人間って勝手なもので、元気に過ごしているときは健康のありがたさをつい忘れがちだ。が、病気やケガで苦しい思いをすると「お金も何にもいらない。健康が一番」と思うが、それもまた元気になるとすっかり忘れてしまう。
私も長期入院中、ひしひしと実感したのが「健康な心身以上に大事なものはない」ということだ。最初に望んだのは、自分の足で歩いて帰れるようになりたい。次に、少々足が不自由でも、以前のように心穏やかに、能天気に暮らせたらそれでよい。それ以上は望まない、そういうささやかな希望だった。
退院して3ヶ月近くになる。が、まだ左足は完全ではない。足の付け根あたりの痛みがなかなか消えないし、その部分を手のひらで触ると、実際に音は聞こえないが「ゴキッ、ゴキッ」と何かが擦れ合うような感触があって気味が悪い。6月始めに撮ったレントゲン写真では「異常なし、うまくくっついている」と言われたのに、これはどういうことだろう。
動きはスローだが、何とか日常生活は送れている。とは言っても、着替えのとき、お風呂に入ったとき、スニーカーを履くときなど、必ず椅子が必要になる。また中腰の姿勢が取れないので、何をするにも両膝をつくか、上半身だけ曲げてしなければならないからしんどい。
また立ったり座ったりするとき、お尻と足の間にクッションを挟む。それがしょっちゅうとなると面倒だ。ウオーキングも左足をかばう癖が抜けなくて変な歩き方をしているようで、左足に重心を置いて、踵から着地してつま先で蹴り上げて、背筋を伸ばして、と考えながら歩くのもすごく疲れる。それに、自転車に乗れなくなったので、30数年続けてきたスイミングをやめざるを得なくなった。ささやかな希望は叶ったけど、この調子だからイラつきもするよね。
「人間の欲望には際限がない」といわれるように、一つ叶えられると今度は「もっと、もっと」とそれ以上のことを望むようになる。今の私がそうである。「こんなはずではなかったのに」と心がざわつく。体もしんどいが心もしんどいよー。
希望と欲望は一字違いでも意味は大きく変わる。あるサイトに『希望とは、好ましい事象が起こる事を望むことでゴールがあり、欲望とは、不足を感じてそれを満たそうとする望みの事で、ゴールにたどり着いてもまた新たな不足を感じ、なかなか満たされないものである。
欲を制御するには、「自分には何も不足はない」と思える心が必要で、いわゆる「足るを知る」を実践出来ていれば、欲望は薄れていくものである。ただ、欲望は悪い物ではなく、生きる原動力となる面もある為、程よく付き合ってコントロール出来るというのが理想である』とあった。
「欲望は生きる原動力となる」が、「足るを知る」ことが大事だと…。そう達観できれば楽だが、なかなか…ネ。せめてブログで気持ちを吐き出して元気をだそうか。
満足は一瞬、形を変えて不安が頭をもたげ始めると「もっと、もっと」欲望に切りは有りませんね
sirousagiも
不自由でも不格好でも自分の足で移動できる「幸せ」を感謝しなければと自覚しながらも痛みに耐える日々はやっぱり辛い!以前のように颯爽と歩く楽しみをもう一度実感したいのが本音です。
悟りの境地に達するのが早い方がベスト?なのかさてどうでしょうね。
もやもや発散で元気出してもうひと踏ん張り。
shirousagi さんも足がお悪いのでしたね。なのに慰めていただいてありがとう。
命に関わる病でないからトンコロリは望めませんし、この状態で老いてゆくだけか、そう思うとまた新たな悩みが生じます。いい加減にこの状態を受け入れなければ自分が辛いだけ、そう思いながらも心が揺れる日々。本当に歳は取りたくないですねえ。