第6話では、一人で飼育日誌が書けるほどになった輝明だが、都古ちゃんの結婚退職により行動に変化が現れる。その内面にある心の動きを、草剪剛は演技とは思えないほどにうまく表現していた。顔の表情、体の動きなど、一つ一つのしぐさに輝明の感情をうまく表現しているように思った。
都古ちゃんが動物園を辞めた日、二人が最後に分かれた思い出の丘の場面は、夕日に向かって自転車を押しながら帰る輝明の後姿がとても切なく見えて、輝明の悲しさがうまく表現されていた。それにしても、あの大きな木が1本ある丘はどこなのだろう。セットではない実在の場所だと思うのだが、夕日の美しいこと、哀愁を感じさせる最高のロケーションだ。
そしてある日、動物園で仕事中、輝明の姿が見えなくなった…。
ストレスが溜まるとこだわりが強くなるという現象が見える輝明、おぼろげながら都古ちゃんとの距離が遠くなったことがわかるのだろう。思い出の丘で、夕日にたたずむ姿が印象的で、輝明の心の全てを語っているかに思えた。行方不明になった輝明を探して都古ちゃんと古賀があの丘にたどり着くと、輝明が寝ていた。じっと起きるまで待つ古賀が、自分の子供を思い出して号泣する場面、自閉症の子どもを受入れることができなかった古賀の悔恨の涙にもらい泣きした。
それにしても、輝明のオウム返しのセリフがおもしろい。相手の言う通りを言うのであるが、澄ました顔でいうので思わず笑ってしまう。
第7話では、甥の幸太郎と輝明の友情ではないが、なんというか幸太郎が輝明を尊敬のまなざしで見ている様子がわかる。教育ママに反抗する幸太郎が、行動を起こすあたりの子どもの真理は、現代の子ども達と同じなのだということを母親に知ってほしい。
連日、塾をサボって輝明の動物園に行き、自然に触れて自分の心が和まされた幸太郎、ここでは輝明の存在が大きな影響を与えている。もし輝明がいなかったら幸太郎は本当に道を誤ったかもしれない。また、この幸太郎は賢い子どもだ。自閉症の青年が周りの人たちにもたらす影響は、感じ取る側の人間性にもよるだろうし、すべてがこのような微笑ましい物語にはならないが、幸太郎は輝明によって救われているのである。また、輝明も幸太郎によって、新しい道へ一歩踏み出すことができたのである。
現代の社会がすべてこのように理解ある思いやりに満ちたものであれば、障害を抱えた人たちがどんなに生き易いか。だが、理想と現実のはざまは大きく、ドラマはあくまでもドラマである。見る分には気軽に見られるが、本人でなければ分からない苦しみ、悲しみ、また喜びもあるだろう。我々にできることは少しでも理解することであろう。そして、もし回りに障害をもった人がいたら、大きなお世話にならない程度に手をさしのべてあげようと思う。
都古ちゃんが動物園を辞めた日、二人が最後に分かれた思い出の丘の場面は、夕日に向かって自転車を押しながら帰る輝明の後姿がとても切なく見えて、輝明の悲しさがうまく表現されていた。それにしても、あの大きな木が1本ある丘はどこなのだろう。セットではない実在の場所だと思うのだが、夕日の美しいこと、哀愁を感じさせる最高のロケーションだ。
そしてある日、動物園で仕事中、輝明の姿が見えなくなった…。
ストレスが溜まるとこだわりが強くなるという現象が見える輝明、おぼろげながら都古ちゃんとの距離が遠くなったことがわかるのだろう。思い出の丘で、夕日にたたずむ姿が印象的で、輝明の心の全てを語っているかに思えた。行方不明になった輝明を探して都古ちゃんと古賀があの丘にたどり着くと、輝明が寝ていた。じっと起きるまで待つ古賀が、自分の子供を思い出して号泣する場面、自閉症の子どもを受入れることができなかった古賀の悔恨の涙にもらい泣きした。
それにしても、輝明のオウム返しのセリフがおもしろい。相手の言う通りを言うのであるが、澄ました顔でいうので思わず笑ってしまう。
第7話では、甥の幸太郎と輝明の友情ではないが、なんというか幸太郎が輝明を尊敬のまなざしで見ている様子がわかる。教育ママに反抗する幸太郎が、行動を起こすあたりの子どもの真理は、現代の子ども達と同じなのだということを母親に知ってほしい。
連日、塾をサボって輝明の動物園に行き、自然に触れて自分の心が和まされた幸太郎、ここでは輝明の存在が大きな影響を与えている。もし輝明がいなかったら幸太郎は本当に道を誤ったかもしれない。また、この幸太郎は賢い子どもだ。自閉症の青年が周りの人たちにもたらす影響は、感じ取る側の人間性にもよるだろうし、すべてがこのような微笑ましい物語にはならないが、幸太郎は輝明によって救われているのである。また、輝明も幸太郎によって、新しい道へ一歩踏み出すことができたのである。
現代の社会がすべてこのように理解ある思いやりに満ちたものであれば、障害を抱えた人たちがどんなに生き易いか。だが、理想と現実のはざまは大きく、ドラマはあくまでもドラマである。見る分には気軽に見られるが、本人でなければ分からない苦しみ、悲しみ、また喜びもあるだろう。我々にできることは少しでも理解することであろう。そして、もし回りに障害をもった人がいたら、大きなお世話にならない程度に手をさしのべてあげようと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます