アナタハンの女王事件(アナタハンのじょおうじけん)とは1945年から1950年にかけて太平洋の孤島アナタハン島で発生した、多くの謎が残る大量死亡事件。別名「アナタハン事件」「アナタハン島事件」。
概要
太平洋の孤島で1人の女性と32人の男達が共同生活していくうちに、男たちがその女性を巡って争うようになった。銃の存在が権力の象徴となり、行方不明となる男や殺される男が次々に発生し、サバイバルの様相を見せた。舞台となったアナタハン島はサイパン島から北方約117キロに位置し、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな島であった。
終戦の混乱と米国信託統治の関係で権力空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点がある。
経緯
1944~1945年
1944年6月、当時日本の委任統治領だったアナタハン島には、島民(カナカ族)約70人を雇ってヤシ農園の経営をしていた日本企業「南洋興発」の出張所があった。日本人は、ここに派遣されている農園技師(当時29歳)とその部下、そして部下の妻・比嘉和子(当時24歳)だったが、和子の夫が妹をパガン島に迎えに出かけた後にサイパン島攻撃が開始され戦闘が激化したため帰らないままとなっており、島の2人はこのような状況の中、夫の上司と部下の妻という関係の中で親密になっていた。
そこに軍に徴用された船「兵助丸」「曙丸」「海鳳丸」がアナタハン島沖で米軍機の空襲を受け、軍人10人、軍属21人の、日本人男性ばかり計31人がアナタハン島に漂着した。彼らの多くが20歳前後で、最も若かったのは16歳であった。
その後も米軍の空襲が続き、船や小舟まで焼き尽くされ交通手段を断たれてしまった。こうして、漂着してきた男性多数のアナタハン島での生活が始まった(日本人生存者数:男32人、女1人)。
島は農場として開発されていたものの、元から居た島民を合わせて100人程となり、食糧の余裕がなくなったため、男たちは乗っていた船ごとに集落を結成して里芋の栽培などを始めた。全員生きるのに必死で、食べ物を求めて駆けずりまわる毎日だった。
7月、暴風雨の中で高波にさらわれた1人が行方不明になる(日本人生存者数:男31人、女1人)。
その後、日本軍の統制もなくなったことでカナカ族の島民たちは密かに島を脱出し、日本人32人だけとなった。
1945年8月の終戦を迎え、米軍は島に向けて拡声器で日本の敗戦を知らせたが、誰も信じる者はいなかった。
戦争が終わったため、米軍による空襲もなくなり、島民も逃げ出していたので、食糧に余裕が出るようになった。そのうち、生活が原始人のようになり、男達は全裸、和子も上半身を露わに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわるようになった。
最年長の男は、和子を巡る男たちの争いを危惧し、農園技師と和子に結婚した夫婦を装うことを頼み込む。正式な夫婦と装えば、争いの種が無くなると考えたためである。帰還後に証言した生還者の殆どが農園技師と和子が正式な夫婦であったと思っていた。
1946年
1946年2月、兵助丸船長が病死(日本人生存者数:男30人、女1人)。
8月、農園技師と和子はB-29の残骸を発見し、パラシュートと缶詰を回収。その後、皆で墜落現場へ行き、パラシュートやガソリンタンクなどを回収。パラシュートの布地で服を作ったり、ガソリンタンクを2つに切って鍋を作ったりした。
その時、機体のジュラルミンからナイフを作った者がいた。また海軍軍人の2人が、B29の残骸の中から壊れたピストル3挺と実弾70発を拾った。海軍2人組はそれらを解体・修理し、2挺のピストルを組み立てた。
まもなく、海軍2人組の内の1人と仲の悪かった男が変死した。「木から落ちたのが原因」ということだったが、2人組以外に目撃者はいなかった(日本人生存者数:男29人、女1人)。
農園技師の嫉妬に愛想を尽かしていた和子は、別の男と駆け落ちして山中深くに逃げるが、狭い島のため簡単に発見されて、農園技師のもとに連れ戻された。以来、男たちの和子争奪戦が激化する。
海軍2人組の内の1人が和子に近づいて妻になることを要求し、拒絶したら農園技師を殺害すると脅す。殺されたくなかった農園技師は和子に相手のほうに行くことを依頼。そして、何故か農園技師、2人組、和子の4人で暮らすようになり、和子は同時に3人の夫を持つ身になった。
1947~1949年
1人の女性を3人が取り囲む生活が支障を来たすことになった。1947年秋、海軍2人組に仲間割れが生じ、1人が射殺される(日本人生存者数:男28人、女1人)。
これに驚いた農園技師は、射殺した男に和子を完全に譲り渡すことになった。ところが、その3ヵ月後、射殺した男が行方不明となった。この行方不明について、農園技師と和子は「夜釣りをしていて海に落ちて死んだ」と言ったが、泳ぎの達者な男だったため、死んだことを信じた者はいなかった。現在もこの男の死因には不明である(日本人生存者数:男27人、女1人)。
この男が行方不明になってから、すぐに和子と農園技師はよりを戻したが、その半年後には農園技師も死亡。当時和子に入れあげていたコックは「農園技師は食中毒で死亡」したと述べた。海軍2人組が使っていたピストルを持っていたコックによる射殺の疑いが強いといわれているが詳細は不明である(日本人生存者数:男26人、女1人)。
1949年2月までに、海鳳丸水夫長が崖から転落死し、続いて曙丸水夫長が食中毒で死亡した。2人とも不審な死に方だったが、事故であれ殺人であれ、彼らに調べる術はなかった(日本人生存者数:男24人、女1人)。
そして、コックが行方不明になった。目撃者によると「大波にさらわれた」ということだったが、溺死体はあがらなかった(日本人生存者数:男23人、女1人)。
異常な事態を収拾すべく、最年長の男が「和子さんに正式な夫を選んでもらい、みんなでこれを祝福して、もう一切邪魔はしないと約束しあうべきだ」と提案。和子と他の男達全員がこの提案を受け入れ、和子は最初の駆け落ち相手を選んで結婚することにした。簡単な結婚式が行われ2人を祝福した。争いの元になったピストルは、話し合いの結果、2挺とも壊して海に沈めることになった。
1950~1951年
1950年、しかし、それでも争いが収まらなかったため、和子が全ての原因であるとして、大多数の男たちによって彼女を殺害する方向に男たちの意見が傾くようになった。しかしその事をある男が和子に事前に密告したため、和子は島の中を逃亡し続けることになった。
6月、米国船が救出のため島に来る。男達は米軍の策略として山中に隠れるが、33日間逃亡し続けた和子は脱出した。この船は残留日本人救出のために米軍が差し向けたもので、船には日本人も乗船していた(日本人生存者数:男22人、女0人)。
8月、和子と結婚した男が病死した(日本人生存者数:男21人、女0人)。
翌1951年1月、和子が前年7月に結婚相手宛に書いた手紙が海岸に届く。曙丸船長が手首の大怪我が元で死亡(日本人生存者数:男20人、女0人)。
6月には飛行艇が救出を呼びかけるビラを撒き、また米軍船が新聞や手紙を届けに来た。これに男1人が乗り込んで脱出した。6月30日、終戦を現実のものと受け容れた、残った19人全員が米軍船に乗り込んで脱出した。20人は7月6日に日本に到着した。
その後
アナタハン島の女性を巡る一連の怪事件が戦後、大々的に報道され、日本国内で「アナタハンブーム」となり、和子のブロマイドが売れに売れた。和子は男を惑わす女として報道され、大衆の好奇の目に晒された。映画化もされ、和子本人も出演した。映画出演後は、舞台「アナタハンの女王」にも出演し、日本全国で興業された。1974年、和子は脳腫瘍で死亡。
島に戻れなくなった和子の最初の夫は、和子は死んだものと思って再婚していた。島に漂着した男の妻らも再婚している例があり、中には妻が実弟と再婚して子供を得ていた例もあった。
アナタハン島へは元島民らが帰還したが、1990年4月に島で火山性地震が多発したことがきっかけで避難命令が出ており、無人島になっている。
関連映画
『アナタハン島の眞相はこれだ!!』(1953年、新大都映画) 事件を猟奇的に扱ったもので和子本人が出演
『アナタハン』- 原題:The Saga Of Anatahan(1953年、東宝) ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
関連書籍
『アナタハン』(東和社)
『アナタハンの告白』(東和社)
『東京島』(新潮社)桐野夏生・著(本事件を元に創作)