旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

中山道紀行36 武佐宿~守山宿~草津宿

2016-02-27 | 中山道紀行

「武佐宿」 06:40
 5ヶ月ぶりに中山道に戻ってきた。ほぼ日の出時刻に第36日目の行程を武佐宿本陣跡からスタートする。天気予報では日中気温が上がると報じていたが、この時間は0℃と寒さが厳しい。畑にはうっすらと霜が降りている。数km湖寄りの近江八幡が商人の町として賑わったのに比べて武佐宿はひっそりとしている。

 

「いせ三な口ひの八日市道」の道標と愛宕山の常夜灯が宿場の中程に在る。水口とは東海道の宿場、八日市、水口と現在の近江鉄道に沿って東海道に短絡し、伊勢へと向かう道と云うことだろうか。

 

ひっそりと在る武佐宿だからこそ、紅がら格子や、土蔵が残る旧家が残っている。

住連坊首洗池は後鳥羽上皇に首をはねられた法然の弟子、住連坊の首を洗ったと伝わる池だ。

 

「日野川の舟渡し」 07:40
 旧道が日野川に行く手を塞がれる。案内板には、平常は舟で渡り、水量が減ると舟二艘に板を渡して舟橋を渡ったとある。広重は武佐宿の情景にこの渡しを描いている。明治8年、ここに架かった橋は今は無く、上流に架かった国道8号線の横関橋まで往復1km程の迂回を強いられる。

「鏡神社」 08:20
 武佐宿と次の守山宿は13.8kmも離れている。そこで設けられた鏡立場、実際には本陣や脇本陣も整え、間の宿の機能を果たしていたようだ。立場の中心地には義経ゆかりの鏡神社、元服之池がある。神社の向かい側には現代の茶屋、道の駅竜王かがみの里が在って休憩ができる。

中山道は上書きした国道8号線を往く。左手奥に近江富士・三上山が見える。広重は守山宿の情景に三上山を描いている。

米どころ滋賀県には50の蔵元があるそうだ。野州の市街地には『暁』の暁酒造が在る。酒蔵は街道筋の華なのだ。

 

 東海道新幹線の高架を潜ると、鳥居本で別れた彦根道の追分になる。写真正面は中山道、左から合流するのが彦根道だ。彦根道は中山道より琵琶湖寄りを並行するバイパスのような街道なのだが、最盛期30万石であった彦根城下や近江商人の町として栄えた近江八幡を通り、中山道より余程賑やかだったようだ。

追分の先には『玉の春』の宇野勝酒造。この蔵元の名、数々の珍プレーを披露したホームラン王、ドラゴンズのあの男を思い出させる。

 

「守山宿」 10:45
 今度は東海道本線の高架を潜り、野州川の橋を渡ると守山宿に入って行く。本陣跡前には「右中山道美濃路、左錦織寺四十五町このまはみち」の道標が立つ。京から江戸に下る旅人には「京発ち守山泊まり」が一般的な行程で、なかなかの賑わいだったそうだ。

桓武天皇が「わが山を守り給う寺」の意味で名付けたという東門院守山寺。小ぶりながらも立派な左右の仁王像は、坂上田村麻呂が戦勝祈願をしたことから、門出仁王と呼ばれているそうだ。

 

滋賀県はイチゴも特産の様だ。通り過ぎてきた街道筋の老舗菓子屋は、どこもイチゴ大福を扱っていた。門前の菓子舗「鶴屋吉正」で一つ試してみる。大粒イチゴの甘酸っぱい果汁が爽やかだ。

「今宿一里塚」 11:05
 守山宿を抜けると間もなく左手に一里塚が見えてくる。東側の片塚が残るのみだが、滋賀県で唯一現存の一里塚だそうだ。綣(へそ)という変わった名の町に大宝神社が在る。境内には芭蕉句碑があって「へそむらのまだ麦青し春のくれ はせを」と彫られている。

 

「草津宿」 12:05
 左手から近づいて来た東海道本線を潜ると古い町並みが展開する。草津宿だ。駅へ向かう大路を渡ると街道はアーケードの商店街に変わってしまう。

 

天井川になっている草津川のトンネルを抜けると、左手に「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」の道標、右手に高札場が現れる。日本橋で北へ南へと別れた中山道と東海道が再会する草津追分だ。三叉路中央部のマンホールの蓋も道標になっている。

 
 

本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒余と多くの旅人で賑わった草津宿の規模は、建坪467坪、室数30余の田中七左衛門本陣がよく表している。

延べ36日を歩いてきた中山道もあと1日の距離、三条大橋まで26.1kmを残すのみとなった。底冷えのする霜降りる朝、武佐宿をスタートした第36日目は、守山宿を経て東海道と出会う草津宿まで19.7km、5時間20分の行程となった。ゴールの草津追分は一転春の陽気だった。


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