本は破滅するかも知れない。戦争は泥沼化していつまで続くかわからない。こういうときにどうすればよいのか私は途方にくれて為す術を失い、現実に働きかける意欲を喪失していた」
さて、〈おびたゞしき靴跡〉の句であるが、自解によると、『金沢駅前の広場で見た光景。この頃は軍隊の輸送が盛んに行われていた。大部隊が汽車で去った後の雪の広場は心に沁みた。』とある。
金沢駅前で、整然と歩む出征兵士の付けた足跡。家の柱になる人もいたし、将来ある若者も交じっていた。出征時のそれらの足跡は虚しさ、憤り、悔しさの痕跡である。「靴跡」の靴は「軍靴」であり、軍国主義を暗喩してもいるだろう。欣一に反戦思想が底流していることの現れだ。「社会性俳句の最初」と評されたが、欣一の思想を象徴した代表句と言える。
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