マイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国の歌手、シンガーソングライター、ダンサー。
ギネス・ワールド・レコーズでは『史上最も成功したエンターテイナー』として認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。
2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。あまりにも突然な、そして若すぎる死を惜しむ声は、今も世界中で絶えない。50歳没。
来歴
1958-1970
ジャクソン5時代のマイケルジャクソン10人兄弟姉妹の8番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟が、誕生後すぐに死亡した。)ゲーリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人たちにとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。
父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた[要出典]。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか補おうとしていた。
幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。
父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。
ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされていた二人(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。
翌年、マイケルは兄マーロンとともに二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド"Ripples & Waves Plus Michael"(のち"the Jackson Brothers"と改名)の一員として頭角を現した。
初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。
1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。
1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。
地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。
当初ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。
1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながらビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。
死亡時前後の状況
マイケルジャクソンの生家。ジャクソンファミリーの実家でもある。インディアナ州ゲーリーに位置し、死後花束が捧げられている。
Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。左の矢印はマイケル死亡が確認された14時26分、右は死亡が報道された14時44分
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(2009年6月28日)マイケルの死は各国のメディアでトップニュースとして報道され、全世界に衝撃を与えた。CNNやBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた他、Googleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ検索不可能となるという事態が起こった。
2009年6月25日 自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送されるが、約42分間に及ぶ蘇生活動を行うも、14時26分に死亡が確認された(死亡日時はカリフォルニア時間)。50歳没。
2009年7月1日 マイケルに雇われていた看護師のシェリリン・リーは、ABCニュースのインタビューにおいて、2009年4月頃に深刻な不眠に悩むマイケルから睡眠導入のために麻酔薬プロポフォールの処方を依頼されたが断ったと話した。(プロポフォールは外科手術において全身麻酔の導入・維持に用いられる麻酔薬である。)
2009年7月13日 マイケルの姉ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。
2009年7月22日 ロサンゼルス市警察は、ロンドン公演「This is it」におけるツアー専属医として2009年5月から雇用されており、マイケル死亡時に心肺蘇生を行ったとされる心臓内科医コンラッド・マーレーのオフィスを家宅捜索した。
2009年8月24日 警察の事情聴取に対するマーレーの宣誓供述書とされるものが報道された。「不眠治療のためにマイケルに、5月中旬から6月22日までの6週間、連日プロポフォールを投与した。依存症になることを懸念し6月23日にはプロポフォールの使用を中止し他の薬に切り替えたが、死亡日である6月25日には催眠鎮静剤であるロラゼパム、ミダゾラムを断続的に投与するも眠りにつかせることができず、マイケルの要求によりプロポフォールを点滴投与した。それによりマイケルが眠りについた後、トイレのため2分程離れ、戻ると呼吸をしていなかった。」という内容だった(なお、呼吸抑制作用のある麻酔薬プロポフォールの投与中は患者の呼吸状態等を常に監視し続けることが義務づけられている)。
2009年8月28日 ロサンゼルス検視当局が死因を公式発表。急性プロポフォール中毒とした上で、第一の死因はプロポフォールとロラゼパムの複合使用と指摘した。殺意の有無に関わらず、他者による外的要因により死亡したとする故殺であることも断定した。
2009年10月1日 AP通信が検死報告書のコピーを入手したと報道。内容は「検視当局による解剖の結果、肺に炎症は見られるものの息切れがあった可能性がある程度で、他の心臓や腎臓などの臓器は健康であり、マイケルの健康状態は50歳の男性として総合的に見て十分良好であった。また、AP通信が麻酔の権威である医師に報告書への見解を求めたところ、『マーレーが投与した呼吸抑制作用を持つ鎮静剤と麻酔薬プロポフォールの組み合わせが非常に危険であり、その複合作用により呼吸停止が起こった可能性が高い』と指摘した。」というものだった[15]。なお、ロサンゼルス検視当局はこの報道について「検視当局内部から漏らしていない」とコメントしたが、検死結果の内容については否定しなかった(過去にタブロイド誌が報道した他の検死結果については間違いであると正式に否定している)。
マイケル・ジャクソンがチャップリン作曲の「スマイル」が好きだったとは・・・
内容(「CDジャーナル」データベースより)
旧曲リマスター15曲に,新曲15曲という2枚組CDの新作。新曲には,これまでにないサウンド的冒険や赤裸々な心情吐露,メッセージが盛りこまれていて,確かにサブ・タイトル通りに過去,現在,未来が感じ取れる。ジャム&ルイス他との新しい顔合わせ。
ギネス・ワールド・レコーズでは『史上最も成功したエンターテイナー』として認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。
2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。あまりにも突然な、そして若すぎる死を惜しむ声は、今も世界中で絶えない。50歳没。
来歴
1958-1970
ジャクソン5時代のマイケルジャクソン10人兄弟姉妹の8番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟が、誕生後すぐに死亡した。)ゲーリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人たちにとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。
父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた[要出典]。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか補おうとしていた。
幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。
父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。
ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされていた二人(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。
翌年、マイケルは兄マーロンとともに二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド"Ripples & Waves Plus Michael"(のち"the Jackson Brothers"と改名)の一員として頭角を現した。
初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。
1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。
1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。
地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。
当初ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。
1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながらビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。
死亡時前後の状況
マイケルジャクソンの生家。ジャクソンファミリーの実家でもある。インディアナ州ゲーリーに位置し、死後花束が捧げられている。
Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。左の矢印はマイケル死亡が確認された14時26分、右は死亡が報道された14時44分
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(2009年6月28日)マイケルの死は各国のメディアでトップニュースとして報道され、全世界に衝撃を与えた。CNNやBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた他、Googleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ検索不可能となるという事態が起こった。
2009年6月25日 自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送されるが、約42分間に及ぶ蘇生活動を行うも、14時26分に死亡が確認された(死亡日時はカリフォルニア時間)。50歳没。
2009年7月1日 マイケルに雇われていた看護師のシェリリン・リーは、ABCニュースのインタビューにおいて、2009年4月頃に深刻な不眠に悩むマイケルから睡眠導入のために麻酔薬プロポフォールの処方を依頼されたが断ったと話した。(プロポフォールは外科手術において全身麻酔の導入・維持に用いられる麻酔薬である。)
2009年7月13日 マイケルの姉ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。
2009年7月22日 ロサンゼルス市警察は、ロンドン公演「This is it」におけるツアー専属医として2009年5月から雇用されており、マイケル死亡時に心肺蘇生を行ったとされる心臓内科医コンラッド・マーレーのオフィスを家宅捜索した。
2009年8月24日 警察の事情聴取に対するマーレーの宣誓供述書とされるものが報道された。「不眠治療のためにマイケルに、5月中旬から6月22日までの6週間、連日プロポフォールを投与した。依存症になることを懸念し6月23日にはプロポフォールの使用を中止し他の薬に切り替えたが、死亡日である6月25日には催眠鎮静剤であるロラゼパム、ミダゾラムを断続的に投与するも眠りにつかせることができず、マイケルの要求によりプロポフォールを点滴投与した。それによりマイケルが眠りについた後、トイレのため2分程離れ、戻ると呼吸をしていなかった。」という内容だった(なお、呼吸抑制作用のある麻酔薬プロポフォールの投与中は患者の呼吸状態等を常に監視し続けることが義務づけられている)。
2009年8月28日 ロサンゼルス検視当局が死因を公式発表。急性プロポフォール中毒とした上で、第一の死因はプロポフォールとロラゼパムの複合使用と指摘した。殺意の有無に関わらず、他者による外的要因により死亡したとする故殺であることも断定した。
2009年10月1日 AP通信が検死報告書のコピーを入手したと報道。内容は「検視当局による解剖の結果、肺に炎症は見られるものの息切れがあった可能性がある程度で、他の心臓や腎臓などの臓器は健康であり、マイケルの健康状態は50歳の男性として総合的に見て十分良好であった。また、AP通信が麻酔の権威である医師に報告書への見解を求めたところ、『マーレーが投与した呼吸抑制作用を持つ鎮静剤と麻酔薬プロポフォールの組み合わせが非常に危険であり、その複合作用により呼吸停止が起こった可能性が高い』と指摘した。」というものだった[15]。なお、ロサンゼルス検視当局はこの報道について「検視当局内部から漏らしていない」とコメントしたが、検死結果の内容については否定しなかった(過去にタブロイド誌が報道した他の検死結果については間違いであると正式に否定している)。
マイケル・ジャクソンがチャップリン作曲の「スマイル」が好きだったとは・・・
ヒストリー パスト、プレズント・アンド・フューチャー ブック1エピックレコードジャパンこのアイテムの詳細を見る |
内容(「CDジャーナル」データベースより)
旧曲リマスター15曲に,新曲15曲という2枚組CDの新作。新曲には,これまでにないサウンド的冒険や赤裸々な心情吐露,メッセージが盛りこまれていて,確かにサブ・タイトル通りに過去,現在,未来が感じ取れる。ジャム&ルイス他との新しい顔合わせ。