07:40 戸倉宿
10ヶ月ぶりに北国街道は戸倉宿に戻ってきた。
戸倉宿の本陣は現存しない。跡地に明治天皇行幸の行在所跡碑が建っている。
むしろ “下の酒屋” 坂井名醸の主屋が存在感がある。こちらは江戸中期の建築だ。
宿場を出ると直ぐ姨捨道道標、“左おはすて・やハた道” と月の名勝姨捨山を案内している。
まもなく北国街道はR18を左に離れ、暫くしなの鉄道とR18の間をを北上していく。
国道が新たに開削されたゆえ道は趣を残して現在に至っている。
08:10 水除土堤
千曲駅を通過する。新しい駅の清潔なトイレと清涼飲料水の自販機は歩く旅にも嬉しい。
ここに残る水除土堤は、千曲川の洪水に備えて寂蒔はじめ4ヶ村が元禄年間に築いた。
08:30 寂蒔茶屋本陣
戸倉・矢代両宿の中間に位置する寂蒔には茶屋本陣が置かれた。
千曲川を隔て名勝姨捨山の眺望良く、家ごとに遠目鏡を置いて客に見せたと名所図会にある。
屋代駅前を通過すると左手に一里塚の碑、屋代小学校には明治の洋風建築旧校舎。
松本の開智学校、佐久の中込学校など信州にはこうした建築が多く残されている。
09:00 矢代宿
街道は宿場の入口で枡形が作られいるケースが多い。矢代宿でも本町・横町・新町と
右折・左折で鈎の手に折れる。本町には旧旅籠藤屋が藤屋旅館として続いている。
本町の突き当たりに須々岐水神社、ここを右折で横町、更に数10mを左折で新町だ。
新町を400mほど進むと矢代追分、右に分岐する松代道は松代宿・川田宿など五宿を経て、
牟礼宿の手前で再び北国街道と合流する脇街道だ。
この追分には矢代宿の本陣と脇本陣があったそうだが現在はなんの遺構もない。
09:20 矢代の渡し
更に500mほどでR18に合流する。高崎から直江津まで延びる北国街道を継ぐ国道だ。
R18をオーバーパスする上信越道と新幹線。北国街道最大の旅客は加賀前田家の参勤交代、
長野新幹線は2年後北陸新幹線となって東京と金沢を結ぶ。
首都圏と長野・北陸を結ぶ幹線は時代が変わってもここで千曲川を越える。
矢代の渡し跡を見ようと新幹線高架橋下を進むが、夏草に行く手を阻まれ叶わなかった。
矢代の渡しは舟綱越しの渡しで、明治時代に舟橋から木橋に変わったそうだ。
R18の篠ノ井橋まで迂回して北岸に回る。新幹線鉄橋の西側が渡し跡だ。
母校の校歌に『草木も萎ゆる 真夏日に、渦巻き流るる 千曲川』とあったけれど
その情景を想起させる暑い日の千曲河畔だ。
近くの軻良根古(からねこ)神社に矢代の渡し跡の説明書きが立っている。
10:00 篠ノ井追分
渡しから500mで篠ノ井追分。中山道洗馬宿から松本城下を経た北国西街道と合流する。
北国西街道は塩尻~篠ノ井間を結ぶJR篠ノ井線に沿っている。
写真は善光寺を背にして左手は上田方面への北国街道。右は松本方面への北国西街道。
間に碑が立っている。左右いずれも中山道へ連絡して道を終える。
要衝のこの地は茶屋が並んで賑わい、役所や学校が集まる旧更級郡の中心地だった。
10:10 見六の道標
合流後北国街道は東に1kmほど進んで北に向きを変える。ここに見六の道標が立つ。
嘉永年間に作られたこの道標は、橋の付替工事中に川底から見つかったものだ。
“せんく王うし(善光寺)道”と掘られた上に丸囲みで右手人差し指が方向を示して洒落てる。
10:30 御幣川(おんべかわ)
甲越戦争の上杉謙信と武田信玄が合戦した歴史舞台のこの辺りは曰くの地が多い。
薬師堂(左)は鬼女紅葉と平維茂由来の堂、幣川神社は川中島合戦の武将の金幣が由来だ。
篠ノ井市街地の東端を通る。昭和の匂いのする商店街に「おやき」の店をみつける。
信州のソウルフードだ。お袋は作らなかったが伯母が得意だった丸ナスをひとついただく。
さすがに手作りモノは駅頭で販売しているものよりはるかに旨い。愉しい寄道だ。
11:50 丹波島宿
北上する北国街道は於佐加(おさか)神社が西の枡形、右に折れると丹波島宿となる。
大河犀川を控えて川止め時にはさぞかし賑やかであったと思われる800mの規模だ。
家々は表札の他に旅籠当時の屋号を掘った木札を掲げて雰囲気を醸し出している。
宿場を東に歩いてまず目に付くのが高札場(復元)。町内会の案内が昔風に標されている。
続いて脇本陣の柳島家、江戸中期の母屋と冠木門が残っている。
本陣の門と明治天皇小休所跡碑、この家からは犀川の初鮭が加賀前田家に献上された。
東の桝方で左に折れて街道は再び北へ、立派な蔵の屋根の上に鍾馗様が鎮座している。
丹波島宿では魔除けの守り神に鍾馗を屋根に飾る風習があってこの蔵を含め四軒に残る。
12:10 丹波島の渡し
北アルプスの雪解け水を集めて流れる犀川は、合流する本流の千曲川より水量が多い。
江戸期は舟綱渡しだったそうだが、水量水速からして相当の難所であったと推測できる。
明治期の木橋から3代目の丹波島橋を渡ると江戸期に建った善光寺常夜燈がある。
いよいよ長野市街地に入り北国街道は北に真直ぐ善光寺を目指す。
丹波島橋から2km、源頼朝が善光寺参詣時に立ち寄った観音寺裏で行く手を駅に塞がれる。
1.7kmの表参道を行く。かるかや山西光寺、石堂丸と苅萱上人の像が建つ。
この辺りは高校時代まで過ごした街でもある。徒歩での帰省はもちろん初めてだ。
参道の中程にある権堂、江戸時代には水茶屋が並び精進落としの花街で発展したところだ。
権堂を過ぎると登り勾配がきつくなり左右には白壁の店が軒を連ねるようになる。
有名な七味唐辛子店や栗菓子の店が並ぶあたりが善光寺宿の中心だ。
ちょうどこの日は「びんずる祭り」で子ども神輿が次々と善光寺を目指していた。
夜は「びんずる踊り」の連と見物客でこの夏一番の人出になるはずだ。
13:30 善光寺宿
江戸中期から藤井家が務める善光寺宿本陣、現在は大正時代建築の3階建て、
少し前までは旅館業を営んでいたが、現在はレストラン&バーとして営業している。
本陣の並び、文政十年(1827年)創業の「門前そば 藤木庵」で街道めし。
黒姫山麓の霧下を、もり汁・胡麻汁・長芋とろろ汁で味わう “ごくらく蕎麦” が美味い。
北国街道は本陣の先で左手に折れる。真直ぐ行くのは御影石を敷きつめた善光寺参道だ。
江戸期には伊勢神宮と並んだ一大観光地であった善光寺。多くの信者が北国街道を通って
ここに達したと思うと感慨深い。夏の日差しの中「戸倉宿」から矢代宿・丹波島宿を経て
「善光寺宿」まで 22.9kmと距離を稼いだ。約6時間の行程だった。