網走管内斜里町ウトロの観光船乗り場の近くに立つ「知床旅情」の歌碑。森繁久弥さんの直筆で「知床の岬に はまなすの咲く頃」と歌詞が刻まれている。 俳優の森繁久弥さんが亡くなった。自ら作詞・作曲した「知床旅情」の大ヒットが、空前の知床ブームのきっかけとなり、後の世界自然遺産登録につながった。知床の自然と人々を愛した森繁さん。道内のゆかりの人たちからは「世界遺産登録への運動は、森繁さんの精神が根っこにあったから」「今日の知床があるのは森繁さんのおかげ」と哀悼と感謝の声があがった。【本間浩昭、渡部宏人、】
「お礼を言いたい時になって、その人はいない。100歳まで生きてほしかった」。網走管内斜里町の前町長午来昌さん(73)は森繁さんへの思いをこう語る。
午来さんが初めて森繁さんに会ったのは、映画「地の涯(はて)に生きるもの」のロケで町に滞在中の1960年3月だった。午来さんはエキストラで出演。森繁さんが病床中の妻役の最期を見取る迫真の場面に「涙が出た」と振り返る。
最後に会ったのは約10年前、各界の有志が東京に集った「元気なシゲさんと遊ぶ会」。以来、連絡は途絶えたが、観光ブームの中「目先の利害ではなく、知床の真の将来を考えてほしい」と忠告し続けた森繁さんの姿が忘れられない、という。 「地の涯に生きるもの」のロケは、根室管内羅臼町でも行われた。森繁さんは町を出発する日の朝、後の「知床旅情」の原型となる「サラバ羅臼」の歌詞を旅館の前に張り出した。
「日本は人情の機微が紙より薄いと言われていますが、僕は羅臼の人情に触れました。お世話になった皆さんの後々のために歌を作りました。この歌を歌って別れましょう」と呼びかけた。
その場で大合唱が繰り返され、やがて400人の輪となり、涙を流して別れを惜しんだという。この中に盛り込まれた「後々のために」という言葉の重みを、元助役の志賀謙治さん(85)は今もかみしめる。
映画の原作は故戸川幸夫著「オホーツク老人」。それを映画化するに当たり森繁さんは、「おれのために書いてくれた小説だ」と語り、森繁プロダクションを設立し、その第1作にするほど思い入れがあった。そして、毎晩のように飲み歩き出発の前夜、当時の村長だった故谷内田進さん宅で一気に1番の詩を書き上げ、メロディーを付けた。
加藤登紀子さんが歌って大ヒット、知床ブームをけん引した。志賀さんは「半世紀も歌い継がれる歌はそうない。しかも古い歌でなく、今もぷんぷんと良い香りを漂わせている。この歌は将来も歌い継がれるだろう」。
脇紀美夫町長(68)は「旅館の前で『サラバ羅臼』を合唱した日が49年前の7月17日。知床が世界自然遺産に登録されたのが4年前の同じ日。今日の知床があるのは森繁さんのおかげ」と語った。
知床羅臼観光協会の辻中義一会長(66)は「羅臼は自然の厳しさが強く残っているからこそ、森繁先生は人間の温かみを感じたのだと思う。『知床旅情』が作られて来年が50年。いまにしてみれば、ここが知床観光のスタートだったと思う」と語った。
(毎日新聞より引用)
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「穏やかな最期だった」森繁さん次男記者会見の一問一答
森繁久弥さんの次男、建(たつる)さんが11日、東京都内で記者会見をした。主な内容は次の通り。
【冒頭あいさつ】
次男の建と申します。このたびは父が亡くなり、大勢の方々から励ましのお言葉をいただき、たいへん感謝しております。
父は7月22日に、ちょっと風邪っぽいということで、肺炎の疑いもあって主治医のすすめで入院しました。96年、体を使ってきて、老衰という形で昨日の朝、天寿を全うしたと言いますか、神様からいただいた寿命をきっちり使い果たしたと思います。
本来ならきちんとお世話になった方とのお別れの場をつくるべきだと思いますが、父から「こぢんまりやれ」という話もありました。
父は、俳優としての森繁久弥というものが九十数パーセントだったと思いますので、最後のところだけちょっと私たちできっちり父を送ってあげたいと思い、昨日、親戚(しんせき)だけが集まって、通夜というよりも、お別れの会をしました。ついさきほど代々幡の斎場で荼毘(だび)にふしました。最後に、紋付きはかまをはかせて正装で旅立たせました。息子が言うのもなんですが、非常にいい顔でした。
【質疑応答】
――父の生きざまを息子としてどう思うか。
一言で言うのは難しいが、私たち家族にはつねに父親の森繁久弥という意識しかなかった。俳優という意識はせず、つねに私たちには父でありおじいちゃんだった。本当にいいおやじだったと思います。一観客としては、素晴らしい俳優でした。
――棺の中に入れた物は。
母の写真を一緒に。あとは父の母の写真と、ひ孫たちの折り紙を。あまりにも羽織はかまが立派なものでしたから、あまりいろいろなものは入れなかった。
――最後に交わした言葉、今思い出される言葉は。
子どもの頃にはずいぶん厳しくいろんなことを言われた。優しさというか、裏表のない非常にさっぱりした潔い人だった。
――「100までは生きてみせる」と話していたが。
90歳のとき、近しい方々が集まって卒寿を祝った。そのお礼の文を書いた際に「今日は非常にありがたいけれども、100歳になったらゆっくりとお礼を申し上げます」と自分で書いていたので、それぐらいの自信はあったと思う。
――最後の言葉は。
ちょっと記憶がないですね。普通の親子の会話だったので。
――最後のお別れで、棺にどんな言葉を。
「楽しかった」って言いました。本当に楽しかったですから。
――今、振り返りながら改めて思い出すことは。
さっき申し上げたように潔い父だった。昔の映画などが再放送されるとき、「おやじさん、見ましょうよ」と言うと、「そんなものはいいんだ」とすっぱり言い切ってしまう。「終わった話だ」と。非常に思いやりがあって、いろんな上下の差もなく、どんな方にでも頭を下げるところが勉強になった。ささやかなことにも必ず「ありがとう」という言葉をかけるところなどが、父の横にいて勉強になりましたね。
――父の作品で一番好きなものは。
「ヴァイオリン弾き」がいちばんです。3階の一番上で切符を買って見るのが私の主義で、何十回も見た。歌と朗読も好きでした。
――亡くなる直前はどう過ごしていたのか。
毎日顔を見に行かないと、私も寂しいですから。看護婦さんにわがままを言っていたり。(マスコミの)みなさん方の目に触れるので、あまり自由に外に行けずにかわいそうかなとは思っていた。
――衰えを訴えた場面はあったのか。
年をとっているから、当然そういうことはある。でも誰でも年をとったらそうなると思います。
――心残りはなかったのだろうか。
なかったんじゃないですかね。もう孫も8人。(主演したのは)「七人の孫」なんですけど、ほんとは8人。ひ孫も8人いて、実は父がなくなる6日前に、下のフロアの産科でもうひとりひ孫が生まれて9人に。
――孫やひ孫への言葉は。
どれがどれだかわかりませんから、全部「チビ」で済ませてます。
――名前は全部森繁さんが命名したのか。
そんなことはありません。みんなそれぞれにつけてます。ただ、食事を一緒にすれば「おいしいか? おいしいか?」って一生懸命うれしそうに。
――静かに眠るような最期だったと聞くが。
管だらけではなく、ほんとに自力で、自分の力の限りで最後までいったということは、僕たちとしてはいちばんうれしかった。父の力で生きられるだけ生きたということで……。そういう意味で、非常にいい、非常に穏やかな最期だった。急変したが、(近親者は)みんなだいたい近い距離だったので集まることもできた。
――危篤状態は何日ぐらい。
私は亡くなる前日の午後に駆けつけた。その晩泊まって、昨日の朝だったので……。
(朝日新聞より引用)
素晴らしい俳優がまた一人亡くなった。