この土日がちゃんと休める最後になるかもしれない。来週の水曜日にはドラマがクランクインするからだ。どれ位、忙しくなるかは分からないが、10月ドラマの宣伝担当をみていると、激しい仕事ぶりだった。昨日は、次、いつ行けるか分からないので、精神科で四週間分の薬を貰う。鍼にも行ってくる。不整脈は相変わらず出ている様で、その治療もして貰う。不整脈と、医者や鍼灸院、中国漢方に行く度に言われると、気持ちも落ち込む。自覚症状が全く無いだけにやっかいだ。この「鍼灸院」のそばに「にぼしラーメン」の店が出来、昼ごはん時には行列ができる程、美味いので、昨日もその店で「塩ラーメン大盛り」を食べてしまった。ダイエットしているのに・・・夕方帰宅してから昼寝。
夜、妻が所用で出かけるので、寿司の出前をとる。長女に起こされ、寿司を食べ、午後9時半には就寝。先週は、睡眠不足だったから、寝溜め。今朝は午前11時前に起きて、ヨガとジョーバをする。「風のガーデン」の第三話を観て、朝昼兼用で「ちゃんぽん」を食べる。長男と次男、妻を乗せて、西新宿の「鶴薬局」に。子供達のアトピーが早く治ります様に。次男は明日から、小学校のキャンプで八ヶ岳に行くが、「蕎麦打ち」をする時間があり、その時は一人で別の場所に居る事になる。「蕎麦」のアレルギーもあるので。かわいそうだと思うが、「蕎麦打ち」という「蕎麦粉」のたくさん舞い上がる環境に今の次男が入っていて、どんな発作を起こすか分からないから。鶴薬局から戻り、今日も昼寝。妻と長男は、長男の同級生のお父さんが亡くなったので、御通夜に行く。まだ40歳代だとの事。病院嫌いで、体に痛みを感じ、先月、病院に行ったら、ガンで余命二ヶ月と言われたそうだ。他人事では無い年齢に僕もなってきた。妻が作っておいてくれた晩御飯のカレーを食べ、ブログを書いて、スカパーで録画した「荒木絵里香と中田久美のイタリアでの挑戦」というドキュメンタリーを観る。言葉も分からないまま、セリエAのトップクラスのチームでプレーをするのは物凄い精神力がいる事だろう。中田の方は「コーチ」の勉強をしに43歳、イタリアでバレーの勉強。将来は「全日本女子チーム」の監督になるのではないだろうか。何事もやらなければ結論はでない。2人の姿を見てそう感じた。リベロ・井野亜季子http://sei.shiai.tv/index.htmlがフランスのチームに二年間、留学している事もこの番組で初めて知った。僕の記憶に間違いが無ければ、佐野優子が留学していたチームのはず。今日は早く寝よう。
荒木 絵里香(あらき えりか、1984年8月3日 - )は、日本の女子バレーボール選手。岡山県倉敷市出身。ニックネームはエリカ。プレミアリーグ・東レ・アローズ所属。
来歴
父親は早稲田大学ラグビー部のOB、母親は体育教員といういわゆる体育会系の一家に生まれ育った。幼いころから、水泳クラブや陸上クラブに通い、体育は得意であった。小学校5年の時にバレーボールを始める。中学時代にはアクエリアス杯の選抜メンバー、オリンピック有望選手に選出され、成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)では、大山加奈らと共に、春高バレー・インターハイ・国体優勝の高校3冠を経験した。
2003年、東レ・アローズに入団。入団1年目の第10回Vリーグでは、アタック決定率2位に入りベスト6を受賞した。2004年、全日本初選出。同年アテネオリンピック・世界最終予選前に招集されたが、大会直前に出場メンバーから外された。
2005年ワールドグランプリで全日本代表デビューを果たすが、ワンポイントブロッカーとしての出場にとどまった。2006年ワールドグランプリで初のスタメン出場し活躍を見せ、レギュラーポジションを獲得。同年開催の世界選手権、2007年ワールドカップに出場した。
2008年、 天皇杯・皇后杯全日本選手権優勝、2007-08プレミアリーグにおいて東レのリーグ初優勝に貢献し、最高殊勲選手賞・スパイク賞・ブロック賞・ベスト6賞を獲得した。アタック決定率54.7%は、2000年第6回Vリーグで先野久美子が記録した53.4%を抜いて日本記録(日本人最高)である。
2008年7月、イタリアプロリーグ・セリエAのベルガモへ期間レンタル移籍が決定し、9月よりチームに合流している。
2008年8月、北京オリンピックに出場し、ベストブロッカー賞を受賞した。
人物・エピソード
キャッチコピー
世界をぶちぬく鉄腕エリカ
ファイティング・エリカ(2006世界選手権)
トレーニングの成果で減量してから、以前よりキレのある動きでプレーの幅が広くなった。
2007年夏に京阪電鉄のマナーポスターに起用された。キャッチコピーは「ブロックの名手荒木選手は音漏れもシャットアウト」
木村沙織にはアラキングと呼ばれている。
中田 久美(なかだ くみ、1965年9月3日 - )は、日本の元バレーボール選手(全日本女子代表)、バレーボール指導者、タレント、スポーツキャスター。東京都練馬区出身。NHK学園高校卒業。スポーツビズ所属。現在、イタリアプロリーグ・セリエAビチェンツァコーチ。
来歴
中学からバレーボールを始め、中学2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。その後才能を開花させ1980年に15歳で全日本代表に選出される。翌1981年には日立に進み、日本リーグ新人賞を獲得。1984年のロス五輪での銅メダルを皮切りに、1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場し、天才セッターと呼ばれた。
1986年11月、ブロックの練習中に右膝前十字じん帯断裂。再起不能ともいわれた大ケガだったが、厳しいリハビリを乗り越え10ヶ月後には再び試合に復帰した。
1988年2月、再び右膝を手術した。しかし右膝は完治せず、試合の時は、痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪出場。
1992年バルセロナ五輪に出場。日本女子バレー史上初となる三度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退するも1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチ就任。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。最近では、日本オリンピアンズ協会のHP上で森田淳悟とのインタビューも実現している。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会強化委員を務めた。
2008年7月、イタリアプロリーグセリエA・ビチェンツァのコーチ就任が発表された。
人物・エピソード
名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。
練馬東中学校時代は、同期に生徒会副会長を務めていた尾崎豊がいた。
日本リーグ(現・プレミアリーグ)デビューは16歳3ヶ月で、2007年1月に15歳4ヶ月で岡山シーガルズのセッター堀口夏実が出場するまでは、最年少記録であった。
日本リーグ、プレミアリーグ(Vリーグ)時代を通じて女子最多4度の最高殊勲選手賞受賞者である。
てめーら、コノヤロー!事件
2004年、フジテレビ「すぽると!」生放送において、アテネオリンピック出場権を獲得した全日本代表メンバーが出演した際、選手達の行きすぎた浮かれ具合とはしゃぎ振りに、中田は業を煮やしていた。その後、画面が試合映像に切り替わった途端、中田は「てめーら、コノヤロー!」と一喝し、選手達の気を引き締めると同時に、スタジオ全体を静まり返らせた。しかしこの時、マイクがオフになっておらず、その怒鳴り声が全国に流れてしまった(当時スタジオには全日本女子監督柳本晶一の他、フジテレビ幹部もいた)。容赦ない怒声が放送された事で、中田本人は発言後に今後フジテレビへの出入り禁止を覚悟したほどであったが、翌日日本バレーボール協会から「色々とご指導ありがとうございました。」と感謝の言葉が返ってきたという。後に『HEY!HEY!HEY!』でも中田の怖さが話題に上がり、このシーンが再び放映された。VTRを見た大林素子(全日本、日立時代の後輩)も、「あの場面にもし私がいたら、きっと選手と一緒にはしゃいで怒鳴られていた」と語った。
一同を震え上がらせた中田久美
JVF special presents
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夜、妻が所用で出かけるので、寿司の出前をとる。長女に起こされ、寿司を食べ、午後9時半には就寝。先週は、睡眠不足だったから、寝溜め。今朝は午前11時前に起きて、ヨガとジョーバをする。「風のガーデン」の第三話を観て、朝昼兼用で「ちゃんぽん」を食べる。長男と次男、妻を乗せて、西新宿の「鶴薬局」に。子供達のアトピーが早く治ります様に。次男は明日から、小学校のキャンプで八ヶ岳に行くが、「蕎麦打ち」をする時間があり、その時は一人で別の場所に居る事になる。「蕎麦」のアレルギーもあるので。かわいそうだと思うが、「蕎麦打ち」という「蕎麦粉」のたくさん舞い上がる環境に今の次男が入っていて、どんな発作を起こすか分からないから。鶴薬局から戻り、今日も昼寝。妻と長男は、長男の同級生のお父さんが亡くなったので、御通夜に行く。まだ40歳代だとの事。病院嫌いで、体に痛みを感じ、先月、病院に行ったら、ガンで余命二ヶ月と言われたそうだ。他人事では無い年齢に僕もなってきた。妻が作っておいてくれた晩御飯のカレーを食べ、ブログを書いて、スカパーで録画した「荒木絵里香と中田久美のイタリアでの挑戦」というドキュメンタリーを観る。言葉も分からないまま、セリエAのトップクラスのチームでプレーをするのは物凄い精神力がいる事だろう。中田の方は「コーチ」の勉強をしに43歳、イタリアでバレーの勉強。将来は「全日本女子チーム」の監督になるのではないだろうか。何事もやらなければ結論はでない。2人の姿を見てそう感じた。リベロ・井野亜季子http://sei.shiai.tv/index.htmlがフランスのチームに二年間、留学している事もこの番組で初めて知った。僕の記憶に間違いが無ければ、佐野優子が留学していたチームのはず。今日は早く寝よう。
荒木 絵里香(あらき えりか、1984年8月3日 - )は、日本の女子バレーボール選手。岡山県倉敷市出身。ニックネームはエリカ。プレミアリーグ・東レ・アローズ所属。
来歴
父親は早稲田大学ラグビー部のOB、母親は体育教員といういわゆる体育会系の一家に生まれ育った。幼いころから、水泳クラブや陸上クラブに通い、体育は得意であった。小学校5年の時にバレーボールを始める。中学時代にはアクエリアス杯の選抜メンバー、オリンピック有望選手に選出され、成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)では、大山加奈らと共に、春高バレー・インターハイ・国体優勝の高校3冠を経験した。
2003年、東レ・アローズに入団。入団1年目の第10回Vリーグでは、アタック決定率2位に入りベスト6を受賞した。2004年、全日本初選出。同年アテネオリンピック・世界最終予選前に招集されたが、大会直前に出場メンバーから外された。
2005年ワールドグランプリで全日本代表デビューを果たすが、ワンポイントブロッカーとしての出場にとどまった。2006年ワールドグランプリで初のスタメン出場し活躍を見せ、レギュラーポジションを獲得。同年開催の世界選手権、2007年ワールドカップに出場した。
2008年、 天皇杯・皇后杯全日本選手権優勝、2007-08プレミアリーグにおいて東レのリーグ初優勝に貢献し、最高殊勲選手賞・スパイク賞・ブロック賞・ベスト6賞を獲得した。アタック決定率54.7%は、2000年第6回Vリーグで先野久美子が記録した53.4%を抜いて日本記録(日本人最高)である。
2008年7月、イタリアプロリーグ・セリエAのベルガモへ期間レンタル移籍が決定し、9月よりチームに合流している。
2008年8月、北京オリンピックに出場し、ベストブロッカー賞を受賞した。
人物・エピソード
キャッチコピー
世界をぶちぬく鉄腕エリカ
ファイティング・エリカ(2006世界選手権)
トレーニングの成果で減量してから、以前よりキレのある動きでプレーの幅が広くなった。
2007年夏に京阪電鉄のマナーポスターに起用された。キャッチコピーは「ブロックの名手荒木選手は音漏れもシャットアウト」
木村沙織にはアラキングと呼ばれている。
中田 久美(なかだ くみ、1965年9月3日 - )は、日本の元バレーボール選手(全日本女子代表)、バレーボール指導者、タレント、スポーツキャスター。東京都練馬区出身。NHK学園高校卒業。スポーツビズ所属。現在、イタリアプロリーグ・セリエAビチェンツァコーチ。
来歴
中学からバレーボールを始め、中学2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。その後才能を開花させ1980年に15歳で全日本代表に選出される。翌1981年には日立に進み、日本リーグ新人賞を獲得。1984年のロス五輪での銅メダルを皮切りに、1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場し、天才セッターと呼ばれた。
1986年11月、ブロックの練習中に右膝前十字じん帯断裂。再起不能ともいわれた大ケガだったが、厳しいリハビリを乗り越え10ヶ月後には再び試合に復帰した。
1988年2月、再び右膝を手術した。しかし右膝は完治せず、試合の時は、痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪出場。
1992年バルセロナ五輪に出場。日本女子バレー史上初となる三度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退するも1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチ就任。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。最近では、日本オリンピアンズ協会のHP上で森田淳悟とのインタビューも実現している。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会強化委員を務めた。
2008年7月、イタリアプロリーグセリエA・ビチェンツァのコーチ就任が発表された。
人物・エピソード
名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。
練馬東中学校時代は、同期に生徒会副会長を務めていた尾崎豊がいた。
日本リーグ(現・プレミアリーグ)デビューは16歳3ヶ月で、2007年1月に15歳4ヶ月で岡山シーガルズのセッター堀口夏実が出場するまでは、最年少記録であった。
日本リーグ、プレミアリーグ(Vリーグ)時代を通じて女子最多4度の最高殊勲選手賞受賞者である。
てめーら、コノヤロー!事件
2004年、フジテレビ「すぽると!」生放送において、アテネオリンピック出場権を獲得した全日本代表メンバーが出演した際、選手達の行きすぎた浮かれ具合とはしゃぎ振りに、中田は業を煮やしていた。その後、画面が試合映像に切り替わった途端、中田は「てめーら、コノヤロー!」と一喝し、選手達の気を引き締めると同時に、スタジオ全体を静まり返らせた。しかしこの時、マイクがオフになっておらず、その怒鳴り声が全国に流れてしまった(当時スタジオには全日本女子監督柳本晶一の他、フジテレビ幹部もいた)。容赦ない怒声が放送された事で、中田本人は発言後に今後フジテレビへの出入り禁止を覚悟したほどであったが、翌日日本バレーボール協会から「色々とご指導ありがとうございました。」と感謝の言葉が返ってきたという。後に『HEY!HEY!HEY!』でも中田の怖さが話題に上がり、このシーンが再び放映された。VTRを見た大林素子(全日本、日立時代の後輩)も、「あの場面にもし私がいたら、きっと選手と一緒にはしゃいで怒鳴られていた」と語った。
一同を震え上がらせた中田久美
JVF special presents
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