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職人の「顔」、男の「顔」!, 2007/12/6
By チャンチキチ (愛知県)
「徹子の部屋」で阿久悠さん出演の回を2度(45歳、60歳当時の阿久さん出演)見たが、自分で作詞された曲をじっと聴く「職人の顔」に、そして最近見なくなった「男の顔」にただ見とれてしまった。「個人的には『ジョニィへの伝言』と『時の過ぎゆくままに』が好きですね・・・自分で作ってて『個人的に』っていうのも変ですけどね」。阿久さんがすごいのは「この歌も阿久さん?!」という歌が少なくないこと。要は「自分と異質な世界に対して想像力が働くこと、異質な世界に対して寛大になれる」ことだと思う。
確かに、八代亜紀さんの「雨の慕情」の「雨、雨、降れ降れ、もっと降れ・・・」のあの手のひらを上に振るという振り付けは小学生の自分も真似していた。遠足のバスの中で、子どもが「雨の慕情」を歌い、バスの中にいる子どもがみんなして「あの振り付け」をしているのである。こんなことは今の時代では考えられない。男の子達は「カサブランカ・ダンディ」のマネだろうか、学校の水道で水を飲んで「霧吹き」を真似していたなぁ(水じゃあ、むせるのがおちだったが・・・)。
今は1週間で1位がトップテン圏外にまで落ちてしまう「時代」だし、何よりも「聴きたい」と思える音楽が流れてこない。「知らん」、「わからん」で過ぎてしまう歌が多すぎるのは作り手にとっても残念なことだろうし、飽きられることなく新曲を作り続けるのも大変だと思うのだが。
歌のタイトルからなるエッセイから、歌ができるときの様々なエピソードを語る。この先、「この曲、小学生の時に流行ってたんだけど、やっぱり名曲は残るんだね」、こんなことをボソッとでも言えたらいいな、と思う。昔、野島伸司のドラマ「未成年」が流行った時、「カーペンターズはいつ、来日するんですか?」という高校生がいたように。阿久悠さんの歌が、再び新鮮さを取り戻す日が来ますように。
「歌謡曲の時代」昭和への熱い思いと、平成の世への嘆き, 2007/12/2
By 盥アットマーク
阿久悠は、暑い夏が突然寒い冬に切り替わるような、最近の異常気象を「二季」という言葉で憂いている。秋や春が無くなっていくことと歌謡曲の衰退に、因果関係が無いはずがない。
阿久悠はまた、昭和と平成の歌の違いに触れて、「昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っている」と指摘している。世間、社会という大きな物語から、個人を中心とした小さな物語へ人々の関心は移行し、歌も、皆が口ずさむ流行歌から、自分や仲間うちだけで消費するipodミュージックやカラオケソングに機能分化している。著者は言う。「聴き歌が世に流れなくなって淋しい。すべてが歌い歌になっている」。 「季節感」「世間」だけではない。「青春」も「酒の飲み方」も、極端な話「人間の心」そのものの在りようが変わってしまったのだと。
「北の宿から」「舟歌」「津軽・海峡冬景色」をヒット曲に持つ阿久悠が、当初“演歌”のフィールドを“アウェイ”として認識し、船村徹を仮想敵として捉えていたという話も興味深い。やがて阿久悠自身がヒットメーカーとなった時、今度は自らがニューミュージック勢にとっての仮想敵となっていたという事実も。山下達郎や細野晴臣が筒美京平を、やはり“仮想敵”として捉えていた話は有名だし、歌謡曲の世界にも、スポーツやほかの文化芸能、一般のサラリーマン社会同様の“世代間闘争”といったものがあったのだ。その「世代間闘争」も今の世では曖昧模糊としたものとなっている。
本書に収められているエッセイに通底するのは、「歌謡曲の時代」昭和への熱い思いと、「歌謡曲の存在し得ない時代」平成への嘆きだ。それは徐々に進行した時代の変遷なのだろうが、その断層はなぜか「二季」のようにデジタルなものにも思える。
一方で、近田春夫の解説、「阿久悠は歌謡曲を信じ過ぎたのかも知れない」も、シニカルだけど鋭いね。
(Amazon.jpのレビューより引用)
阿久悠さんの本は含蓄が深いと思う。昭和の時代を感じたい人は是非!
この本も面白かった。
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