この秋三度目の宇都宮宿となる。
街の中心は二荒山神社、延喜式に名を連ねる歴史ある神社で下野國一之宮といわれている。
09:00 「宇都宮宿」
日光道中との追分は伝馬町交差点。
日光道中はここを左折して清住通りを北上し、奥州道中は真直ぐJR宇都宮駅方面へと進む。
2つの本陣のうち本陣青木家は、この伝馬町交差点を日光道中と反対に右折したところにある。
もう一方の本陣石橋家跡はみずほ銀行宇都宮支店の場所らしい。
いずれにしても、終戦直前に大きな空襲に見舞われてた宇都宮に古い遺構は残っていない。
Navi58. 裁判所前交差点(右折)→<国道119号>→NOF宇都宮ビル 800m 10分
Navi59. NOF宇都宮ビル(右折)→<市道>→BAR Maron 130m 2分
Navi60. BAR Maron(左折)→<オリオン通り>→筑波BK宇都宮 400m 5分
Navi61. 筑波BK宇都宮(左折)→<県道35号>→ファミリーマート大通り二丁目店 50m 1分
Navi62. ファミリーマート大通り二丁目店(右折)→<大町通り>→ホテルニューイタヤ裏 400m 5分
Navi63. ホテルニューイタヤ裏(左折)→<上河原通り>→博労町交差点 500m 7分
宇都宮宿の白河方の入口は田川に架かる幸橋。
ここに架橋されたのは江戸時代初期の万治4年/寛文元年(1661年)と早い。
元々上河原橋の名称を明治天皇の御渡歩を期に幸橋と改称したと云う。
Navi64. 博労町交差点(右折)→<県道125号>→小野川通商前 8.0km 100分
09:30 「旧篠原家住宅」
奥州街道口で、醤油醸造業や肥料商を営んでいた旧篠原家住宅は国指定重要文化財。
現在の建物は明治28年(1895年)のもので一般公開している。
宇都宮大空襲を経て残った母屋と石倉は、ここが街道筋であったことを想像させてくれる。
奥州道中は旧篠原家住宅の在る博労町交差点から延々と県道125号を北上する。
竹林町辺りでは豪農の家らしい立派な門構や大谷石を使った蔵が散見される。
日本橋から28番目となる竹林一里塚は、豊郷南小学校辺りと推測されるが痕跡はない。
白沢街道の名称がついた県道125号線が海道町交差点を過ぎると並木が現れる。
桜、杉、栗であったり様々だ。
左右には近隣の農家が直売する梨や巨峰が秋を感じさせる。
10:40 「海道新田一里塚(推定地)」
海道新田一里塚は日本橋から29番目になるが痕跡はない。
塚があったと推測される辺りには蕎麦の畑が広がっている。
Navi65. 小野川通商前(直進)→<市道>→白沢宿交差点 0.9km 11分
県道125号が新道で左手に逸れていくと間もなく白沢の集落になる。
白沢地蔵尊辺りから街道は鬼怒川の氾濫原に向かって緩やかな勾配を降りて行く。
白澤宿の江戸方の入口、大榎のたもとに「江戸時代の公衆便所」なるものがあった。
高さは160cmくらい、一畳敷きほどの小さな小屋に2つの半個室、肥桶が積み重なっている。
挿絵には用を足しているしゃがみ込んだ侍に、鼻を抓んだ順番待ちの旅人二人、微笑ましい。
Navi66. 白沢宿交差点(左折)→<県道239号>→河内郵便局 0.4km 5分
白澤宿内は道路の左右に水路が流れ、家々は軒下に屋号を記した板を揚げていて雰囲気が在る。
白沢交差点を左直角に折れると、間もなく右手に本陣宇加地家がある。水路には水車が回っている。
11:15 「白澤宿」
天保年間の「奥州道中宿村大概帳」に印された白澤宿の規模は、本陣1、脇本陣1、旅籠13軒。
やや小ぶりの宿場だったようだ。鬼怒川で獲れる鮎、それに牛蒡が名物であったと云う。
宿並みは白河方の入口手前でもう一度右直角に折れるのだが、この突き当たりに井上清吉商店が在る。
明治元年創業の蔵では "澤姫" の銘柄で地酒を世に出している。"澤" はもちろん白澤宿から受けている。
Navi67. 河内郵便局(直進)→<市道>→鬼怒川堤防 1.0km 13分
鬼怒川堤防への田舎道を進むと、土地の方が建てた白澤一里塚址碑がある。
距離的にはだいぶ手前のような気がするが、そもそも繰り返される鬼怒川の氾濫で場所は特定できない。
Navi68. 鬼怒川堤防(左折)→<堤防道路>→阿久津大橋西詰 1.5km 20分
Navi69. 阿久津大橋西詰(右折)→<県道125号>→上阿久津交差点 0.7km 10分
阿久津大橋で鬼怒川を渡る。「鬼怒川の渡し」は500mほど下流であると思われる。
街道時代の「鬼怒川の渡し」は、春から秋にかけては舟渡し、冬の渇水期には仮橋を架けて渡ったと云う。
Navi70. 上阿久津交差点(左折)→<県道125号>→勝山城址入口 1.5km 20分
上阿久津の高尾神社は、人間の能力では自由にならない天候を支配する高尾神を祀る。
雷神・龍神・水神などを祀って信仰されてきたのは、暴れる鬼怒川の神を鎮めようとしたからだろうか。
今日はちょうど例祭の日らしく、引き回される彫刻屋台が見事だった。
将軍地蔵には、源義家が奥州に進軍したときの鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇退治の物語がある。
江戸時代には、街道の道中安全にご利益があると有名になったと云う。
なるほど、境内には遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されている。
12:40 「勝山城址」
鬼怒川の段丘面を天然の要害にした勝山城は、鎌倉末期に氏家氏が築いた。
その後宇都宮氏の北方防衛の拠点であったが、豊臣秀吉の命で改易したのに伴い廃城となっている。
城址からは日光連山から那須連山まで見渡せる。
Navi71. 勝山城址入口(右折)→<市道>→馬頭観音 1.5km 20分
田舎道となった街道を進む。国道4号の上阿久津バイパスを渡った辺りに氏家一里塚があったはずだ。
その先左手の「お伊勢の森」は、伊勢神宮の内宮・外宮その他末社を勧請したのが祀られている。
東北本線の複線を渡る。踏切の名称は「旧奥州街道」とある。東京駅からは126kmになる。
田舎道の行き止まりは、奥州道中と太田街道の分岐点となっていて、旧い道標が建っている。
享保年間以前の道標には「右江戸海道、左水戸かさま、下だて、下づま」と書かれているそうだ。
正面の「右江戸海道」だけが辛うじて読み取れる。
ここを鉤の手に曲がると氏家宿の江戸方の入口で、木戸番所が設けられていた。
Navi72. 馬頭観音(斜め左)→<県道181号>→上町交差点 0.9km 10分
13:30 「氏家宿」
国道293号と交差する氏家交差点を過ぎると左手にある平石歯科医院が、本陣平石家の跡になる。
天保年間の「奥州道中宿村大概帳」に印された氏家宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠35軒の規模。
鬼怒川舟運の北限である「阿久津河岸」が近いため、物資の集散地として大いに賑わったと云う。
氏家宿には宿場の遺構がほとんどない。代わりに宿並みの中央部「西導寺」をゴールに行程を終える。
西導寺は建久2年(1191年)に氏家氏の始祖で勝山城を築いた宇都宮公頼が開いたとされる古寺だ。
日光道中と分かれた奥州道中、白澤宿を経て、鬼怒川を渡り氏家宿までは19.0km、4時間30分の旅。
ゴールまで持ち越した今日の街道めし、西導寺門前の「なかや」で "とろろそば" と生ビールなのだ。