万緑やわが額にある鉄格子 多佳子
多佳子が俳句を始めたのは、杉田久女と出会ってからである。多佳子の夫で農場経営者
であった豊次郎は小倉の高台に櫓山荘を新築し、ここで文化人や地元の俳人を招いて句会
などを開いた。そこで出会った久女から多佳子が俳句の手ほどきを受けたのは、二十三歳
の頃であった。以後二人の親交は急速に深まり、俳句の子弟関係にまで発展する。
ところがその関係を断ち切ることが久女の身に起こった。突然の「ホトトギス」からの
同人除名である。虚子から序文をもらえず、句集の発行の遅れに苛立たしく思っていた身
に、更に除名とはとんだ仕打ちであった。そんな久女の苦悩を多佳子もよく知っていた。
その後、真意のほどは分からないが久女に異常な言動がみられ、精神分裂症になったと
言う風評も多佳子の耳に入ってきた。終始夫との間に軋轢のあった久女は戦後間もない昭
和二十一年、腎臓病悪化により餓死寸前の状態で筑紫保養院で亡くなる。(久女の死因説
には慢性甲状腺炎<橋本病>という説もあるが、k機会があったら触れたい)
終戦後の混乱もあり多佳子は久女の死を知る由もなかったが、後年その死を知った多佳
子は一度でいいから久女終焉の地を訪れたいと思った。
掲句は多佳子の自句自解によれば、昭和二十九年筑紫保養院での作という。「杉田久女
の終焉の地を弔ふことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかヽ
つてをりました」とあり、「久女終焉の部屋は櫨の青葉が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格
子は、私の額に影を刻みつけた」「久女に手ほどきを受けた弟子の一人として、いまなほ至
らないわが身を、この時ほどつよく悔やまれたことはなく、厳しい生涯を送つた久女の終
焉の部屋のたヽずまひは、私の生きる限り灼きついて離れないことでせう」と述べている。
読んでるこちらもなんとも切ない思いになるが、橋本多佳子を語るには、やはりこの句
を取り上げないわけにゆかないだろう。
多佳子が俳句を始めたのは、杉田久女と出会ってからである。多佳子の夫で農場経営者
であった豊次郎は小倉の高台に櫓山荘を新築し、ここで文化人や地元の俳人を招いて句会
などを開いた。そこで出会った久女から多佳子が俳句の手ほどきを受けたのは、二十三歳
の頃であった。以後二人の親交は急速に深まり、俳句の子弟関係にまで発展する。
ところがその関係を断ち切ることが久女の身に起こった。突然の「ホトトギス」からの
同人除名である。虚子から序文をもらえず、句集の発行の遅れに苛立たしく思っていた身
に、更に除名とはとんだ仕打ちであった。そんな久女の苦悩を多佳子もよく知っていた。
その後、真意のほどは分からないが久女に異常な言動がみられ、精神分裂症になったと
言う風評も多佳子の耳に入ってきた。終始夫との間に軋轢のあった久女は戦後間もない昭
和二十一年、腎臓病悪化により餓死寸前の状態で筑紫保養院で亡くなる。(久女の死因説
には慢性甲状腺炎<橋本病>という説もあるが、k機会があったら触れたい)
終戦後の混乱もあり多佳子は久女の死を知る由もなかったが、後年その死を知った多佳
子は一度でいいから久女終焉の地を訪れたいと思った。
掲句は多佳子の自句自解によれば、昭和二十九年筑紫保養院での作という。「杉田久女
の終焉の地を弔ふことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかヽ
つてをりました」とあり、「久女終焉の部屋は櫨の青葉が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格
子は、私の額に影を刻みつけた」「久女に手ほどきを受けた弟子の一人として、いまなほ至
らないわが身を、この時ほどつよく悔やまれたことはなく、厳しい生涯を送つた久女の終
焉の部屋のたヽずまひは、私の生きる限り灼きついて離れないことでせう」と述べている。
読んでるこちらもなんとも切ない思いになるが、橋本多佳子を語るには、やはりこの句
を取り上げないわけにゆかないだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます