旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

北国街道紀行3 海野宿~上田宿

2012-09-15 | 北国街道紀行

「海野宿」
 北国街道を歩く3日目、晴天の海野宿は相変わらず日差しは強いが風が心地よい。
観光案内に役割を替えた高札場を後に海野宿を後にする。

西海野の集落も中央に用水が流れる景観が続く。左手に千曲川が迫ってくると大屋の町。
戌の満水(1742年の土石流災害)で流されてしまった仁王堂と大屋神社の前を街道は行く。

 大屋を出て暫くは千曲川の流れを間際に沿う。対岸の崖も近づき名勝が展開される。
明治天皇が休息した岩下小休所跡、名勝太鼓淵を左手に進むと前方に長野新幹線の斜張橋。
菅平から流れ出た神川を渡るが、ここは関ヶ原前夜、真田昌幸が秀忠軍を破った合戦場だ。
橋のたもとにある馬頭観音像は加賀の飛脚組合が立てたもの、江戸と加賀の通信や物流が
盛んであったことを示すものだろう。

 神川を渡って信濃国分寺跡、今日はここから妙高市北国街道研究会に合流する。
聖武の号令で建立された寺は、平将門の乱に付随する小競り合いで消失されたとされる。
今は2つの寺の跡を二分するように、しなの鉄道が走っている。

城郭のような石垣に塀、重厚な門は、柳沢家が明治時代に移築した旧上田宿本陣邸だ。
この辺りには他にも養蚕で財をなした立派な屋敷が多い。

 暫く新幹線の高架に並行した後、しなの鉄道を跨ぐと上田市街地に入る。
踏入から常田にかけて街道沿いには古い建物が良く残っている。
常田には桝方の名残があり、信州大学繊維学部正門前を右折左折して進む。
正面に現れる木立は科野(しなの)大宮社は古代には信濃の総社であったそうで、
御神木である2本の欅の大木が聳えている。
さらにその先の毘沙門堂は私塾多聞庵の跡、佐久間象山が学んだところである。

「上田宿」
 城下町上田は何度も街道を直角に曲げて城を迂回させる。折れる度に街の様相は一転。
最初のT字路を右折すると「横町」、日輪寺・宗吽寺と立派な山門を有する寺が並び、
また瀟洒なレストランも多い。
続いて左折した「海野町」は歩道にアーケードが架かる典型的な中心商店街、
町人街として最も賑わったところで、本陣問屋跡の碑がアーケードの下に建っている。

 更に右折をした「原町」は電線地中化の済んだオフィス街、進路は北の山並みに向く。
真田氏発祥の地原之郷の人々が作った町だそうだ。
「真田太平記」の池波正太郎記念館では真田昌幸・信之・幸村親子の活躍を紹介している。
白壁蔵造りのちょっと気になるそば処も太平庵の屋号。はためく紅い六文銭が誇らしげだ。

中央3交差点を左折、更に50mほど先で右に折れると「柳町」。
土蔵造りと卯建の揚がる旧い家並みが続く、宿場町の雰囲気を色濃く残している街だ。

寛文5年創業の造り酒屋、上田縞上田紬の店、味噌醸造の菱屋など魅力的な店が並ぶ。
柳町の北端には「保命水」と呼ばれる水場があり街道の風景に溶け込んでいる。

保命水の角を左折すると「紺屋町」、こんどは静かな住宅地の中を西に向かうことになる。
このまま進めると上田城下を後にすることになるが、左折をして大手に向かう。

上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸が築城した尼ケ淵という千曲川の河岸段丘を
利用した平城で、関ヶ原前夜、徳川秀忠の大軍を二度にわたって退けた名城だ。
「海野宿」から「上田宿」までは7.9km。行程第3日目のゴールを上田城跡公園とした。



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