西暦1585年
天正13年 1月3日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、伊勢大神宮に遷宮の用途を上り、入目の注文を徴す、是日、
秀吉、注文の至れるに答ふ、尋で、稲葉重執・牧村政吉を遣して、出納のことを督せしむ、
天正13年 1月3日 大日本史料 本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣し天正13年 て、歳首を賀す、尋で、秀吉の養子
於義伊秀康にも亦、歳首を賀す
天正13年 1月12日 大日本史料 羽柴秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に書を与へ、照政をして、美濃大垣より、
同国岐阜に徙らしむ
天正13年 1月17日 大日本史料 佐竹義重、徳川家康に書を遺りて、羽柴秀吉との媾和を賀す、尋で、義重の属将多賀谷
重経も亦、家康の臣大久保忠隣に書を遺りて、之を賀す
天正13年 1月17日 大日本史料 羽柴秀吉、毛利輝元の質小早川秀包元総に暇を与へて、帰国せしむ、是日、黒田孝高・
蜂須賀正勝、之を輝元の臣井上春忠に報じ、 且備前の処分並に紀伊雑賀及び四国出兵
に就きて、秀吉の意を伝ふ、
天正13年 1月22日 大日本史料 羽柴秀吉、摂津有馬に浴す、
天正13年 1月28日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、弟秀長を名代として、織田信雄を訪はしむ、是日、秀吉、
信雄の老臣飯田半兵衛尉の之に尽力せるを褒す
天正13年 1月 心斎橋今昔年表 毛利輝元・上杉景勝が、秀吉の臣従となる
天正13年 2月2日 大日本史料 羽柴秀吉、肴并に馬糧の調達を、伊勢神戸の生駒近規に命ず、是日、近規の臣
小森政秀、其過書を出す
天正13年 2月5日 大日本史料 羽柴秀吉の室浅野氏、摂津阿弥陀寺に、薬師堂建立の費用を寄進す
天正13年 2月10日 大日本史料 吉川元春及び備後甲山の山内隆通をして、泉涌寺舎利殿再興に奉加せしめ給ふ
天正13年 2月10日 大日本史料 羽柴秀吉、織田信雄の上洛に就き、石清水八幡宮惣中をして、路次を普請せしむ
天正13年 2月11日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の意に従ひて、伊予来島の村上通昌の帰国を許す、是日、
小早川隆景、同国能島の村上武吉・元吉父子に誓書を与へて、
萩藩閥閲録1-573 疏意なき旨を述ぶ、尋で、乃美宗勝も亦、之に誓書を遺る
来嶋通昌事、従羽(秀吉)筑披申下之条、請付申迄候、自然従彼方於企再乱者、
任最前申談首尾、御親子三人不捨申引立申候、若於此旨偽者、
(牛王)日本国中大小神祇、別而厳島両大明神・三嶋大明神・八幡大菩薩・
天満大自在天神・可罷蒙御罰者也、仍起請文如件
天正十三年二月十一日 小早川左衛門佐 隆景 御判
村上大和守(武吉)殿 村上掃部(元吉)殿
天正13年 2月13日 大日本史料 羽柴秀吉、三月二十一日を期して、紀伊に出馬すべき旨を、小早川隆景に報じ、領内の
警固船を悉く和泉岸和田に集結せしむ、又、一柳末安にも之を報じ、大坂附近に著陣せしむ
天正13年 2月14日 大日本史料 羽柴秀吉、徳川家康の臣本多重次に物を遺りて、其子仙千代重成の、家康の次子於
義伊秀康に従ひて、大坂に抵れるを賞す
天正13年 2月18日 小早川家文書 羽柴秀吉、小早川秀包元総に河内の内一万石を与ふ、是日、秀包大坂より安芸に帰る
天正13年 2月20日 大日本史料 安芸新荘の吉川元春・同元長父子、二宮長実をして、兄春実の遺跡を安堵せしむ、
尋で、元春、父俊実の所領を知行せしむ、
天正13年 2月24日 大日本史料 前田利家、羽柴秀吉の命に依り、越中出馬に就きて、船舶の領外に航するを禁ず
天正13年 2月26日 大日本史料 吉川元春、秋上良忠に、出雲伊奘諾・伊奘冉神魂社・六所三社の神主職及び別火職等を
安堵す
天正13年 2月26日 大日本史料 羽柴秀吉、山城枇杷荘の地を片桐貞隆に充行ふ
天正13年 2月28日 大日本史料 羽柴秀吉、大坂より入京す
天正13年 3月1日 大日本史料 羽柴秀吉、近江の新庄蔵人をして、池田照政運送の船鎖を、同国伊香郡中之河内に
逓送せしむ
天正13年 3月1日 大日本史料 小早川隆景、児玉就英及び粟屋元種に、羽柴秀吉の紀伊雑賀出兵の期日を告げ、来る十
日を期して、警固船を率ゐて出帆せしむ、尋で、毛利輝元も亦、冷泉元満等に之を命ず
天正13年 3月3日 大日本史料 羽柴秀吉、仙洞御所の普請を視る
天正13年 3月5日 大日本史料 羽柴秀吉、京都より丹波亀山に之く
天正13年 3月5日 萩藩閥閲録巻11-1
今朝もっ風雨一入之故不申談候、浦 図書 一、(伊予)曽根・恵良・
しらされ三ケ所之儀も破却ニ相澄、道具以下當城エ可取越候、御思案之旨候も可承候
一、祖母谷瀧之城下次戒是も一所相縮度候、何を抱何を可相捨候哉、思召所承引合可致儀定候
一、當城大津せり本尊興居嶋・賀嶋・来島・小湊・櫛邊・壬生川、是も十ケ所之事ニ候、肝要之
持所たに相抱候へもあい々々の儀もさえミ不入事候、第一領地も有間敷候条、持くさし候て
役ニ立間敷候、十ケ所も二万貫餘之儀ならでハ成間敷候
一、普請配ハ道後之奉行衆と昨今以来申談よきほと相調候、明後日白井日取ニて候間可相始候
一、度々申候西園寺御抱之城、領地之やりかへ曾而不相聞咲止之儀候、多分久 又左可相心得候条被遂内談
候て(西園寺)公廣於御着を、則相すめ時分之儀候間、此節普請等被申付度事候
一、得居事、彼地無合鮎候も可為無理遣候哉、今之分も菊間も無落着不可然躰候、従是可申談候条、雨あかり
路次も如形候ハ々今夕明朝之間可有御登城候 恐惶謹言
(天正一三カ) 三月五日 隆景 御判
「乃 兵 参 隆景」
天正13年 3月7日 大日本史料 羽柴秀吉、前田利家に答へて、近く越中に出馬すべき旨を報じ、且、之を上杉景勝に
伝へしむ
天正13年 3月8日 大日本史料 羽柴秀吉、茶湯を紫野大徳寺に催す
天正13年 3月9日 大日本史料 羽柴秀吉の正室杉原氏高台院の侍女幸蔵主、和泉貝塚に之き、本願寺を訪ふ
天正13年 3月10日 大日本史料 伊予能嶋の村上元吉、長門下関の問藤太郎に、紋幕を遣す
天正13年 3月10日 大日本史料 内大臣近衛信輔を罷め、権大納言羽柴秀吉を内大臣に任じ、正二位に叙す、尋で、
信輔を左大臣に任ず
天正13年 3月10日 大日本史料 羽柴秀吉、賀茂別雷社並に北野社境内の竹木の伐採を禁じ、又、大徳寺・東寺及び遍照
心院をして、旧に依り、寺領を安堵せしむ
天正13年 3月12日 大日本史料 羽柴秀吉、京都より近江坂本に之く
天正13年 3月12日 大日本史料 伊予能島の村上元吉、筑前立花の戸次道雪鑑連・同統虎父子に書を遺る、是日、統虎、
元吉に道雪の筑後出陣を告げ、重ねて返書すべきを答ふ、
天正13年 3月15日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、安国寺恵瓊瑤甫・宮木宗賦を豊後に遣して、大友宗麟義鎮宗滴に
茶入を求め、又、島津義久に鷹を求む、是日、恵瓊、豊後より秀吉の書状を義久に遺る
天正13年 3月16日 大野家譜上田本 ○大野直周、元親と公広の合戦の時三百余騎を引率して公広に加勢する。通直、
直昌も加勢する。
天正13年 3月17日 大日本史料 毛利輝元、紀伊雑賀に警固船を派遣す、小早川秀包、元総、之に従ふ、是日、羽柴秀
吉、小早川隆景及び秀包に書を遺りて、毛利氏の水軍をして、中村一氏・仙石秀久・
九鬼嘉隆等と協力せしむ
天正13年 3月19日 大日本史料 山城・近江の百姓、検地の為め逃散す、是日、羽柴秀吉、片桐貞隆・宮木豊盛・森吉政
等に命じて、未進の年貢を猶予し、百姓をして、還住せしむ
天正13年 3月19日 大日本史料 羽柴秀吉、加藤清正に河内錦郡の内四百三十四石の地を加増す
天正13年 3月20日 大日本史料 佐竹義重、羽柴秀吉に書を遺りて、好を修す
天正13年 3月21日 大日本史料 羽柴秀吉、紀伊を征す、是日、和泉畠中・千石堀等を抜く、尋で、積善寺・澤等を
攻略し、進んで紀伊に入りて、根来雑賀の一揆を降す
天正13年 3月22日 大日本史料 綸旨を諸社寺に下して、羽柴秀吉の紀伊出陣の為め祈らしめ給ふ
天正13年 3月25日 大日本史料 羽柴秀吉、仙石秀久・中村一氏・九鬼嘉隆・小西行長等を遣して、紀伊奥郡を徇へし
む、同国小松原の湯川直春服さず、屡秀吉の兵と戦ふ、是日、秀吉、紀伊征伐の状況を
小早川隆景に報ず
天正13年 3月25日 大野家譜上田本 ○長宗我部元親、忍び本国に帰る。
天正13年 3月 大日本史料 羽柴秀吉、延暦寺西塔再建の為めに壱万貫を寄進す
天正13年 3月 大日本史料 羽柴秀吉、旧に依り、禁裏六町町に諸役・徳政・寄宿等を免除す
天正13年 春頃 伊予年表 ○ついに河野氏は元親に屈服した。
*(これは長曾我部側資料でありこの時期河野氏は支配権は維持している。
天正13年 4月2日 大日本史料 羽柴秀吉、上杉景勝に来月越中に出馬すべき旨を報ず、是日、景勝、之に答へて、前田
利家と協力すべきを述べ、且、織田信雄・徳川家康との媾和を賀す
天正13年 4月3日 大日本史料 本願寺光佐、顕如、光寿教如及び興正寺佐超顕尊を紀伊雑賀に遣して、羽柴秀吉を
見舞はしむ
天正13年 4月10日 大日本史料 羽柴秀吉、紀伊金剛峯寺に迫りて、寺領以下、宗祖空海の定むる所に従はしめ、
僧徒を戒飭す、金剛峯寺、其節度に服す
天正13年 4月14日 大日本史料 羽柴秀吉、小早川隆景に答へて、和泉・紀伊両国の平定を告げ、近く四国に
出馬すべきことを報ず
天正13年 4月16日 大日本史料 島津義久の弟同忠平、義弘、吉川元春に答へて、龍造寺政家と和睦を報じ、以後政家と
好を厚くすべき旨を述ぶ、尋で、義久も亦元春に答ふ、
天正13年 4月17日 大日本史料 織田信雄、紀伊雑賀に羽柴秀吉を見舞ふ、尋で、秀吉の養子義伊秀康も亦雑賀に之く
天正13年 4月17日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の四国征伐に従ひて、伊予に出兵せんとし、湯浅将宗をして、
出兵の用意をせしむ、尋で、児玉就光に出船の準備を命ず
天正13年 4月17日 山口県史整理年表 秀吉の四国征伐に伊予渡海五月二日と決定す。輝元下松船出帆準備を下知す。
延期して六月二十七日、隆景・吉川元長出陣す 【閥閲録】
天正13年 周防大島町誌 ○秀吉の四国征伐の時、来島の村上通総が先導。為に河野通直は先祖伝来の
封土を失う。
天正13年 4月22日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、紀伊太田を攻囲す、是日、城陥る、尋で、秀吉凱旋す
天正13年 5月1日 大日本史料 吉川元春、子同元長をして、出雲・伯耆・石見の諸氏を率ゐて、羽柴秀吉の四国
征伐に従はしめんとす、是日、元春父子、湯原春綱・同元綱・小川元政をして、
出陣の用意を為さしむ
天正13年 5月4日 大日本史料 羽柴秀吉、摂津中島渡辺の地を本願寺に与へ、和泉貝塚より移らしむ、仍りて、
本願寺、伽藍の造営を始め、近江の末寺門徒をして之に尽力せしむ
天正13年 5月4日 大日本史料 羽柴秀吉、来月三日四国に出馬せんとし、黒田孝高をして、淡路に航せしめ、一柳
末安をして、播磨明石に著陣せしむ
天正13年 5月7日 大日本史料 是より先、前田利家の能登七尾の守将前田安勝、越中宇波村の百姓に、越中侵入の
際力を致さんことを求む、是日、利家、安勝に羽柴秀吉の出馬近きとこを報じ、
宿所を造作せしむ
天正13年 5月8日 大日本史料 羽柴秀吉、和泉岸和田の守将中村一氏に、近江甲賀を与へ、同国水口に移らしむ
天正13年 5月8日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、和泉・紀伊を弟秀長に与へ、城を紀伊岡山和歌山に築かしむ、
是日、秀長に四国出馬を命じ、和泉堺以南の紀泉両国の船を徴せしむ
天正13年 5月9日 大日本史料 羽柴惟住丹羽長重、大坂に之きて羽柴秀吉に謁す、是日、溝口秀勝・上田勘右衛門尉
をして、所領を安堵せしめ、秀吉の証判を受く
天正13年 5月10日 大日本史料 羽柴秀吉、大坂より上洛す、是日、淀に抵る
天正13年 5月13日 大日本史料 羽柴秀吉、浅野長吉をして、近江高島郡の所領の内を以て、留守居の者に扶持せしむ
天正13年 5月15日 大日本史料 誠仁親王、青蓮院尊朝法親王に、大和多武峯妙楽寺の為め、羽柴秀吉の尽力を求めんこ
とを勧め給ふ
天正13年 5月18日 大日本史料 前田利家、羽柴秀吉の命に依り上洛せんとし、是日、能登七尾の守将富田重政に之を告
ぐ、尋で、加賀大聖寺の溝口秀勝、利家上洛の途次、其居城に憩はんことを請ふ
天正13年 5月18日 大日本史料 長宗我部元親、羽柴秀吉の軍を防がんが為め、阿波岩倉に著陣す【木屋平文書】
天正13年 5月20日 大日本史料 羽柴秀吉、四国出馬の期日を来月十六日に延べ、一柳末安・斎村赤松広英・加藤茂勝・
津田小八郎等をして、播磨明石より渡海せしむ
天正13年 5月24日 大日本史料 羽柴秀吉、近江坂本に疾む、是日、諸社寺に勅して其平癒を祈らしめ、且勅使を差遣し
て病を問はしめ給ふ、誠仁親王も亦書を秀吉に賜ひて、四国出馬を停めさせらる
天正13年 5月28日 大日本史料 羽柴秀吉、越中富山の佐々成政を征せんとし、越前敦賀の蜂屋頼隆をして、其領国の
道路・橋梁を整へしむ
天正13年 5月 大日本史料 羽柴秀吉、脇坂安治を伊賀より摂津に移し、能勢郡の地一万石を与ふ、
天正13年 6月2日 大日本史料 伊予来島の村上通総通昌、近江坂本に於て、羽柴秀吉に対面す、秀吉、来る四国出兵に
際し、通総の、水軍を出さんことを求む
天正13年 6月2日 大日本史料 羽柴秀吉、山内一豊に若狭西方郡を与へ、同国高浜に居らしむ、尋で、生駒近規に近江
高島郡の内二万三千五百石を与ふ
天正13年 6月6日 大日本史料 前田利家、京都より帰国す、是日、能登の青木善四郎・大屋助兵衛に、羽柴秀吉の越中
出馬近きを告げ、警備を厳にせしむ
天正13年 6月8日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の命に依り、諸将士をして、来る十六日を期して四国に出陣せしむ
天正13年 6月11日 大日本史料 綸旨を賜ひて、紀伊金剛峯寺をして寺領を安堵せしむ、尋で、羽柴秀吉、同寺に大和
宇智郡・紀伊伊都郡の内三千石を還付し、別に米一万石を寄せて、 金堂の再建を命ず、
又応其木食をして一山を支配せしむ
天正13年 6月11日 大日本史料 織田信雄、徳川家康に、羽柴秀吉の佐々成政を征すること近きにあるを告げ、
人質を尾張清須に出すべきことを勧む
天正13年 6月14日 大日本史料 羽柴秀吉、病癒えて近江坂本より大坂に帰る、是日、本願寺光佐、顕如、興正寺佐超顕
尊を遣して、秀吉を見舞はしむ、尋で、光寿、教如、大坂に之き、寺地の寄進を謝す
天正13年 6月15日 大日本史料 佐竹義重・宇都宮国綱、及び結城晴朝の老臣水谷勝俊、書を羽柴秀吉に遺りて、好を修
す、是日、秀吉、義重等に紀伊四国等の平定を報じ、近く佐々成政を伐ち、関東に赴き
て、義重等の為め尽力すべき旨を告ぐ
天正13年 6月16日 大日本史料 羽柴秀吉、弟秀長をして、諸軍を率ゐて、四国に渡海せしむ、尋で、来月三日、自ら出
馬せんとして、石井明石与次兵衛・梶原弥介に、船を播磨明石に集結すべきことを命ず
天正13年 6月18日 大日本史料 羽柴秀吉、小早川隆景に、長宗我部元親の和議を斥けて、其証人を返せし旨を報じ、
伊予を与ふべきことを約す
天正13年 6月18日 小早川hp ○秀吉から隆景は35万石を与えれるが、自分は毛利の臣下であることを理由に一旦
毛利輝元に与えられそれを賜る形にした。
天正13年 6月25日 大日本史料 羽柴秀吉、上杉景勝に、近く越中に出馬して、佐々成政を討滅し、共に小田原征伐の
策を議せんことを告ぐ
天正13年 6月25日 大日本史料 千宗易、羽柴秀吉出陣の際は上洛すべき旨を川端道喜に報ず
天正13年 6月 小早川hp ○羽柴秀吉、長曽我部追討の援軍を毛利に頼み小早川隆景・吉川元長らと共に伊豫に
上陸し長宗我部を降伏させた。
天正13年 上川大野系譜
■秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み
潰すに手間入るべからず、彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。
天正13年 大野家譜上田本
○秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み潰すに手間入るべからず、
彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。
天正13年 上川大野系譜
■当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。
天正13年 大野家譜上田本
○当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。
天正13年 周防大島町誌 ○秀吉四国征伐の総大将は小早川隆景でこの年から能島村上は小早川氏に臣礼をとる。
天正13年 伊予中世年表 ○来島通総・得居道久は小早川の軍に従う。
天正13年 伊予中世年表 ○毛利勢、小早川隆景、豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。
天正13年 久万町誌 ○伊予平定の功により小早川隆景は秀吉から伊予の内35万石を安堵された。
天正13年 伊予中世年表 ○金子城(新居浜)高尾城(西条)主、金子元宅は激戦敗死する。
天正13年 伊予中世年表 ○鷺森城主、桑原泰国、落城敗死。近見山城主、重見通俊も落城敗死。日高山城の
重見通晴も落城敗死。
天正13年 伊予中世年表 ○仏殿城、高峠城、雨ノ城、高仙山城、鷹ケ森城は落城。仙波氏の守る伊福城落城。
天正13年 伊予中世年表 ○横山城落城、城主南通具は逃走。村上武吉は国分山城を戦うことなく開城する。
天正13年 予陽河野家譜 ○大野直之は豊臣秀吉の四国征伐の将小早川隆景の三万余騎の進軍により曽根宣高と
共に捕らえられた。
天正13年 伊予中世年表 ○小早川隆景の軍により、雄甲城、雌甲城、高穴城主二神一族敗死。
天正13年 伊予中世年表 ○忽那島の忽那氏滅亡
天正13年 7月 総合地方史年表 ○稲葉一鉄は神戸山王三重塔を上葺する。
天正13年 7月2日 大日本史料 羽柴秀吉、宮木豊盛の報に対へて、明三日四国出馬の意を伝へ、渡海のことに
遺漏なからしむ
天正13年 7月2日 大日本史料 羽柴秀吉、伊達政宗の臣遠藤基信の書に答へて、伊達氏の好を織田信長と修せし旨を認
め、且備中高松攻略、明智・柴田両氏討滅、和泉紀伊平定等、歴戦の功績を報ず
天正13年 7月2日 大日本史料 羽柴秀吉、高野山金剛峯寺金堂の用材を大和芳野郷に徴す
天正13年 7月5日 大日本史料 前田利家、能登石動山の守将青木善四郎・大屋助兵衛の書に答へ、重ねて、近日羽柴
秀吉の江中に出兵すべき旨を告げ、なほ佐々成政に対する防備に油断なからしむ
天正13年 7月6日 大日本史料 羽柴秀吉、弟同秀長の請に仍り、再び四国出馬を延期す、是日、秀吉、之を淡路福良著
陣の日根野弘就等に告げ、諸事に就きて遺漏なからしむ
天正13年 7月7日 大日本史料 羽柴秀吉、入京す
天正13年 7月7日 古田村大野系譜 ○大野直之は橘一族に討たれる。
天正13年 7月8日 大日本史料 青蓮院尊朝法親王、羽柴秀吉をして、大和多武峯妙楽寺領継目安堵の朱印状を下附せ
しめんが為め、京都の奉行前田玄以に其斡旋を求め給ふ
天正13年 7月10日 大日本史料 羽柴秀吉の御伽衆大村由己、梅庵、本願寺光寿教如の所望に仍り、自作の軍記
三番を読む
天正13年 7月11日 大日本史料 是より先、左大臣近衛信輔、関白二条昭実と関白職を争ふ、是日、昭実を罷め、内大臣
羽柴秀吉を関白に任じ、従一位に叙し、平姓を改めて藤原氏と為す、又信輔及び菊亭晴季
を并に従一位に叙す
天正13年 7月11日 心斎橋今昔年表 秀吉関白となる
天正13年 7月12日 大日本史料 秀吉、織田信長の日蓮宗僧徒より徴せし誓紙を破棄す、尋で、京都の奉行前田玄以をし
て頂妙寺日珖等の逼塞を解かしむ
天正13年 7月13日 大日本史料 綸旨を伊勢専修寺堯真に下して、旧に仍り、同寺住持職及び諸国に於ける末寺門徒を
安堵せしめ給ふ、尋で、秀吉、綸旨を奉じて、之に安堵状を与ふ
天正13年 7月15日 大日本史料 関白羽柴秀吉、親王・摂家、門跡間の座次争論を裁決す
天正13年 7月16日 大日本史料 上杉景勝、秀吉と約して佐々成政を挟撃せんとす、是日、景勝、嶋倉早介・龍口藤兵衛
尉及び池浦喜右衛門に地を給し、越中境の城に入らしむ
天正13年 7月17日 大日本史料 秀吉、前田利家に越中出馬の意を伝へ、先備の目録を交付す
天正13年 7月17日 大日本史料 是より先、小早川隆景・吉川元長等、伊予に入り、長宗我部元親の党を同国丸山・高尾
両城に囲む、元親の兵救援して克たず、是日、高尾城陥り、 城将金子元宅之に死す、
尋で、同国高峠・生子山等の塁潰ゆ、仍りて隆景等、進みて同国仏殿城に迫り、又阿波
に在る羽柴秀長等と連繋を固む【萩藩閥閲録】
天正13年 7月17日 大日本史料 長宗我部元親、金子元宅に近況を伝へ、且近隣の情報を求め、尽力せしむ【金子文書】
天正13年 7月18日 大日本史料 秀吉、五摂家に所領を与ふ
天正13年 7月19日 大日本史料 是より先、羽柴秀長・同秀次、諸軍を率ひて阿波に入り、長宗我部元親の属城同国木津
城及び牛岐城を抜き、進みて一宮城並に脇城を囲む、又宇喜多秀家の軍、讃岐より阿波
に進む、是日、秀長、一宮城攻囲の状況を小早川隆景に報ず、尋で、秀次も亦、脇城攻
囲の状況を隆景に 報ず【顕如上人貝塚御座所日記】
天正13年 7月21日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正13年 7月23日 萩藩閥閲録1-533
予州之儀高尾落去、数人而討果付而、両郡無残所退散候
桂 勘右衛門 讃岐境ニ佛殿一城相残条、急度可仕懸之由候、
然を長宗我部(元親)陣所五三里之間由候間、土州衆手合候、
左候条少成共人数可差渡由、被申越候間、
當城番衆之儀、可被罷渡之通申、可得其意候、残衆中相賦、
在番肝要候、猶此者可申聞候、謹言
(天正十三年)七月廿三日 輝元 御判
桂 平四郎殿 兼重左衛門尉(元続)殿
天正13年 7月27日 大日本史料 秀吉、越中勝興寺佐廉顕幸に、同国出馬の時期を告げ、同寺並に瑞泉寺に従軍すべき
ことを命ず、又勝興寺並に千光寺に禁制を下す
天正13年 7月27日 大日本史料 秀吉、山崎片家・多賀常則・池田秀氏等の阿波脇城攻囲の労を褒す
天正13年 7月29日 TAKUBO ○小早川隆景の勧告に従い湯築城を開城する。
天正13年 7月29日 久万町誌 ○怒涛の小早川軍は伊予勢全軍籠城の本城湯築城を十重二十重に囲み一ケ月に渡り
攻防戦するも落ちず。
天正13年 7月29日 大日本史料 秀吉、宮木豊盛をして、阿波一宮・脇両城攻囲の軍に米を渡付せしむ、
天正13年 8月1日 大日本史料 秀吉、太田三楽斎資正に答へて、佐々成政征伐、並に関東出馬等の予定を報ず
天正13年 8月4日 大日本史料 秀吉、森吉政・祖父江久助をして、四国より凱旋の将兵の渡海に就き、遺漏なからしむ
天正13年 8月5日 大日本史料 織田信雄、佐々成政に書を遺りて、秀吉に降らんことを慫慂す
天正13年 8月6日 大日本史料 是より先、長宗我部元親、羽柴秀長に頼りて降る、是日、秀長、小早川隆景に、秀吉の、
元親の降を納れ、土佐一国を与へたるを報じ、且、隆景の 伊予領知に尽力すべきことを
約す、尋で、秀吉、隆景に伊予を与へ、又、四国に諸将を分封す【土佐国蠹簡集】
天正13年 8月7日 大日本史料 前田利家、能登石動山の守将大屋助兵衛・青木善四郎等に、秀吉の兵の越前に入りしこ
とを告げ、佐々成政に対し、警戒を怠ることなからしむ
天正13年 8月8日 大日本史料 秀吉、越中富山城の佐々成政を征せんとして、京都を発す、
天正13年 8月8日 大日本史料 秀吉、近江観音寺賢珍をして、仙洞御所作事の用途を、京都の奉行前田玄以に計ひ
渡さしむ
天正13年 8月14日 大日本史料 是より先、島津義久、秀吉の九州出兵に備へ、日向の諸士に其方途を議せしむ、是日、
同国佐土原の島津家久、上井覚兼・吉利久金等と計策を議す、尋で、家久、覚兼等を
伴ひて同国臼杵郡に赴き、大友義統の将の策動せる情況を探る
天正13年 8月26日 大日本史料 是より先、秀吉、越中に入り富山城に逼る、是日、佐々成政薙髪して降る、尋で、
秀吉、越中を成政並に前田利家の子利勝に班ち、又、金森長近をして、飛騨の三木
姉小路自綱父子を伐たしむ
天正13年 8月28日 大日本史料 秀吉、加藤茂勝に、知行の替地として、播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 8月30日 大日本史料 園城寺をして、秀吉の佐々成政征討を祈らしめらる、尋で、石清水八幡社並に春日社に
も、之を祈らしめらる
天正13年 8月 大日本史料 秀吉、脇坂安治の所領摂津能勢壱万石を改め、大和高取弐万石を与ふ
天正13年 閏8月 山口県史整理年表 秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石、来島通総・安国寺恵瓊等にも分封す
【閥閲録】
天正13年 閏8月 大日本史料 大和興福寺・法隆寺并に春日社、秀吉に所領の指出を呈す
天正13年 閏8月1日 大日本史料 本願寺光寿教如、秀吉の北国出陣見舞のため、加賀に下る、
天正13年 閏8月1日 大日本史料 是より先、秀吉、金森長近の斡旋に依り、越中聞名寺をして、其の寺内を安堵せし
む、是日、長近、其の旨を聞名寺に報ず
天正13年 閏8月11日 大日本史料 秀吉、諸公家・諸門跡等をして、其の知行を安堵せしむ
天正13年 閏8月12日 大日本史料 是より先、上杉景勝、越中に秀吉に会せんとして、同国境に抵り、果さずして還る、
是日、景勝、越後春日山に帰陣せることを、同国三条城将甘糟長重に報ず
天正13年 閏8月13日 大日本史料 是より先、秀吉、越前北荘の丹羽長重を若狭に移す、是日、近江佐和山の堀秀政を
北荘に封じ、溝口秀勝・村上頼勝をして与力せしむ
天正13年 閏8月13日 大日本史料 秀吉、丹羽長重の弟宮松長正に、越前の内五百石の地を与ふ
天正13年 閏8月14日 大日本史料 秀吉、野辺四郎右衛門尉を、越前国中の蝋燭司に任ず
天正13年 閏8月18日 大日本史料 秀吉、筒井定次を大和より伊賀へ移し、大和を羽柴秀長に与ふ、尋で、定次、
伊賀に入る
天正13年 閏8月18日 萩藩閥閲録1-187 秀吉から蜂須賀正勝・黒田孝高宛に「予州の諸城を請取れば小早川隆景に引渡
し、予州の人質を連れて帰ってこい」とある。
天正13年 萩藩閥閲録1-187 秀吉から小早川隆景あて書状によると8/6日には予州国中の城請取り完了した
旨が記されている。
天正13年 毛利伊豆文書 秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石拝領時宇和郡三万五千石秀包拝領し大津城
に在城した。天正15年春返却【閥閲録】
天正13年 筑前大野家文書 ○大野直吉【村上】は伊豫大野近辺が安国寺恵慶領になったので恵慶に従属した。
天正13年 閏8月21日 大日本史料 秀吉、徳川家康の臣本多重次の音問に答ふ
天正13年 閏8月22日 大日本史料 是より先、秀吉、浅野長吉に近江高島郡の地を与ふ、是日、羽柴秀次に近江四十三万
石を与へて、同国八幡山に居らしめ、山内一豊・堀尾吉直吉晴等を 附属す、尋で、
高山重友を播磨明石に、中川秀政を同国三木に移し、又諸将に地を班す
天正13年 閏8月24日 大日本史料 秀吉、越中より京都に凱旋す、尋で、大坂に帰る
天正13年 閏8月25日 大日本史料 右大臣菊亭晴季をして、大和多武峯妙楽寺法度改定のことを計はしめらる、是日、
秀吉、多武峯衆徒の兵器を没収す
天正13年 閏8月25日 大日本史料 秀吉、多羅尾光俊の所領近江信楽を没収す、
天正13年 閏8月26日 大日本史料 秀吉、京都の奉行前田玄以をして、諸公家・諸門跡の領知を質として、金穀を貸与せ
しものに対し、其の証券を棄破し、新規の貸借を禁ぜしむ
天正13年 9月1日 大日本史料 秀吉、脇坂安治・加藤茂勝・大島光義・加藤清正・水野勝成・猪子一時・同一日・
舟越景直・伊東長実・早崎小伝次に、摂津に於て地を充行ふ
天正13年 9月2日 大日本史料 是より先、上杉景勝、千坂景親等を遣して秀吉を音問す、是日、秀吉之に答ふ
天正13年 9月3日 大日本史料 秀吉、羽柴秀長と共に大和郡山城に入る、
天正13年 9月4日 大日本史料 秀吉、大和多武峯の大織冠社を、同国郡山に移築せしめんとするに依り、敕使菊亭晴
季、青蓮院尊朝法親王と共に、秀吉を郡山に訪ふ、秀吉、多武峯の 坊舎を郡山近辺に
移さんがため、寺僧をして下山せしむ、明日、多武峯の衆徒多く逃散す、尋で、郡山の
羽柴秀長、多武峯両門前をして、寺内のことを管せしむ
天正13年 9月4日 大日本史料 是より先、秀吉、美濃大垣城将加藤光泰を戒飭す、是日、近江勢田城将一柳末安を
大垣に置き、美濃の蔵入領代官を兼ねしめ、又勢田城を羽柴秀勝小吉に与ふ
天正13年 9月6日 久万町誌 ○小早川隆景は河野通直の妻が毛利元就の孫娘であるから城中に手紙を送り降伏勧告した
結果、全軍開城降伏
天正13年 9月5日 大日本史料 秀吉、大和郡山より大坂に帰る
天正13年 9月6日 大日本史料 秀吉、余田源太郎に河内交野郡森村の地を与ふ、
天正13年 9月8日 大日本史料 本願寺光佐顕如・光寿教如父子、秀吉を訪ふ、秀吉、之を饗す
天正13年 9月9日 心斎橋今昔年表 秀吉豊臣姓を賜る。紀州、四国、北陸を平定。
大坂城の天守閣が完成(本丸の北東隅の天守は8層、最上階に回廊付展望台、屋根は
金箔張、各階に金・銀・生糸・緞子(ドンス)・茶器・刀・武道具部屋有り)。
まず、城下町開発として東横堀川を開削。
戦国時代からの城郭建築は、壕をめぐらし石垣を用いて高い土塁の上に天守閣を築
く形式の集大成が「大坂城(黒色)」で、史上最高規模の豪壮華麗さを誇りました
天正13年 9月10日 大日本史料 羽柴秀次、近江八幡に居城を築き、同国安土町を八幡山下の島郷に移す、是日、秀吉、
秀次に作事の進捗を促す
天正13年 9月10日 大日本史料 秀吉、播磨妙光寺をして摂津に移らしむ、是日、妙光寺に播磨の寺領の替地として、
摂津河辺郡の地を与ふ、
天正13年 9月12日 大日本史料 是より先、徳川家康をして延暦寺再興に奉加せしめ給ふ、是日、家康、之に奉答し、
秀吉の下知状を添へられんことを請ふ
天正13年 9月12日 大日本史料 秀吉、近江長浜八幡社・小谷寺・舎那院・龍厳院をして其の所領を安堵せしむ
天正13年 9月13日 大日本史料 是より先、伊勢専修寺堯真をして、同寺住持職及び諸国の末寺門徒を安堵せしめ給ひ、
秀吉も之に安堵状を与ふ、是日、勧修寺紹可尹豊、堀秀政に書を遺りて、越前の専修寺
末寺をして、本寺の命に従はしむべきことを請ふ
天正13年 9月14日 大日本史料 秀吉、摂津有馬入湯の途次、本願寺を訪ふ、尋で、光佐顕如の入湯を音問せるに答ふ
天正13年 9月15日 大日本史料 秀吉の臣田中吉政、摂津多田院の寄進分を安堵せしむ
天正13年 9月16日 大日本史料 秀吉、有馬則頼に、播磨・河内の所領を安堵し、加増として播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 9月18日 大日本史料 秀吉、諸国の牛に役銭を課することを禁ず、
天正13年 9月23日 大日本史料 本願寺光佐顕如、摂津有馬の湯に入る、尋で、秀吉、有馬よりなせる光佐の音問に答ふ
天正13年 9月24日 大日本史料 是より先、小早川隆景、羽柴秀長に鷹を贈る、是日、秀長、之に答へ、隆景の、秀吉よ
り伊予を与へられたるを喜ぶ【小早川家文書】
天正13年 9月27日 大日本史料 大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、
天正13年 9月28日 大日本史料 是より先、秀吉、日蓮宗の再興を許し、礼物を課す、是日、同宗諸寺代本満寺日順等、
同宗の和泉堺の諸寺に、礼物調達の為の勧進を許す
天正13年 9月30日 大日本史料 羽柴秀次の臣田中吉政、秀吉の意を承けて、近江長命寺をして、其寺屋敷・山林等の
裁判に就きて、異儀なからしむ
天正13年 10月1日 大日本史料 秀吉、上京す、
天正13年 10月1日 大日本史料 秀吉、松浦重政・一柳勘左衛門尉等をして、公用を支払はしむ
天正13年 10月2日 大日本史料 秀吉、勅を島津義久・大友義統に伝へ、互に和せんことを命ず
天正13年 10月4日 大日本史料 秀吉、京都裏築地町・立売町・西大路町に、軍勢の寄宿を免除す
天正13年 10月5日 大日本史料 秀吉、牛に役銭を課する咎に依り、左衛門権佐正五位下薄諸光をして生害せしむ
天正13年 10月6日 大日本史料 秀吉・羽柴秀長・同秀次・徳川秀康・宇喜多秀家・丹羽長重・長岡忠興等参内す、又、
長岡玄旨幽斎を法印に叙し、片桐直盛直勝且元を東市正に稲葉典通を侍従に、
森一重忠政を右近丞に、澤井雄重を修理亮に任ず
天正13年 10月6日 大日本史料 秀吉、山城大鳳寺領の検地を免除し、施薬院全宗をして、厳く年貢を徴収せしむ
天正13年 10月7日 大日本史料 御茶会、千宗易に利休居士の号を賜ふ、秀吉、御茶を献ず、
天正13年 10月15日 大日本史料 是より先、長宗我部元親、京都に入りて、秀吉に謁す、是日、帰途に就く、秀吉、
今井宗久をして、之を和泉堺に送らしむ【宗国史】
天正13年 10月17日 大日本史料 秀吉、真田昌幸に書を遺りて、之を支援すべき意を伝ふ、尋で、石田三成、昌幸の臣
矢澤綱頼に、疎略なかるべき旨を述ぶ
天正13年 10月18日 大日本史料 是ヨリ先、石見金子大和守ノ息刑部少輔、病ノ為メ死ス、是日、吉川元春、之ヲ悼ム
天正13年 10月20日 大日本史料 島津義久、羽柴秀長に書を遺りて、秀吉との間に斡旋せられんことを請ふ
天正13年 10月22日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正13年 10月23日 大日本史料 吉川元春、出雲浄音寺をして、同国鷺浦の代官職を安堵せしむ
天正13年 10月23日 大日本史料 秀吉、加藤嘉明をして、摂津尼崎・同国西宮より、石材を大坂に運送せしむ
天正13年 10月24日 大日本史料 是より先、島津義久、秀吉下向の風聞に接し、諸将より誓書を徴せんとす、是日、
上井覚兼、誓書を認む
天正13年 10月28日 大日本史料 徳川家康、諸将と秀吉に質を送ることを議し、之を止む、又、北条氏直の老臣の家康
に誓書を呈するに応へて、家康の将士も誓書を遺り、以て秀吉に備ふ
天正13年 10月 大日本史料 是より先、紀伊小松原の湯川直春、秀吉に従ふ、是頃、羽柴秀長の与力として
大和に在り
天正13年 11月1日 山口県史整理年表 能島村上武吉、務司城・中途城を明渡し、屋代島の内来島分・芸州能美島江田島
今岡分を給わり、小早川隆景に臣事す 【閥閲録】
天正13年 11月1日 村上図書付録二 ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
能美島、江田島、今岡方を領す旨の隆景神文発給さる。
天正13年 11月1日 周防大島町誌 ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
能美島、江田島、今岡方を領す。
天正13年 11月1日 大日本史料 小早川隆景、伊予能島の村上武吉・同元吉父子に誓書を与へ、同国務司・中途両城を
放棄すべきことを命じ、且つ周防屋代島・安芸能美島等に相違なきことを約す、
天正13年 11月1日 萩藩閥閲録1-572 条敷
村上図書 一、(伊予)務司・中途両城披相渡、御下城之事
一、最前御忠儀之辻、以一通申定事
一、(周防)屋代島之内、来嶋(通昌)知行分之事
一、(安芸)能美嶋并江田嶋之事
一、今岡分之事 以上
右御所勘之地少茂不可有相違候
日本国中大小神祇・八幡大菩薩・殊當国三嶋大明神・天満大自在天神
可罷蒙御罰者也、仍起請文如件
天正十三年十一月一日 小早川左衛門佐隆景 御判
村上掃部頭殿 同 大和守殿
天正13年 11月3日 大日本史料 秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に、美濃竹鼻附近の地を与ふ
天正13年 11月13日 大日本史料 徳川家康の重臣石川数正、三河岡崎より秀吉の許に奔る、尋で、家康、之を北条氏直
に報じ、遠江浜松より三河吉田を経て、岡崎に入る
天正13年 11月16日 大日本史料 大友義統、秀吉の贈れる服を、筑後矢部の五条鎮定に与ふ
天正13年 11月16日 大日本史料 是より先、蜂須賀正勝・黒田孝高、伊予黒瀬の西園寺公広を通じて、大友府蘭宗麟を
音問す、是日、府蘭の子同義統、公広の臣法花津右衛門佐に書を遺りて、之に答ふ
天正13年 11月18日 大日本史料 秀吉、徳川家康との事に依り、美濃大垣の一柳末安に命じて、東美濃の人質を放免す
ることなからしめ、且つ兵糧米の備蓄に就き指示す、
天正13年 11月19日 大日本史料 秀吉、真田昌幸に、来春徳川家康を撃たんことを告げ、小笠原貞慶・木曾義昌と共
に、信濃・甲斐の仕置を厳にせしむ
天正13年 11月20日 大日本史料 秀吉、来春三河に出陣せんとし、美濃大垣の一柳末安に命じて、兵備を整へしむ
天正13年 11月21日 大日本史料 秀吉、山城の検地を行ひ、是日、廷臣、寺社等をして、其の所領等を安堵せしむ
天正13年 11月28日 大日本史料 秀吉、徳川家康との和議に就きて、織田長益等を三河岡崎に遣す、
天正13年 11月29日 大日本史料 大地震、尋で、秀吉、大坂に帰る
天正13年 12月7日 大日本史料 秀吉、大友義統をして、毛利輝元と協力せしめ、且つ、島津義久征討の意を報ず
天正13年 12月10日 大日本史料 秀吉の養子丹波亀山の羽柴秀勝〈次〉没す
天正13年 12月13日 大日本史料 島津義久、千宗易に書を遣り、秀吉との間を斡旋せられんことを請ふ、又、毛利輝元
に使者を送り、大友義統との対戦に備へんとす
天正13年 12月18日 村上図書付録二 ○天正13年11月1日の神文とほぼ同一内容の輝元公の判物、武吉に発給さる。
天正13年 12月18日 村上図書付録二 ○来島の旧領、屋代島と江田島を与える旨の輝元公の判物発給さる。。
天正13年 12月21日 大日本史料 小早川隆景・吉川元長等、大坂に至りて、秀吉に謁し、物を進む
天正13年 12月27日 大日本史料 秀吉、本願寺に遊ぶ
天正13年 伊予中世年表 ○河野通直、湯築城を開いて降伏する。西園寺氏滅亡。
天正13年 大島町郷土会 ○このころ伊予の河野崩により大島郡に逃れくるもの多し。【東屋代など】
天正13年 赤穂市資料 豊臣秀吉は子飼いの大名5人を五奉行に任命する
西暦1586年
天正14年 1月6日 大日本史料 秀吉、加藤清正に播磨飾東郡の地三百石を加増す
天正14年 1月8日 大日本史料 長宗我部元親、大坂に到り、歳首を秀吉に賀す、是日、下国す
【顕如上人貝塚御座所日記】
天正14年 1月11日 大日本史料 秀吉、勅旨に依り、島津義久に大友、龍造寺の両氏と和せんことを命ず、是日、義久、
書を長岡玄旨(幽齋)に遺り、命に従ひ難き旨を答ふ
天正14年 1月12日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 1月13日 大日本史料 秀吉、石川木工兵衛等をして、近江長浜城の天守を壊さしむ
天正14年 1月14日 大日本史料 秀吉、参内して、歳首を賀す
天正14年 1月15日 大日本史料 秀吉、黄金造の茶室を叡覧に供し、茶湯を献ず、
天正14年 1月18日 大日本史料 秀吉、徳川家康の将石川数正に和泉を宛行ふ
天正14年 1月20日 大日本史料 秀吉、近江坂本に之く
天正14年 1月23日 大日本史料 是より先、秀吉、大坂城を修築す、是日、一柳末安に命じて、鋤、鍬、持籠等を
調達せしむ
天正14年 1月24日 大日本史料 秀吉、伊勢山田の三方をして、同国長屋、高向両郷を安堵せしむ
天正14年 1月27日 大日本史料 織田信雄、秀吉と徳川家康との和議に就きて、家康と三河岡崎に会す
天正14年 1月28日 大日本史料 秀吉、近江大津に連歌を興行す、
天正14年 2月8日 大日本史料 秀吉と徳川家康との和議成る、是日、秀吉、之を一柳末安に報ず
天正14年 2月21日 大日本史料 秀吉、上京す、尋で、諸将に課して、京都内野の亭を造築す、
天正14年 2月23日 大日本史料 秀吉、加藤嘉明に大坂城修築の石材運搬に関する條規を頒つ
天正14年 2月 心斎橋今昔年表 大坂築城の石運びの掟を決める
天正14年 2月23日 大日本史料 小早川隆景、龍造寺政家に答書し、速に使者を遣し、秀吉に聘礼せんことを勧む
天正14年 2月25日 大日本史料 秀吉、新造の仙洞御所を拝観す
天正14年 2月28日 大日本史料 是より先、秀吉、参内して、桜花を拝観す、是日、御製を桜枝に付して、秀吉に賜ふ、
仍りて、秀吉、御返歌を上る、翌日、誠仁親王、和仁王等、秀吉に御歌を賜ふ
天正14年 2月28日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正14年 2/30 大日本史料 秀吉、大坂に帰る(御湯殿上日記) * 日付が変?
天正14年 3月3日 大日本史料 是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、
之を捕へ自殺せしむ
天正14年 3月4日 大日本史料 秀吉、入京す、尋で、大坂に帰る
天正14年 3月5日 萩藩閥閲録小早川書状 隆景は乃美兵部丞宗勝に命じ湯築・大津・せり・本尊・興居島・賀嶋(鹿
島)・来嶋・小湊(米湊)・櫛辺・壬生川の10城のみを残させる。
天正14年 3月11日 大日本史料 秀吉の将石田三成、下野宇都宮の宇都宮国綱をして、上杉景勝の入京を督促せしむ
天正14年 3月19日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 3月20日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、織田信包及び前田利家を堂上に列するを聴許あらせらる
天正14年 3月21日 大日本史料 秀吉、検地等に就きての條規を定む
天正14年 3月27日 大日本史料 秀吉、片桐真盛等に地を宛行ふ
天正14年 3月29日 大日本史料 秀吉、京都を経て丹波亀山に赴く、翌日、帰京す、
天正14年 4月1日 大日本史料 秀吉、山城西岡の地を長岡玄旨(幽齋)に宛行ふ、
天正14年 4月1日 大日本史料 秀吉、京都より大坂に帰る、途に、大仏殿建立の地を東福寺近傍に相す
天正14年 4月5日 大日本史料 大友宗滴(宗麟、)大坂に抵りて、秀吉に謁し、島津氏の豊後侵入の事を訴へ、之を伐
たんことを請ふ、秀吉、之を諾し、宗滴を大坂城内に饗す
天正14年 4月10日 大日本史料 秀吉、九州の諸将の国境を定め、之に違背する者を撃たんとし、吉川元春等をして、
毛利輝元に諮り、諸城の守備を厳にせしめ、諸氏の人質を黒田孝高に渡さしむ
天正14年 4月10日 山口県史整理年表 秀吉、輝元をして大仏殿材木を調進せしむ。ついで輝元吉見正頼にこれを
調えしむ 【毛利家文書】
天正14年 4月12日 大日本史料 秀吉、入京す、
天正14年 4月22日 大日本史料 秀吉、大仏殿を山城東山に創建せんとし、其材を諸国に課す、是日、藤堂高虎等に
之を徴す
天正14年 4月22日 大日本史料 是より先、秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしめんことを約す、是日、伊藤秀
盛に、人夫、伝馬のこと等を命ず、翌日、家康、本多忠勝を遣して、納采せしむ
天正14年 5月10日 大日本史料 秀吉、上京す
天正14年 5月14日 大日本史料 秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしむ
天正14年 5月14日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院、)春日社に参詣す、尋で、高野山に詣づ
天正14年 5月20日 大日本史料 秀吉、近江大津より入京す
天正14年 5月23日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正14年 6月1日 山口県史整理年表 輝元、諸関・渡舟・人沙汰に関する法度を出す 【毛利氏四代実録】
天正14年 6月3日 大日本史料 秀吉、権大納言勧修寺晴豊、同中山親綱をして、御譲位の時期に就きて上奏せしむ
天正14年 6月8日 大日本史料 秀吉、質子を筒井定次に還す、
天正14年 6月8日 大日本史料 秀吉、大坂城中に茶会を催す
天正14年 6月14日 大日本史料 上杉景勝、大坂に抵り、秀吉に謁す
天正14年 6月20日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 6月21日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、上杉景勝を左近衛権少将に任じ、従四位下に叙す、翌日、景勝等、
参内す
天正14年 6月25日 大日本史料 秀吉の母大政所(天瑞院、)大和郡山城に疾む
天正14年 6月26日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く、
天正14年 6月 総合地方史年表 ○木曽川洪水(加賀野井千町切)で河道変じて濃美の新境界を附す。
天正14年 7月(グ歴) フロイス日本紀
○堺を出発したフロイスは播磨国室津を経て芸予諸島に近付いた。
「(やがて)我等(一行)はある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を
構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず(獲物)を襲っていた。この海賊は能島殿と
云い強大な(勢)力を有していたので他国の沿岸や 海辺の(住民達)は(能島殿)によって破壊されること
を怖れ彼に毎年貢物を献上していた。日本中で最高の海賊としてその座を争ってきたのは、ただ二人だけで、
彼等の館は何年も前から存続し、彼等は強大な主として公任されそのように扱われ奉仕されてきた。
その一人は今述べた能島殿であり、他の一人は来島殿と称する。」
天正14年 7月1日 大洲大野系譜 □大野直好 近江守 尾首城主、荏原東町城主、後土居城に移り土井城で戦死。
67歳、号千壽院殿背江州刺史直翁了元大居士
天正14年 7月5日 大日本史料 秀吉、京都内野の亭の普請を督し、尋で、大坂に帰る
天正14年 7月12日 山口県史整理年表 豊前・筑前の辺動乱起る。輝元、椙杜少輔四郎に出陣を命ず 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月15日 山口県史整理年表 輝元、九州征伐のため、防長の家人内藤・市川等を赤間関に出陣せしむ
【毛利氏四代実録】
天正14年 7月17日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 7月17日 大日本史料 徳川家康、信濃上田の真田昌幸を撃たんとして、駿府に陣す、尋で、秀吉の斡旋に
依り、之を中止し、遠江浜松に還る
天正14年 7月20日 大日本史料 筑前高祖の原田信種、毛利輝元に、秀吉への執成を依頼す、是日、輝元、之を諾す
天正14年 7月21日 山口県史整理年表 輝元・隆景、島津征伐のため冷泉元豊を赤間関へ下す 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月22日 大日本史料 秀吉、春日社に参詣し、尋で、入京す、羽柴秀長も亦、入京す
天正14年 7月26日 大日本史料 秀吉、参内す
天正14年 7月29日 大日本史料 是より先、秀吉、島津義久を討たんとし、黒田孝高をして、毛利輝元等の兵を督して、
先発せしむ、是日、孝高の使者、小早川隆景の許に著す
天正14年 8月3日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正14年 8月3日 山口県史整理年表 秀吉、元春を赤間関・門司要害へ下し堅固に守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月3日 大日本史料 秀吉、書を大友宗滴(宗麟、)同義統(吉統)父子及び立花統虎等に遺り、黒田孝高、
宮木豊盛等をして、豊前に出陣せしむる旨を告げ、其守備を厳にせしむ
天正14年 8月6日 大日本史料 秀吉、近江大津より入京す
天正14年 8月11日 山口県史整理年表 輝元・隆景、仁保隆尉・冷泉元豊等をして門司城を守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月14日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る、
天正14年 8月15日 大日本史料 秀吉、肥前松浦鎮信に、毛利輝元等の豊後出陣を報じ、其到るを待たしむ、又亀井真矩
(茲矩)をして、出兵の準備を為さしむ
天正14年 8月16日 大日本史料 是より先、秀吉、黒田孝高等をして、毛利氏の軍を督して、豊前に赴かしむ、是日、
毛利輝元、吉川元春、小早川隆景等、出陣す
天正14年 8月18日 大日本史料 本願寺御影堂、竣工す、是日、秀吉、之に参詣す
天正14年 8月28日 大日本史料 是より先、千石秀久、秀吉の命に依り、長宗我部元親を督して、豊後に出陣し、沖浜に
到る、是日、志賀道擇(親益、)之を島津義久の将上井覚兼に報ず【塩飽島文書】
天正14年 9月1日 山口県史整理年表 輝元、九州征伐につき諸浦渡船の法度を出す 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月3日 山口県史整理年表 輝元赤間関より大阪へ注進のため、児玉就方をして大畠・遠崎・楊井にて継舟を
堅固に準備せしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月8日 山口県史整理年表 輝元九州征伐のために発向し、この日防府に着し、九日赤間関に着す
【毛利氏四代実録】
天正14年 9月11日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 9月22日 山口県史整理年表 元春、長門一宮に着陣し、二十三日赤間関に着す 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月26日 大日本史料 秀吉及び織田信雄、使を遣し大政所(天瑞院)を質と為さんことを約して、
徳川家康に上京を勧む、乃ち、家康、之に従ふ
天正14年 9月27日 大日本史料 島津義久、秀吉に、肥筑に出陣するに依り、九州諸将の領堺決定の命に答へ難きことを
述ぶ
天正14年 9月30日 大日本史料 秀吉、小早川隆景をして、安国寺恵瓊等と諮り、豊前攻略を議せしむ、
天正14年 10月 大分県の歴史 島津軍が豊後に侵入する。
天正14年 10月3日 大日本史料 秀吉、立花統虎及び五條鎮定に千石秀久、長宗我部元親、毛利輝元等の出陣を告げ、
之を激励す【立花家蔵感状記】
天正14年 10月3日 大日本史料 秀吉、黒田孝高等に答書し、其労を犒ひ、且毛利輝元を督して、速に軍を進めしむ
天正14年 10月3日 大日本史料 大友義統(吉統)、千石秀久、長宗我部元親と議り、豊後府内を発し、豊前宇佐郡に
出陣す【北里文書】
天正14年 10月4日 大日本史料 毛利輝元、吉川元春、小早川隆景及び黒田孝高と共に、高橋元種の属城豊前小倉を攻め
て之を陥る、元種も亦降る
天正14年 10月4日 大日本史料 是より先、龍造寺政家、秀吉に質子を納れ、島津氏と絶ち、鍋島信生(直茂)と共に
筑後に入り、三池鎮實の邑を火き、進みて肥後の諸将を降す、是日、秀吉、政家、信生の功を褒す
天正14年 10月6日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正14年 10月10日 大日本史料 是より先、豊前馬岳の長野助盛、同国時枝の時枝平大夫、同国宇佐の宮成吉右衛門、
黒田考高等に降る、是日、秀吉、考高等をして、助盛等に島津氏の情勢を尋ねしめ、
又龍造寺政家と大友宗滴(宗麟)父子との和融を斡旋し、宗滴父子、長宗我部元親、
千石秀久と議り、諸城を攻略せしむ、又毛利輝元の労を犒す【児玉韞採集文書】
天正14年 10月13日 大日本史料 秀吉、讃岐の蔵入分代官生駒近規をして、其年貢を蓄へしめ、以て九州出陣の
兵糧に充つ
天正14年 10月14日 大日本史料 秀吉、其生母大政所(天瑞院)祈願所河内観心寺に、旧に依り、同寺領内の竹木、
柴草の採取を許す
天正14年 10月18日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院、)徳川家康に質として、三河岡崎城に到る
天正14年 10月18日 大日本史料 秀吉、肥前の松浦鎮信をして、速に人質を出し、出陣せしむ
天正14年 10月26日 大日本史料 徳川家康、三河岡崎を発して入京す、是日、大坂に到り、羽柴秀長の亭に宿す、
秀吉、之を訪ふ
天正14年 10月27日 大日本史料 徳川家康、大坂城に秀吉に謁す
天正14年 10月 心斎橋今昔年表 家康が秀吉の巨従となる
天正14年 11月1日 大日本史料 徳川家康、京都に入る、尋で、秀吉、家康の亭を内野に造営せしむ
天正14年 11月2日 大日本史料 秀吉、加藤嘉明に淡路三原郡の地を宛行ふ、
天正14年 11月3日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 11月11日 大日本史料 秀吉、森吉成を検使として、吉川元春及び小早川隆景の筑前の陣所に遣す
天正14年 11月7日 大日本史料 黒田孝高、小早川隆景及び吉川氏の諸将と共に豊前宇留津城を攻めて、之を陥る
天正14年 11月12日 大日本史料 徳川家康、井伊直政をして、秀吉の母大政所(天瑞院)を護り、大坂に赴かしむ
天正14年 11月13日 大日本史料 是より先、大友義統(吉統)の、千石秀久及び長宗我部元親と共に筑後に出陣するに
乗じ、大友氏に背く者、豊後に蜂起す、義統等、兵を班す、
天正14年 11月13日 大日本史料 是日、秀吉、小早川隆景等に、この事情を報じ、備前、阿波、淡路の援兵を遣すべき
こと告げ、諸軍を督せしむ【黒田文書】
天正14年 11月15日 大日本史料 秀吉、近江大津に之き、尋で、入京す、
天正14年 11月15日 大日本史料 小早川隆景、黒田孝高等、高橋元種の属城筑前障子岳を攻略し、同国香春嶽城を囲む
天正14年 11月15日 山口県史整理年表 吉川元春、豊前小倉の陣中にて死す。五七 【毛利氏四代実録】
天正14年 11月18日 大日本史料 足利義昭、使を島津義久の臣喜入季久に遣し、毛利氏の軍の豊前に侵入するを告げ、
義久に秀吉と講和せんことを勧めしむ
天正14年 11月20日 大日本史料 是より先、秀吉、吉川元春、同元長父子の意見を容れ、出陣を来春に延期す、又
蜂須賀家政、脇坂安治、加藤嘉明をして、豊後に赴援せしむ、
是日、之を元春父子等に報ず、尋で、龍造寺政家にも亦、之を報ず
天正14年 11月23日 大日本史料 秀吉、千石秀久をして、糧食及び加勢を豊後臼杵城に輸せしめ、又同国府内の守備を
厳にし、濫りに兵を動かすことなからしむ
天正14年 11月23日 大日本史料 秀吉、大徳寺及び知恩院に地を寄進す
天正14年 11月29日 大日本史料 秀吉、大坂城に帰る
天正14年 12月1日 大日本史料 秀吉、明春三月を期して、島津氏を親征せんとし、諸国の兵を徴す
天正14年 12月3日 大日本史料 秀吉、松浦鎮信をして、松浦党の兵船を率ヰ、薩摩灘を警固せしむ
天正14年 12月4日 大日本史料 足利義昭、一色昭秀を島津家久に遣し、同義久を諭して、秀吉と和睦せしむ
天正14年 12月11日 大日本史料 是より先、黒田孝高、吉川元長、同経言及び小早川隆景と共に、島津氏の将高橋元種
を筑前香春嶽城に囲みて、之を降す、是日、元長等、之を秀吉に報ず、
天正14年 12月13日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 12月15日 大日本史料 大友義統(吉統、)豊後府内より同国高崎城に逃れ、是日、豊前龍王城に移る、
尋で、黒田孝高、小早川隆景、吉川元長に来援を請ふ、
天正14年 12月19日 大日本史料 関白羽柴秀吉を太政大臣に任じ、豊臣の姓を賜ふ【公卿補任】
天正14年 12月19日 心斎橋今昔年表 豊臣秀吉太政大臣となる
天正14年 12月20日 大日本史料 是より先、小早川隆景等、原田信種を筑前高祖城に攻めて、之を降す、是日、秀吉、
毛利輝元、吉川元長及び隆景等の戦功を褒す
天正14年 12月22日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る、
天正14年 12月24日 大日本史料 是より先、秀吉、千石秀久の敗戦を怒り、讃岐の地を没収し、之を尾藤光房に与ふ、
是日、之を毛利輝元、龍造寺政家に報じ、軽挙盲動を戒しむ、尋で、黒田孝高等にも
亦、之を報ず
天正14年 12月27日 大日本史料 秀吉、本願寺光寿(教如)の茶会に臨む
天正14年 12月30日 大日本史料 秀吉、黒田孝高等をして、豊前妙見、龍王両城の守備を固くせしめ、恣に
出兵するを禁ず
天正14年 河野氏の歴史 ○キリシタン宣教師「道後の市」に来る。
天正13年 1月3日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、伊勢大神宮に遷宮の用途を上り、入目の注文を徴す、是日、
秀吉、注文の至れるに答ふ、尋で、稲葉重執・牧村政吉を遣して、出納のことを督せしむ、
天正13年 1月3日 大日本史料 本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣し天正13年 て、歳首を賀す、尋で、秀吉の養子
於義伊秀康にも亦、歳首を賀す
天正13年 1月12日 大日本史料 羽柴秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に書を与へ、照政をして、美濃大垣より、
同国岐阜に徙らしむ
天正13年 1月17日 大日本史料 佐竹義重、徳川家康に書を遺りて、羽柴秀吉との媾和を賀す、尋で、義重の属将多賀谷
重経も亦、家康の臣大久保忠隣に書を遺りて、之を賀す
天正13年 1月17日 大日本史料 羽柴秀吉、毛利輝元の質小早川秀包元総に暇を与へて、帰国せしむ、是日、黒田孝高・
蜂須賀正勝、之を輝元の臣井上春忠に報じ、 且備前の処分並に紀伊雑賀及び四国出兵
に就きて、秀吉の意を伝ふ、
天正13年 1月22日 大日本史料 羽柴秀吉、摂津有馬に浴す、
天正13年 1月28日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、弟秀長を名代として、織田信雄を訪はしむ、是日、秀吉、
信雄の老臣飯田半兵衛尉の之に尽力せるを褒す
天正13年 1月 心斎橋今昔年表 毛利輝元・上杉景勝が、秀吉の臣従となる
天正13年 2月2日 大日本史料 羽柴秀吉、肴并に馬糧の調達を、伊勢神戸の生駒近規に命ず、是日、近規の臣
小森政秀、其過書を出す
天正13年 2月5日 大日本史料 羽柴秀吉の室浅野氏、摂津阿弥陀寺に、薬師堂建立の費用を寄進す
天正13年 2月10日 大日本史料 吉川元春及び備後甲山の山内隆通をして、泉涌寺舎利殿再興に奉加せしめ給ふ
天正13年 2月10日 大日本史料 羽柴秀吉、織田信雄の上洛に就き、石清水八幡宮惣中をして、路次を普請せしむ
天正13年 2月11日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の意に従ひて、伊予来島の村上通昌の帰国を許す、是日、
小早川隆景、同国能島の村上武吉・元吉父子に誓書を与へて、
萩藩閥閲録1-573 疏意なき旨を述ぶ、尋で、乃美宗勝も亦、之に誓書を遺る
来嶋通昌事、従羽(秀吉)筑披申下之条、請付申迄候、自然従彼方於企再乱者、
任最前申談首尾、御親子三人不捨申引立申候、若於此旨偽者、
(牛王)日本国中大小神祇、別而厳島両大明神・三嶋大明神・八幡大菩薩・
天満大自在天神・可罷蒙御罰者也、仍起請文如件
天正十三年二月十一日 小早川左衛門佐 隆景 御判
村上大和守(武吉)殿 村上掃部(元吉)殿
天正13年 2月13日 大日本史料 羽柴秀吉、三月二十一日を期して、紀伊に出馬すべき旨を、小早川隆景に報じ、領内の
警固船を悉く和泉岸和田に集結せしむ、又、一柳末安にも之を報じ、大坂附近に著陣せしむ
天正13年 2月14日 大日本史料 羽柴秀吉、徳川家康の臣本多重次に物を遺りて、其子仙千代重成の、家康の次子於
義伊秀康に従ひて、大坂に抵れるを賞す
天正13年 2月18日 小早川家文書 羽柴秀吉、小早川秀包元総に河内の内一万石を与ふ、是日、秀包大坂より安芸に帰る
天正13年 2月20日 大日本史料 安芸新荘の吉川元春・同元長父子、二宮長実をして、兄春実の遺跡を安堵せしむ、
尋で、元春、父俊実の所領を知行せしむ、
天正13年 2月24日 大日本史料 前田利家、羽柴秀吉の命に依り、越中出馬に就きて、船舶の領外に航するを禁ず
天正13年 2月26日 大日本史料 吉川元春、秋上良忠に、出雲伊奘諾・伊奘冉神魂社・六所三社の神主職及び別火職等を
安堵す
天正13年 2月26日 大日本史料 羽柴秀吉、山城枇杷荘の地を片桐貞隆に充行ふ
天正13年 2月28日 大日本史料 羽柴秀吉、大坂より入京す
天正13年 3月1日 大日本史料 羽柴秀吉、近江の新庄蔵人をして、池田照政運送の船鎖を、同国伊香郡中之河内に
逓送せしむ
天正13年 3月1日 大日本史料 小早川隆景、児玉就英及び粟屋元種に、羽柴秀吉の紀伊雑賀出兵の期日を告げ、来る十
日を期して、警固船を率ゐて出帆せしむ、尋で、毛利輝元も亦、冷泉元満等に之を命ず
天正13年 3月3日 大日本史料 羽柴秀吉、仙洞御所の普請を視る
天正13年 3月5日 大日本史料 羽柴秀吉、京都より丹波亀山に之く
天正13年 3月5日 萩藩閥閲録巻11-1
今朝もっ風雨一入之故不申談候、浦 図書 一、(伊予)曽根・恵良・
しらされ三ケ所之儀も破却ニ相澄、道具以下當城エ可取越候、御思案之旨候も可承候
一、祖母谷瀧之城下次戒是も一所相縮度候、何を抱何を可相捨候哉、思召所承引合可致儀定候
一、當城大津せり本尊興居嶋・賀嶋・来島・小湊・櫛邊・壬生川、是も十ケ所之事ニ候、肝要之
持所たに相抱候へもあい々々の儀もさえミ不入事候、第一領地も有間敷候条、持くさし候て
役ニ立間敷候、十ケ所も二万貫餘之儀ならでハ成間敷候
一、普請配ハ道後之奉行衆と昨今以来申談よきほと相調候、明後日白井日取ニて候間可相始候
一、度々申候西園寺御抱之城、領地之やりかへ曾而不相聞咲止之儀候、多分久 又左可相心得候条被遂内談
候て(西園寺)公廣於御着を、則相すめ時分之儀候間、此節普請等被申付度事候
一、得居事、彼地無合鮎候も可為無理遣候哉、今之分も菊間も無落着不可然躰候、従是可申談候条、雨あかり
路次も如形候ハ々今夕明朝之間可有御登城候 恐惶謹言
(天正一三カ) 三月五日 隆景 御判
「乃 兵 参 隆景」
天正13年 3月7日 大日本史料 羽柴秀吉、前田利家に答へて、近く越中に出馬すべき旨を報じ、且、之を上杉景勝に
伝へしむ
天正13年 3月8日 大日本史料 羽柴秀吉、茶湯を紫野大徳寺に催す
天正13年 3月9日 大日本史料 羽柴秀吉の正室杉原氏高台院の侍女幸蔵主、和泉貝塚に之き、本願寺を訪ふ
天正13年 3月10日 大日本史料 伊予能嶋の村上元吉、長門下関の問藤太郎に、紋幕を遣す
天正13年 3月10日 大日本史料 内大臣近衛信輔を罷め、権大納言羽柴秀吉を内大臣に任じ、正二位に叙す、尋で、
信輔を左大臣に任ず
天正13年 3月10日 大日本史料 羽柴秀吉、賀茂別雷社並に北野社境内の竹木の伐採を禁じ、又、大徳寺・東寺及び遍照
心院をして、旧に依り、寺領を安堵せしむ
天正13年 3月12日 大日本史料 羽柴秀吉、京都より近江坂本に之く
天正13年 3月12日 大日本史料 伊予能島の村上元吉、筑前立花の戸次道雪鑑連・同統虎父子に書を遺る、是日、統虎、
元吉に道雪の筑後出陣を告げ、重ねて返書すべきを答ふ、
天正13年 3月15日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、安国寺恵瓊瑤甫・宮木宗賦を豊後に遣して、大友宗麟義鎮宗滴に
茶入を求め、又、島津義久に鷹を求む、是日、恵瓊、豊後より秀吉の書状を義久に遺る
天正13年 3月16日 大野家譜上田本 ○大野直周、元親と公広の合戦の時三百余騎を引率して公広に加勢する。通直、
直昌も加勢する。
天正13年 3月17日 大日本史料 毛利輝元、紀伊雑賀に警固船を派遣す、小早川秀包、元総、之に従ふ、是日、羽柴秀
吉、小早川隆景及び秀包に書を遺りて、毛利氏の水軍をして、中村一氏・仙石秀久・
九鬼嘉隆等と協力せしむ
天正13年 3月19日 大日本史料 山城・近江の百姓、検地の為め逃散す、是日、羽柴秀吉、片桐貞隆・宮木豊盛・森吉政
等に命じて、未進の年貢を猶予し、百姓をして、還住せしむ
天正13年 3月19日 大日本史料 羽柴秀吉、加藤清正に河内錦郡の内四百三十四石の地を加増す
天正13年 3月20日 大日本史料 佐竹義重、羽柴秀吉に書を遺りて、好を修す
天正13年 3月21日 大日本史料 羽柴秀吉、紀伊を征す、是日、和泉畠中・千石堀等を抜く、尋で、積善寺・澤等を
攻略し、進んで紀伊に入りて、根来雑賀の一揆を降す
天正13年 3月22日 大日本史料 綸旨を諸社寺に下して、羽柴秀吉の紀伊出陣の為め祈らしめ給ふ
天正13年 3月25日 大日本史料 羽柴秀吉、仙石秀久・中村一氏・九鬼嘉隆・小西行長等を遣して、紀伊奥郡を徇へし
む、同国小松原の湯川直春服さず、屡秀吉の兵と戦ふ、是日、秀吉、紀伊征伐の状況を
小早川隆景に報ず
天正13年 3月25日 大野家譜上田本 ○長宗我部元親、忍び本国に帰る。
天正13年 3月 大日本史料 羽柴秀吉、延暦寺西塔再建の為めに壱万貫を寄進す
天正13年 3月 大日本史料 羽柴秀吉、旧に依り、禁裏六町町に諸役・徳政・寄宿等を免除す
天正13年 春頃 伊予年表 ○ついに河野氏は元親に屈服した。
*(これは長曾我部側資料でありこの時期河野氏は支配権は維持している。
天正13年 4月2日 大日本史料 羽柴秀吉、上杉景勝に来月越中に出馬すべき旨を報ず、是日、景勝、之に答へて、前田
利家と協力すべきを述べ、且、織田信雄・徳川家康との媾和を賀す
天正13年 4月3日 大日本史料 本願寺光佐、顕如、光寿教如及び興正寺佐超顕尊を紀伊雑賀に遣して、羽柴秀吉を
見舞はしむ
天正13年 4月10日 大日本史料 羽柴秀吉、紀伊金剛峯寺に迫りて、寺領以下、宗祖空海の定むる所に従はしめ、
僧徒を戒飭す、金剛峯寺、其節度に服す
天正13年 4月14日 大日本史料 羽柴秀吉、小早川隆景に答へて、和泉・紀伊両国の平定を告げ、近く四国に
出馬すべきことを報ず
天正13年 4月16日 大日本史料 島津義久の弟同忠平、義弘、吉川元春に答へて、龍造寺政家と和睦を報じ、以後政家と
好を厚くすべき旨を述ぶ、尋で、義久も亦元春に答ふ、
天正13年 4月17日 大日本史料 織田信雄、紀伊雑賀に羽柴秀吉を見舞ふ、尋で、秀吉の養子義伊秀康も亦雑賀に之く
天正13年 4月17日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の四国征伐に従ひて、伊予に出兵せんとし、湯浅将宗をして、
出兵の用意をせしむ、尋で、児玉就光に出船の準備を命ず
天正13年 4月17日 山口県史整理年表 秀吉の四国征伐に伊予渡海五月二日と決定す。輝元下松船出帆準備を下知す。
延期して六月二十七日、隆景・吉川元長出陣す 【閥閲録】
天正13年 周防大島町誌 ○秀吉の四国征伐の時、来島の村上通総が先導。為に河野通直は先祖伝来の
封土を失う。
天正13年 4月22日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、紀伊太田を攻囲す、是日、城陥る、尋で、秀吉凱旋す
天正13年 5月1日 大日本史料 吉川元春、子同元長をして、出雲・伯耆・石見の諸氏を率ゐて、羽柴秀吉の四国
征伐に従はしめんとす、是日、元春父子、湯原春綱・同元綱・小川元政をして、
出陣の用意を為さしむ
天正13年 5月4日 大日本史料 羽柴秀吉、摂津中島渡辺の地を本願寺に与へ、和泉貝塚より移らしむ、仍りて、
本願寺、伽藍の造営を始め、近江の末寺門徒をして之に尽力せしむ
天正13年 5月4日 大日本史料 羽柴秀吉、来月三日四国に出馬せんとし、黒田孝高をして、淡路に航せしめ、一柳
末安をして、播磨明石に著陣せしむ
天正13年 5月7日 大日本史料 是より先、前田利家の能登七尾の守将前田安勝、越中宇波村の百姓に、越中侵入の
際力を致さんことを求む、是日、利家、安勝に羽柴秀吉の出馬近きとこを報じ、
宿所を造作せしむ
天正13年 5月8日 大日本史料 羽柴秀吉、和泉岸和田の守将中村一氏に、近江甲賀を与へ、同国水口に移らしむ
天正13年 5月8日 大日本史料 是より先、羽柴秀吉、和泉・紀伊を弟秀長に与へ、城を紀伊岡山和歌山に築かしむ、
是日、秀長に四国出馬を命じ、和泉堺以南の紀泉両国の船を徴せしむ
天正13年 5月9日 大日本史料 羽柴惟住丹羽長重、大坂に之きて羽柴秀吉に謁す、是日、溝口秀勝・上田勘右衛門尉
をして、所領を安堵せしめ、秀吉の証判を受く
天正13年 5月10日 大日本史料 羽柴秀吉、大坂より上洛す、是日、淀に抵る
天正13年 5月13日 大日本史料 羽柴秀吉、浅野長吉をして、近江高島郡の所領の内を以て、留守居の者に扶持せしむ
天正13年 5月15日 大日本史料 誠仁親王、青蓮院尊朝法親王に、大和多武峯妙楽寺の為め、羽柴秀吉の尽力を求めんこ
とを勧め給ふ
天正13年 5月18日 大日本史料 前田利家、羽柴秀吉の命に依り上洛せんとし、是日、能登七尾の守将富田重政に之を告
ぐ、尋で、加賀大聖寺の溝口秀勝、利家上洛の途次、其居城に憩はんことを請ふ
天正13年 5月18日 大日本史料 長宗我部元親、羽柴秀吉の軍を防がんが為め、阿波岩倉に著陣す【木屋平文書】
天正13年 5月20日 大日本史料 羽柴秀吉、四国出馬の期日を来月十六日に延べ、一柳末安・斎村赤松広英・加藤茂勝・
津田小八郎等をして、播磨明石より渡海せしむ
天正13年 5月24日 大日本史料 羽柴秀吉、近江坂本に疾む、是日、諸社寺に勅して其平癒を祈らしめ、且勅使を差遣し
て病を問はしめ給ふ、誠仁親王も亦書を秀吉に賜ひて、四国出馬を停めさせらる
天正13年 5月28日 大日本史料 羽柴秀吉、越中富山の佐々成政を征せんとし、越前敦賀の蜂屋頼隆をして、其領国の
道路・橋梁を整へしむ
天正13年 5月 大日本史料 羽柴秀吉、脇坂安治を伊賀より摂津に移し、能勢郡の地一万石を与ふ、
天正13年 6月2日 大日本史料 伊予来島の村上通総通昌、近江坂本に於て、羽柴秀吉に対面す、秀吉、来る四国出兵に
際し、通総の、水軍を出さんことを求む
天正13年 6月2日 大日本史料 羽柴秀吉、山内一豊に若狭西方郡を与へ、同国高浜に居らしむ、尋で、生駒近規に近江
高島郡の内二万三千五百石を与ふ
天正13年 6月6日 大日本史料 前田利家、京都より帰国す、是日、能登の青木善四郎・大屋助兵衛に、羽柴秀吉の越中
出馬近きを告げ、警備を厳にせしむ
天正13年 6月8日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の命に依り、諸将士をして、来る十六日を期して四国に出陣せしむ
天正13年 6月11日 大日本史料 綸旨を賜ひて、紀伊金剛峯寺をして寺領を安堵せしむ、尋で、羽柴秀吉、同寺に大和
宇智郡・紀伊伊都郡の内三千石を還付し、別に米一万石を寄せて、 金堂の再建を命ず、
又応其木食をして一山を支配せしむ
天正13年 6月11日 大日本史料 織田信雄、徳川家康に、羽柴秀吉の佐々成政を征すること近きにあるを告げ、
人質を尾張清須に出すべきことを勧む
天正13年 6月14日 大日本史料 羽柴秀吉、病癒えて近江坂本より大坂に帰る、是日、本願寺光佐、顕如、興正寺佐超顕
尊を遣して、秀吉を見舞はしむ、尋で、光寿、教如、大坂に之き、寺地の寄進を謝す
天正13年 6月15日 大日本史料 佐竹義重・宇都宮国綱、及び結城晴朝の老臣水谷勝俊、書を羽柴秀吉に遺りて、好を修
す、是日、秀吉、義重等に紀伊四国等の平定を報じ、近く佐々成政を伐ち、関東に赴き
て、義重等の為め尽力すべき旨を告ぐ
天正13年 6月16日 大日本史料 羽柴秀吉、弟秀長をして、諸軍を率ゐて、四国に渡海せしむ、尋で、来月三日、自ら出
馬せんとして、石井明石与次兵衛・梶原弥介に、船を播磨明石に集結すべきことを命ず
天正13年 6月18日 大日本史料 羽柴秀吉、小早川隆景に、長宗我部元親の和議を斥けて、其証人を返せし旨を報じ、
伊予を与ふべきことを約す
天正13年 6月18日 小早川hp ○秀吉から隆景は35万石を与えれるが、自分は毛利の臣下であることを理由に一旦
毛利輝元に与えられそれを賜る形にした。
天正13年 6月25日 大日本史料 羽柴秀吉、上杉景勝に、近く越中に出馬して、佐々成政を討滅し、共に小田原征伐の
策を議せんことを告ぐ
天正13年 6月25日 大日本史料 千宗易、羽柴秀吉出陣の際は上洛すべき旨を川端道喜に報ず
天正13年 6月 小早川hp ○羽柴秀吉、長曽我部追討の援軍を毛利に頼み小早川隆景・吉川元長らと共に伊豫に
上陸し長宗我部を降伏させた。
天正13年 上川大野系譜
■秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み
潰すに手間入るべからず、彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。
天正13年 大野家譜上田本
○秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み潰すに手間入るべからず、
彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。
天正13年 上川大野系譜
■当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。
天正13年 大野家譜上田本
○当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。
天正13年 周防大島町誌 ○秀吉四国征伐の総大将は小早川隆景でこの年から能島村上は小早川氏に臣礼をとる。
天正13年 伊予中世年表 ○来島通総・得居道久は小早川の軍に従う。
天正13年 伊予中世年表 ○毛利勢、小早川隆景、豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。
天正13年 久万町誌 ○伊予平定の功により小早川隆景は秀吉から伊予の内35万石を安堵された。
天正13年 伊予中世年表 ○金子城(新居浜)高尾城(西条)主、金子元宅は激戦敗死する。
天正13年 伊予中世年表 ○鷺森城主、桑原泰国、落城敗死。近見山城主、重見通俊も落城敗死。日高山城の
重見通晴も落城敗死。
天正13年 伊予中世年表 ○仏殿城、高峠城、雨ノ城、高仙山城、鷹ケ森城は落城。仙波氏の守る伊福城落城。
天正13年 伊予中世年表 ○横山城落城、城主南通具は逃走。村上武吉は国分山城を戦うことなく開城する。
天正13年 予陽河野家譜 ○大野直之は豊臣秀吉の四国征伐の将小早川隆景の三万余騎の進軍により曽根宣高と
共に捕らえられた。
天正13年 伊予中世年表 ○小早川隆景の軍により、雄甲城、雌甲城、高穴城主二神一族敗死。
天正13年 伊予中世年表 ○忽那島の忽那氏滅亡
天正13年 7月 総合地方史年表 ○稲葉一鉄は神戸山王三重塔を上葺する。
天正13年 7月2日 大日本史料 羽柴秀吉、宮木豊盛の報に対へて、明三日四国出馬の意を伝へ、渡海のことに
遺漏なからしむ
天正13年 7月2日 大日本史料 羽柴秀吉、伊達政宗の臣遠藤基信の書に答へて、伊達氏の好を織田信長と修せし旨を認
め、且備中高松攻略、明智・柴田両氏討滅、和泉紀伊平定等、歴戦の功績を報ず
天正13年 7月2日 大日本史料 羽柴秀吉、高野山金剛峯寺金堂の用材を大和芳野郷に徴す
天正13年 7月5日 大日本史料 前田利家、能登石動山の守将青木善四郎・大屋助兵衛の書に答へ、重ねて、近日羽柴
秀吉の江中に出兵すべき旨を告げ、なほ佐々成政に対する防備に油断なからしむ
天正13年 7月6日 大日本史料 羽柴秀吉、弟同秀長の請に仍り、再び四国出馬を延期す、是日、秀吉、之を淡路福良著
陣の日根野弘就等に告げ、諸事に就きて遺漏なからしむ
天正13年 7月7日 大日本史料 羽柴秀吉、入京す
天正13年 7月7日 古田村大野系譜 ○大野直之は橘一族に討たれる。
天正13年 7月8日 大日本史料 青蓮院尊朝法親王、羽柴秀吉をして、大和多武峯妙楽寺領継目安堵の朱印状を下附せ
しめんが為め、京都の奉行前田玄以に其斡旋を求め給ふ
天正13年 7月10日 大日本史料 羽柴秀吉の御伽衆大村由己、梅庵、本願寺光寿教如の所望に仍り、自作の軍記
三番を読む
天正13年 7月11日 大日本史料 是より先、左大臣近衛信輔、関白二条昭実と関白職を争ふ、是日、昭実を罷め、内大臣
羽柴秀吉を関白に任じ、従一位に叙し、平姓を改めて藤原氏と為す、又信輔及び菊亭晴季
を并に従一位に叙す
天正13年 7月11日 心斎橋今昔年表 秀吉関白となる
天正13年 7月12日 大日本史料 秀吉、織田信長の日蓮宗僧徒より徴せし誓紙を破棄す、尋で、京都の奉行前田玄以をし
て頂妙寺日珖等の逼塞を解かしむ
天正13年 7月13日 大日本史料 綸旨を伊勢専修寺堯真に下して、旧に仍り、同寺住持職及び諸国に於ける末寺門徒を
安堵せしめ給ふ、尋で、秀吉、綸旨を奉じて、之に安堵状を与ふ
天正13年 7月15日 大日本史料 関白羽柴秀吉、親王・摂家、門跡間の座次争論を裁決す
天正13年 7月16日 大日本史料 上杉景勝、秀吉と約して佐々成政を挟撃せんとす、是日、景勝、嶋倉早介・龍口藤兵衛
尉及び池浦喜右衛門に地を給し、越中境の城に入らしむ
天正13年 7月17日 大日本史料 秀吉、前田利家に越中出馬の意を伝へ、先備の目録を交付す
天正13年 7月17日 大日本史料 是より先、小早川隆景・吉川元長等、伊予に入り、長宗我部元親の党を同国丸山・高尾
両城に囲む、元親の兵救援して克たず、是日、高尾城陥り、 城将金子元宅之に死す、
尋で、同国高峠・生子山等の塁潰ゆ、仍りて隆景等、進みて同国仏殿城に迫り、又阿波
に在る羽柴秀長等と連繋を固む【萩藩閥閲録】
天正13年 7月17日 大日本史料 長宗我部元親、金子元宅に近況を伝へ、且近隣の情報を求め、尽力せしむ【金子文書】
天正13年 7月18日 大日本史料 秀吉、五摂家に所領を与ふ
天正13年 7月19日 大日本史料 是より先、羽柴秀長・同秀次、諸軍を率ひて阿波に入り、長宗我部元親の属城同国木津
城及び牛岐城を抜き、進みて一宮城並に脇城を囲む、又宇喜多秀家の軍、讃岐より阿波
に進む、是日、秀長、一宮城攻囲の状況を小早川隆景に報ず、尋で、秀次も亦、脇城攻
囲の状況を隆景に 報ず【顕如上人貝塚御座所日記】
天正13年 7月21日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正13年 7月23日 萩藩閥閲録1-533
予州之儀高尾落去、数人而討果付而、両郡無残所退散候
桂 勘右衛門 讃岐境ニ佛殿一城相残条、急度可仕懸之由候、
然を長宗我部(元親)陣所五三里之間由候間、土州衆手合候、
左候条少成共人数可差渡由、被申越候間、
當城番衆之儀、可被罷渡之通申、可得其意候、残衆中相賦、
在番肝要候、猶此者可申聞候、謹言
(天正十三年)七月廿三日 輝元 御判
桂 平四郎殿 兼重左衛門尉(元続)殿
天正13年 7月27日 大日本史料 秀吉、越中勝興寺佐廉顕幸に、同国出馬の時期を告げ、同寺並に瑞泉寺に従軍すべき
ことを命ず、又勝興寺並に千光寺に禁制を下す
天正13年 7月27日 大日本史料 秀吉、山崎片家・多賀常則・池田秀氏等の阿波脇城攻囲の労を褒す
天正13年 7月29日 TAKUBO ○小早川隆景の勧告に従い湯築城を開城する。
天正13年 7月29日 久万町誌 ○怒涛の小早川軍は伊予勢全軍籠城の本城湯築城を十重二十重に囲み一ケ月に渡り
攻防戦するも落ちず。
天正13年 7月29日 大日本史料 秀吉、宮木豊盛をして、阿波一宮・脇両城攻囲の軍に米を渡付せしむ、
天正13年 8月1日 大日本史料 秀吉、太田三楽斎資正に答へて、佐々成政征伐、並に関東出馬等の予定を報ず
天正13年 8月4日 大日本史料 秀吉、森吉政・祖父江久助をして、四国より凱旋の将兵の渡海に就き、遺漏なからしむ
天正13年 8月5日 大日本史料 織田信雄、佐々成政に書を遺りて、秀吉に降らんことを慫慂す
天正13年 8月6日 大日本史料 是より先、長宗我部元親、羽柴秀長に頼りて降る、是日、秀長、小早川隆景に、秀吉の、
元親の降を納れ、土佐一国を与へたるを報じ、且、隆景の 伊予領知に尽力すべきことを
約す、尋で、秀吉、隆景に伊予を与へ、又、四国に諸将を分封す【土佐国蠹簡集】
天正13年 8月7日 大日本史料 前田利家、能登石動山の守将大屋助兵衛・青木善四郎等に、秀吉の兵の越前に入りしこ
とを告げ、佐々成政に対し、警戒を怠ることなからしむ
天正13年 8月8日 大日本史料 秀吉、越中富山城の佐々成政を征せんとして、京都を発す、
天正13年 8月8日 大日本史料 秀吉、近江観音寺賢珍をして、仙洞御所作事の用途を、京都の奉行前田玄以に計ひ
渡さしむ
天正13年 8月14日 大日本史料 是より先、島津義久、秀吉の九州出兵に備へ、日向の諸士に其方途を議せしむ、是日、
同国佐土原の島津家久、上井覚兼・吉利久金等と計策を議す、尋で、家久、覚兼等を
伴ひて同国臼杵郡に赴き、大友義統の将の策動せる情況を探る
天正13年 8月26日 大日本史料 是より先、秀吉、越中に入り富山城に逼る、是日、佐々成政薙髪して降る、尋で、
秀吉、越中を成政並に前田利家の子利勝に班ち、又、金森長近をして、飛騨の三木
姉小路自綱父子を伐たしむ
天正13年 8月28日 大日本史料 秀吉、加藤茂勝に、知行の替地として、播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 8月30日 大日本史料 園城寺をして、秀吉の佐々成政征討を祈らしめらる、尋で、石清水八幡社並に春日社に
も、之を祈らしめらる
天正13年 8月 大日本史料 秀吉、脇坂安治の所領摂津能勢壱万石を改め、大和高取弐万石を与ふ
天正13年 閏8月 山口県史整理年表 秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石、来島通総・安国寺恵瓊等にも分封す
【閥閲録】
天正13年 閏8月 大日本史料 大和興福寺・法隆寺并に春日社、秀吉に所領の指出を呈す
天正13年 閏8月1日 大日本史料 本願寺光寿教如、秀吉の北国出陣見舞のため、加賀に下る、
天正13年 閏8月1日 大日本史料 是より先、秀吉、金森長近の斡旋に依り、越中聞名寺をして、其の寺内を安堵せし
む、是日、長近、其の旨を聞名寺に報ず
天正13年 閏8月11日 大日本史料 秀吉、諸公家・諸門跡等をして、其の知行を安堵せしむ
天正13年 閏8月12日 大日本史料 是より先、上杉景勝、越中に秀吉に会せんとして、同国境に抵り、果さずして還る、
是日、景勝、越後春日山に帰陣せることを、同国三条城将甘糟長重に報ず
天正13年 閏8月13日 大日本史料 是より先、秀吉、越前北荘の丹羽長重を若狭に移す、是日、近江佐和山の堀秀政を
北荘に封じ、溝口秀勝・村上頼勝をして与力せしむ
天正13年 閏8月13日 大日本史料 秀吉、丹羽長重の弟宮松長正に、越前の内五百石の地を与ふ
天正13年 閏8月14日 大日本史料 秀吉、野辺四郎右衛門尉を、越前国中の蝋燭司に任ず
天正13年 閏8月18日 大日本史料 秀吉、筒井定次を大和より伊賀へ移し、大和を羽柴秀長に与ふ、尋で、定次、
伊賀に入る
天正13年 閏8月18日 萩藩閥閲録1-187 秀吉から蜂須賀正勝・黒田孝高宛に「予州の諸城を請取れば小早川隆景に引渡
し、予州の人質を連れて帰ってこい」とある。
天正13年 萩藩閥閲録1-187 秀吉から小早川隆景あて書状によると8/6日には予州国中の城請取り完了した
旨が記されている。
天正13年 毛利伊豆文書 秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石拝領時宇和郡三万五千石秀包拝領し大津城
に在城した。天正15年春返却【閥閲録】
天正13年 筑前大野家文書 ○大野直吉【村上】は伊豫大野近辺が安国寺恵慶領になったので恵慶に従属した。
天正13年 閏8月21日 大日本史料 秀吉、徳川家康の臣本多重次の音問に答ふ
天正13年 閏8月22日 大日本史料 是より先、秀吉、浅野長吉に近江高島郡の地を与ふ、是日、羽柴秀次に近江四十三万
石を与へて、同国八幡山に居らしめ、山内一豊・堀尾吉直吉晴等を 附属す、尋で、
高山重友を播磨明石に、中川秀政を同国三木に移し、又諸将に地を班す
天正13年 閏8月24日 大日本史料 秀吉、越中より京都に凱旋す、尋で、大坂に帰る
天正13年 閏8月25日 大日本史料 右大臣菊亭晴季をして、大和多武峯妙楽寺法度改定のことを計はしめらる、是日、
秀吉、多武峯衆徒の兵器を没収す
天正13年 閏8月25日 大日本史料 秀吉、多羅尾光俊の所領近江信楽を没収す、
天正13年 閏8月26日 大日本史料 秀吉、京都の奉行前田玄以をして、諸公家・諸門跡の領知を質として、金穀を貸与せ
しものに対し、其の証券を棄破し、新規の貸借を禁ぜしむ
天正13年 9月1日 大日本史料 秀吉、脇坂安治・加藤茂勝・大島光義・加藤清正・水野勝成・猪子一時・同一日・
舟越景直・伊東長実・早崎小伝次に、摂津に於て地を充行ふ
天正13年 9月2日 大日本史料 是より先、上杉景勝、千坂景親等を遣して秀吉を音問す、是日、秀吉之に答ふ
天正13年 9月3日 大日本史料 秀吉、羽柴秀長と共に大和郡山城に入る、
天正13年 9月4日 大日本史料 秀吉、大和多武峯の大織冠社を、同国郡山に移築せしめんとするに依り、敕使菊亭晴
季、青蓮院尊朝法親王と共に、秀吉を郡山に訪ふ、秀吉、多武峯の 坊舎を郡山近辺に
移さんがため、寺僧をして下山せしむ、明日、多武峯の衆徒多く逃散す、尋で、郡山の
羽柴秀長、多武峯両門前をして、寺内のことを管せしむ
天正13年 9月4日 大日本史料 是より先、秀吉、美濃大垣城将加藤光泰を戒飭す、是日、近江勢田城将一柳末安を
大垣に置き、美濃の蔵入領代官を兼ねしめ、又勢田城を羽柴秀勝小吉に与ふ
天正13年 9月6日 久万町誌 ○小早川隆景は河野通直の妻が毛利元就の孫娘であるから城中に手紙を送り降伏勧告した
結果、全軍開城降伏
天正13年 9月5日 大日本史料 秀吉、大和郡山より大坂に帰る
天正13年 9月6日 大日本史料 秀吉、余田源太郎に河内交野郡森村の地を与ふ、
天正13年 9月8日 大日本史料 本願寺光佐顕如・光寿教如父子、秀吉を訪ふ、秀吉、之を饗す
天正13年 9月9日 心斎橋今昔年表 秀吉豊臣姓を賜る。紀州、四国、北陸を平定。
大坂城の天守閣が完成(本丸の北東隅の天守は8層、最上階に回廊付展望台、屋根は
金箔張、各階に金・銀・生糸・緞子(ドンス)・茶器・刀・武道具部屋有り)。
まず、城下町開発として東横堀川を開削。
戦国時代からの城郭建築は、壕をめぐらし石垣を用いて高い土塁の上に天守閣を築
く形式の集大成が「大坂城(黒色)」で、史上最高規模の豪壮華麗さを誇りました
天正13年 9月10日 大日本史料 羽柴秀次、近江八幡に居城を築き、同国安土町を八幡山下の島郷に移す、是日、秀吉、
秀次に作事の進捗を促す
天正13年 9月10日 大日本史料 秀吉、播磨妙光寺をして摂津に移らしむ、是日、妙光寺に播磨の寺領の替地として、
摂津河辺郡の地を与ふ、
天正13年 9月12日 大日本史料 是より先、徳川家康をして延暦寺再興に奉加せしめ給ふ、是日、家康、之に奉答し、
秀吉の下知状を添へられんことを請ふ
天正13年 9月12日 大日本史料 秀吉、近江長浜八幡社・小谷寺・舎那院・龍厳院をして其の所領を安堵せしむ
天正13年 9月13日 大日本史料 是より先、伊勢専修寺堯真をして、同寺住持職及び諸国の末寺門徒を安堵せしめ給ひ、
秀吉も之に安堵状を与ふ、是日、勧修寺紹可尹豊、堀秀政に書を遺りて、越前の専修寺
末寺をして、本寺の命に従はしむべきことを請ふ
天正13年 9月14日 大日本史料 秀吉、摂津有馬入湯の途次、本願寺を訪ふ、尋で、光佐顕如の入湯を音問せるに答ふ
天正13年 9月15日 大日本史料 秀吉の臣田中吉政、摂津多田院の寄進分を安堵せしむ
天正13年 9月16日 大日本史料 秀吉、有馬則頼に、播磨・河内の所領を安堵し、加増として播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 9月18日 大日本史料 秀吉、諸国の牛に役銭を課することを禁ず、
天正13年 9月23日 大日本史料 本願寺光佐顕如、摂津有馬の湯に入る、尋で、秀吉、有馬よりなせる光佐の音問に答ふ
天正13年 9月24日 大日本史料 是より先、小早川隆景、羽柴秀長に鷹を贈る、是日、秀長、之に答へ、隆景の、秀吉よ
り伊予を与へられたるを喜ぶ【小早川家文書】
天正13年 9月27日 大日本史料 大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、
天正13年 9月28日 大日本史料 是より先、秀吉、日蓮宗の再興を許し、礼物を課す、是日、同宗諸寺代本満寺日順等、
同宗の和泉堺の諸寺に、礼物調達の為の勧進を許す
天正13年 9月30日 大日本史料 羽柴秀次の臣田中吉政、秀吉の意を承けて、近江長命寺をして、其寺屋敷・山林等の
裁判に就きて、異儀なからしむ
天正13年 10月1日 大日本史料 秀吉、上京す、
天正13年 10月1日 大日本史料 秀吉、松浦重政・一柳勘左衛門尉等をして、公用を支払はしむ
天正13年 10月2日 大日本史料 秀吉、勅を島津義久・大友義統に伝へ、互に和せんことを命ず
天正13年 10月4日 大日本史料 秀吉、京都裏築地町・立売町・西大路町に、軍勢の寄宿を免除す
天正13年 10月5日 大日本史料 秀吉、牛に役銭を課する咎に依り、左衛門権佐正五位下薄諸光をして生害せしむ
天正13年 10月6日 大日本史料 秀吉・羽柴秀長・同秀次・徳川秀康・宇喜多秀家・丹羽長重・長岡忠興等参内す、又、
長岡玄旨幽斎を法印に叙し、片桐直盛直勝且元を東市正に稲葉典通を侍従に、
森一重忠政を右近丞に、澤井雄重を修理亮に任ず
天正13年 10月6日 大日本史料 秀吉、山城大鳳寺領の検地を免除し、施薬院全宗をして、厳く年貢を徴収せしむ
天正13年 10月7日 大日本史料 御茶会、千宗易に利休居士の号を賜ふ、秀吉、御茶を献ず、
天正13年 10月15日 大日本史料 是より先、長宗我部元親、京都に入りて、秀吉に謁す、是日、帰途に就く、秀吉、
今井宗久をして、之を和泉堺に送らしむ【宗国史】
天正13年 10月17日 大日本史料 秀吉、真田昌幸に書を遺りて、之を支援すべき意を伝ふ、尋で、石田三成、昌幸の臣
矢澤綱頼に、疎略なかるべき旨を述ぶ
天正13年 10月18日 大日本史料 是ヨリ先、石見金子大和守ノ息刑部少輔、病ノ為メ死ス、是日、吉川元春、之ヲ悼ム
天正13年 10月20日 大日本史料 島津義久、羽柴秀長に書を遺りて、秀吉との間に斡旋せられんことを請ふ
天正13年 10月22日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正13年 10月23日 大日本史料 吉川元春、出雲浄音寺をして、同国鷺浦の代官職を安堵せしむ
天正13年 10月23日 大日本史料 秀吉、加藤嘉明をして、摂津尼崎・同国西宮より、石材を大坂に運送せしむ
天正13年 10月24日 大日本史料 是より先、島津義久、秀吉下向の風聞に接し、諸将より誓書を徴せんとす、是日、
上井覚兼、誓書を認む
天正13年 10月28日 大日本史料 徳川家康、諸将と秀吉に質を送ることを議し、之を止む、又、北条氏直の老臣の家康
に誓書を呈するに応へて、家康の将士も誓書を遺り、以て秀吉に備ふ
天正13年 10月 大日本史料 是より先、紀伊小松原の湯川直春、秀吉に従ふ、是頃、羽柴秀長の与力として
大和に在り
天正13年 11月1日 山口県史整理年表 能島村上武吉、務司城・中途城を明渡し、屋代島の内来島分・芸州能美島江田島
今岡分を給わり、小早川隆景に臣事す 【閥閲録】
天正13年 11月1日 村上図書付録二 ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
能美島、江田島、今岡方を領す旨の隆景神文発給さる。
天正13年 11月1日 周防大島町誌 ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
能美島、江田島、今岡方を領す。
天正13年 11月1日 大日本史料 小早川隆景、伊予能島の村上武吉・同元吉父子に誓書を与へ、同国務司・中途両城を
放棄すべきことを命じ、且つ周防屋代島・安芸能美島等に相違なきことを約す、
天正13年 11月1日 萩藩閥閲録1-572 条敷
村上図書 一、(伊予)務司・中途両城披相渡、御下城之事
一、最前御忠儀之辻、以一通申定事
一、(周防)屋代島之内、来嶋(通昌)知行分之事
一、(安芸)能美嶋并江田嶋之事
一、今岡分之事 以上
右御所勘之地少茂不可有相違候
日本国中大小神祇・八幡大菩薩・殊當国三嶋大明神・天満大自在天神
可罷蒙御罰者也、仍起請文如件
天正十三年十一月一日 小早川左衛門佐隆景 御判
村上掃部頭殿 同 大和守殿
天正13年 11月3日 大日本史料 秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に、美濃竹鼻附近の地を与ふ
天正13年 11月13日 大日本史料 徳川家康の重臣石川数正、三河岡崎より秀吉の許に奔る、尋で、家康、之を北条氏直
に報じ、遠江浜松より三河吉田を経て、岡崎に入る
天正13年 11月16日 大日本史料 大友義統、秀吉の贈れる服を、筑後矢部の五条鎮定に与ふ
天正13年 11月16日 大日本史料 是より先、蜂須賀正勝・黒田孝高、伊予黒瀬の西園寺公広を通じて、大友府蘭宗麟を
音問す、是日、府蘭の子同義統、公広の臣法花津右衛門佐に書を遺りて、之に答ふ
天正13年 11月18日 大日本史料 秀吉、徳川家康との事に依り、美濃大垣の一柳末安に命じて、東美濃の人質を放免す
ることなからしめ、且つ兵糧米の備蓄に就き指示す、
天正13年 11月19日 大日本史料 秀吉、真田昌幸に、来春徳川家康を撃たんことを告げ、小笠原貞慶・木曾義昌と共
に、信濃・甲斐の仕置を厳にせしむ
天正13年 11月20日 大日本史料 秀吉、来春三河に出陣せんとし、美濃大垣の一柳末安に命じて、兵備を整へしむ
天正13年 11月21日 大日本史料 秀吉、山城の検地を行ひ、是日、廷臣、寺社等をして、其の所領等を安堵せしむ
天正13年 11月28日 大日本史料 秀吉、徳川家康との和議に就きて、織田長益等を三河岡崎に遣す、
天正13年 11月29日 大日本史料 大地震、尋で、秀吉、大坂に帰る
天正13年 12月7日 大日本史料 秀吉、大友義統をして、毛利輝元と協力せしめ、且つ、島津義久征討の意を報ず
天正13年 12月10日 大日本史料 秀吉の養子丹波亀山の羽柴秀勝〈次〉没す
天正13年 12月13日 大日本史料 島津義久、千宗易に書を遣り、秀吉との間を斡旋せられんことを請ふ、又、毛利輝元
に使者を送り、大友義統との対戦に備へんとす
天正13年 12月18日 村上図書付録二 ○天正13年11月1日の神文とほぼ同一内容の輝元公の判物、武吉に発給さる。
天正13年 12月18日 村上図書付録二 ○来島の旧領、屋代島と江田島を与える旨の輝元公の判物発給さる。。
天正13年 12月21日 大日本史料 小早川隆景・吉川元長等、大坂に至りて、秀吉に謁し、物を進む
天正13年 12月27日 大日本史料 秀吉、本願寺に遊ぶ
天正13年 伊予中世年表 ○河野通直、湯築城を開いて降伏する。西園寺氏滅亡。
天正13年 大島町郷土会 ○このころ伊予の河野崩により大島郡に逃れくるもの多し。【東屋代など】
天正13年 赤穂市資料 豊臣秀吉は子飼いの大名5人を五奉行に任命する
西暦1586年
天正14年 1月6日 大日本史料 秀吉、加藤清正に播磨飾東郡の地三百石を加増す
天正14年 1月8日 大日本史料 長宗我部元親、大坂に到り、歳首を秀吉に賀す、是日、下国す
【顕如上人貝塚御座所日記】
天正14年 1月11日 大日本史料 秀吉、勅旨に依り、島津義久に大友、龍造寺の両氏と和せんことを命ず、是日、義久、
書を長岡玄旨(幽齋)に遺り、命に従ひ難き旨を答ふ
天正14年 1月12日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 1月13日 大日本史料 秀吉、石川木工兵衛等をして、近江長浜城の天守を壊さしむ
天正14年 1月14日 大日本史料 秀吉、参内して、歳首を賀す
天正14年 1月15日 大日本史料 秀吉、黄金造の茶室を叡覧に供し、茶湯を献ず、
天正14年 1月18日 大日本史料 秀吉、徳川家康の将石川数正に和泉を宛行ふ
天正14年 1月20日 大日本史料 秀吉、近江坂本に之く
天正14年 1月23日 大日本史料 是より先、秀吉、大坂城を修築す、是日、一柳末安に命じて、鋤、鍬、持籠等を
調達せしむ
天正14年 1月24日 大日本史料 秀吉、伊勢山田の三方をして、同国長屋、高向両郷を安堵せしむ
天正14年 1月27日 大日本史料 織田信雄、秀吉と徳川家康との和議に就きて、家康と三河岡崎に会す
天正14年 1月28日 大日本史料 秀吉、近江大津に連歌を興行す、
天正14年 2月8日 大日本史料 秀吉と徳川家康との和議成る、是日、秀吉、之を一柳末安に報ず
天正14年 2月21日 大日本史料 秀吉、上京す、尋で、諸将に課して、京都内野の亭を造築す、
天正14年 2月23日 大日本史料 秀吉、加藤嘉明に大坂城修築の石材運搬に関する條規を頒つ
天正14年 2月 心斎橋今昔年表 大坂築城の石運びの掟を決める
天正14年 2月23日 大日本史料 小早川隆景、龍造寺政家に答書し、速に使者を遣し、秀吉に聘礼せんことを勧む
天正14年 2月25日 大日本史料 秀吉、新造の仙洞御所を拝観す
天正14年 2月28日 大日本史料 是より先、秀吉、参内して、桜花を拝観す、是日、御製を桜枝に付して、秀吉に賜ふ、
仍りて、秀吉、御返歌を上る、翌日、誠仁親王、和仁王等、秀吉に御歌を賜ふ
天正14年 2月28日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正14年 2/30 大日本史料 秀吉、大坂に帰る(御湯殿上日記) * 日付が変?
天正14年 3月3日 大日本史料 是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、
之を捕へ自殺せしむ
天正14年 3月4日 大日本史料 秀吉、入京す、尋で、大坂に帰る
天正14年 3月5日 萩藩閥閲録小早川書状 隆景は乃美兵部丞宗勝に命じ湯築・大津・せり・本尊・興居島・賀嶋(鹿
島)・来嶋・小湊(米湊)・櫛辺・壬生川の10城のみを残させる。
天正14年 3月11日 大日本史料 秀吉の将石田三成、下野宇都宮の宇都宮国綱をして、上杉景勝の入京を督促せしむ
天正14年 3月19日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 3月20日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、織田信包及び前田利家を堂上に列するを聴許あらせらる
天正14年 3月21日 大日本史料 秀吉、検地等に就きての條規を定む
天正14年 3月27日 大日本史料 秀吉、片桐真盛等に地を宛行ふ
天正14年 3月29日 大日本史料 秀吉、京都を経て丹波亀山に赴く、翌日、帰京す、
天正14年 4月1日 大日本史料 秀吉、山城西岡の地を長岡玄旨(幽齋)に宛行ふ、
天正14年 4月1日 大日本史料 秀吉、京都より大坂に帰る、途に、大仏殿建立の地を東福寺近傍に相す
天正14年 4月5日 大日本史料 大友宗滴(宗麟、)大坂に抵りて、秀吉に謁し、島津氏の豊後侵入の事を訴へ、之を伐
たんことを請ふ、秀吉、之を諾し、宗滴を大坂城内に饗す
天正14年 4月10日 大日本史料 秀吉、九州の諸将の国境を定め、之に違背する者を撃たんとし、吉川元春等をして、
毛利輝元に諮り、諸城の守備を厳にせしめ、諸氏の人質を黒田孝高に渡さしむ
天正14年 4月10日 山口県史整理年表 秀吉、輝元をして大仏殿材木を調進せしむ。ついで輝元吉見正頼にこれを
調えしむ 【毛利家文書】
天正14年 4月12日 大日本史料 秀吉、入京す、
天正14年 4月22日 大日本史料 秀吉、大仏殿を山城東山に創建せんとし、其材を諸国に課す、是日、藤堂高虎等に
之を徴す
天正14年 4月22日 大日本史料 是より先、秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしめんことを約す、是日、伊藤秀
盛に、人夫、伝馬のこと等を命ず、翌日、家康、本多忠勝を遣して、納采せしむ
天正14年 5月10日 大日本史料 秀吉、上京す
天正14年 5月14日 大日本史料 秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしむ
天正14年 5月14日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院、)春日社に参詣す、尋で、高野山に詣づ
天正14年 5月20日 大日本史料 秀吉、近江大津より入京す
天正14年 5月23日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正14年 6月1日 山口県史整理年表 輝元、諸関・渡舟・人沙汰に関する法度を出す 【毛利氏四代実録】
天正14年 6月3日 大日本史料 秀吉、権大納言勧修寺晴豊、同中山親綱をして、御譲位の時期に就きて上奏せしむ
天正14年 6月8日 大日本史料 秀吉、質子を筒井定次に還す、
天正14年 6月8日 大日本史料 秀吉、大坂城中に茶会を催す
天正14年 6月14日 大日本史料 上杉景勝、大坂に抵り、秀吉に謁す
天正14年 6月20日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 6月21日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、上杉景勝を左近衛権少将に任じ、従四位下に叙す、翌日、景勝等、
参内す
天正14年 6月25日 大日本史料 秀吉の母大政所(天瑞院、)大和郡山城に疾む
天正14年 6月26日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く、
天正14年 6月 総合地方史年表 ○木曽川洪水(加賀野井千町切)で河道変じて濃美の新境界を附す。
天正14年 7月(グ歴) フロイス日本紀
○堺を出発したフロイスは播磨国室津を経て芸予諸島に近付いた。
「(やがて)我等(一行)はある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を
構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず(獲物)を襲っていた。この海賊は能島殿と
云い強大な(勢)力を有していたので他国の沿岸や 海辺の(住民達)は(能島殿)によって破壊されること
を怖れ彼に毎年貢物を献上していた。日本中で最高の海賊としてその座を争ってきたのは、ただ二人だけで、
彼等の館は何年も前から存続し、彼等は強大な主として公任されそのように扱われ奉仕されてきた。
その一人は今述べた能島殿であり、他の一人は来島殿と称する。」
天正14年 7月1日 大洲大野系譜 □大野直好 近江守 尾首城主、荏原東町城主、後土居城に移り土井城で戦死。
67歳、号千壽院殿背江州刺史直翁了元大居士
天正14年 7月5日 大日本史料 秀吉、京都内野の亭の普請を督し、尋で、大坂に帰る
天正14年 7月12日 山口県史整理年表 豊前・筑前の辺動乱起る。輝元、椙杜少輔四郎に出陣を命ず 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月15日 山口県史整理年表 輝元、九州征伐のため、防長の家人内藤・市川等を赤間関に出陣せしむ
【毛利氏四代実録】
天正14年 7月17日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 7月17日 大日本史料 徳川家康、信濃上田の真田昌幸を撃たんとして、駿府に陣す、尋で、秀吉の斡旋に
依り、之を中止し、遠江浜松に還る
天正14年 7月20日 大日本史料 筑前高祖の原田信種、毛利輝元に、秀吉への執成を依頼す、是日、輝元、之を諾す
天正14年 7月21日 山口県史整理年表 輝元・隆景、島津征伐のため冷泉元豊を赤間関へ下す 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月22日 大日本史料 秀吉、春日社に参詣し、尋で、入京す、羽柴秀長も亦、入京す
天正14年 7月26日 大日本史料 秀吉、参内す
天正14年 7月29日 大日本史料 是より先、秀吉、島津義久を討たんとし、黒田孝高をして、毛利輝元等の兵を督して、
先発せしむ、是日、孝高の使者、小早川隆景の許に著す
天正14年 8月3日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正14年 8月3日 山口県史整理年表 秀吉、元春を赤間関・門司要害へ下し堅固に守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月3日 大日本史料 秀吉、書を大友宗滴(宗麟、)同義統(吉統)父子及び立花統虎等に遺り、黒田孝高、
宮木豊盛等をして、豊前に出陣せしむる旨を告げ、其守備を厳にせしむ
天正14年 8月6日 大日本史料 秀吉、近江大津より入京す
天正14年 8月11日 山口県史整理年表 輝元・隆景、仁保隆尉・冷泉元豊等をして門司城を守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月14日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る、
天正14年 8月15日 大日本史料 秀吉、肥前松浦鎮信に、毛利輝元等の豊後出陣を報じ、其到るを待たしむ、又亀井真矩
(茲矩)をして、出兵の準備を為さしむ
天正14年 8月16日 大日本史料 是より先、秀吉、黒田孝高等をして、毛利氏の軍を督して、豊前に赴かしむ、是日、
毛利輝元、吉川元春、小早川隆景等、出陣す
天正14年 8月18日 大日本史料 本願寺御影堂、竣工す、是日、秀吉、之に参詣す
天正14年 8月28日 大日本史料 是より先、千石秀久、秀吉の命に依り、長宗我部元親を督して、豊後に出陣し、沖浜に
到る、是日、志賀道擇(親益、)之を島津義久の将上井覚兼に報ず【塩飽島文書】
天正14年 9月1日 山口県史整理年表 輝元、九州征伐につき諸浦渡船の法度を出す 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月3日 山口県史整理年表 輝元赤間関より大阪へ注進のため、児玉就方をして大畠・遠崎・楊井にて継舟を
堅固に準備せしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月8日 山口県史整理年表 輝元九州征伐のために発向し、この日防府に着し、九日赤間関に着す
【毛利氏四代実録】
天正14年 9月11日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 9月22日 山口県史整理年表 元春、長門一宮に着陣し、二十三日赤間関に着す 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月26日 大日本史料 秀吉及び織田信雄、使を遣し大政所(天瑞院)を質と為さんことを約して、
徳川家康に上京を勧む、乃ち、家康、之に従ふ
天正14年 9月27日 大日本史料 島津義久、秀吉に、肥筑に出陣するに依り、九州諸将の領堺決定の命に答へ難きことを
述ぶ
天正14年 9月30日 大日本史料 秀吉、小早川隆景をして、安国寺恵瓊等と諮り、豊前攻略を議せしむ、
天正14年 10月 大分県の歴史 島津軍が豊後に侵入する。
天正14年 10月3日 大日本史料 秀吉、立花統虎及び五條鎮定に千石秀久、長宗我部元親、毛利輝元等の出陣を告げ、
之を激励す【立花家蔵感状記】
天正14年 10月3日 大日本史料 秀吉、黒田孝高等に答書し、其労を犒ひ、且毛利輝元を督して、速に軍を進めしむ
天正14年 10月3日 大日本史料 大友義統(吉統)、千石秀久、長宗我部元親と議り、豊後府内を発し、豊前宇佐郡に
出陣す【北里文書】
天正14年 10月4日 大日本史料 毛利輝元、吉川元春、小早川隆景及び黒田孝高と共に、高橋元種の属城豊前小倉を攻め
て之を陥る、元種も亦降る
天正14年 10月4日 大日本史料 是より先、龍造寺政家、秀吉に質子を納れ、島津氏と絶ち、鍋島信生(直茂)と共に
筑後に入り、三池鎮實の邑を火き、進みて肥後の諸将を降す、是日、秀吉、政家、信生の功を褒す
天正14年 10月6日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正14年 10月10日 大日本史料 是より先、豊前馬岳の長野助盛、同国時枝の時枝平大夫、同国宇佐の宮成吉右衛門、
黒田考高等に降る、是日、秀吉、考高等をして、助盛等に島津氏の情勢を尋ねしめ、
又龍造寺政家と大友宗滴(宗麟)父子との和融を斡旋し、宗滴父子、長宗我部元親、
千石秀久と議り、諸城を攻略せしむ、又毛利輝元の労を犒す【児玉韞採集文書】
天正14年 10月13日 大日本史料 秀吉、讃岐の蔵入分代官生駒近規をして、其年貢を蓄へしめ、以て九州出陣の
兵糧に充つ
天正14年 10月14日 大日本史料 秀吉、其生母大政所(天瑞院)祈願所河内観心寺に、旧に依り、同寺領内の竹木、
柴草の採取を許す
天正14年 10月18日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院、)徳川家康に質として、三河岡崎城に到る
天正14年 10月18日 大日本史料 秀吉、肥前の松浦鎮信をして、速に人質を出し、出陣せしむ
天正14年 10月26日 大日本史料 徳川家康、三河岡崎を発して入京す、是日、大坂に到り、羽柴秀長の亭に宿す、
秀吉、之を訪ふ
天正14年 10月27日 大日本史料 徳川家康、大坂城に秀吉に謁す
天正14年 10月 心斎橋今昔年表 家康が秀吉の巨従となる
天正14年 11月1日 大日本史料 徳川家康、京都に入る、尋で、秀吉、家康の亭を内野に造営せしむ
天正14年 11月2日 大日本史料 秀吉、加藤嘉明に淡路三原郡の地を宛行ふ、
天正14年 11月3日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 11月11日 大日本史料 秀吉、森吉成を検使として、吉川元春及び小早川隆景の筑前の陣所に遣す
天正14年 11月7日 大日本史料 黒田孝高、小早川隆景及び吉川氏の諸将と共に豊前宇留津城を攻めて、之を陥る
天正14年 11月12日 大日本史料 徳川家康、井伊直政をして、秀吉の母大政所(天瑞院)を護り、大坂に赴かしむ
天正14年 11月13日 大日本史料 是より先、大友義統(吉統)の、千石秀久及び長宗我部元親と共に筑後に出陣するに
乗じ、大友氏に背く者、豊後に蜂起す、義統等、兵を班す、
天正14年 11月13日 大日本史料 是日、秀吉、小早川隆景等に、この事情を報じ、備前、阿波、淡路の援兵を遣すべき
こと告げ、諸軍を督せしむ【黒田文書】
天正14年 11月15日 大日本史料 秀吉、近江大津に之き、尋で、入京す、
天正14年 11月15日 大日本史料 小早川隆景、黒田孝高等、高橋元種の属城筑前障子岳を攻略し、同国香春嶽城を囲む
天正14年 11月15日 山口県史整理年表 吉川元春、豊前小倉の陣中にて死す。五七 【毛利氏四代実録】
天正14年 11月18日 大日本史料 足利義昭、使を島津義久の臣喜入季久に遣し、毛利氏の軍の豊前に侵入するを告げ、
義久に秀吉と講和せんことを勧めしむ
天正14年 11月20日 大日本史料 是より先、秀吉、吉川元春、同元長父子の意見を容れ、出陣を来春に延期す、又
蜂須賀家政、脇坂安治、加藤嘉明をして、豊後に赴援せしむ、
是日、之を元春父子等に報ず、尋で、龍造寺政家にも亦、之を報ず
天正14年 11月23日 大日本史料 秀吉、千石秀久をして、糧食及び加勢を豊後臼杵城に輸せしめ、又同国府内の守備を
厳にし、濫りに兵を動かすことなからしむ
天正14年 11月23日 大日本史料 秀吉、大徳寺及び知恩院に地を寄進す
天正14年 11月29日 大日本史料 秀吉、大坂城に帰る
天正14年 12月1日 大日本史料 秀吉、明春三月を期して、島津氏を親征せんとし、諸国の兵を徴す
天正14年 12月3日 大日本史料 秀吉、松浦鎮信をして、松浦党の兵船を率ヰ、薩摩灘を警固せしむ
天正14年 12月4日 大日本史料 足利義昭、一色昭秀を島津家久に遣し、同義久を諭して、秀吉と和睦せしむ
天正14年 12月11日 大日本史料 是より先、黒田孝高、吉川元長、同経言及び小早川隆景と共に、島津氏の将高橋元種
を筑前香春嶽城に囲みて、之を降す、是日、元長等、之を秀吉に報ず、
天正14年 12月13日 大日本史料 秀吉、入京す
天正14年 12月15日 大日本史料 大友義統(吉統、)豊後府内より同国高崎城に逃れ、是日、豊前龍王城に移る、
尋で、黒田孝高、小早川隆景、吉川元長に来援を請ふ、
天正14年 12月19日 大日本史料 関白羽柴秀吉を太政大臣に任じ、豊臣の姓を賜ふ【公卿補任】
天正14年 12月19日 心斎橋今昔年表 豊臣秀吉太政大臣となる
天正14年 12月20日 大日本史料 是より先、小早川隆景等、原田信種を筑前高祖城に攻めて、之を降す、是日、秀吉、
毛利輝元、吉川元長及び隆景等の戦功を褒す
天正14年 12月22日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る、
天正14年 12月24日 大日本史料 是より先、秀吉、千石秀久の敗戦を怒り、讃岐の地を没収し、之を尾藤光房に与ふ、
是日、之を毛利輝元、龍造寺政家に報じ、軽挙盲動を戒しむ、尋で、黒田孝高等にも
亦、之を報ず
天正14年 12月27日 大日本史料 秀吉、本願寺光寿(教如)の茶会に臨む
天正14年 12月30日 大日本史料 秀吉、黒田孝高等をして、豊前妙見、龍王両城の守備を固くせしめ、恣に
出兵するを禁ず
天正14年 河野氏の歴史 ○キリシタン宣教師「道後の市」に来る。