ざまぁKANKAN!(- かんかん)は、1988年10月から1990年9月までよみうりテレビが放送したテレビ番組。放送時間帯は毎週月曜から金曜、17時から18時までの1時間。
ダウンタウン司会の「4時ですよーだ」(毎日放送)や圭・修司会の「素敵!KEI-SHU5」(関西テレビ)に刺激されたよみうりテレビが打ち出した若者向け公開バラエティ番組である。略称はざまカン。
概要
「4時ですよーだ」や「KEI-SHU5」が吉本興業制作なのに対し「ざまぁKANKAN!」(以下ざまカン)は松竹芸能が制作、当時松竹が売り出していた森脇健児・山田雅人をメインに据え、他の番組と一線を画している。
番組タイトルは色々候補が挙がったが、最終的に「バラベソテレビ」「おはよう!ゴジ(5時)バチョフ」(当時ソ連大統領であったミハイル・ゴルバチョフを捩ったもの)「ざまぁKANKAN!」の中から「ざまぁKANKAN!」が選ばれた。
ラジオ的なテイストの番組構成
番組は大阪市中央区の読売テレビ本社第2スタジオ(本社内で2番目に広いスタジオ)からの生放送。
前出の番組が吉本特有の破天荒な番組構成で放送されたのに対し、ざまカンは、番組開始直後、視聴者から送られてきた葉書を読むということだけに徹底した。これは当時放送されていた「鶴瓶上岡パペポTV」の構成を担当した放送作家疋田哲夫によるアイディア。その後は、少しずつ葉書が読まれる枚数も減っていった。
この時期のローカル番組としては珍しく、全てステレオ放送。トークの合間全てに洋楽を流すなど全体としてラジオ的なテイストを醸し出していた。ちなみにトークの合間のBGMはアメリカの音楽雑誌ビルボードの「HOT100」にランクインしているアルバムの中から番組の雰囲気に合った曲を白岩プロデューサー自身が選曲して使用していた。また、番組中に使用した洋楽BGMの曲名・アーティスト名はすべてテロップで表示されていた。
パペポTVとの関係
トーク中心の構成、洋楽をBGMに使用、松竹芸能系タレントの起用、観客を当日に並ばせて整理券を配布し先着順にスタジオへ入れるなど、番組の作り方の随所に「パペポTV」との共通点が存在する。疋田氏以外にもパペポTVのブレーンを担当した鹿児島俊光・藤本多賀雄をブレーンに、パペポTVのディレクターであった白岩久弥をプロデューサーに起用し、同じくプロデューサーであった岡島英次をチーフプロデューサーに据えるという、共通のスタッフが非常に多い体制で制作されていた。「パペポ」と「ざまKAN」が兄弟番組であったという背景がこのことからも伺える。
「パペポTV」とは違い、メインMCの森脇健児・山田雅人の両名が番組中、立ちトークのみで番組を進行したのは、「ダウンタウンは芸があるから、座ってトークをしても面白いけど、二人にはまだ芸がないから、立ってトークさせた方が良い」という、笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎のアドバイスであることを、当時上岡の弟子として付き人をしていた、ぜんじろうが証言している。
整理券を配布してから入場するスタイルがパペポTVと同じであったため、収録日が重なる水曜日(当時)には、ごく稀に入場待ちの列を間違って、「ざまKAN」を見に来たはずが「パペポ」の収録を見ることになってしまった、という客もいた。後に、ハガキ招待の日や観客限定の日が水曜日(または水・木の両曜日)に設けられることとなったが、このことも原因の一つであったと考えられる。
エピソード
番組当初は、森脇・山田の知名度不足を補うためか、当時人気絶頂だった米米クラブのカールスモーキー石井がVTR出演で番組を応援するシーンなどもあった。そのVTRの中で石井は、5メートルはあろうかという紙に黒塗りの人物の巨大な影絵を描き、最後に赤い林檎をもたせるというパフォーマンスを行っている。
当時森脇の愛車であったキャサリンの車内に何故かハイヒールがある!という噂を確かめるべく、山田が森脇に内緒でキャサリンの車中を探し回ったところ、ハイヒール以外に色々と出るわ出るわ…であった。そこで視聴者に、葉書で「あなたが知ってる森脇の愛車のヒミツ」を募集したところ、それがただ単なる、葉書で一発ギャグを読みあい、それに対して面白ければ観客が「セーフ」、ウケなかったら「アウト」の判定を下す、という、森脇の愛車とは全く関係のないコーナー「キャサリンの秘密」へと変遷した。
ハガキから送られてくる一発ギャグの中からは「定番ネタ」も生まれ(例えば野村義男のメディア露出度の低さをいじる、いわゆる「ヨッちゃんネタ」など)、最後は大抵「森脇健児のハゲネタ」で締め括られていた。
なお、通常の判定は「セーフ」または「アウト」であるが、極めて大きい爆笑をかっさらった場合、まれに「ホームラン」の判定が飛び出すことがあった。(例・森脇健児の弟が生出演した際に自らステージに立って「うちの兄貴、テレビでは両親のことを『オトン』『オカン』と呼んでるけど、家では『パパ』『ママ』って呼んでる」というネタを披露した際にホームラン判定が出た)
また、一時期、通常の放送とは別に、テレホンサービスによる「闇キャサリンの秘密」も行われていた。ここでは、テレビでは放送できない下ネタやブラックなネタが採り上げられていた。電話番号の告知は番組内で行われたため、放送時間中は電話が繋がりにくい状況に陥った。森脇はたまらず「この放送が終ってから(6時以降に)かけてくれ!」と叫んでいた。
番組のブレイクとともに学校をサボって観覧に来る女子学生が後を絶たず、森脇と山田が「学校をサボってまで観に来ない様に」とよびかけたこともあった。
途中から、毎週水曜日のみ観客は男性限定の「ぶいぶい男デー」や「大学生限定デー」などを設けたり、
「美少年の丘」「美少女の森」と題した中~高校生のイケメン紹介
タージンが街中で男子学生に声をかけ、あみだくじで当たりを引けば現金3万円を贈呈、外れたら現金1万円贈呈+バリカンで坊主頭にするという「痛快!丸刈り一本勝負」(コーナー内でタージンは歌舞伎役者風のメイクに赤色の装束で身を包んだ「マルガリータ」というキャラクターに扮してコーナーを進行していたが、声がバレバレだった。)
かつてこの企画はよみうりテレビで放送された深夜番組、「どんぶり5656」という番組で同様の内容で放送されていた。
いま寛大が依頼者に代わって復讐する「ザ・斬る」
など、人気コーナーも生まれた。
通常時間帯の番組だけでなく、春(改編期)と夏(24時間テレビ 「愛は地球を救う」開始前)の土曜日にもスペシャル版として放送されていた。ただしこの時はよみうりテレビ横の駐車場に大型のテントを張ってライブ形式にしていた。
番組の終焉
89年秋頃からは企画ものが増え、ドラマ仕立てのVTRコント(「ビバリーヒルズ・コップ」をもじった「ヒバリーが丘花屋敷コップ」、ホームドラマ「山田家の人びと」など)、視聴者が参加して歌や特技を披露する企画(「5時のヒットスタジオ」、「いきなり何でも自慢」)や若手を集めて一発芸を披露する「メケノハカマカイェー(元は「キャサリンの秘密」を一発ダジャレコーナーと勘違いして送られてきたハガキを読む企画であった。後に若手の一発ギャグを披露する企画に変わった)」、「ギャグストロイカ」などの企画なども加えられたが、90年春頃から人気に陰りが見え始め、9月末で番組打ち切りが決定。最後の1週間は収容人数の多い第1スタジオから生放送された。
ざまぁKANKAN!最終イベントでは大阪城ホールで1万人を動員する。 森脇健児曰く、構成を担当した疋田氏の唯一の仕事は楽屋で号泣している山田雅人・森脇健児を他の報道陣から隔離する為にカーテンを引いた事らしい。
出演者
森脇健児、山田雅人、タージン(リポーター)、川下大洋、いま寛大
番組中期以降は松竹芸能や大滝エージェンシーなど、吉本以外に所属している若手芸人や、笑福亭鶴瓶の弟子らが番組レギュラーとして出演していた。高田伸彦がお悩み相談コーナーに出演していたこともある。
大阪キッズ(現・吉本興業所属)、シンデレラエキスプレス、小川恵理子、成知由梨、笑福亭達瓶、笑福亭瓶太、亀井真司
番組エンディング告知担当:住吉里美→藤岡久美子(※かつて三桂に所属し、同じ夕方枠の『屋台の目ぇ』(毎日放送)などに出演していた藤岡久美子とは別人。こちらの本職は声優である) 他
テーマ曲
GO-BANG'S
「ざまぁKANKAN娘」(1988年10月~1989年4月)
「ざまぁカンカン!TVショー」(1989年5月~1990年6月)
成知由梨
「MESO-KUYOバイビー!」(1990年7月~9月)
コーナーテーマ曲
「キャサリンの秘密」→ザ・ビートルズ「オブラディ・オブラダ」(一時期視聴者からのリクエスト制となり、その後JASON DONOVANの「TIME HEALS」に変更される)
「失恋伝言板」(失恋した相手へのメッセージをハガキに書いて番組宛に送り、森脇・山田に読んでもらうコーナー)→プリンセス・プリンセス「M」
「山田家の人びと」→魔女の宅急便サウンドトラックより「パン屋さんの窓」 など
スタッフ
構成 疋田哲夫 上田信彦
ブレーン 鹿児島俊光 藤本多賀雄 土井武志
チーフプロデューサー 岡島英次
プロデューサー 白岩久弥
チーフディレクター 山岸正人
ディレクター 山田典昭
VTR取材ディレクター 藤木康彰 南中伸一郎 木部勇一 黒田洋行 武野一起 森本豊 菊井徳明
フロアディレクター 高津英泰 幸田敏哉
サブディレクター 藪亀かおり
番組編成上の影響
この番組を放送した関係で、日本テレビ制作のアニメ・特撮番組(「魔神英雄伝ワタル」「魔動王グランゾート」「魔神英雄伝ワタル2」「それいけ!アンパンマン」「電脳警察サイバーコップ」「機動警察パトレイバー」等)は異時ネットとなり、16時台や早朝に放送される事が多かった。
僕は隣の「第1スタジオ」で「朝の連続ドラマ」の収録をやっていた。「第3スタジオ」では「11PM」を生放送。活気あふれる時期だった。