山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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安芸 能美島 山野井氏由緒

2022年08月28日 08時34分24秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
安芸能美島 山野井氏を語るに当たり同家の由緒から始めたいと思います。
今から10年以上前に、能美島山野井氏の子孫の方とルーツ探しをしたのが始まりでした。
山野井家秘伝の「山野井系図」をベースに他文書、他文献から少し肉付けしてみました。

山野井系図は伊予河野家一門をあることから、元祖を当然ながら、孝霊天皇より始まります。


時代は下がり、父親は、北条太夫 越智親孝 甲成氏長者の子とされます。
長男は河野宗家跡取り北条新太夫河野親経で、次男が河野高井家祖、河野(高井太夫)兼孝、
三男が河野遠藤家祖、河野瀧口家祖、河野浅海家祖、河野山野井家祖
河野盛孝となります。河野盛孝の長男家が河野遠藤親家(宗)、次男家が河野瀧口盛長、
三男家が河野浅海家祖 浅海能長となります。浅海能長から順に辿ります。

河野浅海家祖 浅海能長
   ↓
浅海頼季 (文久2・1205/32人組)浅海太郎 同舎弟等
   ↓
浅海信季(秀)
   ↓
【能美島山野井系図】
浅海秀清      (弟)浅海山野井通重(後久枝祖)「河野山野井江田島祖」
   ↓
河野山野井能美島祖
初代   山野井源平衛清景 イ【能美城主】
     源八兵衛 後源兵衛 能美島開基 始称山野井氏 当家元祖  
   ↓
二代目  山野井八郎左馬進景親 イ【能美城主】
     八郎左馬進 源兵衛                     

   ↓
三代目  山野井三兵衛景真 イ【能美城主】
     三兵衛 後 源兵衛                     
   ↓    
四代目  山野井縫殿真氏 イ(帰農?庶人)
     縫殿 後 源兵衛                       
   ↓
五代目  山野井八郎氏重
     八郎 後 源兵衛                       
   ↓
六代目  山野井四郎若狭守重秀  イ(有大内義弘感状)
     四郎 後縫殿充 若狭守                    
   ↓
七代目  山野井縫殿充仲次 イ(秀依)
     後秀 依縫殿充 後四郎                   

   ↓
八代目  山野井加賀守四郎景頼 イ(世次)
     後賢次 又世次 称三郎 後四郎 加賀守          
   ↓
九代目  山野井四郎民部景秀  イ永禄元年(1558/8来島通康手紙有)
     万菊千寿丸又四郎民部卿丸                
      イ 永禄4年(1561)厳島真柱建立 永禄6(1563.6/10 来島通康能美島安堵 )  
   ↓
十一代目 山野井源平衛景重     イ(従朝鮮文禄ノ役1593年)
     輿三又四郎 右近之助 又源兵衛            
   ↓
十二代目 中興祖 山野井源平衛重久    イ 360石
     前景親 異本有之後改重久 三兵衛後源兵衛     ↓
     帰農 庄屋(里正) 於山野井屋敷天正16年(1588)大野直房【是水】誕生【屋代島大野系図】
     慶長17年(1607)八幡社再建 寛永5年(1628)宝持寺再興開山                    
      イ 転封により、紀州浅野家広島下向砌、海上之先達、尚、蜜柑献上ス
     慶安四年(1651)4月7日卒 法名 宝持寺殿融安宗和大居士
     重久 妻、承応二年(1653)二月十五日卒 墓 能美島大原山野井家墓地
   ↓
十二代目 山野井源平衛重吉
     右衛門又 源七郎 後源兵衛               
   ↓
十三代目 山野井源平衛重次
     庄右衛門 後源兵衛                   
    
   ↓
十四代目 山野井源平衛重也
     右衛門市 後源兵衛 輿四郎              
   ↓
十五代目 山野井源平衛重廣
     源五郎 後源兵衛                    

   ↓
十六代目 山野井源三郎重仍
     重次次男 源三郎                   
   ↓
十七代目 山野井源三郎景休
     重也次男 世之丞後右衛門七後 源兵衛三兵    
     宝暦5(1755)割庄屋 山井三兵衛景休与頭中村利七同山井要助       
   ↓
十八代目 山野井源平衛景忠
     源太後利平太 源太平衛 源兵衛 隠居号壱起 
   ↓
十九代目 山野井源平衛景箆
     豹吉 後源兵衛                    
   ↓
二十代目 山野井傳右衛門景直
     岩吉 後伝右衛門                    

   ↓
  数代ヌケ
   ↓

明治期  山野井源次郎
(山野井準平と「山野井文書」の所有権確認訴訟有)

*これは山野井分家順平が宗家源次郎宅より家宝の文書を持ち出した事により所有権確認訴訟が起こされた
 ものと思われます。訴訟費用八百円とされますので、当時は立派な家が数軒建つ価格ですので、
 現在では二億円相当程度と思われます。順平所蔵の山野井文書を謄写した、明治政府の史料編纂所
 (現東京大学史料編纂所)はこの経緯を別編で「所有権未定」としてあります。

 山野井家には、「山野井文書」の他、「山野井本予章記」「河野山野井系図」を所蔵し、
 伊予史談会会長景浦氏は乱丁ではあるが、伊予河野家研究には欠かせないとしています。

尚、十数年前より能美島山野井家のルーツ研究に協力して頂いた、山野井家子孫は
広島にて山野井工務店を経営されているとか。

相次ぐブログの閉鎖で「山野井研究」はままなりませんが、広島の山野井さんご連絡下さい。

また、山野井氏の旧姓、河野浅海氏は大島郡では平郡の半分を支配し、江戸期は三田尻御船手組に属し、平郡舟子(カコ)として
殿様の参勤交代の海上輸送と警護にあたります。朝鮮通信使の時は大島郡各地から3000人の舟子を集め鞆の浦まで輸送警護
します。平郡の他の半分は鈴木氏の支配地でしたが、江戸期は同じく、平郡舟子とします。
浅海は伊予の浅海が浦に住んだ河野氏故、浅海と言います。鈴木は本貫地は和歌山県海南市で兄たちは源義経について平泉に
行きますが、弟たちは伊予河野家を頼り伊予に落延びますが、後に平郡島に移動し明治を迎えます。
大島郡の古い、浅海、鈴木家はこれらの系統の家が多いですね。

屋代島大野家と能美島山野井家

2022年08月28日 08時17分48秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
伊予の大野家と安芸能美島の領主山野井家との直接の関係は下記、「屋代島大野系図」に

『大野直房、天正十六(1588)戌子年 直政領地
 藝州能美島庄屋 山井源兵衛宅ニテ誕生』

とあります。これは少し説明すると、伊予大除城(現久万高原町)から安芸(広島)の毛利へ
援軍を頼みにに出かけた、大野直昌(なおしげ)の兄、直秀(なおひで)が故有って、能島村上武吉の許
に身を寄せ、そこで息子の直政(なおまさ)は元服しました。後に直秀は九州に赴きますが直政は
そのまま能島村上家に残り、村上武吉、息子の元吉に仕え家老職を務めます。

彼の職務の中で最大のターニングポイントは天正10年4月10日に行われたとされる、
能島村上を伊予河野家と毛利家と小早川家との離反を促す、秀吉による姫路会談でした。
この会談は来島村上家と能島村上家しか招待されていません。
因島村上家は口説いてもダメと最初から諦めていたのでしょう。

この会談は織田信長の先兵としての秀吉が企画したことで、備中高松攻めの直前の工作です。
会談が行われたのは姫路の浅野屋敷と伝わります。

結果はの来島村上家は河野家相続が認められない状態でしたので、秀吉の話に乗り織田信長に
付きます。能島村上家代表の直政は、能島村上家は伊予河野家とも毛利家とも切っても切れない
関係故、懐柔には応じられないとしてきっぱり断ります。

その後すぐ、明智光秀の信長暗殺により、いち早く光秀を成敗した秀吉が天下を取ります。

バランスが崩れた毛利、小早川、河野はその後、秀吉の猛攻を受けます。

村上家の能島城等の総下城を余儀なくされ、小早川の領地の竹原へ引っ越しします。
その時、大野直政は能美島大原に逗留します。この時生まれた息子が大野直房です。

逗留していた先が能美島大原の山野井源兵衛宅と記録されます。

前置きが長くなりましたが、ここでは能美島の山野井家にスポットを当ててみたいと思います。

余談ながら、能美島と江田島は地続きの同じ島です。
この島から泳いでやって来たイノシシが現在周防大島に繁殖し3万頭を超えるとか、
宮本常一氏時代にも泳いで渡ってきた記録がありますが、和田の浜にたどり着くや、ご馳走とばかりに
住民が打ち殺し「しし鍋」にして食べたそうです。
大島の猪はイノブタ系なので美味しいそうです。本土(大畠・柳井方面)の猪とは違うそうです。

皆で大島の猪を食べましょう。

周防大島 沖家室島 石崎氏

2022年08月28日 06時42分39秒 | 周防大島 沖家室島 再開基石崎氏
山口県周防大島の沖家室島は中世まで海賊島として存立していたとされます。
厳島の合戦で毛利軍が陶軍に打ち勝つまでは、大内系の海賊衆の根拠地と思われます。
宇賀島海賊支配とかが残りますがはっきりしません。
大島郡が厳島合戦の後、一時戦功として来島村上に与えられますが、来島村上が支配した形跡は見当たりません。
天正10年来島村上は主家、伊予河野家や毛利・河野家を裏切って、織田信長の手先であった秀吉の誘いに乗り織田方に
つきます。これに怒った毛利は大島の来島支配地を能島村上へ領地替えをします。
この時においても沖屋室まで能島村上が支配した形跡が見当たりません。

厳島の合戦,もしくは秀吉の「海賊禁止令」以来、沖屋室は海賊村としては打ち捨てられていたと思われます。

再度、荒れ果てた沖屋室の再開発を行ったのは、興居島にいた石崎氏であった。
柳原氏など伊予河野家滅亡後の家臣たちによる移住であった。
時に慶長11年(1606年)正月二十日沖屋室移住とされます。

是より前、慶長6年(1601)に関ケ原の戦いで負けた毛利とその支配下にあった、能島村上一統、因島村上一統は屋代島に
落ち延びてきます。能島村上家は和田を中心に、因島村上家は三蒲を中心にわずかな領地が与えられるだけでした。
能島村上家で3000石とされますが、鎌留により実質は1500石でした。元々最盛期に三万石近くあったのが千五百石では
家臣を養えないので、大リストラを余儀なくされます。暇を出されたもの、勝手に出てゆく者と大混乱でした。
この辺りのことは「給人行衛覚書」、通称、『能島家家頼分限帳』に記録されますので、そちらのスレッドにどうぞ。

領地がなくて困っていても沖屋室には手を出していません。
今もそうですが、耕地とする場所が少なく進出するに見合わない土地だったのでしょう。

興居島も住み辛くなった石崎家の次男坊が新天地を求めて隣の屋代島を物色していたのでしょうが、良い場所は殆ど無く
無人島の沖屋室であればどうぞと言われたとか。

石崎、柳原、友澤等の移住組はせいぜい数十名だったでしょう。
掘っ立て小屋を建て、狭い山を切り開いていったものとおもわれます。
遠い大水無瀬、小水無瀬までも開発にあたります。

ここでリーダーとなる、沖屋室島の再開基の石崎氏を見ていきます。

「橘町史」は初代石崎勘左衛門 慶長11年(1606年)正月二十日沖屋室移住する。とします。又、

「萩藩閥閲録④大島宰判大島郡庄屋石崎勘左衛門書出」は

初代石崎勘左衛門

右豫洲侍ニ御座候、四国兵乱落城後浪人仕、大嶋郡
八代嶋罷居候時分ニ沖家室嶋所柄見立、慶長十一年
正月廿日罷越切開奉遂御馳走、殿様御上下之節者、
御船中罷出御用等承、此者ゟ庄屋役被仰付、代々
引続所勤仕候、尤代々何廉御用ニ立申候事
二代石崎勘左衛門 勝太郎
三代石崎三郎右衛門
四代石崎勘左衛門

と書きますので「橘町史」はこれに沿ったものでしょう。しかし、
「油宇石崎系図」は
石崎顕宗(沖家室) 沖家室石﨑家・・・家紋 丸に方喰 浄土宗久賀村阿弥陀寺檀那  と書きます。

初代勘左衛門と石崎顕宗が同一人物か否か分かりません。

また友澤家なる家がありますが、この家は石崎一門で興居島時代の分家と思われます。

伊予 興居島の石崎家は長男「石崎四郎左衛門尉日為 河野殿エ随身日宗家督ス」とあり


次男が石崎二郎左衛門尉日行  能嶋殿エ随身後屋代嶋居住 (~1474・7/8)葬油宇浦浄西寺 文禄3年(1594年)カ
                ★徳孝院浄光日行居士
                       注)油宇浦浄西寺は明治4年からの名称(元浄土寺)矢代西連寺末 

と書きますので少し分かりにくくなります。

興居島の城を「伊予温故録」は
明澤城主・石崎四郎三郎日宗(日為の父)【伊予温故禄】
1606年(慶長11)に沖家室島に移住【伊予温故禄】
また
久留島村上家養子・黒瀬友澤城に移り長命【三島伝記】

と書きますので、沖家室開基が三人も四人も現れます。
ここでは城の名に注目です。伊予温故録は「明沢城」とし、(村上)三島伝記は友澤城とします。

「伊予温故録」は明治期のもので、玉石混交書とされ引用は要注意とされます。
「三島伝記」も戦記物であり伝記ものですから一次史料とはいえませんが、他に頼るものがありません。

石崎氏を囲む情勢もとても複雑ですが、絡み合った糸を少しづつほぐしていきましょう。

情報のお持ちの方の登場をお待ちします。