JAL123 interview
JAL123便 パイロットの苦闘(技術編)オリジナルDVD60分
日航ジャンボ機墜落事故
日航機事故あす25年 犠牲者追悼の灯ろう流し(10/08/11)
生存者の証言 -川上慶子さんの証言-
-高崎国立病院での証言-
大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?
あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。
飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?
左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。
慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?
暗かった。
真っ暗だった?
うん。
その時何も見えなかった?
見えなかった。
お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?
うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。
その時に何か思った?
うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。
明るくなった時何か見たものある?
木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。
左手が届いたところにいたわけね?
うん。
ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?
出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。
助けられてから、一番うれしかったことは?
知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。
ほかに何かみんなに言いたいことは?
いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。
上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。
(ばばこういちさんのブログより引用)
タイガースが21年ぶりの優勝決めた1985年、その年の8月12日に、日本航空123便が群馬県の高天原山〔たかまがはらやま〕に墜落した。乗員&乗客併せて524人という大惨事であった。亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏やタイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。
レスキュー隊が現場に到着できたのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場のあまりの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。それ程酷い状況で在った。しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、12歳だった。
「週刊朝日〔7月16日号〕に「育ての母が語った、川上慶子さん、その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母にあたる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。"あの日"慶子さんは父親〔当時41歳〕と母親〔同39歳〕、そして妹〔同7歳〕と共に123便に乗り合わせていた。当時大坂に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせどこない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったと言う。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心のすさまじさを感じ、又、近くにいた人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。
その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。"その時"の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。
「墜落したときは、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん〔妹〕も未だ生きてて、御話しててね。あっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」
「〔残骸から〕抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わないようになった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。「御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。」と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリがすでに現場に到着していたものの、「日本側が現場に向かっているので帰還せよ。」という上官の指示で現場に降りなかったのだとか。〔在日米軍による誤爆で123便は撃墜されたという説も在る〕確かに、慶子さんもその事を語っている。
「〔暗闇の中〕ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。「ああーこれで助かるわ。」って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。「これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる」と話したけど、それきり来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの"意図"が在ったのか不明だか、人命第一で動くべきであったろう。
事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と〔飛行機には乗り合わせていなかった〕兄の3人で生活し小田さんも大坂から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今はいろいろな事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らしたことも在ったのだそうだ。被害者がマスメディアの"煽り"で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。
慶子さんが保健士だった母親の遺志をついで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。
やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しく面白くて、顔はじゃがいもの様な人が良い。」2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。
事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に載る事は出きるようになったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。
事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に"あの川上慶子さん"と知られる事も無く、愛する家族と共に送る"普通の生活"に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。
最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んできた苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだことを知り、思わず頬が緩んだ。これからも、なくなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。
とても忘れられない事故だ。同期入社のお父さんが事故で亡くなった。
JAL123便 パイロットの苦闘(技術編)オリジナルDVD60分
日航ジャンボ機墜落事故
日航機事故あす25年 犠牲者追悼の灯ろう流し(10/08/11)
生存者の証言 -川上慶子さんの証言-
-高崎国立病院での証言-
大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?
あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。
飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?
左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。
慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?
暗かった。
真っ暗だった?
うん。
その時何も見えなかった?
見えなかった。
お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?
うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。
その時に何か思った?
うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。
明るくなった時何か見たものある?
木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。
左手が届いたところにいたわけね?
うん。
ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?
出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。
助けられてから、一番うれしかったことは?
知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。
ほかに何かみんなに言いたいことは?
いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。
上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。
(ばばこういちさんのブログより引用)
タイガースが21年ぶりの優勝決めた1985年、その年の8月12日に、日本航空123便が群馬県の高天原山〔たかまがはらやま〕に墜落した。乗員&乗客併せて524人という大惨事であった。亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏やタイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。
レスキュー隊が現場に到着できたのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場のあまりの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。それ程酷い状況で在った。しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、12歳だった。
「週刊朝日〔7月16日号〕に「育ての母が語った、川上慶子さん、その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母にあたる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。"あの日"慶子さんは父親〔当時41歳〕と母親〔同39歳〕、そして妹〔同7歳〕と共に123便に乗り合わせていた。当時大坂に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせどこない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったと言う。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心のすさまじさを感じ、又、近くにいた人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。
その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。"その時"の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。
「墜落したときは、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん〔妹〕も未だ生きてて、御話しててね。あっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」
「〔残骸から〕抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わないようになった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。「御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。」と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリがすでに現場に到着していたものの、「日本側が現場に向かっているので帰還せよ。」という上官の指示で現場に降りなかったのだとか。〔在日米軍による誤爆で123便は撃墜されたという説も在る〕確かに、慶子さんもその事を語っている。
「〔暗闇の中〕ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。「ああーこれで助かるわ。」って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。「これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる」と話したけど、それきり来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの"意図"が在ったのか不明だか、人命第一で動くべきであったろう。
事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と〔飛行機には乗り合わせていなかった〕兄の3人で生活し小田さんも大坂から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今はいろいろな事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らしたことも在ったのだそうだ。被害者がマスメディアの"煽り"で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。
慶子さんが保健士だった母親の遺志をついで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。
やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しく面白くて、顔はじゃがいもの様な人が良い。」2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。
事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に載る事は出きるようになったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。
事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に"あの川上慶子さん"と知られる事も無く、愛する家族と共に送る"普通の生活"に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。
最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んできた苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだことを知り、思わず頬が緩んだ。これからも、なくなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。
風にそよぐ墓標-父と息子の日航機墜落事故-門田 隆将集英社このアイテムの詳細を見る |
茜雲 総集編―日航機御巣鷹山墜落事故遺族の二〇年本の泉社このアイテムの詳細を見る |
とても忘れられない事故だ。同期入社のお父さんが事故で亡くなった。