旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

北国街道紀行7 牟礼宿~古間宿~柏原宿

2013-10-05 | 北国街道紀行

「牟礼宿」
 北国街道を歩く第7日目は妙高市北国街道研究会の皆さんと小玉古道を歩く。
第9回目の散策会は、新聞などに取り上げられ参加者を増やし52名の参加と盛況だ。
牟礼宿西の桝方には真宗の髻山證念寺がある。 高台の門前からは牟礼宿が一望できる。

證念寺を正面に見て桝方を左に折れるといきなりの急坂、これを十王坂と言う。
坂の途中の十王堂に亡者が極楽浄土に行き着くまでに裁きを行う閻魔大王等十体が並ぶ。
子どもを躾るには絶好の教材であったことだろう。

 

十王坂を上りきると鳥居川の河岸段丘上になる。ここに金附場跡がある。
北国街道の重要な役割は佐渡の御用金の運搬、ここは馬の乗り換えを行なった場所だ。
さらに200mほど先に小さな公園がある。武州加州道中堺碑がある。

 

 北国街道の今一つの重要な役割はもちろん参勤交代だが、中でも加賀前田公は
最大の旅客であり、その3,000名の行列通過は街道の最大行事であった。
この地は江戸と金沢の中間地点で、ここに達するに前田公は江戸屋敷と金沢城に
無事を知らせる飛脚を発したそうだ。

 R18とクロスした街道は山道に溶け込む。「美しい日本の歩きたくなる道500選」に
認証された小玉坂だ。途中小玉新道と分かれるが、新道と言っても明治9年の開削、
我々はもちろん左手小玉古道を往く。

杉木立が鬱蒼と続く小玉古道を往く。
足元は所々滲み出した湧水によって糠っていたりするが、歴史を感じさせる道だ。
途中観音平に9体の馬頭観音が佇んでいる。山の斜面下に信越本線の登り勾配が続いている。
何の用途なのかは判らないが切り出した石がゴロゴロする中を小玉古道は続く。

 

小玉新道と合流すると小玉一里塚跡。上杉謙信の馬止清水が湧き、立場茶屋もあった。
さらに1kmほどで小玉坂のピークで、清水窪といって林の中から水が滲み出している。
明治天皇が野立てをした御小休所跡で、玉堂の他岩倉具視らの随行員棟も設けられた。

 

明治天皇北陸行幸時に開削された直線的な小玉新道を1kmほど下ってようやく人里に戻る。
折しも蕎麦の白い花が満開の落影集落には所々茅葺きの古い納屋などが残っている。

 再びR18とクロスすると小古間の集落、色付き始めた水田の向こうに黒姫山の雄姿を望む。
古間には三軒の酒屋があったが、現在では「清酒松尾」の高橋酒造店に受け継がれている。

「古間宿」
 古間一里塚は跡の碑のみが立つ。一里塚跡を過ぎR18を横断すると古間宿に入る。
鳥居川を挟んで北隣りの柏原宿と合宿の古間宿は古間鎌(現信州鎌)の産地として知られる。
豪雪地帯の冬の労働力を活用したもので、今でも播州鎌に次ぐ産地だそうだ。

残念ながら古間宿にも多くのものは残っていない。
本陣古屋の標注があるのみだが、ここに設けられた明治初年の古間宿地図が興味深い。

「柏原宿」
 宿場の外れで鳥居川を跨ぐ寿橋を渡り、河岸段丘の坂道を上るともう柏原宿だ。
柏原といえば何と言っても俳人・小林一茶、宿内と言わず町内いたるところに句碑が建つ。
宿場に入ると左手に一茶終焉の土蔵と一茶旧宅(実際には遺産折半した弟の家)がある。

宿場ほぼ中央西側で戸隠三社への参道が分岐する。江戸初期に刻まれた碑で、
「従是戸隠山道」とある。戸隠信仰でも多くの旅人で賑わったことだろう。
さらに先に小林家の菩提寺・明専寺には「我と来て遊べや親の無い雀」の句碑がある。
三歳で母を亡くした一茶がその菩提寺でひとり遊びをする姿が想像される。

柏原宿本陣は街道東側に跡の碑と切石が残る。本陣中村家は新田開発を進めた豪農で
一茶のスポンサーであったといい、その死後は顕彰に努めたそうだ。
「牟礼宿」から「小玉古道」を歩いて「古間宿」そして「柏原宿」までは7.9km、
研究会の皆さんとゆっくり歩いて約5時間の行程だった。



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