仏教・神道 共に日本の古来から各地に根付き 形としては お寺神社などで歴史の面影を見ることが出来る
ただ戦国時代の焼打ちや 神仏希釈など 時代に翻弄されて 栄枯盛衰も歴史は伝えてきた
そんな寺社を巡り 開山の背景 当時の大名の保護や 僧の人物まで知ることは歴史の裏付けにもなる
更には 僧の墓など埋もれた人物の歩んだ道など 光を当てて 後世にも残したい
特に浄土真宗を除いては 妻帯も許されず ゆえに代々の墓も 子どもや子孫も居ないのがこの方たち
ここにもスポットを向ける 鹿児島の歴史研究会の池田氏が 昨日はてんがらもんラジオに出演していた
ちょうど花見のシーズン 話題がここから始まると 「花筏」 について語った
私たちの 「花筏」は 櫻が散りはじめ 川面に群れて やがて花びらが溜まり それが筏に見える美しさだ
もう一つの「花筏」は植物である 葉の表面に花をつける ちょっと変わった花 ハナイカダ科のハナイカダ
本題は 古寺巡りである 最近では同じ鹿児島の方の著書 『鹿児島古寺巡礼』も参考にして現地へ行く
この本は 現在伝えられている古寺の歴史や 地図はグーグルに基づき 正確にその跡を記載していると言う
明治維新の功績は 現代の私たちにも大きな影響を残しており 日本の発展につながった
私個人としては その中でただ一つ残念なのが 神仏希釈と廃城令である
城は封建時代のシンボルでもあり 廃藩置県の障害にもなるから 全国の城は取り壊された
歴史的に残して欲しい城 幾つかは天守閣も現存しているが わずかでしかない
お寺に有っては 神道国家のために かなりの寺社及び仏像などが破壊された
今でいえば 重要文化財の建物や仏像の破壊 宗教の自由まで破壊されたことである
ここに寺があった そんな少し哀しい現実が史実として語り伝えられているだけである
☆臨済宗の話
臨済宗は禅宗の一部である 鎌倉時代から室町時代には幕府とも繋がりを持って隆盛を極める
臨済宗の宗派だけでも14もあり 京都には7つの本山まである
建仁寺派、南禅寺派、東福寺派、相国寺派、天龍寺派、大徳寺派、妙心寺派 観光でも知られている本山だ
そのうちの東福寺は紅葉で有名な寺 屋根のある橋も特徴で 私たちは何度も訪れている
「即宗院」は 正式には 大本山東福寺塔頭(たっちゅう)は 島津氏久が剛中玄柔禅師を開山として建立
薩摩藩の菩提寺となった 西郷隆盛は王政復古を志し新選組や幕府の追っ手を逃れここで幕府転覆を図った
鳥羽伏見の戦いから勝利ののち 戦死者524名の霊を弔うため 即宗院で斎戒沐浴し碑文を残す
記された氏名は全て 西郷隆盛の自筆によるものである
篤姫が近衛家の養女となって 徳川家へお輿入れの際に この即宗院に立ち寄った
☆ 志布志の大慈寺 もとは東福寺の末寺だったが 臨済宗京都妙心寺の末寺である
室町時代の創建 禅宗の地方普及に伴って 臨済宗十刹(じっさつ)に加えられた
江戸時代 「志布志千軒の町」と謳われるほど 島津氏の庇護を受け16の支院と100名以上の僧坊が居た
廃仏毀釈で一時廃寺となったが明治12年 西郷 大久保にも影響された柏州(はくしゅう)和尚のもと再建
☆ 鹿児島市 大乗院跡 鹿児島市稲荷町に存在していた真言宗の寺
ここに守護大名島津氏が本拠としていた清水城があったが手狭になり内城に移ったあとに建てられた寺
歴代の藩主の尊崇が厚かったが やはり廃仏毀釈で破壊された 現在は大乗院橋という石造橋のみがある
因みに大乗院は明治29年 鹿児島市長田町に「最大乗院」と名前を変えて 高野山説教所として再興された
一つの寺院 失われた寺院これを探求することにより時代の趨勢 翻弄された人たちの歴史が浮き彫りされる
時には こうして歴史の裏側などにも目を向けることも 大切なことであろう 写真は全てネットから借用
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