今年も各地で、夏の全国高校野球地方大会の熱戦が繰り広げられている。昨夕のニュース番組の中で、ふと耳に入ったこの爽やかな高校球児の話題は一服の清涼剤となった。
7月15日に行われた東東京大会の2回戦で、都荒川商に13-3の8回コールド負けをした都向島工は、今年度で全日制の課程が閉じられるため、今大会が「最後の夏」になる。部員は3年生だけの10人であるが、それも最初から10人いたわけではない。学校統合で、最後の大会になると決まった時には部員はわずか7人だったという。なんとか最低の9人にするため部員獲得に乗り出したが、そうそう希望者はいない。そんな時、サッカー部と陸上部にいた生徒が名乗りを上げ、ようやく9人になったのである。そして、もう一人10人目の部員になったのが、新聞記事にも取り上げられた背番号10の始沢美彦君である。
朝日新聞記事の概略『始沢君は中学時代に野球経験はあるが、高校ではどの部活にも入らなかったが、ある日松田真吾監督に声をかけられ1カ月間悩んだ末、2年生の6月に入部した。外野のポジション争いに負け、唯一の控え選手となったが、持ち前の明るさでベンチから大声のげきを飛ばす「応援団長」に徹していた。この日は右翼手が試合中に故障し、6回表無死、いきなりライトの守備についた。二死後、飛んできた球を、自慢の快足を飛ばしてワンハンドキャッチ。笑顔でベンチに戻ったが「震えが止まらなかった」という』。これで10人全員がプレーすることができたが、これ以上故障者が出ても控えの選手はもういない。
結局8回コールド負けという残念な結果に終わったが、10人という弱体チームでも果敢に挑戦した情熱は、彼ら自身を一段と成長させたに違いない。キャプテン・北島輝明君の「一生忘れられない夏、一生の友達になった」という爽やかな表情と、涙に暮れる選手たちの姿、これが本当の高校野球ではないかと思った。
明日の大会に向けてみんな一生懸命練習に励んでいる中、2人の生徒が早めに下校しているので、理由を聞くとアルバイトの時間だからという。自分の事が優先という、なんとも現代の若者らしい行動にちょっと驚いたが、死に物狂いという悲壮感のないのがさっぱりしていた。
今の高校野球は、県外・区外の中学校から優秀な選手を集め、ただ勝つためにだけのチーム作りをしているかに見える。相次ぐ監督・選手の不祥事などで、本来の高校球児の姿が消えつつある中で、最後の夏に燃えた10人の純粋な姿に感動した。
余談だが、昔は負けたチームの選手が泣きながら甲子園の土を袋に入れている姿がよく見られた。そのせいで甲子園のグランド整備や土の補充に苦慮したという話もあった。甲子園の土を最初に持ち帰ったのは、1937年の夏の大会、熊本工の投手であった川上哲治が甲子園の土をユニフォームのポケットに入れた。それから数年後、1949年の夏の大会で福岡・小倉の投手であった福島一雄が甲子園の土を拾って地元に持ち帰ったのが甲子園の土第一号とされている。 その以降、高校球児たちの憧れである甲子園球場への出場の記念として、戦いに敗れた高校球児が試合後に甲子園の土を拾って持ち帰るようになったという。
7月15日に行われた東東京大会の2回戦で、都荒川商に13-3の8回コールド負けをした都向島工は、今年度で全日制の課程が閉じられるため、今大会が「最後の夏」になる。部員は3年生だけの10人であるが、それも最初から10人いたわけではない。学校統合で、最後の大会になると決まった時には部員はわずか7人だったという。なんとか最低の9人にするため部員獲得に乗り出したが、そうそう希望者はいない。そんな時、サッカー部と陸上部にいた生徒が名乗りを上げ、ようやく9人になったのである。そして、もう一人10人目の部員になったのが、新聞記事にも取り上げられた背番号10の始沢美彦君である。
朝日新聞記事の概略『始沢君は中学時代に野球経験はあるが、高校ではどの部活にも入らなかったが、ある日松田真吾監督に声をかけられ1カ月間悩んだ末、2年生の6月に入部した。外野のポジション争いに負け、唯一の控え選手となったが、持ち前の明るさでベンチから大声のげきを飛ばす「応援団長」に徹していた。この日は右翼手が試合中に故障し、6回表無死、いきなりライトの守備についた。二死後、飛んできた球を、自慢の快足を飛ばしてワンハンドキャッチ。笑顔でベンチに戻ったが「震えが止まらなかった」という』。これで10人全員がプレーすることができたが、これ以上故障者が出ても控えの選手はもういない。
結局8回コールド負けという残念な結果に終わったが、10人という弱体チームでも果敢に挑戦した情熱は、彼ら自身を一段と成長させたに違いない。キャプテン・北島輝明君の「一生忘れられない夏、一生の友達になった」という爽やかな表情と、涙に暮れる選手たちの姿、これが本当の高校野球ではないかと思った。
明日の大会に向けてみんな一生懸命練習に励んでいる中、2人の生徒が早めに下校しているので、理由を聞くとアルバイトの時間だからという。自分の事が優先という、なんとも現代の若者らしい行動にちょっと驚いたが、死に物狂いという悲壮感のないのがさっぱりしていた。
今の高校野球は、県外・区外の中学校から優秀な選手を集め、ただ勝つためにだけのチーム作りをしているかに見える。相次ぐ監督・選手の不祥事などで、本来の高校球児の姿が消えつつある中で、最後の夏に燃えた10人の純粋な姿に感動した。
余談だが、昔は負けたチームの選手が泣きながら甲子園の土を袋に入れている姿がよく見られた。そのせいで甲子園のグランド整備や土の補充に苦慮したという話もあった。甲子園の土を最初に持ち帰ったのは、1937年の夏の大会、熊本工の投手であった川上哲治が甲子園の土をユニフォームのポケットに入れた。それから数年後、1949年の夏の大会で福岡・小倉の投手であった福島一雄が甲子園の土を拾って地元に持ち帰ったのが甲子園の土第一号とされている。 その以降、高校球児たちの憧れである甲子園球場への出場の記念として、戦いに敗れた高校球児が試合後に甲子園の土を拾って持ち帰るようになったという。
私もマスコミの報道で知りました
考え方にもよりますが私は東東京大会の都向島工の話ばかりの高校野球であって欲しい(願望)
かなり古い話ですが、私の高校野球熱はあの江川騒々と桑田騒々ですっかり興味を無くして今に到ってます、あまりにも純粋に応援しすぎたせいもあるのかな~関西人の私はよく甲子園に出掛けたものです、あの頃は野球留学なんてなかった
関係無い話ですが世の中変わりましたね~~
『昔は良かった』の一言に尽きます
本当に昔はよかったと思いますが、昔を懐かしむようでは歳をとった証拠だといわれるので、内緒(^_-)。