今週は忙しかった。新ドラマ宣伝の打ち合わせで大阪へ。アニメの会見もあったりして・・・仕事がらみの飲み会もあり、今日はリフレッシュを兼ねて「鍼」と「散髪」に行って来た。「散髪屋」では意識を失っていた。
金曜日の日に、テレビ誌の記者H君から、このブログで僕が「とくダネ!」の小倉さんの事をよく書いたり悪く書いたりして矛盾しているとの御指摘を受けた。小倉さんの紹介する映画や音楽に関しては、的を得ている事が多いと思う。しかし、B型の凝り性でオープニングトークでの喋りが一般の視聴者についていけない分野まで入ってしまい、それを誰も止められない事に流石に「とくダネ!」離れが進んでいる事実もある。フジテレビの笠井アナも佐々木アナも小倉さんに遠慮して、彼を持ち上げる発言をしているのも、観ている方としては次第にウザくなってきていると思う。男芸者、女芸者の様な感じだ。小倉さんは元「東京12チャンネル(今の「テレビ東京」のアナウンサー)で、不遇の時代があり、大橋巨泉のMBS(毎日放送)制作の「世界まるごとHOWマッチ」のナレーターで人気が出た。今は「大橋巨泉事務所」所属である。H君、これで答えになっただろうか?今日、午後、フジテレビの「風のガーデン」の初回を観て、その後、昼寝。完全に爆睡。かなり疲れている。ついさっきのニュースで「ロス疑惑の三浦和義被告がロサンゼルスで自殺した」というニュースが流れた。追い詰められると自殺する人が増えてはいないだろうか?「刹那」という言葉を今噛み締めている。今の瞬間を「楽しんで生きよう」と思い始めた。今日一日を大切にしようとも思っている。積極的に・・・というか、無理して何かをやろうと思わずに、生きていく流れの中で、「やりたい」という衝動に捕われたら行動すればいいという風に考え方を変えた。焦らない事にしたのだ。このブログを書いたら、また寝よう。体が睡眠を求めている。
世界まるごとHOWマッチ(せかいまるごとハウマッチ)は、1983年4月7日から1990年4月5日まで放送されていた毎日放送 (MBS) 東京支社とイーストの共同制作によるトークショーを兼ねたクイズ番組である。放送時間は開始当初毎週木曜日の22:00 - 22:54 (JST)(プライムタイム) であったが、1984年10月4日より20:00 - 20:54 (JST)(ゴールデンタイム)に移動した。TBSで春と秋に放送されていた「クイズまるごと大集合」では関口宏(本放送時にはゲスト解答者として1度登場している)と、レギュラー解答者のビートたけしも司会をつとめたことがある。
司会
大橋巨泉
当時TBS系列で2つのクイズ番組の司会を担当しているのは巨泉(他に「クイズダービー」)と関口宏(「クイズ100人に聞きました」と「わくわく動物ランド」)のみであった。
西村知江子(フリーアナウンサー)
小池可奈:西村が産休の時のピンチヒッター
餌取陽子:後期
ナレーター
小倉智昭(後番組の「世界まるごと2001年」のナレーションも担当)
この番組が小倉の出世作であり、「七色の声を持つナレーター」として有名になった。特に、当時石坂浩二がナレーションを務めたドキュメンタリー番組「シルクロード」(NHK)や久米明がナレーションを務め、日本テレビ系で放送された「すばらしい世界旅行」などのパロディナレーションは定番であった。その一方で、時に「お色気問題」などではハイテンションなナレーションをすることがあり(ビーチで寝転んでいるトップレスの女性が映ると「もっと見せろ~!」と絶叫するなど)、出題VTRが終わった直後に巨泉が「小倉のバカ野郎!」や「何を考えているんだ小倉は!」と情け容赦なしにツッコミを入れることもしばしばあった。まれに、モノトーン口調でナレーションをすると「今日の小倉は、一体どうしたんでしょうか?」と、巨泉からツッコミを入れられていた。
番組開始当初は小倉を含めて数名でナレーションを行っていたが、「小倉のナレーションが一番面白い」という制作側の意向で以後、小倉が一人で担当することになった。これは小倉自身がテレビ番組「メレンゲの気持ち」で語っていたことである。
また、番組の性質上ナレーターとは別に現地の出題者の吹き替え用に多くの声優が起用されたが、その中でも特に人気を博したのが及川ヒロオ(故人)。余りにも独特な吹き替えを連発したため、特番で及川の吹き替えばかりを集めたコーナーが登場したほど。ちなみにその際、本人も顔出し出演を果たし「(番組に出るのは)タバコ銭稼ぎですよ」という名言を吐いている。
世界まるごとHOWマッチ その2
出題形式・ルール・賞品
各回問題は全部で4問。これとは別に視聴者プレゼントクイズが1問あった(このとき、プレゼントクイズのサイレンの音が鳴り出し、巨泉が押しボタンでサイレンの音を止めていた)。
問題はいずれも、世界各地の様々なモノ・サービスをVTRで見ていただき、その対価を現地通貨で答えるというもの(ただし参考としておおよその対日本円レートは紹介される。その後、現地通貨の紙幣も紹介される)。解答はフリップに書いて答える(視聴者プレゼントクイズではフリップに書いて答えるのではなく、巨泉から解答者に1人ずつ問いかける形で答え、巨泉から正解に近い解答者の答えを目安にしているが、時にはホールインワン賞に相当する答えを出したこともしばしばあった)。
正解に対する「賞」はゴルフに見立てたものとなっていた。
ピタリ正解…ホールインワン賞=世界一周旅行。解答者席にゴールデントロフィー(上が地球儀の形をイメージしている)が置かれる(ファンファーレは当初はニアピン賞の音楽をスピードアップした曲が流れていたが、後にオープニングテーマ曲の冒頭の部分に変更。なお、オープニングテーマやBGM関係(出題VTR以外)は前田憲男作曲によるものだった)。獲得の瞬間スタジオが一旦暗くなり、解答者席など全ての電飾が灯り、獲得した解答者にスポットライトが当たる(当初はドライアイスの煙を出したことがあった)。テレビ画面には「ホールインワン賞・世界一周旅行」の字幕スーパーが出る。第一号はゲストだった沢田亜矢子(1983年5月5日放送)で、レギュラー陣ではたけしだった。
巨泉が「近い」と判断した場合…ニアピン賞が与えられ、トロフィー(ホールインワン賞のゴールデントロフィーと同じデザインだが、一回り小さめ)が解答者席前に並べられる(ジャズ風のBGM<ファンファーレ>も流れる)。電飾は獲得した解答者のみが灯る。その際の字幕スーパーは「ニアピン賞」と出るが、10本達成の場合は「ニアピン賞」の後、「ついに10本!おめでとうございます!」となる。正解から最も近ければ何の問題もなく獲得となるが、やや遠い場合は巨泉の裁量で判断する。
ニアピン賞ほどではないが、そこそこの答えには「仮」〈別名・仮ピン=かぴん〉が与えられる。(特に表示はない)その後、再び「仮」に匹敵する答えを出すと、「併せ技で1本」としてニアピン賞が与えられる。この場合のみゴルフではなく、柔道の用語となっている。
ニアピン賞は3本獲得で東南アジア旅行(香港やシンガポール)、5本獲得でハワイ旅行やグアム島旅行、7本獲得でアメリカ西海岸旅行などの海外旅行と引き換えられるが、10本まで我慢すれば世界一周旅行を獲得できた(番組後期は10個獲得での世界一周旅行がほとんどだった)。
世界一周旅行は、成田空港を出発してから自由な経路が選べ、再び成田に帰ってくるまで有効。ただし、獲得してから1年間という有効期限があり、それまでに旅立たないと権利を失う。
世界一周旅行とそれぞれの海外旅行を獲得した際に、巨泉から目録が手渡される。
解答が正解から2桁以上離れていた場合、ロストボールとしてニアピン賞を1本没収し(プレゼントクイズ出題VTR終了時に流れるBGMが入る。デビル人形でも同様である。)、専用の棚(2段分のスペース)にそのトロフィーが飾られた(ロストボールの飾る棚にはその解答者の名前「~様」がリボンをつけて記されている)。
ニアピン賞のトロフィーを贈呈、および没収するのは女性アシスタントが担当していたが、その日の最終問題でロストボールが発生した場合は、巨泉自らがコメントを言いながらトロフィーを没収した。また、同じく最終問題でロストボールを出した石坂浩二が、自らトロフィーをロストボール専用の棚に置きに行ったことがある。字幕スーパーも「ロストボール ○○(解答者名)」と出る。
番組後期にはレギュラー解答者限定で、没収するニアピントロフィーがない場合「デビル人形」(月にデビルが乗っている)が置かれるようになった。これはいわばマイナスポイントであり、「デビル人形」がある状態でニアピン賞を出した場合は、トロフィーを置く代わりに「デビル人形」がひとつ減った(このデビルにレギュラーの石坂・たけしは名前を付けていた)。この、減ったデビルは、ロストボールの棚に飾られる(本来ロストボールとして供出すべきニアピンを借りていたと考えられるため。初めてこの場面になったとき、石坂が強く主張した)。また「デビル人形」が10個になった場合は「黄金のデビル人形」に置き換えられるルールだったがデビル人形10個達成者は一人もいなかった(その為、黄金のデビル人形が作られることもなかった)。
視聴者プレゼントにも解答者の解答状況が影響した。通常は、番組開始当初は10桁を計算できる電卓、後期は世界時計(番組タイトルとMBSのロゴ入り)がプレゼントされていた。しかし、ホールインワンが発生した場合、またはニアピン・ロストボール(ロストボール棚のデビルも含む)が10個となった場合には、「プレゼントクイズ」正解者から1組2名のカップルにハワイ旅行(末期は、プレゼントクイズの出題地の海外旅行)が贈呈された。なお、ロストボールが10個たまったときは、オープニングテーマ曲を短くしたものがファンファーレとして流れた。また、デビル人形が10個たまった場合、ためてしまった解答者が自費で視聴者に世界一周旅行をプレゼントするルールもあった。
字幕スーパーはMBS独特のスーパーでもあった。
エピソード
番組開始当時は前番組のドラマMBS制作「木曜座」から「HOWマッチ」に変わり、22:00からのスタートだったが、好評の為20:00に放送時間が移動した。なお、20:00に「HOWマッチ」が移動した際、22:00からはMBSが新たに設定した枠で「中村敦夫の地球発22時」が放送開始している。
当初はフジテレビ「なるほど!ザ・ワールド」の影響もあり、視聴率は苦戦したが、巨泉と解答者の絶妙トークと小倉のナレーションが受けてたちまち人気番組となり、「なるほど」と仲良くわけあっていた(「なるほど」は海外レポートをメインにやっているのに対し、「HOWマッチ」はスタジオでのトークがメインと言う感じのものである)。中でも、巨泉とたけしの毒舌合戦は見ものだった。
巨泉はオープニングで「世界のジョーク」と称して、毎回小話を続けた(なぜか「ワニ」ネタが多かった。なお第1回放送では小話はなかった)が、あまりウケなかった。中には「フランス語でタコは?」「アシハッポン」などというのもあり、その直後に「お、石坂さん、『ニアピンハッポン』ですね」と言っていた。時にはこの小話にたけしが毒舌ツッコミを入れることもあった。更に稲川淳二は巨泉の小話がスベった時でも「ウマい、ウマい、ウマい!」と毎回ヨイショしていた(しかしある回の放送で巨泉に「稲川、うるさい!」とツッコミを入れられていた)。
解答を日本円ではなく現地通貨で当てる方式のためか、珍解答がしばしば出た。中でも井森美幸の「7千兆ドル」(当時のレートで約170京円・当時の日本の国家予算の約3万倍。その後、井森が『クイズダービー』に5枠ゲストとして2回目に登場した時には巨泉から「恐怖の7千兆ドル、井森美幸ちゃんでーす!」と紹介された。)、「500億マルク」(当時のレートで約4兆円)は有名で、いずれも大変な巨額である。日本円から現地通貨を割り出した計算の結果、なんとも半端な値段をつけてしまった、というのも日常茶飯事であった。
なお上記のようなあまりにも大きすぎる金額の場合、本来であれば解答者が書いた金額を西村が日本円で計算して発表するところが、「計算できません。」とあっさり拒絶されることも多々あった(井森のような本当に突拍子もないような場合、笑いながら言ったこともある)。
出題時には参考として、現地通貨と日本円のおおよその換算レートが紹介されていたが、経済・政治等の情勢の変化に応じた通貨単位やレートの変化から、そうした国際的な経済情勢を感じ取ることができたのも、この番組の特徴であろう。とりわけ放送当時の1980年代、中南米諸国の経済危機によるハイパーインフレへの対応から頻繁に通貨が切り上げられ(ボリビアの通貨の換算レートが10,000ボリビアペソ=0.1円という事があった)、時にはいくつかの現地通貨の呼び名が頻繁に変わるなど(ブラジルのクルゼイロ→クルザード等)していたことや、先進国においても1985年のプラザ合意による急速な円高ドル安が進行した事なども、そうした視聴者の印象を高めたと考えられる。ちなみに、番組開始の時点での米ドルは1ドル約240円だった。
電卓を片手にクイズに興じた視聴者もいた。
特別番組として放送された「クイズまるごと大集合」では、まれに日本国内の問題が出題されたが、律儀にも換算レートが「1円=1円」と表示されていた。
「こんな村がオリンピックに立候補している」として、フランスのアルベールヴィルから出題されたが、村をバカにするような内容で、出演者も、オリンピック候補地としては断トツの最下位で、選ばれることは絶対にあり得ないと断言していた。しかしこの村が開催地に選ばれ、1992年、アルベールビルオリンピックが開催された。
1990年、巨泉のセミリタイヤ宣言により番組が終了。後継番組は世界中の出来事を記録したフィルム映像からの出題によるクイズ番組「世界まるごと2001年」(山口美江司会)。これはHOWマッチのスペシャル「クイズまるごと20世紀」をレギュラー化させたもので、1991年3月まで放送された。巨泉はスーパーバイザーとして同番組にも関わり、顧問(後にジジィと言う意味を込めて“今週の彦左衛門”と紹介された)として数回出演していた。
2枠のビートたけしは、一時期フライデー襲撃事件により番組出演を休止となり、番組復帰するまでその枠は、タレントや文化人などのゲスト枠となっていた(笑福亭鶴瓶などがこの席に座っていた)。
但しこの番組では巨泉が長期休暇でも出演しないということはなかったので大量に録りだめしており、フライデー事件の後も何カ月もの間「この番組は○月○日に収録されたものです」というテロップつきでたけしが出演していた(録りだめが切れた後の最初の放送でそのことがネタにされ、出演者が「一体いつまで"○月○日に収録云々"ってやってるんですか」と巨泉に突っ込んでいた)。
たけしがフライデー襲撃事件で謹慎中のとき、弟子のそのまんま東(現・宮崎県知事 東国原英夫)が代理で出演して2枠のたけしの席に座ったことがある。そのとき、番組のルールをよく知らなかった東は、1問目で巨泉が問題VTRについて解説をしている最中に勝手に適当な金額を書いたフリップを出したことがある。
1988年8月18日放送分で石坂は1問目でニアピン10本が達成し、3問目と4問目でホールインワン賞を獲得したため、1回の放送で世界3周分の旅行券を獲得したことがある。
ガーフィールドや香港ドラゴン航空を日本で最初に紹介したのがこの番組だった。
韓国の少年隊といわれた韓国のアイドルグループ・ソバンチャもクイズ問題の中で紹介されていた。
番組開始当初は解答者は6人だった。また初回の問題は5問用意されていたが、巨泉がエンディングで「もう1問あったのに時間なくなっちゃったよ」と言っていた。このように問題数と解答者数が減らされる過程は、クイズダービーと似ている。
この番組終了から数年後、巨泉は自分が出版した本やテレビ番組などで、50歳にセミリタイア宣言することを考えていた、と述べている。この番組開始当時は49歳で、巨泉はスタッフに対し「やってもいいが1年しかやらないよ」と言っている。また企画段階では漢字・ひらがな・英語・カタカナが入り乱れ「!!」までついた番組タイトル(本放送時には「!!」はなくなっている)、さらに「1枠・大学教授、2枠・若手女優・・・」といったクイズダービーに酷似した解答者案に難色を示し、「博識で有名な石坂浩二と、(当時大人気の)たけしを1枠2枠でキャスティングしてくれ」と注文をつけていた。他にもイーストに対して「世界の主要都市にイーストの事務所をつくれ」等無理難題を出したり、MBSとイーストだけで収拾がつかず、TBSや電通も絡んだこと、更にイーストのスタッフが宿泊なしで巨泉を訪ねるためにハワイに行った際に、成田とホノルルのパスポートコントロールで「宿泊もなく、誰のスーパスターに会うんだ?」と審査で疑われたこともあった。
1990年まで続いたのは番組内でたけしとのやり取りが楽しく、「この世界にもこんな面白いやつがいるんだ。もう少しやってみよう」と思ったためで、これが55歳までセミリタイアを延ばしたきっかけにもなった。
番組が人気になったのに伴いゴールデンタイムの昇格話が出た際、巨泉は「8時になると(番組に)制約ができる。どうしてもと言うのなら、ボク以外の司会者でやってくれ」と頑固反対した。しかし、番組とは関係の無いものの「お笑い頭の体操」「クイズダービー」のプロデューサーで心を許せる関係であった居作昌果による説得の末、番組の内容に制約をつけないことと自身主催のゴルフトーナメントのスポンサーにMBSがつくことを条件にして、昇格を受け入れたと後に巨泉は語っている。
石坂は出題VTRの補足をすることもよくあり、巨泉からは「教養担当助役」と呼ばれていた。
たけしがアルゼンチンの舟の渡し賃の問題で、3ペソと1ペソを迷ってその挙げ句1ペソにしたが正解は2ペソだった(巨泉に「これが本当の間抜けだ」と突っ込まれる)という事や、中国の上海風呂の入浴料の問題で、10元と15元を迷って15元にしたところ正解が9元だった(後に言う“九元事件”)という事、更にはギリシャの当時の通貨単位だった「ドラクマ」(現在はユーロに変更)を「ドラクロマ」と書き間違える(フランスの画家ドラクロワとの混同によるもの。スタジオと観客の大爆笑と同時に巨泉に当然のごとく突っ込まれた)など、解答を巡るハプニングが色々あった異色のクイズ番組だった。
一般に外国人解答者は日本人解答者より安い値段を答える傾向にあったため、巨泉はケント・ギルバートを「ケント・ネギルバート」(「値切る」と掛けている。名付け親は一視聴者)、チャック・ウィルソンを「ケチャック・ウィルソン」(「ケチ」と掛けている)「けち・やくお」(同じく一視聴者からのネーミングに由来)と呼んでいた。
「デビル人形」ルールが新設されたのは、たけしがニアピントロフィーが1本もない時に、取られるニアピンがないのをいいことに適当な答えを乱発したことがきっかけであり、制度ができて第1号のデビル獲得者は、制度導入のきっかけとなった本人のたけしであった。
最終回に近づくにつれ、ニアピンを賭け出すという「プッシュ(方式)」も出だし、たけしがこの方式を頻繁に行っていた。
レギュラー最終回の最後の問題は、「オランダ領アンティル諸島で船が岸壁のホテルにぶつかった時の年間保険料は?」という問題で、正解は1アンチルギルダー(=約80円(当時))で、ロストボールの嵐だった。これにより、最後でキリよくロストボールが10個溜まった。
最終回は2時間スペシャル。5問出題され、石坂とたけし以外、外国人解答者やゆかりのあるゲストはそれぞれ1問のみ出演。過去の名場面と通常の問題を交えた内容で、最後の問題は映画「風とともに去りぬ」の初版本の値段(正解は8000ドル)。
1990年10月、たった一度きりの「帰ってきた・世界まるごとHOWマッチ」を放送。この際、石坂は「旧東ドイツの新型トラバント」の値段を当てる問題で12,000ドイツマルク(当時108万円)と解答、ホールインワン賞を獲得した。
プレゼントクイズの正解発表はその問題を出した2週間後に発表されるのが慣例。最終回のプレゼントクイズは後番組「世界まるごと2001年」の第2回目に正解と当選者発表があった。この慣例は「2001年」も同様に続いた。
プレゼントクイズの当選者名で「大和市」を「奈良県大和市」や、「松浦市」を「長野県松浦市」と表記していたことがあった(大和市は神奈川県に、松浦市は長崎県にある市)。
プレゼントクイズのあて先はMBSであるが、大阪ではなく、東京あてとなっていた。おそらく、MBSの東京支社行きであろう(〒565 大阪吹田千里局だが、〒105-91 東京芝郵便局160号であるが、ABC東京支社制作の番組と同様)。
1990年放送の「ギミア・ぶれいく」では、1度だけの特別企画として日本国内取材の出題VTR構成で日本円で答える「日本まるごとHOWマッチ」として制作された。司会は巨泉、解答者はすべて外国人だった(話のやり取りもすべて英語だった)。出題VTRのナレーションは英語版は小林克也が、日本語版は小倉智昭がそれぞれ務めた。
1994年放送の「テレビの王様」では「テレビまるごとHOWマッチ」としてパロディー版であるが1度限り(当初は数回行うことになっていたが、結局は1回だけに終わった)の復活となった。ナレーションは本家と同じ小倉だった。ちなみに司会役は松村邦洋、アシスタント役は三宅裕司だった。
1987年8月27日放送分にゲスト出演した社会党委員長(当時)の土井たか子は、1回の放送中に2度もホールインワン賞を獲得(1問目と3問目)するという記録を立てた。たけしは、これに対して「(ホールインワン)3本取ったら俺は公明党入ろうと思った」と言ってふて腐れた。なお、3問目の正解発表の直前にたけしが「あっ、まただ」と発言していることから、ホールインワン賞が出るときは照明の切り替え(スタジオの照明が落とされる)準備等のため、画面上の変化の前に出演者には分かることが判明している。なお、土井は4問目でもニアピン賞をたけしとともに獲得している。
番組最高視聴率は1984年5月31日に放送した回の33.8%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)でこの時は石坂浩二が2度もホールインワン賞を獲得した回だった。
なお番組2年目の1984年に、巨泉が確定申告の不備を税務署から指摘される一件があり、この際朝日新聞が番組のタイトルをもじって、「申告漏れHOWマッチ」と揶揄した、という出来事も起きている。
2007年現在、この時間帯で放送されている「うたばん」(TBS制作)にてパロディが行われたことがある。司会の巨泉役にコージー冨田が起用された。アシスタントはTBSアナウンサーの山内あゆが担当した。