山口県周防大島物語

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大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1585年~1586年)

2023年01月08日 14時46分25秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1585年
天正13年 1月3日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、伊勢大神宮に遷宮の用途を上り、入目の注文を徴す、是日、
              秀吉、注文の至れるに答ふ、尋で、稲葉重執・牧村政吉を遣して、出納のことを督せしむ、
天正13年 1月3日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣し天正13年 て、歳首を賀す、尋で、秀吉の養子
               於義伊秀康にも亦、歳首を賀す
天正13年 1月12日  大日本史料  羽柴秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に書を与へ、照政をして、美濃大垣より、
               同国岐阜に徙らしむ
天正13年 1月17日  大日本史料  佐竹義重、徳川家康に書を遺りて、羽柴秀吉との媾和を賀す、尋で、義重の属将多賀谷
                重経も亦、家康の臣大久保忠隣に書を遺りて、之を賀す
天正13年 1月17日  大日本史料  羽柴秀吉、毛利輝元の質小早川秀包元総に暇を与へて、帰国せしむ、是日、黒田孝高・
                蜂須賀正勝、之を輝元の臣井上春忠に報じ、 且備前の処分並に紀伊雑賀及び四国出兵
               に就きて、秀吉の意を伝ふ、

天正13年 1月22日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津有馬に浴す、
天正13年 1月28日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、弟秀長を名代として、織田信雄を訪はしむ、是日、秀吉、
                信雄の老臣飯田半兵衛尉の之に尽力せるを褒す
天正13年 1月  心斎橋今昔年表  毛利輝元・上杉景勝が、秀吉の臣従となる

天正13年 2月2日  大日本史料  羽柴秀吉、肴并に馬糧の調達を、伊勢神戸の生駒近規に命ず、是日、近規の臣
               小森政秀、其過書を出す
天正13年 2月5日  大日本史料  羽柴秀吉の室浅野氏、摂津阿弥陀寺に、薬師堂建立の費用を寄進す
天正13年 2月10日  大日本史料  吉川元春及び備後甲山の山内隆通をして、泉涌寺舎利殿再興に奉加せしめ給ふ
天正13年 2月10日  大日本史料  羽柴秀吉、織田信雄の上洛に就き、石清水八幡宮惣中をして、路次を普請せしむ

天正13年 2月11日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉の意に従ひて、伊予来島の村上通昌の帰国を許す、是日、
                小早川隆景、同国能島の村上武吉・元吉父子に誓書を与へて、
     萩藩閥閲録1-573  疏意なき旨を述ぶ、尋で、乃美宗勝も亦、之に誓書を遺る

        来嶋通昌事、従羽(秀吉)筑披申下之条、請付申迄候、自然従彼方於企再乱者、
        任最前申談首尾、御親子三人不捨申引立申候、若於此旨偽者、
       (牛王)日本国中大小神祇、別而厳島両大明神・三嶋大明神・八幡大菩薩・
        天満大自在天神・可罷蒙御罰者也、仍起請文如件

        天正十三年二月十一日      小早川左衛門佐 隆景 御判
         村上大和守(武吉)殿  村上掃部(元吉)殿

天正13年 2月13日  大日本史料  羽柴秀吉、三月二十一日を期して、紀伊に出馬すべき旨を、小早川隆景に報じ、領内の
             警固船を悉く和泉岸和田に集結せしむ、又、一柳末安にも之を報じ、大坂附近に著陣せしむ
天正13年 2月14日  大日本史料  羽柴秀吉、徳川家康の臣本多重次に物を遺りて、其子仙千代重成の、家康の次子於
                     義伊秀康に従ひて、大坂に抵れるを賞す
天正13年 2月18日  小早川家文書  羽柴秀吉、小早川秀包元総に河内の内一万石を与ふ、是日、秀包大坂より安芸に帰る
天正13年 2月20日  大日本史料  安芸新荘の吉川元春・同元長父子、二宮長実をして、兄春実の遺跡を安堵せしむ、
                尋で、元春、父俊実の所領を知行せしむ、
天正13年 2月24日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉の命に依り、越中出馬に就きて、船舶の領外に航するを禁ず
天正13年 2月26日  大日本史料  吉川元春、秋上良忠に、出雲伊奘諾・伊奘冉神魂社・六所三社の神主職及び別火職等を
                安堵す

天正13年 2月26日  大日本史料  羽柴秀吉、山城枇杷荘の地を片桐貞隆に充行ふ
天正13年 2月28日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より入京す
天正13年 3月1日  大日本史料  羽柴秀吉、近江の新庄蔵人をして、池田照政運送の船鎖を、同国伊香郡中之河内に
               逓送せしむ
天正13年 3月1日  大日本史料  小早川隆景、児玉就英及び粟屋元種に、羽柴秀吉の紀伊雑賀出兵の期日を告げ、来る十
               日を期して、警固船を率ゐて出帆せしむ、尋で、毛利輝元も亦、冷泉元満等に之を命ず
天正13年 3月3日  大日本史料  羽柴秀吉、仙洞御所の普請を視る
天正13年 3月5日  大日本史料  羽柴秀吉、京都より丹波亀山に之く

天正13年 3月5日  萩藩閥閲録巻11-1  
 
   今朝もっ風雨一入之故不申談候、浦 図書 一、(伊予)曽根・恵良・
   しらされ三ケ所之儀も破却ニ相澄、道具以下當城エ可取越候、御思案之旨候も可承候
  一、祖母谷瀧之城下次戒是も一所相縮度候、何を抱何を可相捨候哉、思召所承引合可致儀定候
  一、當城大津せり本尊興居嶋・賀嶋・来島・小湊・櫛邊・壬生川、是も十ケ所之事ニ候、肝要之 
     持所たに相抱候へもあい々々の儀もさえミ不入事候、第一領地も有間敷候条、持くさし候て
     役ニ立間敷候、十ケ所も二万貫餘之儀ならでハ成間敷候
   一、普請配ハ道後之奉行衆と昨今以来申談よきほと相調候、明後日白井日取ニて候間可相始候
   一、度々申候西園寺御抱之城、領地之やりかへ曾而不相聞咲止之儀候、多分久 又左可相心得候条被遂内談
    候て(西園寺)公廣於御着を、則相すめ時分之儀候間、此節普請等被申付度事候
   一、得居事、彼地無合鮎候も可為無理遣候哉、今之分も菊間も無落着不可然躰候、従是可申談候条、雨あかり
    路次も如形候ハ々今夕明朝之間可有御登城候    恐惶謹言

    (天正一三カ)    三月五日                  隆景    御判
     「乃   兵  参                      隆景」
天正13年 3月7日  大日本史料  羽柴秀吉、前田利家に答へて、近く越中に出馬すべき旨を報じ、且、之を上杉景勝に
               伝へしむ
天正13年 3月8日  大日本史料  羽柴秀吉、茶湯を紫野大徳寺に催す
天正13年 3月9日  大日本史料  羽柴秀吉の正室杉原氏高台院の侍女幸蔵主、和泉貝塚に之き、本願寺を訪ふ
天正13年 3月10日  大日本史料  伊予能嶋の村上元吉、長門下関の問藤太郎に、紋幕を遣す
天正13年 3月10日  大日本史料  内大臣近衛信輔を罷め、権大納言羽柴秀吉を内大臣に任じ、正二位に叙す、尋で、
               信輔を左大臣に任ず

天正13年 3月10日  大日本史料  羽柴秀吉、賀茂別雷社並に北野社境内の竹木の伐採を禁じ、又、大徳寺・東寺及び遍照
                心院をして、旧に依り、寺領を安堵せしむ
天正13年 3月12日  大日本史料  羽柴秀吉、京都より近江坂本に之く
天正13年 3月12日  大日本史料  伊予能島の村上元吉、筑前立花の戸次道雪鑑連・同統虎父子に書を遺る、是日、統虎、
                元吉に道雪の筑後出陣を告げ、重ねて返書すべきを答ふ、
天正13年 3月15日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、安国寺恵瓊瑤甫・宮木宗賦を豊後に遣して、大友宗麟義鎮宗滴に
                茶入を求め、又、島津義久に鷹を求む、是日、恵瓊、豊後より秀吉の書状を義久に遺る

天正13年 3月16日  大野家譜上田本  ○大野直周、元親と公広の合戦の時三百余騎を引率して公広に加勢する。通直、
                  直昌も加勢する。

天正13年 3月17日  大日本史料  毛利輝元、紀伊雑賀に警固船を派遣す、小早川秀包、元総、之に従ふ、是日、羽柴秀
                吉、小早川隆景及び秀包に書を遺りて、毛利氏の水軍をして、中村一氏・仙石秀久・
                九鬼嘉隆等と協力せしむ
天正13年 3月19日  大日本史料  山城・近江の百姓、検地の為め逃散す、是日、羽柴秀吉、片桐貞隆・宮木豊盛・森吉政
                等に命じて、未進の年貢を猶予し、百姓をして、還住せしむ
天正13年 3月19日  大日本史料  羽柴秀吉、加藤清正に河内錦郡の内四百三十四石の地を加増す
天正13年 3月20日  大日本史料  佐竹義重、羽柴秀吉に書を遺りて、好を修す

天正13年 3月21日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊を征す、是日、和泉畠中・千石堀等を抜く、尋で、積善寺・澤等を
                攻略し、進んで紀伊に入りて、根来雑賀の一揆を降す
天正13年 3月22日  大日本史料  綸旨を諸社寺に下して、羽柴秀吉の紀伊出陣の為め祈らしめ給ふ
天正13年 3月25日  大日本史料  羽柴秀吉、仙石秀久・中村一氏・九鬼嘉隆・小西行長等を遣して、紀伊奥郡を徇へし
                む、同国小松原の湯川直春服さず、屡秀吉の兵と戦ふ、是日、秀吉、紀伊征伐の状況を
                小早川隆景に報ず

天正13年 3月25日  大野家譜上田本  ○長宗我部元親、忍び本国に帰る。
天正13年 3月    大日本史料    羽柴秀吉、延暦寺西塔再建の為めに壱万貫を寄進す
天正13年 3月    大日本史料    羽柴秀吉、旧に依り、禁裏六町町に諸役・徳政・寄宿等を免除す
天正13年 春頃    伊予年表    ○ついに河野氏は元親に屈服した。
                   *(これは長曾我部側資料でありこの時期河野氏は支配権は維持している。
天正13年 4月2日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に来月越中に出馬すべき旨を報ず、是日、景勝、之に答へて、前田
               利家と協力すべきを述べ、且、織田信雄・徳川家康との媾和を賀す
天正13年 4月3日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、光寿教如及び興正寺佐超顕尊を紀伊雑賀に遣して、羽柴秀吉を
               見舞はしむ

天正13年 4月10日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊金剛峯寺に迫りて、寺領以下、宗祖空海の定むる所に従はしめ、
               僧徒を戒飭す、金剛峯寺、其節度に服す
天正13年 4月14日  大日本史料  羽柴秀吉、小早川隆景に答へて、和泉・紀伊両国の平定を告げ、近く四国に
                出馬すべきことを報ず
天正13年 4月16日  大日本史料  島津義久の弟同忠平、義弘、吉川元春に答へて、龍造寺政家と和睦を報じ、以後政家と
                好を厚くすべき旨を述ぶ、尋で、義久も亦元春に答ふ、
天正13年 4月17日  大日本史料  織田信雄、紀伊雑賀に羽柴秀吉を見舞ふ、尋で、秀吉の養子義伊秀康も亦雑賀に之く
天正13年 4月17日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉の四国征伐に従ひて、伊予に出兵せんとし、湯浅将宗をして、
                出兵の用意をせしむ、尋で、児玉就光に出船の準備を命ず

天正13年 4月17日  山口県史整理年表  秀吉の四国征伐に伊予渡海五月二日と決定す。輝元下松船出帆準備を下知す。
                   延期して六月二十七日、隆景・吉川元長出陣す 【閥閲録】
天正13年       周防大島町誌    ○秀吉の四国征伐の時、来島の村上通総が先導。為に河野通直は先祖伝来の
                    封土を失う。
天正13年 4月22日  大日本史料     是より先、羽柴秀吉、紀伊太田を攻囲す、是日、城陥る、尋で、秀吉凱旋す
天正13年 5月1日   大日本史料    吉川元春、子同元長をして、出雲・伯耆・石見の諸氏を率ゐて、羽柴秀吉の四国
                  征伐に従はしめんとす、是日、元春父子、湯原春綱・同元綱・小川元政をして、
                  出陣の用意を為さしむ

天正13年 5月4日   大日本史料   羽柴秀吉、摂津中島渡辺の地を本願寺に与へ、和泉貝塚より移らしむ、仍りて、
                 本願寺、伽藍の造営を始め、近江の末寺門徒をして之に尽力せしむ
天正13年 5月4日  大日本史料    羽柴秀吉、来月三日四国に出馬せんとし、黒田孝高をして、淡路に航せしめ、一柳
                 末安をして、播磨明石に著陣せしむ
天正13年 5月7日  大日本史料    是より先、前田利家の能登七尾の守将前田安勝、越中宇波村の百姓に、越中侵入の
                 際力を致さんことを求む、是日、利家、安勝に羽柴秀吉の出馬近きとこを報じ、
                 宿所を造作せしむ

天正13年 5月8日  大日本史料   羽柴秀吉、和泉岸和田の守将中村一氏に、近江甲賀を与へ、同国水口に移らしむ
天正13年 5月8日  大日本史料   是より先、羽柴秀吉、和泉・紀伊を弟秀長に与へ、城を紀伊岡山和歌山に築かしむ、
                是日、秀長に四国出馬を命じ、和泉堺以南の紀泉両国の船を徴せしむ
天正13年 5月9日  大日本史料   羽柴惟住丹羽長重、大坂に之きて羽柴秀吉に謁す、是日、溝口秀勝・上田勘右衛門尉
                をして、所領を安堵せしめ、秀吉の証判を受く
天正13年 5月10日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より上洛す、是日、淀に抵る
天正13年 5月13日  大日本史料  羽柴秀吉、浅野長吉をして、近江高島郡の所領の内を以て、留守居の者に扶持せしむ
天正13年 5月15日  大日本史料  誠仁親王、青蓮院尊朝法親王に、大和多武峯妙楽寺の為め、羽柴秀吉の尽力を求めんこ
                とを勧め給ふ

天正13年 5月18日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉の命に依り上洛せんとし、是日、能登七尾の守将富田重政に之を告
                ぐ、尋で、加賀大聖寺の溝口秀勝、利家上洛の途次、其居城に憩はんことを請ふ
天正13年 5月18日  大日本史料 長宗我部元親、羽柴秀吉の軍を防がんが為め、阿波岩倉に著陣す【木屋平文書】
天正13年 5月20日  大日本史料  羽柴秀吉、四国出馬の期日を来月十六日に延べ、一柳末安・斎村赤松広英・加藤茂勝・
                津田小八郎等をして、播磨明石より渡海せしむ
天正13年 5月24日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本に疾む、是日、諸社寺に勅して其平癒を祈らしめ、且勅使を差遣し
               て病を問はしめ給ふ、誠仁親王も亦書を秀吉に賜ひて、四国出馬を停めさせらる

天正13年 5月28日  大日本史料  羽柴秀吉、越中富山の佐々成政を征せんとし、越前敦賀の蜂屋頼隆をして、其領国の
               道路・橋梁を整へしむ
天正13年 5月    大日本史料  羽柴秀吉、脇坂安治を伊賀より摂津に移し、能勢郡の地一万石を与ふ、
天正13年 6月2日  大日本史料  伊予来島の村上通総通昌、近江坂本に於て、羽柴秀吉に対面す、秀吉、来る四国出兵に
               際し、通総の、水軍を出さんことを求む
天正13年 6月2日  大日本史料  羽柴秀吉、山内一豊に若狭西方郡を与へ、同国高浜に居らしむ、尋で、生駒近規に近江
               高島郡の内二万三千五百石を与ふ

天正13年 6月6日  大日本史料  前田利家、京都より帰国す、是日、能登の青木善四郎・大屋助兵衛に、羽柴秀吉の越中
               出馬近きを告げ、警備を厳にせしむ
天正13年 6月8日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉の命に依り、諸将士をして、来る十六日を期して四国に出陣せしむ
天正13年 6月11日  大日本史料  綸旨を賜ひて、紀伊金剛峯寺をして寺領を安堵せしむ、尋で、羽柴秀吉、同寺に大和
               宇智郡・紀伊伊都郡の内三千石を還付し、別に米一万石を寄せて、 金堂の再建を命ず、
               又応其木食をして一山を支配せしむ

天正13年 6月11日  大日本史料  織田信雄、徳川家康に、羽柴秀吉の佐々成政を征すること近きにあるを告げ、
               人質を尾張清須に出すべきことを勧む
天正13年 6月14日  大日本史料  羽柴秀吉、病癒えて近江坂本より大坂に帰る、是日、本願寺光佐、顕如、興正寺佐超顕
                尊を遣して、秀吉を見舞はしむ、尋で、光寿、教如、大坂に之き、寺地の寄進を謝す

天正13年 6月15日  大日本史料  佐竹義重・宇都宮国綱、及び結城晴朝の老臣水谷勝俊、書を羽柴秀吉に遺りて、好を修
                す、是日、秀吉、義重等に紀伊四国等の平定を報じ、近く佐々成政を伐ち、関東に赴き
                て、義重等の為め尽力すべき旨を告ぐ
天正13年 6月16日  大日本史料  羽柴秀吉、弟秀長をして、諸軍を率ゐて、四国に渡海せしむ、尋で、来月三日、自ら出
                馬せんとして、石井明石与次兵衛・梶原弥介に、船を播磨明石に集結すべきことを命ず
天正13年 6月18日  大日本史料  羽柴秀吉、小早川隆景に、長宗我部元親の和議を斥けて、其証人を返せし旨を報じ、
                伊予を与ふべきことを約す

天正13年 6月18日  小早川hp  ○秀吉から隆景は35万石を与えれるが、自分は毛利の臣下であることを理由に一旦
                毛利輝元に与えられそれを賜る形にした。
天正13年 6月25日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に、近く越中に出馬して、佐々成政を討滅し、共に小田原征伐の
                策を議せんことを告ぐ
天正13年 6月25日  大日本史料  千宗易、羽柴秀吉出陣の際は上洛すべき旨を川端道喜に報ず
天正13年 6月   小早川hp  ○羽柴秀吉、長曽我部追討の援軍を毛利に頼み小早川隆景・吉川元長らと共に伊豫に
               上陸し長宗我部を降伏させた。
天正13年    上川大野系譜 
          ■秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
          先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
          又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
          河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
          数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
         希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
          この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み
         潰すに手間入るべからず、彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。

天正13年    大野家譜上田本
         ○秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
          先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
          又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
          河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
          数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
         希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
          この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み潰すに手間入るべからず、
          彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。

天正13年    上川大野系譜
           ■当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
          落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
          若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
          菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
         干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
          当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
          河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
          御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
         当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。

天正13年   大野家譜上田本
           ○当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
          落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
          若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
          菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
         干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
          当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
          河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
          御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
         当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。

天正13年    周防大島町誌  ○秀吉四国征伐の総大将は小早川隆景でこの年から能島村上は小早川氏に臣礼をとる。
天正13年   伊予中世年表   ○来島通総・得居道久は小早川の軍に従う。
天正13年    伊予中世年表   ○毛利勢、小早川隆景、豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。
天正13年   久万町誌     ○伊予平定の功により小早川隆景は秀吉から伊予の内35万石を安堵された。
天正13年    伊予中世年表  ○金子城(新居浜)高尾城(西条)主、金子元宅は激戦敗死する。
天正13年   伊予中世年表   ○鷺森城主、桑原泰国、落城敗死。近見山城主、重見通俊も落城敗死。日高山城の
               重見通晴も落城敗死。

天正13年   伊予中世年表   ○仏殿城、高峠城、雨ノ城、高仙山城、鷹ケ森城は落城。仙波氏の守る伊福城落城。
天正13年   伊予中世年表   ○横山城落城、城主南通具は逃走。村上武吉は国分山城を戦うことなく開城する。

天正13年   予陽河野家譜  ○大野直之は豊臣秀吉の四国征伐の将小早川隆景の三万余騎の進軍により曽根宣高と
              共に捕らえられた。

天正13年   伊予中世年表  ○小早川隆景の軍により、雄甲城、雌甲城、高穴城主二神一族敗死。
天正13年   伊予中世年表  ○忽那島の忽那氏滅亡
天正13年 7月  総合地方史年表  ○稲葉一鉄は神戸山王三重塔を上葺する。
天正13年 7月2日  大日本史料  羽柴秀吉、宮木豊盛の報に対へて、明三日四国出馬の意を伝へ、渡海のことに
               遺漏なからしむ
天正13年 7月2日  大日本史料  羽柴秀吉、伊達政宗の臣遠藤基信の書に答へて、伊達氏の好を織田信長と修せし旨を認
               め、且備中高松攻略、明智・柴田両氏討滅、和泉紀伊平定等、歴戦の功績を報ず
天正13年 7月2日  大日本史料  羽柴秀吉、高野山金剛峯寺金堂の用材を大和芳野郷に徴す

天正13年 7月5日  大日本史料  前田利家、能登石動山の守将青木善四郎・大屋助兵衛の書に答へ、重ねて、近日羽柴
               秀吉の江中に出兵すべき旨を告げ、なほ佐々成政に対する防備に油断なからしむ
天正13年 7月6日  大日本史料  羽柴秀吉、弟同秀長の請に仍り、再び四国出馬を延期す、是日、秀吉、之を淡路福良著
               陣の日根野弘就等に告げ、諸事に就きて遺漏なからしむ
天正13年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、入京す

天正13年 7月7日  古田村大野系譜  ○大野直之は橘一族に討たれる。

天正13年 7月8日  大日本史料   青蓮院尊朝法親王、羽柴秀吉をして、大和多武峯妙楽寺領継目安堵の朱印状を下附せ
                しめんが為め、京都の奉行前田玄以に其斡旋を求め給ふ
天正13年 7月10日  大日本史料  羽柴秀吉の御伽衆大村由己、梅庵、本願寺光寿教如の所望に仍り、自作の軍記
                三番を読む
天正13年 7月11日  大日本史料  是より先、左大臣近衛信輔、関白二条昭実と関白職を争ふ、是日、昭実を罷め、内大臣
               羽柴秀吉を関白に任じ、従一位に叙し、平姓を改めて藤原氏と為す、又信輔及び菊亭晴季
               を并に従一位に叙す
天正13年 7月11日  心斎橋今昔年表  秀吉関白となる
天正13年 7月12日  大日本史料  秀吉、織田信長の日蓮宗僧徒より徴せし誓紙を破棄す、尋で、京都の奉行前田玄以をし
                て頂妙寺日珖等の逼塞を解かしむ

天正13年 7月13日  大日本史料  綸旨を伊勢専修寺堯真に下して、旧に仍り、同寺住持職及び諸国に於ける末寺門徒を
                安堵せしめ給ふ、尋で、秀吉、綸旨を奉じて、之に安堵状を与ふ
天正13年 7月15日  大日本史料  関白羽柴秀吉、親王・摂家、門跡間の座次争論を裁決す
天正13年 7月16日  大日本史料  上杉景勝、秀吉と約して佐々成政を挟撃せんとす、是日、景勝、嶋倉早介・龍口藤兵衛
                尉及び池浦喜右衛門に地を給し、越中境の城に入らしむ

天正13年 7月17日  大日本史料  秀吉、前田利家に越中出馬の意を伝へ、先備の目録を交付す
天正13年 7月17日  大日本史料  是より先、小早川隆景・吉川元長等、伊予に入り、長宗我部元親の党を同国丸山・高尾
                両城に囲む、元親の兵救援して克たず、是日、高尾城陥り、 城将金子元宅之に死す、
                尋で、同国高峠・生子山等の塁潰ゆ、仍りて隆景等、進みて同国仏殿城に迫り、又阿波
                に在る羽柴秀長等と連繋を固む【萩藩閥閲録】

天正13年 7月17日  大日本史料  長宗我部元親、金子元宅に近況を伝へ、且近隣の情報を求め、尽力せしむ【金子文書】
天正13年 7月18日  大日本史料  秀吉、五摂家に所領を与ふ
天正13年 7月19日  大日本史料  是より先、羽柴秀長・同秀次、諸軍を率ひて阿波に入り、長宗我部元親の属城同国木津
                城及び牛岐城を抜き、進みて一宮城並に脇城を囲む、又宇喜多秀家の軍、讃岐より阿波
                に進む、是日、秀長、一宮城攻囲の状況を小早川隆景に報ず、尋で、秀次も亦、脇城攻
                囲の状況を隆景に 報ず【顕如上人貝塚御座所日記】

天正13年 7月21日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る

天正13年 7月23日  萩藩閥閲録1-533  

           予州之儀高尾落去、数人而討果付而、両郡無残所退散候
           桂 勘右衛門  讃岐境ニ佛殿一城相残条、急度可仕懸之由候、
           然を長宗我部(元親)陣所五三里之間由候間、土州衆手合候、
           左候条少成共人数可差渡由、被申越候間、
          當城番衆之儀、可被罷渡之通申、可得其意候、残衆中相賦、
           在番肝要候、猶此者可申聞候、謹言

         (天正十三年)七月廿三日    輝元 御判
           桂 平四郎殿  兼重左衛門尉(元続)殿

天正13年 7月27日  大日本史料  秀吉、越中勝興寺佐廉顕幸に、同国出馬の時期を告げ、同寺並に瑞泉寺に従軍すべき
                ことを命ず、又勝興寺並に千光寺に禁制を下す
天正13年 7月27日  大日本史料  秀吉、山崎片家・多賀常則・池田秀氏等の阿波脇城攻囲の労を褒す
天正13年 7月29日  TAKUBO   ○小早川隆景の勧告に従い湯築城を開城する。
天正13年 7月29日  久万町誌  ○怒涛の小早川軍は伊予勢全軍籠城の本城湯築城を十重二十重に囲み一ケ月に渡り
                攻防戦するも落ちず。
天正13年 7月29日  大日本史料  秀吉、宮木豊盛をして、阿波一宮・脇両城攻囲の軍に米を渡付せしむ、
天正13年 8月1日  大日本史料  秀吉、太田三楽斎資正に答へて、佐々成政征伐、並に関東出馬等の予定を報ず
天正13年 8月4日  大日本史料  秀吉、森吉政・祖父江久助をして、四国より凱旋の将兵の渡海に就き、遺漏なからしむ
天正13年 8月5日  大日本史料  織田信雄、佐々成政に書を遺りて、秀吉に降らんことを慫慂す
天正13年 8月6日  大日本史料 是より先、長宗我部元親、羽柴秀長に頼りて降る、是日、秀長、小早川隆景に、秀吉の、
               元親の降を納れ、土佐一国を与へたるを報じ、且、隆景の 伊予領知に尽力すべきことを
               約す、尋で、秀吉、隆景に伊予を与へ、又、四国に諸将を分封す【土佐国蠹簡集】

天正13年 8月7日  大日本史料  前田利家、能登石動山の守将大屋助兵衛・青木善四郎等に、秀吉の兵の越前に入りしこ
               とを告げ、佐々成政に対し、警戒を怠ることなからしむ
天正13年 8月8日  大日本史料  秀吉、越中富山城の佐々成政を征せんとして、京都を発す、
天正13年 8月8日  大日本史料  秀吉、近江観音寺賢珍をして、仙洞御所作事の用途を、京都の奉行前田玄以に計ひ
               渡さしむ

天正13年 8月14日  大日本史料  是より先、島津義久、秀吉の九州出兵に備へ、日向の諸士に其方途を議せしむ、是日、
                同国佐土原の島津家久、上井覚兼・吉利久金等と計策を議す、尋で、家久、覚兼等を
                伴ひて同国臼杵郡に赴き、大友義統の将の策動せる情況を探る
天正13年 8月26日  大日本史料  是より先、秀吉、越中に入り富山城に逼る、是日、佐々成政薙髪して降る、尋で、
                秀吉、越中を成政並に前田利家の子利勝に班ち、又、金森長近をして、飛騨の三木
                姉小路自綱父子を伐たしむ

天正13年 8月28日  大日本史料  秀吉、加藤茂勝に、知行の替地として、播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 8月30日  大日本史料  園城寺をして、秀吉の佐々成政征討を祈らしめらる、尋で、石清水八幡社並に春日社に
                も、之を祈らしめらる
天正13年 8月    大日本史料  秀吉、脇坂安治の所領摂津能勢壱万石を改め、大和高取弐万石を与ふ
天正13年 閏8月  山口県史整理年表  秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石、来島通総・安国寺恵瓊等にも分封す
                 【閥閲録】

天正13年 閏8月   大日本史料   大和興福寺・法隆寺并に春日社、秀吉に所領の指出を呈す
天正13年 閏8月1日  大日本史料  本願寺光寿教如、秀吉の北国出陣見舞のため、加賀に下る、
天正13年 閏8月1日  大日本史料  是より先、秀吉、金森長近の斡旋に依り、越中聞名寺をして、其の寺内を安堵せし
                む、是日、長近、其の旨を聞名寺に報ず
天正13年 閏8月11日  大日本史料  秀吉、諸公家・諸門跡等をして、其の知行を安堵せしむ
天正13年 閏8月12日  大日本史料  是より先、上杉景勝、越中に秀吉に会せんとして、同国境に抵り、果さずして還る、
                 是日、景勝、越後春日山に帰陣せることを、同国三条城将甘糟長重に報ず

天正13年 閏8月13日  大日本史料  是より先、秀吉、越前北荘の丹羽長重を若狭に移す、是日、近江佐和山の堀秀政を
                 北荘に封じ、溝口秀勝・村上頼勝をして与力せしむ
天正13年 閏8月13日  大日本史料  秀吉、丹羽長重の弟宮松長正に、越前の内五百石の地を与ふ
天正13年 閏8月14日  大日本史料  秀吉、野辺四郎右衛門尉を、越前国中の蝋燭司に任ず
天正13年 閏8月18日  大日本史料  秀吉、筒井定次を大和より伊賀へ移し、大和を羽柴秀長に与ふ、尋で、定次、
                 伊賀に入る
天正13年 閏8月18日  萩藩閥閲録1-187 秀吉から蜂須賀正勝・黒田孝高宛に「予州の諸城を請取れば小早川隆景に引渡
                   し、予州の人質を連れて帰ってこい」とある。
天正13年       萩藩閥閲録1-187  秀吉から小早川隆景あて書状によると8/6日には予州国中の城請取り完了した
                   旨が記されている。

天正13年      毛利伊豆文書  秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石拝領時宇和郡三万五千石秀包拝領し大津城
                 に在城した。天正15年春返却【閥閲録】
天正13年     筑前大野家文書  ○大野直吉【村上】は伊豫大野近辺が安国寺恵慶領になったので恵慶に従属した。
天正13年 閏8月21日  大日本史料  秀吉、徳川家康の臣本多重次の音問に答ふ
天正13年 閏8月22日  大日本史料  是より先、秀吉、浅野長吉に近江高島郡の地を与ふ、是日、羽柴秀次に近江四十三万
                石を与へて、同国八幡山に居らしめ、山内一豊・堀尾吉直吉晴等を 附属す、尋で、
                高山重友を播磨明石に、中川秀政を同国三木に移し、又諸将に地を班す

天正13年 閏8月24日  大日本史料  秀吉、越中より京都に凱旋す、尋で、大坂に帰る
天正13年 閏8月25日  大日本史料  右大臣菊亭晴季をして、大和多武峯妙楽寺法度改定のことを計はしめらる、是日、
                 秀吉、多武峯衆徒の兵器を没収す

天正13年 閏8月25日  大日本史料  秀吉、多羅尾光俊の所領近江信楽を没収す、
天正13年 閏8月26日  大日本史料  秀吉、京都の奉行前田玄以をして、諸公家・諸門跡の領知を質として、金穀を貸与せ
                 しものに対し、其の証券を棄破し、新規の貸借を禁ぜしむ
天正13年 9月1日   大日本史料  秀吉、脇坂安治・加藤茂勝・大島光義・加藤清正・水野勝成・猪子一時・同一日・
                舟越景直・伊東長実・早崎小伝次に、摂津に於て地を充行ふ

天正13年 9月2日   大日本史料  是より先、上杉景勝、千坂景親等を遣して秀吉を音問す、是日、秀吉之に答ふ
天正13年 9月3日   大日本史料  秀吉、羽柴秀長と共に大和郡山城に入る、
天正13年 9月4日   大日本史料  秀吉、大和多武峯の大織冠社を、同国郡山に移築せしめんとするに依り、敕使菊亭晴
                季、青蓮院尊朝法親王と共に、秀吉を郡山に訪ふ、秀吉、多武峯の 坊舎を郡山近辺に
                移さんがため、寺僧をして下山せしむ、明日、多武峯の衆徒多く逃散す、尋で、郡山の
                羽柴秀長、多武峯両門前をして、寺内のことを管せしむ

天正13年 9月4日   大日本史料  是より先、秀吉、美濃大垣城将加藤光泰を戒飭す、是日、近江勢田城将一柳末安を
                大垣に置き、美濃の蔵入領代官を兼ねしめ、又勢田城を羽柴秀勝小吉に与ふ

天正13年 9月6日  久万町誌  ○小早川隆景は河野通直の妻が毛利元就の孫娘であるから城中に手紙を送り降伏勧告した
               結果、全軍開城降伏

天正13年 9月5日  大日本史料  秀吉、大和郡山より大坂に帰る
天正13年 9月6日  大日本史料  秀吉、余田源太郎に河内交野郡森村の地を与ふ、
天正13年 9月8日  大日本史料  本願寺光佐顕如・光寿教如父子、秀吉を訪ふ、秀吉、之を饗す

天正13年 9月9日  心斎橋今昔年表  秀吉豊臣姓を賜る。紀州、四国、北陸を平定。
                大坂城の天守閣が完成(本丸の北東隅の天守は8層、最上階に回廊付展望台、屋根は
                 金箔張、各階に金・銀・生糸・緞子(ドンス)・茶器・刀・武道具部屋有り)。
                 まず、城下町開発として東横堀川を開削。
                 戦国時代からの城郭建築は、壕をめぐらし石垣を用いて高い土塁の上に天守閣を築
                 く形式の集大成が「大坂城(黒色)」で、史上最高規模の豪壮華麗さを誇りました

天正13年 9月10日  大日本史料  羽柴秀次、近江八幡に居城を築き、同国安土町を八幡山下の島郷に移す、是日、秀吉、
                秀次に作事の進捗を促す
天正13年 9月10日  大日本史料  秀吉、播磨妙光寺をして摂津に移らしむ、是日、妙光寺に播磨の寺領の替地として、
                摂津河辺郡の地を与ふ、

天正13年 9月12日  大日本史料  是より先、徳川家康をして延暦寺再興に奉加せしめ給ふ、是日、家康、之に奉答し、
                秀吉の下知状を添へられんことを請ふ
天正13年 9月12日  大日本史料  秀吉、近江長浜八幡社・小谷寺・舎那院・龍厳院をして其の所領を安堵せしむ
天正13年 9月13日  大日本史料  是より先、伊勢専修寺堯真をして、同寺住持職及び諸国の末寺門徒を安堵せしめ給ひ、
                秀吉も之に安堵状を与ふ、是日、勧修寺紹可尹豊、堀秀政に書を遺りて、越前の専修寺
                末寺をして、本寺の命に従はしむべきことを請ふ

天正13年 9月14日  大日本史料  秀吉、摂津有馬入湯の途次、本願寺を訪ふ、尋で、光佐顕如の入湯を音問せるに答ふ
天正13年 9月15日  大日本史料  秀吉の臣田中吉政、摂津多田院の寄進分を安堵せしむ
天正13年 9月16日  大日本史料  秀吉、有馬則頼に、播磨・河内の所領を安堵し、加増として播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 9月18日  大日本史料  秀吉、諸国の牛に役銭を課することを禁ず、
天正13年 9月23日  大日本史料  本願寺光佐顕如、摂津有馬の湯に入る、尋で、秀吉、有馬よりなせる光佐の音問に答ふ
天正13年 9月24日  大日本史料  是より先、小早川隆景、羽柴秀長に鷹を贈る、是日、秀長、之に答へ、隆景の、秀吉よ
                り伊予を与へられたるを喜ぶ【小早川家文書】

天正13年 9月27日  大日本史料  大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、
天正13年 9月28日  大日本史料  是より先、秀吉、日蓮宗の再興を許し、礼物を課す、是日、同宗諸寺代本満寺日順等、
                同宗の和泉堺の諸寺に、礼物調達の為の勧進を許す

天正13年 9月30日  大日本史料  羽柴秀次の臣田中吉政、秀吉の意を承けて、近江長命寺をして、其寺屋敷・山林等の
                裁判に就きて、異儀なからしむ
天正13年 10月1日  大日本史料  秀吉、上京す、
天正13年 10月1日  大日本史料  秀吉、松浦重政・一柳勘左衛門尉等をして、公用を支払はしむ
天正13年 10月2日  大日本史料  秀吉、勅を島津義久・大友義統に伝へ、互に和せんことを命ず
天正13年 10月4日  大日本史料  秀吉、京都裏築地町・立売町・西大路町に、軍勢の寄宿を免除す
天正13年 10月5日  大日本史料  秀吉、牛に役銭を課する咎に依り、左衛門権佐正五位下薄諸光をして生害せしむ

天正13年 10月6日  大日本史料  秀吉・羽柴秀長・同秀次・徳川秀康・宇喜多秀家・丹羽長重・長岡忠興等参内す、又、
                長岡玄旨幽斎を法印に叙し、片桐直盛直勝且元を東市正に稲葉典通を侍従に、
                森一重忠政を右近丞に、澤井雄重を修理亮に任ず
天正13年 10月6日  大日本史料  秀吉、山城大鳳寺領の検地を免除し、施薬院全宗をして、厳く年貢を徴収せしむ
天正13年 10月7日  大日本史料  御茶会、千宗易に利休居士の号を賜ふ、秀吉、御茶を献ず、
天正13年 10月15日  大日本史料  是より先、長宗我部元親、京都に入りて、秀吉に謁す、是日、帰途に就く、秀吉、
                今井宗久をして、之を和泉堺に送らしむ【宗国史】

天正13年 10月17日  大日本史料  秀吉、真田昌幸に書を遺りて、之を支援すべき意を伝ふ、尋で、石田三成、昌幸の臣
                矢澤綱頼に、疎略なかるべき旨を述ぶ
天正13年 10月18日  大日本史料  是ヨリ先、石見金子大和守ノ息刑部少輔、病ノ為メ死ス、是日、吉川元春、之ヲ悼ム
天正13年 10月20日  大日本史料  島津義久、羽柴秀長に書を遺りて、秀吉との間に斡旋せられんことを請ふ
天正13年 10月22日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正13年 10月23日  大日本史料  吉川元春、出雲浄音寺をして、同国鷺浦の代官職を安堵せしむ
天正13年 10月23日  大日本史料  秀吉、加藤嘉明をして、摂津尼崎・同国西宮より、石材を大坂に運送せしむ

天正13年 10月24日  大日本史料  是より先、島津義久、秀吉下向の風聞に接し、諸将より誓書を徴せんとす、是日、
                上井覚兼、誓書を認む
天正13年 10月28日  大日本史料  徳川家康、諸将と秀吉に質を送ることを議し、之を止む、又、北条氏直の老臣の家康
                に誓書を呈するに応へて、家康の将士も誓書を遺り、以て秀吉に備ふ
天正13年 10月    大日本史料  是より先、紀伊小松原の湯川直春、秀吉に従ふ、是頃、羽柴秀長の与力として
                大和に在り

天正13年 11月1日  山口県史整理年表  能島村上武吉、務司城・中途城を明渡し、屋代島の内来島分・芸州能美島江田島
                  今岡分を給わり、小早川隆景に臣事す 【閥閲録】
天正13年 11月1日  村上図書付録二  ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
                  能美島、江田島、今岡方を領す旨の隆景神文発給さる。
天正13年 11月1日  周防大島町誌  ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
                 能美島、江田島、今岡方を領す。
天正13年 11月1日  大日本史料   小早川隆景、伊予能島の村上武吉・同元吉父子に誓書を与へ、同国務司・中途両城を
                 放棄すべきことを命じ、且つ周防屋代島・安芸能美島等に相違なきことを約す、

天正13年 11月1日   萩藩閥閲録1-572   条敷
           村上図書        一、(伊予)務司・中途両城披相渡、御下城之事
                      一、最前御忠儀之辻、以一通申定事
                      一、(周防)屋代島之内、来嶋(通昌)知行分之事
                      一、(安芸)能美嶋并江田嶋之事
                     一、今岡分之事     以上
                       右御所勘之地少茂不可有相違候
                       日本国中大小神祇・八幡大菩薩・殊當国三嶋大明神・天満大自在天神
                       可罷蒙御罰者也、仍起請文如件

                   天正十三年十一月一日    小早川左衛門佐隆景 御判
                    村上掃部頭殿  同 大和守殿

天正13年 11月3日  大日本史料  秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に、美濃竹鼻附近の地を与ふ
天正13年 11月13日  大日本史料  徳川家康の重臣石川数正、三河岡崎より秀吉の許に奔る、尋で、家康、之を北条氏直
                に報じ、遠江浜松より三河吉田を経て、岡崎に入る
天正13年 11月16日  大日本史料  大友義統、秀吉の贈れる服を、筑後矢部の五条鎮定に与ふ
天正13年 11月16日  大日本史料  是より先、蜂須賀正勝・黒田孝高、伊予黒瀬の西園寺公広を通じて、大友府蘭宗麟を
                音問す、是日、府蘭の子同義統、公広の臣法花津右衛門佐に書を遺りて、之に答ふ

天正13年 11月18日  大日本史料  秀吉、徳川家康との事に依り、美濃大垣の一柳末安に命じて、東美濃の人質を放免す
                ることなからしめ、且つ兵糧米の備蓄に就き指示す、
天正13年 11月19日  大日本史料  秀吉、真田昌幸に、来春徳川家康を撃たんことを告げ、小笠原貞慶・木曾義昌と共
                に、信濃・甲斐の仕置を厳にせしむ

天正13年 11月20日  大日本史料  秀吉、来春三河に出陣せんとし、美濃大垣の一柳末安に命じて、兵備を整へしむ
天正13年 11月21日  大日本史料  秀吉、山城の検地を行ひ、是日、廷臣、寺社等をして、其の所領等を安堵せしむ
天正13年 11月28日  大日本史料  秀吉、徳川家康との和議に就きて、織田長益等を三河岡崎に遣す、
天正13年 11月29日  大日本史料  大地震、尋で、秀吉、大坂に帰る
天正13年 12月7日  大日本史料  秀吉、大友義統をして、毛利輝元と協力せしめ、且つ、島津義久征討の意を報ず
天正13年 12月10日  大日本史料  秀吉の養子丹波亀山の羽柴秀勝〈次〉没す
天正13年 12月13日  大日本史料  島津義久、千宗易に書を遣り、秀吉との間を斡旋せられんことを請ふ、又、毛利輝元
                に使者を送り、大友義統との対戦に備へんとす

天正13年 12月18日  村上図書付録二  ○天正13年11月1日の神文とほぼ同一内容の輝元公の判物、武吉に発給さる。
天正13年 12月18日  村上図書付録二  ○来島の旧領、屋代島と江田島を与える旨の輝元公の判物発給さる。。
天正13年 12月21日  大日本史料   小早川隆景・吉川元長等、大坂に至りて、秀吉に謁し、物を進む
天正13年 12月27日  大日本史料  秀吉、本願寺に遊ぶ
天正13年     伊予中世年表  ○河野通直、湯築城を開いて降伏する。西園寺氏滅亡。
天正13年      大島町郷土会  ○このころ伊予の河野崩により大島郡に逃れくるもの多し。【東屋代など】
天正13年      赤穂市資料   豊臣秀吉は子飼いの大名5人を五奉行に任命する

西暦1586年
天正14年 1月6日  大日本史料  秀吉、加藤清正に播磨飾東郡の地三百石を加増す
天正14年 1月8日  大日本史料  長宗我部元親、大坂に到り、歳首を秀吉に賀す、是日、下国す
               【顕如上人貝塚御座所日記】
天正14年 1月11日  大日本史料  秀吉、勅旨に依り、島津義久に大友、龍造寺の両氏と和せんことを命ず、是日、義久、
                書を長岡玄旨(幽齋)に遺り、命に従ひ難き旨を答ふ
天正14年 1月12日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 1月13日  大日本史料  秀吉、石川木工兵衛等をして、近江長浜城の天守を壊さしむ

天正14年 1月14日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀す
天正14年 1月15日  大日本史料  秀吉、黄金造の茶室を叡覧に供し、茶湯を献ず、
天正14年 1月18日  大日本史料  秀吉、徳川家康の将石川数正に和泉を宛行ふ
天正14年 1月20日  大日本史料  秀吉、近江坂本に之く
天正14年 1月23日  大日本史料  是より先、秀吉、大坂城を修築す、是日、一柳末安に命じて、鋤、鍬、持籠等を
                調達せしむ

天正14年 1月24日  大日本史料  秀吉、伊勢山田の三方をして、同国長屋、高向両郷を安堵せしむ
天正14年 1月27日  大日本史料  織田信雄、秀吉と徳川家康との和議に就きて、家康と三河岡崎に会す
天正14年 1月28日  大日本史料  秀吉、近江大津に連歌を興行す、
天正14年 2月8日   大日本史料  秀吉と徳川家康との和議成る、是日、秀吉、之を一柳末安に報ず
天正14年 2月21日  大日本史料  秀吉、上京す、尋で、諸将に課して、京都内野の亭を造築す、
天正14年 2月23日  大日本史料  秀吉、加藤嘉明に大坂城修築の石材運搬に関する條規を頒つ

天正14年 2月  心斎橋今昔年表  大坂築城の石運びの掟を決める
天正14年 2月23日  大日本史料  小早川隆景、龍造寺政家に答書し、速に使者を遣し、秀吉に聘礼せんことを勧む
天正14年 2月25日  大日本史料  秀吉、新造の仙洞御所を拝観す
天正14年 2月28日  大日本史料  是より先、秀吉、参内して、桜花を拝観す、是日、御製を桜枝に付して、秀吉に賜ふ、
                仍りて、秀吉、御返歌を上る、翌日、誠仁親王、和仁王等、秀吉に御歌を賜ふ

天正14年 2月28日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く
天正14年 2/30    大日本史料  秀吉、大坂に帰る(御湯殿上日記)  * 日付が変?
天正14年 3月3日  大日本史料  是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、
          之を捕へ自殺せしむ
天正14年 3月4日  大日本史料  秀吉、入京す、尋で、大坂に帰る

天正14年 3月5日  萩藩閥閲録小早川書状  隆景は乃美兵部丞宗勝に命じ湯築・大津・せり・本尊・興居島・賀嶋(鹿
                    島)・来嶋・小湊(米湊)・櫛辺・壬生川の10城のみを残させる。

天正14年 3月11日  大日本史料  秀吉の将石田三成、下野宇都宮の宇都宮国綱をして、上杉景勝の入京を督促せしむ
天正14年 3月19日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 3月20日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、織田信包及び前田利家を堂上に列するを聴許あらせらる
天正14年 3月21日  大日本史料  秀吉、検地等に就きての條規を定む
天正14年 3月27日  大日本史料  秀吉、片桐真盛等に地を宛行ふ
天正14年 3月29日  大日本史料  秀吉、京都を経て丹波亀山に赴く、翌日、帰京す、
天正14年 4月1日  大日本史料  秀吉、山城西岡の地を長岡玄旨(幽齋)に宛行ふ、

天正14年 4月1日  大日本史料  秀吉、京都より大坂に帰る、途に、大仏殿建立の地を東福寺近傍に相す
天正14年 4月5日  大日本史料  大友宗滴(宗麟、)大坂に抵りて、秀吉に謁し、島津氏の豊後侵入の事を訴へ、之を伐
               たんことを請ふ、秀吉、之を諾し、宗滴を大坂城内に饗す

天正14年 4月10日  大日本史料  秀吉、九州の諸将の国境を定め、之に違背する者を撃たんとし、吉川元春等をして、
                毛利輝元に諮り、諸城の守備を厳にせしめ、諸氏の人質を黒田孝高に渡さしむ
天正14年 4月10日  山口県史整理年表  秀吉、輝元をして大仏殿材木を調進せしむ。ついで輝元吉見正頼にこれを
                   調えしむ 【毛利家文書】
天正14年 4月12日  大日本史料  秀吉、入京す、
天正14年 4月22日  大日本史料  秀吉、大仏殿を山城東山に創建せんとし、其材を諸国に課す、是日、藤堂高虎等に
                之を徴す

天正14年 4月22日  大日本史料  是より先、秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしめんことを約す、是日、伊藤秀
                盛に、人夫、伝馬のこと等を命ず、翌日、家康、本多忠勝を遣して、納采せしむ
天正14年 5月10日  大日本史料  秀吉、上京す
天正14年 5月14日  大日本史料  秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしむ
天正14年 5月14日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)春日社に参詣す、尋で、高野山に詣づ

天正14年 5月20日  大日本史料  秀吉、近江大津より入京す
天正14年 5月23日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正14年 6月1日  山口県史整理年表  輝元、諸関・渡舟・人沙汰に関する法度を出す 【毛利氏四代実録】
天正14年 6月3日  大日本史料  秀吉、権大納言勧修寺晴豊、同中山親綱をして、御譲位の時期に就きて上奏せしむ
天正14年 6月8日  大日本史料  秀吉、質子を筒井定次に還す、
天正14年 6月8日  大日本史料  秀吉、大坂城中に茶会を催す
天正14年 6月14日  大日本史料  上杉景勝、大坂に抵り、秀吉に謁す
天正14年 6月20日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 6月21日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、上杉景勝を左近衛権少将に任じ、従四位下に叙す、翌日、景勝等、
                参内す

天正14年 6月25日  大日本史料  秀吉の母大政所(天瑞院、)大和郡山城に疾む
天正14年 6月26日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く、
天正14年 6月  総合地方史年表  ○木曽川洪水(加賀野井千町切)で河道変じて濃美の新境界を附す。

天正14年 7月(グ歴)  フロイス日本紀 

      ○堺を出発したフロイスは播磨国室津を経て芸予諸島に近付いた。
    「(やがて)我等(一行)はある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を
      構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず(獲物)を襲っていた。この海賊は能島殿と
      云い強大な(勢)力を有していたので他国の沿岸や 海辺の(住民達)は(能島殿)によって破壊されること
      を怖れ彼に毎年貢物を献上していた。日本中で最高の海賊としてその座を争ってきたのは、ただ二人だけで、
      彼等の館は何年も前から存続し、彼等は強大な主として公任されそのように扱われ奉仕されてきた。
      その一人は今述べた能島殿であり、他の一人は来島殿と称する。」

天正14年 7月1日   大洲大野系譜  □大野直好 近江守 尾首城主、荏原東町城主、後土居城に移り土井城で戦死。
                  67歳、号千壽院殿背江州刺史直翁了元大居士

天正14年 7月5日  大日本史料  秀吉、京都内野の亭の普請を督し、尋で、大坂に帰る
天正14年 7月12日  山口県史整理年表  豊前・筑前の辺動乱起る。輝元、椙杜少輔四郎に出陣を命ず 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月15日  山口県史整理年表  輝元、九州征伐のため、防長の家人内藤・市川等を赤間関に出陣せしむ
                  【毛利氏四代実録】
天正14年 7月17日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 7月17日  大日本史料  徳川家康、信濃上田の真田昌幸を撃たんとして、駿府に陣す、尋で、秀吉の斡旋に
                依り、之を中止し、遠江浜松に還る

天正14年 7月20日  大日本史料  筑前高祖の原田信種、毛利輝元に、秀吉への執成を依頼す、是日、輝元、之を諾す
天正14年 7月21日  山口県史整理年表  輝元・隆景、島津征伐のため冷泉元豊を赤間関へ下す 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月22日  大日本史料  秀吉、春日社に参詣し、尋で、入京す、羽柴秀長も亦、入京す
天正14年 7月26日  大日本史料  秀吉、参内す

天正14年 7月29日  大日本史料  是より先、秀吉、島津義久を討たんとし、黒田孝高をして、毛利輝元等の兵を督して、
                先発せしむ、是日、孝高の使者、小早川隆景の許に著す
天正14年 8月3日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く
天正14年 8月3日  山口県史整理年表  秀吉、元春を赤間関・門司要害へ下し堅固に守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月3日  大日本史料  秀吉、書を大友宗滴(宗麟、)同義統(吉統)父子及び立花統虎等に遺り、黒田孝高、
               宮木豊盛等をして、豊前に出陣せしむる旨を告げ、其守備を厳にせしむ
天正14年 8月6日  大日本史料  秀吉、近江大津より入京す

天正14年 8月11日  山口県史整理年表  輝元・隆景、仁保隆尉・冷泉元豊等をして門司城を守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月14日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る、
天正14年 8月15日  大日本史料  秀吉、肥前松浦鎮信に、毛利輝元等の豊後出陣を報じ、其到るを待たしむ、又亀井真矩
               (茲矩)をして、出兵の準備を為さしむ

天正14年 8月16日  大日本史料  是より先、秀吉、黒田孝高等をして、毛利氏の軍を督して、豊前に赴かしむ、是日、
                毛利輝元、吉川元春、小早川隆景等、出陣す
天正14年 8月18日  大日本史料  本願寺御影堂、竣工す、是日、秀吉、之に参詣す
天正14年 8月28日  大日本史料  是より先、千石秀久、秀吉の命に依り、長宗我部元親を督して、豊後に出陣し、沖浜に
                到る、是日、志賀道擇(親益、)之を島津義久の将上井覚兼に報ず【塩飽島文書】
天正14年 9月1日  山口県史整理年表  輝元、九州征伐につき諸浦渡船の法度を出す 【毛利氏四代実録】

天正14年 9月3日  山口県史整理年表  輝元赤間関より大阪へ注進のため、児玉就方をして大畠・遠崎・楊井にて継舟を
                  堅固に準備せしむ 【毛利氏四代実録】

天正14年 9月8日  山口県史整理年表  輝元九州征伐のために発向し、この日防府に着し、九日赤間関に着す
                  【毛利氏四代実録】
天正14年 9月11日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 9月22日  山口県史整理年表  元春、長門一宮に着陣し、二十三日赤間関に着す 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月26日  大日本史料  秀吉及び織田信雄、使を遣し大政所(天瑞院)を質と為さんことを約して、
                徳川家康に上京を勧む、乃ち、家康、之に従ふ
天正14年 9月27日  大日本史料  島津義久、秀吉に、肥筑に出陣するに依り、九州諸将の領堺決定の命に答へ難きことを
                述ぶ

天正14年 9月30日  大日本史料  秀吉、小早川隆景をして、安国寺恵瓊等と諮り、豊前攻略を議せしむ、
天正14年 10月   大分県の歴史  島津軍が豊後に侵入する。
天正14年 10月3日  大日本史料  秀吉、立花統虎及び五條鎮定に千石秀久、長宗我部元親、毛利輝元等の出陣を告げ、
                之を激励す【立花家蔵感状記】

天正14年 10月3日  大日本史料  秀吉、黒田孝高等に答書し、其労を犒ひ、且毛利輝元を督して、速に軍を進めしむ
天正14年 10月3日  大日本史料  大友義統(吉統)、千石秀久、長宗我部元親と議り、豊後府内を発し、豊前宇佐郡に
                出陣す【北里文書】
天正14年 10月4日  大日本史料  毛利輝元、吉川元春、小早川隆景及び黒田孝高と共に、高橋元種の属城豊前小倉を攻め
                て之を陥る、元種も亦降る
天正14年 10月4日  大日本史料  是より先、龍造寺政家、秀吉に質子を納れ、島津氏と絶ち、鍋島信生(直茂)と共に
           筑後に入り、三池鎮實の邑を火き、進みて肥後の諸将を降す、是日、秀吉、政家、信生の功を褒す
天正14年 10月6日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る

天正14年 10月10日  大日本史料  是より先、豊前馬岳の長野助盛、同国時枝の時枝平大夫、同国宇佐の宮成吉右衛門、
                黒田考高等に降る、是日、秀吉、考高等をして、助盛等に島津氏の情勢を尋ねしめ、
                又龍造寺政家と大友宗滴(宗麟)父子との和融を斡旋し、宗滴父子、長宗我部元親、
                千石秀久と議り、諸城を攻略せしむ、又毛利輝元の労を犒す【児玉韞採集文書】

天正14年 10月13日  大日本史料  秀吉、讃岐の蔵入分代官生駒近規をして、其年貢を蓄へしめ、以て九州出陣の
                兵糧に充つ
天正14年 10月14日  大日本史料  秀吉、其生母大政所(天瑞院)祈願所河内観心寺に、旧に依り、同寺領内の竹木、
                柴草の採取を許す
天正14年 10月18日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)徳川家康に質として、三河岡崎城に到る
天正14年 10月18日  大日本史料  秀吉、肥前の松浦鎮信をして、速に人質を出し、出陣せしむ
天正14年 10月26日  大日本史料  徳川家康、三河岡崎を発して入京す、是日、大坂に到り、羽柴秀長の亭に宿す、
                秀吉、之を訪ふ
天正14年 10月27日  大日本史料  徳川家康、大坂城に秀吉に謁す
天正14年 10月  心斎橋今昔年表  家康が秀吉の巨従となる

天正14年 11月1日  大日本史料  徳川家康、京都に入る、尋で、秀吉、家康の亭を内野に造営せしむ
天正14年 11月2日  大日本史料  秀吉、加藤嘉明に淡路三原郡の地を宛行ふ、
天正14年 11月3日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 11月11日  大日本史料  秀吉、森吉成を検使として、吉川元春及び小早川隆景の筑前の陣所に遣す
天正14年 11月7日  大日本史料  黒田孝高、小早川隆景及び吉川氏の諸将と共に豊前宇留津城を攻めて、之を陥る
天正14年 11月12日  大日本史料  徳川家康、井伊直政をして、秀吉の母大政所(天瑞院)を護り、大坂に赴かしむ
天正14年 11月13日  大日本史料  是より先、大友義統(吉統)の、千石秀久及び長宗我部元親と共に筑後に出陣するに
                乗じ、大友氏に背く者、豊後に蜂起す、義統等、兵を班す、
天正14年 11月13日  大日本史料  是日、秀吉、小早川隆景等に、この事情を報じ、備前、阿波、淡路の援兵を遣すべき
                こと告げ、諸軍を督せしむ【黒田文書】

天正14年 11月15日  大日本史料  秀吉、近江大津に之き、尋で、入京す、
天正14年 11月15日  大日本史料  小早川隆景、黒田孝高等、高橋元種の属城筑前障子岳を攻略し、同国香春嶽城を囲む
天正14年 11月15日  山口県史整理年表  吉川元春、豊前小倉の陣中にて死す。五七 【毛利氏四代実録】
天正14年 11月18日  大日本史料  足利義昭、使を島津義久の臣喜入季久に遣し、毛利氏の軍の豊前に侵入するを告げ、
                義久に秀吉と講和せんことを勧めしむ

天正14年 11月20日  大日本史料  是より先、秀吉、吉川元春、同元長父子の意見を容れ、出陣を来春に延期す、又
                蜂須賀家政、脇坂安治、加藤嘉明をして、豊後に赴援せしむ、
               是日、之を元春父子等に報ず、尋で、龍造寺政家にも亦、之を報ず
天正14年 11月23日  大日本史料  秀吉、千石秀久をして、糧食及び加勢を豊後臼杵城に輸せしめ、又同国府内の守備を
                厳にし、濫りに兵を動かすことなからしむ

天正14年 11月23日  大日本史料  秀吉、大徳寺及び知恩院に地を寄進す
天正14年 11月29日  大日本史料  秀吉、大坂城に帰る
天正14年 12月1日  大日本史料  秀吉、明春三月を期して、島津氏を親征せんとし、諸国の兵を徴す
天正14年 12月3日  大日本史料  秀吉、松浦鎮信をして、松浦党の兵船を率ヰ、薩摩灘を警固せしむ
天正14年 12月4日  大日本史料  足利義昭、一色昭秀を島津家久に遣し、同義久を諭して、秀吉と和睦せしむ

天正14年 12月11日  大日本史料  是より先、黒田孝高、吉川元長、同経言及び小早川隆景と共に、島津氏の将高橋元種
                を筑前香春嶽城に囲みて、之を降す、是日、元長等、之を秀吉に報ず、
天正14年 12月13日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 12月15日  大日本史料  大友義統(吉統、)豊後府内より同国高崎城に逃れ、是日、豊前龍王城に移る、
                尋で、黒田孝高、小早川隆景、吉川元長に来援を請ふ、

天正14年 12月19日  大日本史料  関白羽柴秀吉を太政大臣に任じ、豊臣の姓を賜ふ【公卿補任】
天正14年 12月19日  心斎橋今昔年表  豊臣秀吉太政大臣となる
天正14年 12月20日  大日本史料  是より先、小早川隆景等、原田信種を筑前高祖城に攻めて、之を降す、是日、秀吉、
                毛利輝元、吉川元長及び隆景等の戦功を褒す
天正14年 12月22日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る、

天正14年 12月24日  大日本史料  是より先、秀吉、千石秀久の敗戦を怒り、讃岐の地を没収し、之を尾藤光房に与ふ、
                是日、之を毛利輝元、龍造寺政家に報じ、軽挙盲動を戒しむ、尋で、黒田孝高等にも
                亦、之を報ず
天正14年 12月27日  大日本史料  秀吉、本願寺光寿(教如)の茶会に臨む
天正14年 12月30日  大日本史料  秀吉、黒田孝高等をして、豊前妙見、龍王両城の守備を固くせしめ、恣に
                出兵するを禁ず

天正14年     河野氏の歴史  ○キリシタン宣教師「道後の市」に来る。

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1583年~1584年)

2023年01月08日 11時07分35秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1583年
天正11年 1月1日  大日本史料  羽柴秀吉、京都を発し、播磨姫路に之く、姫路の諸士、歳首を秀吉に賀す
天正11年 1月13日  大日本史料  長宗我部元親、其将久武親信、桑名太郎左衛門等を遣して、伊予北川城主北川親安を
                 其城に攻めしむ、親安、戦死し、城陥る【元親一代記】

天正11年 1月15日   大野家聞書   ○大野内蔵介 立石尾首城にて誕生する。
天正11年 1月17日  大野家譜上田本  ○大野直昌の男、直常大除に誕生する、母宇都宮豊綱の女章子、
                   実は一条内政の胤なり。
天正11年 1月17日  大野家譜讃岐屋本 ○大野直昌の男、熊王丸(直常)大除に誕生する、母宇都宮元教女、
                    実は一条内政の胤なり。

天正11年 1月17日  大日本史料  小早川隆景、物を羽柴秀吉に贈り、歳首を賀す、秀吉、之に答へて、同じく歳首を賀
                 す、併せて柴田勝家と姑く和すること及び北畠信雄の、 近く安土に入りて、故織田
                 信長の後を襲はんとする由を報ず
天正11年 1月  大日本史料   伊勢亀山城主関盛信、同一政父子、羽柴秀吉に見えんとして、京都に之く、家臣岩間
           八左衛門等、叛きて瀧川一益に属す、一益、乃ち其臣佐治新介をして、入りて亀山城を守らしむ
天正11年 閏1月4日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨姫路より、丹波亀山に抵る、
天正11年 閏1月4日  大日本史料  北畠信雄、近江安土に之き、織田秀信に代りて事を見る、羽柴秀吉等、安土に
                  抵りて、歳首を秀信、信雄に賀す
天正11年 閏1月12日  大日本史料  美濃神路城主遠藤胤基及び八幡城主遠藤慶隆、神戸信孝の為に、須原、洞戸両
           城を抜く、信孝、之を褒す、羽柴秀吉、兼山城主森長可等をして、胤基等を攻めしむ、和を講ず

天正11年 閏1月15日  大日本史料  羽柴秀吉、近江安土より、京都に入る
天正11年 閏1月17日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、美濃小里を侵す、神戸信孝、小里邑主小里光明の戦功を褒す
天正11年 閏1月23日  大日本史料  羽柴秀吉、京都より山崎に帰る
天正11年 閏1月25日  大日本史料  本願寺光佐、物を羽柴秀吉、北畠信雄、惟住長秀等に贈り、歳首を賀す
天正11年 閏1月25日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀、本願寺に、堺の同寺屋敷及び其坊領を返付す
天正11年 閏1月27日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨長壁社の遷座を行はんとし、其臣杉原家次をして、吉田兼和兼
                   見に請うて、鎮札を調へしむ
天正11年 閏1月28日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃円徳寺の諸役を免ず、
天正11年 閏1月28日  大日本史料  羽柴秀吉に命じ、青蓮院尊朝法親王をして、所領を安堵せしめ給ふ、秀吉、
                   命を奉ず

天正11年 閏1月    大日本史料   長宗我部元親、好を神戸信孝に通ず、信孝の臣玉井彦介、書を元親の弟香宗我
                   部親泰に遺りて、之に答ふ【香宗我部家証文】
天正11年 2月7日    大日本史料   上杉景勝、誓書を北畠信雄、羽柴秀吉に遺りて、好を通ず、秀吉も亦、誓書を
                   景勝に与へて、疎意なきを答ふ
天正11年 2月9日    大日本史料   羽柴秀吉、兵を近江に会す、長浜城主柴田勝豊の質を徴し、勝豊をして、惟住
                   長秀と共に柴田勝家に備へしむ、自ら将として伊勢に入り、瀧川一益を攻めんと
                   す、之を宇喜多秀家に報ず
天正11年 2月12日    大日本史料  羽柴秀吉の養子次、秀勝、丹波亀山に病む、秀吉、神祇大副吉田兼和をして、之
                   が平癒を祈らしむ、兼和、祈祷を始む

天正11年 2月13日  山口県史整理年表  足利義昭京都に復帰せんとす。輝元、柴田勝家・徳川家康に助力を求む。この
                    日勝家これに賛し、ついで家康も承認す 【吉川家文書・家譜】
天正11年 2月16日    大日本史料   羽柴秀吉、兵を率ゐて、伊勢に入り、峰、桑名等の諸城を攻む、自ら瀧川一益
                    の将佐治新介を亀山城に囲む
天正11年 2月27日  大日本史料  惟住長秀、若狭佐柿に在り、羽柴秀吉の情報を得、之に答へて、越前口の状況を報ず
天正11年 3月3日  大日本史料   神戸信孝、柴田勝家の江北出兵を長宗我部元親に報ず【土佐国蠹簡集】
天正11年 3月2日  大日本史料   伊勢亀山城攻囲の中に在り、守将佐治新介、城を羽柴秀吉の兵に致して、長島に退
              く、秀吉、北畠信雄を亀山に迎へ、蒲生賦秀氏郷等をして、益峰城以下の諸城を攻めしむ
天正11年 3月4日  大日本史料   柴田勝家、足利義昭を擁し、毛利輝元の援を得て、羽柴秀吉を夾撃せんと謀る、書
                 を義昭の老臣真木島昭光に遺り、義昭に勧めて、輝元の兵を促さしむ

天正11年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、近江佐和山城に入る
天正11年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、其将蜂須賀正勝、黒田孝高等に答へて、近畿の状況を報じ、併せて其
                 行動を指示す
天正11年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、三好秀次、中川清秀等をして、美濃口に陣せしむ
天正11年 3月11日  大日本史料  高野山の僧勢雄、柴田勝家の江北出兵を長宗我部元親に報じ、其兵を動さんこと
                 を望む【香宗我部家伝証文】
天正11年 3月15日  大日本史料  羽柴秀吉、近江称名寺をして、柳瀬に於ける柴田勢の情況を窺はしむ、予め其敗軍を
                 察し、山中に逃匿せる土民に賞を懸けて、其後を追はしめんとす
天正11年 3月17日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢に在り、柴田勝家、近江に出づと聞き、直に軍を長浜に班し、進んで
             柳瀬に対陣す、之を上杉景勝に報じ、景勝をして、兵を越中に出し、以て勝家の後を撃たしむ

天正11年 3月18日  大日本史料  堀秀政、其先鋒多賀秀種に書を与へて、陣取以下のことを命じ、併せて、秀吉出陣の
                 日時を報ず
天正11年 3月19日  大日本史料  長宗我部元親、同信親父子、一宮民部少輔に、土佐安芸郡の地を与ふ【武州文書】
天正11年 3月21日  大日本史料  近江長浜城主柴田勝豊病む、羽柴秀吉、山城本法寺に、勝豊の上京を報じて、宿舎以
                 下のことを命じ、法眼曲直瀬正慶にも亦之を報じて、其治療に当らしむ、勝豊歿す
天正11年 3月27日  大日本史料  羽柴秀吉、近江北郡に於ける諸将の配置を改め、柴田勝家に対し、陣を堅くす、長浜
                 に帰り、之を徳川家康に報ず
天正11年 3月27日  大日本史料  羽柴秀吉、長岡忠興をして、越前を衝かしむ
天正11年 3月27日  大日本史料  羽柴秀吉、近江森本の舞々大夫及び陰陽大夫の夫役を免除す

天正11年 3月29日  大日本史料  越中蛇尾城主斎藤信利、同国弓荘城主土肥政繁の老臣栃尾縫殿及び有澤図書助に、書
                 を遺りて、上方の形勢を報じ、羽柴秀吉に応じて、兵を出さんことを勧む
天正11年 春    大日本史料   羽柴秀吉、仙石秀久をして、淡路に帰り、長宗我部元親に備へしむ【秀吉事記】
天正11年 4月  心斎橋今昔年表   賤ヶ岳の合戦にて柴田勝家を破る
天正11年 4月3日  大日本史料  羽柴秀吉、斎藤刑部丞に命じて、越中瑞泉寺、安養寺等の一向宗徒をして、
                  一揆を起さしむ
天正11年 4月4日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本城守将杉原家次に、北郡の形勢を報じ、後報を待ち、兵を率ゐて
                 来会せしむ
天正11年 4月5日  大日本史料  柴田勝家、自ら出でゝ、左禰山の砦に迫る、堀秀政、撃ちて卻け、之を羽柴秀吉に報
                ず、織田秀信の臣千福遠江守にも亦之を報じ、併せて、其疾を問ふ

天正11年 4月6日  大日本史料  足利義昭、書を毛利輝元、吉川元春等に遺り、羽柴秀吉、柴田勝家対陣の好機を逸せ
                ず、兵を上方に出し、足利氏の再挙に力を致さんことを依頼す
天正11年 4月6日  山口県史整理年表  義昭書を輝元・元春に遣り、勝家・秀吉退陣の好機に乗じ、兵を出して足利氏
                   再興に力を致さしむ 【徳山名勝】
天正11年 4月8日  大日本史料  羽柴秀吉、本願寺光佐顕如の老臣下間頼廉に答へ、頼廉等の加賀に一揆を起し、以て
                 柴田勝家の兵を牽制せば、本願寺をして、同国を領知せしむべきことを告ぐ
天正11年 4月12日  大日本史料  毛利輝元、小早川隆景、書を羽柴秀吉に遺りて、其軍状を問ふ、秀吉、近江柳瀬に在
                 り、輝元、隆景に答へて、伊勢、近江の戦況を報ず、
天正11年 4月13日  大日本史料  近江長浜城主柴田勝豊の将山路正国、堂木山に在り、密に柴田勝家に通ず、事露れ
                 て、勝家の陣に走る、羽柴秀吉、正国の質を捕へて、之を磔す

天正11年 4月16日  大日本史料  神戸信孝、美濃岐阜城に拠りて兵を挙げ、清水城主稲葉一鉄、大垣城主氏家直通等の
                 邑に放火す、羽柴秀吉之を聞き、信孝を攻めんとして、大垣城に入る
天正11年 4月20日  大日本史料  柴田勝家、毛利輝元をして、共に羽柴秀吉を撃たしめんとす、輝元、其将吉川元春、
                 小早川隆景等に去就を諮る
天正11年 4月20日  大日本史料  柴田勝家の将佐久間盛政、羽柴秀吉の将中川清秀を近江大岩山に襲ふ、清秀、奮戦し
                 て之に死す
天正11年 4月20日  大日本史料  羽柴秀吉美濃大垣に在り、中川清秀戦死の報に接し、急遽軍を近江木本に班し、
                 戦機を窺ふ

天正11年 4月21日  大日本史料  羽柴秀吉、柴田勝家の将佐久間盛政を、近江賤岳に撃ちて、大に之を破り、以て勝家
                 の牙営に迫る、勝家支ふる能はず、逃れて越前北荘に走る
天正11年 4月21日  大日本史料  長宗我部元親、兵を率ゐて讃岐に入る、羽柴秀吉の将仙石秀久と、引田に戦ふ、
                 之を走す【元親一代記】
天正11年 4月    大日本史料  長宗我部元親の弟香宗我部親泰、阿波木津城を攻めて之を抜く、又淡路の洲本城を奪
                 ふ、淡路の兵起り、洲本城を復す【香宗我部家伝証文】
天正11年 4月22日  大日本史料  羽柴秀吉、進んで越前府中に抵る、府中城主前田利家、城を致して降る、秀吉乃ち
                 利家を先鋒として、北荘に向ふ、柴田勝家の老臣徳山秀現、不破河内守等も亦降る
天正11年 4月22日  大日本史料  徳川家康、書を羽柴秀吉に遺りて、北近江の戦況を問ふ
天正11年 4月23日  大日本史料  羽柴秀吉、進んで柴田勝家を越前北荘城に囲む、勝家、事既に休するを知り、是夜、
                 其室織田氏等と、城中に訣別の宴を張る

天正11年 4月24日  大日本史料  羽柴秀吉、越前安居大渡船頭の諸役を免除す
天正11年 4月25日  大日本史料  羽柴秀吉、進んで加賀に入る、北陸の諸将風を望んで降る、秀吉、乃ち前田利家に
                 石川、河北二郡を与へて、金沢に治せしむ
天正11年 4月25日  大日本史料  羽柴秀吉、宇喜多秀家に書を遺りて、柴田勝家の敗死と、北陸の平定とを報ず
天正11年 4月26日  大日本史料  羽柴秀吉、越前誠照寺及び其末寺の僧侶をして、還往して寺務を行はしむ
天正11年 4月26日  大日本史料  毛利輝元、小早川隆景、使を羽柴秀吉に遣して物を贈る、秀吉、隆景に答へて、
                 北国平定を報ず、輝元にも亦之を告ぐ

天正11年 4月27日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀の功を賞し、越前及び加賀の内能美、江沼二郡を与へて、
                 越前北荘城に治せしむ
天正11年 4月28日  大日本史料  羽柴秀吉、書を佐々成政に与へて、上杉景勝との交渉に任ぜしむ
天正11年 4月29日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に、柴田勝家の敗死を報じ、其誓約に従つて兵を出さゞりしを
                 詰る
天正11年 5月1日  大日本史料  羽柴秀吉、山城賀茂社惣中に、其祈祷巻数を贈れるを謝し、併せて、北国悉く
                平定せるを告ぐ
天正11年 5月2日  大日本史料  羽柴秀吉、越前北荘に帰り、安井定次に答へて、其陣中見舞を謝し、北国の
                 平定を報ず、
天正11年 5月2日  大日本史料  畠信雄、美濃に入り、神戸信孝を岐阜城に囲む、羽柴秀吉、柴田勝家を滅すや、信雄
           と謀り、信孝をして、尾張内海に移らしめ、使を遣して、其死を促す、信孝、大御堂寺に自刄す

天正11年 5月2日  大日本史料  下野宇都宮城主宇都宮国綱、上杉景勝に答へて、景勝の越中攻略及び羽柴秀吉との
                和親を賀す
天正11年 5月5日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜に帰り、属将因幡鳥取城主宮部継潤に答へて、近く播磨姫路に
                還らんとするを告ぐ
天正11年 5月6日  大日本史料  羽柴秀吉、備前本徳寺に書を与へて、其物を贈れるを謝し、北国表平定と、長浜帰陣
                とを報ず
天正11年 5月7日  大日本史料  神祇大副吉田兼和を遣して、羽柴秀吉に戦勝を賀せしめ給ふ、兼和、近江長浜城に
                秀吉を見て、叡旨を伝達す
天正11年 5月7日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜を発して、安土に入る
天正11年 5月7日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃今尾城主高木貞久の子貞利に書を与へて、鶴を贈れるを謝し、
                北国の平定を報ず

天正11年 5月7日  小早川文書  ○秀吉の家臣黒田官兵衛孝高は来島のため、毛利の軍僧安国寺恵瓊に書簡を送り「来島
                表の御人数片時も、急ぎ御取引をなさるべき候」と圧力を加える。
天正11年 5月7日  大日本史料  羽柴秀吉の将黒田孝高、書を安国寺恵瓊瑤甫に遺りて、北国の平定を告げ、毛利輝元
                をして、其兵を伊予来嶋より撤退せしめんことを促す
天正11年 5月8日  大日本史料  羽柴秀吉の臣木下祐久、助休、小早川隆景に書を遺りて、北国の平定を告げ、
                高松媾和の実行を促す
天正11年 5月8日  大日本史料  高野山の僧快春、長宗我部元親の弟香宗我部親泰に答へて、畿内の形勢を報ず
                【香宗我部家伝証文】
天正11年 5月11日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本城に入り、軍を休む
天正11年 5月12日  大日本史料  柴田勝家の子権六及び将佐久間盛政捕へらる、羽柴秀吉、其臣浅野長吉に命じて、
          権六を近江佐和山に斬らしむ、又盛政を山城槇島に斬らしむ、二人の首を京都六条河原に梟せしむ

天正11年 5月13日  大日本史料  羽柴秀吉、其将仙石秀久に答へて、近江坂本に帰れるを報じ、併せて、近く長宗我部
               元親を撃たんとするを告げ、備前、播磨の艦船を督せしむ【伊予国新宮田辺氏蔵古文書】
天正11年 5月15日  大日本史料  羽柴秀吉、小早川隆景に答へて、畿内北国の形勢を報じ、毛利輝元をして、
                 益旧盟を修めしむ
天正11年 5月16日  大日本史料  神祇大副吉田兼和、祓を羽柴秀吉の養子次秀勝に贈る
天正11年 5月16日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津高槻城主高山重友の柴田勝家に通ずるを聞き、兵を遣して、其城を攻
                 む、山城勢多城主山岡景隆も亦勝家に通ずるを以て、城を棄てゝ逃れ去る
天正11年 5月18日  大日本史料  羽柴秀吉、磯谷彦四郎をして、山城山中に還住せしむ、彦四郎を奉行として、
                 山中の道路を修めしむ
天正11年 5月19日  大日本史料  吉川元春、使を羽柴秀吉に遣し、物を贈りて戦勝を賀す、秀吉、之に答ふ
天正11年 5月20日  大日本史料  羽柴秀吉、石井明石与次兵衛尉に書を与へて、近く大坂に到るべきを報じ、其艦船を
                 大坂に集めしむ

天正11年 5月20日  大日本史料  大和高取城主越智家秀、高野山西門院某の関東より帰山せるを祝し、之に羽柴秀吉と
                 和せんことを勧む
天正11年 5月21日  大日本史料  織田信雄、前田玄以を京都の奉行と為し、大事は特に羽柴秀吉の旨を受けしむ
天正11年 5月21日  大日本史料  徳川家康、老臣石川数正を遣して、羽柴秀吉に物を贈り、戦勝を賀す
天正11年 5月24日  大日本史料  興福寺別当大乗院尋憲、使を遣して、羽柴秀吉に祈祷巻数を贈る、秀吉に戦勝を
                 賀せんとして、奈良を発す
天正11年 5月24日  大日本史料  筒井順慶、羽柴秀吉に謁せんとして、近江坂本に之く、郡山を発す
天正11年 5月25日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長命寺を以て、其祈祷所と為し、同寺の諸役を免除す
天正11年 5月25日  大日本史料  池田勝入恒興、大坂城を羽柴秀吉に致す、秀吉、恒興を大垣に其子元助を岐阜に移す

天正11年 5月27日  大日本史料  青蓮院尊朝法親王、近江坂本に抵りて、羽柴秀吉を見給ふ
天正11年 5月29日  大日本史料  毛利輝元、安芸厳島社をして、羽柴秀吉に贈る太刀を出さしむ、之を謝して地を寄す
天正11年 6月1日  大日本史料  羽柴秀吉、京都に入る、坂本城を発す
天正11年 6月1日  大日本史料  羽柴秀吉、近江若狭間往復の高荷船をして、旧の如く、今津に著岸せしむ
天正11年 6月2日  大日本史料  山城大徳寺、織田信長一周忌の法会を修す、羽柴秀吉、之に詣す、大坂城に入る
天正11年 6月5日  大日本史料  羽柴秀吉、近江柳瀬に於ける福島正則、脇坂安治等の戦功を賞し、所領を与ふ
天正11年 6月6日  大日本史料  大友義統、羽柴秀吉に書を遺りて、江北の戦況を問ふ、秀吉、之に答へて、
                北国平定を告ぐ

天正11年 6月10日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨に之く、大坂に還る
天正11年 6月13日  大日本史料  羽柴秀吉、近江船大工の諸役を免除す
天正11年 6月17日  大日本史料  佐々成政、越後新発田城主新発田重家に書を遺りて、越中の状勢を報じ、羽柴秀吉に
                 音信を通ぜんことを勧む
天正11年 6月20日  大日本史料  佐竹義重、羽柴秀吉に答へて、北条氏直との対陣を報じ、好を通ず
天正11年 6月28日  大日本史料  上杉景勝、羽柴秀吉に使を遣して、戦勝を賀し、太刀馬を贈り、改めて好を通ず、
                 秀吉、之に答へて、其厚意を謝し、爾後の入魂を約す
天正11年 6月   大日本史料  羽柴秀吉、条制を洛中洛外に下す、又訴訟に就きて、前田玄以に指示するところあり

天正11年 7月2日  大日本史料  吉川元春、同元長父子、石見益田邑主益田藤兼に、伯耆久米郡の地を与ふ
天正11年 7月5日  大日本史料  筒井順慶、大坂に之き、羽柴秀吉に謁す
天正11年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、山城伏見船津以下三郷と、山村郷との訴訟を裁す
天正11年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、近江に検地を行ふ
天正11年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂城中に茶会を催す
天正11年 7月11日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津四天王寺太子堂に奉加銭を寄す、之を堺政所松井友閑に報じて、
                同所地子銭の中より支出せしむ

天正11年 7月11日  大日本史料  羽柴秀吉、近江高宮寺の諸役を免除す
天正11年 7月11日  大日本史料  是より先、上杉景勝、証人を羽柴秀吉に致す、是日、秀吉、物を景勝に贈りて、
                 是に答ふ
天正11年 7月14日  大日本史料  安国寺恵瓊、瑤甫、毛利輝元の使と為りて、羽柴秀吉を訪ひ、和泉堺に在り、
                 本願寺光佐、顕如、使を遣して、之に物を贈る
天正11年 7月20日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る、近江坂本に之く
天正11年 7月29日  大日本史料  結城晴朝、太田資正、三楽斎、多賀谷重経等、書を羽柴秀吉に遺りて、戦勝を賀す、
               秀吉、資正、重経に答へて、畿内、北国の平定を告ぐ、晴朝にも亦復書して、之を報ず
天正11年 7月   大日本史料  羽柴秀吉に命じ、仁和寺入道任助親王をして、近江石山寺を安堵せしめらる

天正11年 8月1日  大日本史料  瀧川一益、北伊勢五郡を致して、羽柴秀吉に降る、秀吉、新に領国を諸将士に頒つ、
                証状を与ふ
天正11年 8月4日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本を発して、摂津大坂に之く
天正11年 8月5日  大日本史料  羽柴秀吉、近江諸職人の諸役を免除す
天正11年 8月6日  大日本史料  羽柴秀吉、使を遣して、徳川家康に太刀を贈る、
天正11年 8月12日  大日本史料  羽柴秀吉、烏丸光宣をして、摂津上牧を安堵せしむ
天正11年 8月13日  大日本史料  吉川元長、書を同族小早川隆景、福原貞俊等に与へて、其意中を述べ、毛利輝元の為
                 めに、弟経言広家を羽柴秀吉に質たらしむべきを誓ふ

天正11年 8月14日  大日本史料  羽柴秀吉、山城鴨社社家公文所弥三郎及び鴨脚兵部大輔に、替地を与ふ、又、
                 同国金蔵寺をして、寺領を安堵せしむ
天正11年 8月17日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津有馬に浴す、杉原家次に書を与へて、坂本城の留守を厳にせしめ、
                 大坂に来らしむ
天正11年 8月21日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津兵庫の商正直屋宗与をして、所領を安堵せしむ
天正11年 8月21日  大日本史料  安芸安国寺恵瓊、瑤甫、大坂より書を毛利輝元の老臣井上春忠に与へて、吉川経言、
                 小早川元総の上坂を促す、佐世元嘉にも亦書を与へて、之を促す
天正11年 8月22日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を摂津有馬に遣し、物を贈りて、羽柴秀吉の起居を候す
天正11年 8月28日  大日本史料  羽柴秀吉、大に摂津大坂に城く、前野長泰に石材の採取運搬に関する条規を付す
天正11年 8月30日  大日本史料  羽柴秀吉、旧に仍り、山城吉田社領の諸役を免除す、神祇大副吉田兼和、兼見、大坂
                 に抵り、秀吉に謁して之を謝す

天正11年 8月末  心斎橋今昔年表  8月末から、30余国の諸大名から月5万人を動員し、石の切出しと運搬開始。
天正11年 9月1日  心斎橋今昔年表  9月1日~大坂城の築城 第一期工事=本丸と天守を開始
天正11年 9月1日  大日本史料   羽柴秀吉、河内金剛寺をして、寺領を安堵せしむ
天正11年 9月1日  大日本史料   毛利輝元の属将美作高山の草苅重継、羽柴秀吉の属将荒木平大夫と因幡口に戦ふ、
                 又宇喜多秀家の兵を、石米、佐良山等に逆へ撃ちて、之を破る、輝元、之を褒す
天正11年 9月5日  大日本史料   羽柴秀吉の臣小野木重次、山城三鈷寺をして、其寺領を安堵せしむ、同国光明寺に
                 も亦安堵状を与ふ

天正11年 9月7日  山口県史整理年表  輝元、吉川広家の質となりて大阪に赴くを褒す 【吉川家文書・家譜】
天正11年 9月9日  大日本史料   羽柴秀吉の室杉原氏、使を遣して、本願寺光佐顕如の室細川氏に物を贈る
天正11年 9月16日  大日本史料   吉田兼和、祓を羽柴秀吉の養子次秀勝に贈る
天正11年 9月17日  大日本史料   本願寺光佐、顕如、使を大坂に遣して、羽柴秀吉に物を贈る、使者、秀吉に謁す

天正11年 9月25日  大日本史料   羽柴秀吉、竹田定加に命じ、丹波亀山に赴きて、養子次秀勝の病を診療せしむ
天正11年 9月26日  大日本史料   羽柴秀吉、伊勢山田三方の徳政につき、山田倉方の言を容る

天正11年 9月  心斎橋今昔年表  「大坂の町・第一期改造計画」 秀吉は、三年前迄この地にあった石山本願寺を攻め
                 喘ぎ、その堅城地ぶりから、新城を築くのが最適地と考えていた。
天正11年 10月2日  大日本史料   羽柴秀吉、播磨揖東郡の地を同国国府山の黒田孝高に、加増し、近江の河毛次郎左
                  衛門尉にも亦知行を給す
天正11年 10月6日  大日本史料   羽柴秀吉、丹波船井郡及び河内讃良郡の地を、松下之綱に宛行ふ、
天正11年 10月10日  大日本史料   興福寺別当大乗院尋憲、羽柴秀吉を訪はんとして、大坂に之く、
天正11年 10月18日  大日本史料   羽柴秀吉、毛利輝元の弟穂田元清に書を送りて、其物を贈れるを謝し、併せて、
                  伊予来島の村上通昌の帰国を報じ、其所領を旧に復せんことを求む

天正11年 10月24日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、摂津有馬より帰る、使を大坂に遣して、羽柴秀吉に物を贈る
天正11年 10月25日  大日本史料  羽柴秀吉、使を遣して、徳川家康に鷹を贈る、
天正11年 10月   大日本史料  羽柴秀吉、京都に新邸を営む
天正11年 11月1日  大日本史料  毛利輝元、一族小早川元総、秀包、吉川経言広家を質として、羽柴秀吉に致す、
                 元総等、秀吉に大坂に謁す、秀吉、元総を留め、経言をして国に帰らしむ
天正11年 11月6日  大日本史料  羽柴秀吉、丹波亀山より、大坂に帰る
天正11年 11月8日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る

天正11年 11月11日  大日本史料  毛利輝元、属将伊予能島の村上武吉に書を遺りて、同国来島の村上通昌の帰国を
                 許容せざるを告ぐ
天正11年 11月13日  大日本史料  美濃大垣の池田勝入、恒興、清水の稲葉一鉄と疆域を争ふ、羽柴秀吉、一鉄に知行
                 目録を与ふ、境界を明にし、互に和解せしむ
天正11年 11月15日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津平野荘惣中をして、其請米の事を安堵せしめ、領内の切代を納めし
                 む、禁裏御蔵立入立佐をして、近江志賀郡の買得分を安堵せしむ
天正11年 11月17日  大日本史料  山城賀茂社、市原野と貴布禰山を争ふ、羽柴秀吉、裁して、之を賀茂社に与ふ

天正11年 11月22日  大日本史料  羽柴秀吉、山城賀茂社及び妙心寺等をして、各其所領を安堵せしむ
天正11年 12月3日  大日本史料  羽柴秀吉、蜂須賀正勝、黒田孝高等に答へて、速に毛利輝元の属城を請取らしむ
天正11年 12月4日  徳山本土岐家伝系図  ○土岐美濃守成頼(實ハ光俊子)ノ孫 頼芸卒
天正11年 12月11日  大日本史料   七日、羽柴秀吉の臣小野木重次、山城松尾社をして、社領を安堵せしむ
天正11年 12月12日  大日本史料  羽柴秀吉、近江堅田四方に条制を下す、同国坂本町中にも亦之を下す
天正11年 12月15日  大日本史料  安国寺恵瓊、林就長連署し、書を毛利輝元の老臣佐世元嘉、福原元俊等に遺りて、
                 境界の決定、諸城の引渡等につき、輝元の決断を促さんことを嘱す

天正11年 12月18日  大日本史料  毛利輝元、其属将美作高山の草苅重継に、羽柴秀吉との境界決定を報じ、重継をし
                 て退城せしむ
天正11年 12月22日  大日本史料  毛利輝元、吉川元春、出雲神魂社を造営す
天正11年 12月23日  大日本史料  近江佐和山の堀秀政、同国称名寺領を押妨す、羽柴秀吉、之を停めて、
                 寺家に返付せしむ

天正11年 12月28日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣して、歳末を賀す
天正11年 12月29日  大日本史料  羽柴秀吉、筒井順慶をして、其家臣に知行を給せしむ
天正11年 12月   大日本史料  近江佐和山の堀秀政を左衛門督に任ず、羽柴秀吉、之に羽柴の姓を与ふ
天正11年      伊予中世年表  ○阿波国三好氏東予に進出、ニ神通範・大野・土居氏と防衛戦
天正11年      伊予中世年表  ○秀吉は毛利輝元の家臣に命じ来島村上の帰国の便宜を命じた。
天正11年     伊予中世年表  ○大友義統はニ神修理進の書で村上通総(来島)の帰国を祝う。
天正11年     伊予中世年表  ○毛利輝元、来島を帰国させぬと村上武吉に書を送る。

1584年
天正12年      寛政重修諸家譜  ○黒田孝直、播磨山崎城へ転封さる。
天正12年 1月2日  大日本史料  東大寺、興福寺及び筒井順慶等、使を大坂に遣して、歳首を羽柴秀吉に賀す
天正12年 1月2日  大日本史料  羽柴秀吉、蜂須賀正勝及び黒田孝高に答へて、中国滞在の労を犒ひ、速に毛利輝元の
                属城を請取らしむ
天正12年 1月8日  大日本史料  青蓮院尊朝法親王、妙法院常胤法親王、大坂に抵り、羽柴秀吉に歳首を賀し給ふ
天正12年 1月8日  大日本史料  万里小路充房、大坂に赴きて、羽柴秀吉に歳首を賀す
天正12年 1月11日  大日本史料  安国寺恵瓊、書を毛利輝元の老臣井上春忠等に遺りて、羽柴秀吉の態度を報じ、境界
                 附近の諸城の引渡等につき、輝元等の決断を促さんことを嘱す、
天正12年 1月12日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨三木郡の地を荒木助右衛門尉に与ふ
天正12年 1月16日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣して、歳首を賀す

天正12年 2月1日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より入京す、丹波に之く、
天正12年 2月2日  大日本史料  羽柴秀吉、伊賀の木材を購入せんとし、筒井順慶をして、奈良に於ける之が売買を
                禁ぜしむ
天正12年 2月6日  大日本史料  羽柴秀吉、丹波より入京す、近江坂本に之く
天正12年 2月13日  大日本史料  羽柴秀吉、近江多賀社の立木を伐らんとし、同社不動院に命じて、濫伐を停止せしむ
天正12年 2月14日  大日本史料  足利義昭の臣布施治部少輔、島津義久に書を遺りて、羽柴秀吉の斡旋に依り、義昭の
                 上洛近きにあるべきを報じ、義久の援助を依嘱す、義昭の使者、書を齎して日向宮崎
                 に到りて、之を義久の老臣上井覚兼に致す

天正12年 2月19日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本より上洛す
天正12年 2月24日  大日本史料  羽柴秀吉、石清水八幡宮寺に河内星田荘の地を寄進す
天正12年 2月  心斎橋今昔年表  大坂城第二期工事=二の丸、第三期工事=忽構堀を着工。そして、城下町の検地に
                 着手する

天正12年 3月6日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊根来寺及び雑賀の一揆を撃たんとし、使を和泉貝塚に遣して、本願寺
                光佐顕如と結ぶ、光佐も亦使を秀吉に遣して之に答ふ
天正12年 3月6日  大日本史料  織田信雄、徳川家康と謀り、其老臣伊勢松島の津川義冬、尾張星崎の岡田重孝、同国
          苅安賀の浅井田宮丸等を斬りて、秀吉と絶つ、松島、苅安賀を奪ふ、家康の兵を借りて星崎を収む
天正12年 3月7日  大日本史料  織田信雄、書を長宗我部元親の弟香宗我部親泰に与へて、羽柴秀吉との絶交を報じ、
                元親の援助を請ふ【香宗我部家伝証文】

天正12年 3月7日  大日本史料  織田信雄、書を長宗我部元親の弟香宗我部親泰に与へて、羽柴秀吉との絶交を報じ、
                元親の援助を請ふ
天正12年 3月8日  大日本史料  羽柴秀吉、堀尾吉直可晴に、近く北伊勢に兵を出さんとするを報じ、出陣の用意を
                為さしむ
天正12年 3月10日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より入京す、近江に出陣す
天正12年 3月10日  大日本史料  織田信雄、美濃大垣の池田勝入、恒興、同国兼山の森長可等を招く、羽柴秀吉も亦之
                 を招く、勝入、秀吉に応ず、長可も亦秀吉に応ず

天正12年 3月10日  大日本史料  羽柴秀吉、水野忠重、丹羽氏次、高木貞友等を招く、忠重等応ぜずして、
                 徳川家康に属す
天正12年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、其将蜂須賀正勝、黒田孝高等に答へて、近畿の状況を報じ、併せて其
                 行動を指示す
天正12年 3月12日  大日本史料  蜂須賀正勝の臣牛田一長、境界決定の為め伯耆に下る、毛利輝元の族吉川元春、
                 之に物を贈る
天正12年 3月12日  大日本史料  織田信雄の将神戸正武、伊勢亀山に関万鉄、盛信、同一政父子を攻む、万鉄等、奮戦
                 して之を卻く、羽柴秀吉、一政の功を褒す

天正12年 3月13日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀に答へて、畿内、美濃、伊勢、紀伊等の形勢を報ず
天正12年 3月15日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、伊勢峰を攻む、秀吉、同国亀山の関一政の戦功を褒す
天正12年 3月17日  大日本史料  羽柴秀吉、大神宮に遷宮の用途を上り、慶光院周養をして、上部貞永と共に遷宮の
                 ことを計らはしむ
天正12年 3月17日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢岩手の田丸直息に書を与へて、織田信雄の属城同国松島攻囲の策を
                 授く
天正12年 3月17日  大日本史料  毛利輝元の将宍戸元孝等、伊予に渡る、長宗我部元親の兵と同国恵良に戦ふ
                【毛利氏四代実録考証論断・萩藩閥閲録】

天正12年 3月17日  伊予年表  ○毛利氏家臣宍戸元孝と長曾我部軍が恵良で戦う。
                      *(本当に長曾我部軍が恵良まで来ていたのか?)
天正12年 3月18日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃大藪の毛利掃部助に書を与へて、来属を褒し、近く其地に出陣せんこ
                 とを報ず、本知を安堵せしめ、新知を加へんことを約す
天正12年 3月19日  大日本史料  小早川秀包、元総、羽柴秀吉に従ひて、近江に出陣す、毛利輝元、秀包の請に依り、
                 大多和元直をして、秀吉の陣中を見舞はしむ
天正12年 3月20日  大日本史料  羽柴秀吉、池田勝入恒興に答へて、伊勢ノ状況を述べ、将に自ら美濃に出陣せんとす
                 るを報じ、以て其準備を為さしむ
天正12年 3月20日  大日本史料  織田信雄、長宗我部元親の弟香宗我部親泰に書を遺りて、尾張、美濃の形勢を報じ、
                 元親の摂津に兵を出さんことを求む【香宗我部家伝証文】

天正12年 3月22日  大日本史料  紀伊根来雑賀等の一揆、再び羽柴秀吉の属城和泉岸和田を襲ふ、守将中村一氏等、
                 逆へ撃ちて之を却く
天正12年 3月23日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨の藤井与次兵衛に命じて、船を摂津木津浦に繋ぎ、以て紀伊根来雑賀
                 一揆の大坂来襲に備へしむ
天正12年 3月23日  大日本史料  羽柴秀吉の老臣浅野長吉、長政、書を蜂屋五郎助に遺りて、近江諸職人の諸役を
                 免除せんことを嘱す
天正12年 3月23日  大日本史料  羽柴秀吉、池田勝入恒興の母養徳院に書を遺りて、勝入等池田氏一族の尾張犬山城略
                 取の功を賞し、尾張を勝入に、美濃稲葉を其子長吉に与へんことを約す
天正12年 3月25日  大日本史料  羽柴秀吉、山城山崎城の天主を壊つ
天正12年 3月26日  大日本史料  羽柴秀吉、佐竹義重に上国の形勢を告ぐ

天正12年 3月27日  大日本史料  美濃竹鼻の不破広綱、羽柴秀吉の動静を徳川家康に報ず、家康、之に答ふ
天正12年 3月27日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、長宗我部元親の使を見る【顕如上人貝塚御座所日記】
天正12年 3月28日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張に出で、楽田に陣す、徳川家康、清洲より小牧に入りて之に対す、
                 織田信雄も亦伊勢川内長島より之に赴く
天正12年 3月28日  大日本史料  榊原康政、檄文を発して、羽柴秀吉の罪悪を挙ぐ
天正12年 3月29日  大日本史料  惟住長秀、羽柴秀吉に答へて、和泉に於ける戦勝を賀し、併せて北国の情勢を報ず
天正12年 3月  心斎橋今昔年表  小牧・長久手の戦い、織田信雄・徳川家康と11月和合す

天正12年 4月2日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜町人に命じて、鍬二百挺を同国坂本より尾張針床に運送せしむ
天正12年 4月3日  大日本史料  羽柴秀吉、伊東長実に地を加ふ
天正12年 4月7日  大日本史料  羽柴秀吉、洛中洛外に於て、京都米座の外は米を、同錫座の外は錫を売るを禁ず
天正12年 4月7日  大日本史料  羽柴秀吉の将羽柴長秀、秀長、筒井順慶等、織田信雄の属城伊勢松島を攻む、守将瀧
            川雄利、城を致して去る、秀吉、八重羽左衛門尉等をして、之を守らしむ、長秀等、尾張に入る
天正12年 4月8日  大日本史料  京都の奉行前田玄以、羽柴秀吉を尾張の陣中に見舞ふ、京都を発す
天正12年 4月8日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀に答へて、尾張、伊勢等の戦況を報ず
天正12年 4月8日  大日本史料  羽柴秀吉、生駒親正、山内一豊、矢部善七郎等をして、尾張柏井の森川屋敷の砦を、
             一柳末安をして、酒井七郎左衛門屋敷の砦を守らしむ、末安をして、又森川屋敷に移らしむ
天正12年 4月9日  大日本史料  吉田兼和、使を遣して、羽柴秀吉に祓を贈る、使者、尾張より京都に還る、兼和、
                参内して、尾張の戦況を奏す

天正12年 4月9日  大日本史料  羽柴秀吉の将三好秀次、池田勝入、恒興、森長可等、三河に出でんとす、徳川家康、
                尾張長久手に襲ひて、之を破る、勝入、長可等戦死す
天正12年 4月10日  大日本史料  羽柴秀吉、因幡鹿野の亀井茲矩に答へて、尾張小牧対陣の状況を報ず
天正12年 4月11日  大日本史料  羽柴秀吉、書を池田勝入恒興の生母養徳院に遺りて、勝入、元助の戦死を弔慰し、
                 遺領処分のことを報ず
天正12年 4月11日  大日本史料  羽柴秀吉、養子次秀勝をして、美濃岐阜を守らしめ、兼ねて尾張大浦の池田照政を
                 援助せしむ
天正12年 4月11日  大日本史料  織田信雄、書を尾張脇田の吉村氏吉に与へて、羽柴秀吉の兵の岐阜に来援せるを
                 報じ、軽挙を戒む

天正12年 4月12日  大日本史料  羽柴秀吉、生駒親正、黒田長政の和泉に於ける戦功を賞し、各二千石の地を与ふ
天正12年 4月12日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢木造に木造具政を攻む、其部署を定む
天正12年 4月12日  大日本史料  羽柴秀吉、池田照政の老臣伊木忠次に書を与へて、美濃洲俣城守備の事等を指示す
天正12年 4月14日  大日本史料  羽柴秀吉、京都下京町民をして、其新邸の外濠を掘らしむ
天正12年 4月14日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張、美濃に城砦を構築して、織田信雄及び徳川家康と相対峙す、
                 尾張羽黒の古城を修す
天正12年 4月16日  大日本史料  羽柴秀吉、一柳末安をして、砦を尾張長池に構築せしめ、養子次秀勝をして、
                 之を守らしむ

天正12年 4月23日  大日本史料  伊勢及び美濃に一揆起る、本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遺して、之と連絡なき
                 ことを弁疏す
天正12年 4月26日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃鵜沼に至る、徳川家康、尾張竹鼻の不破広綱に書を与へて、
                 其動静を窺はしむ
天正12年 4月26日  大日本史料  織田信雄の兵、羽柴秀吉の兵を夜襲す
天正12年 4月30日  大日本史料  長宗我部元親、款を徳川家康に通ず、家康の老臣本多正信、書を元親の弟香宗我部親
                 泰に寄せて、之に答ふ【香宗我部家伝証文】
天正12年 4月  心斎橋今昔年表  大坂城本丸の工事完了

天正12年 5月1日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張二重堀の陣を撤して、美濃に退く
天正12年 5月1日  大日本史料  羽柴秀吉、正覚院豪盛及び徳雲軒施薬院全宗に、延暦寺根本中堂戒壇院の再興を許す
天正12年 5月2日  大日本史料  羽柴秀吉、加藤光泰をして尾張犬山を、山内一豊をして羽黒を、堀秀政をして楽田
                を、稲葉一鉄をして小口を治せしむ
天正12年 5月3日  大日本史料  織田信雄、長宗我部元親の弟香宗我部親泰に羽柴秀吉の美濃に退陣せるを報ず、信雄
                の将織田信純も亦親泰に書を遺りて、長久手の戦勝を報じ
天正12年     大日本史料  元親の摂津、播磨に出兵せんことを促す【香宗我部家伝証文】
天正12年 5月9日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃、尾張の戦況を毛利輝元に報ず、

天正12年 5月9日  大日本史料  織田信雄、河内国見山ノ保田佐久間安政安次に、羽柴秀吉の尾張二重堀撤退を報ず
天正12年 5月10日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張竹鼻を攻囲す
天正12年 5月11日  大日本史料  佐久間正勝の弟道徳、京都一条町に於て、事を謀る、淀の小野木重次、一条町並に
                 実相院町の町民を捕ふ、勅旨に依り、羽柴秀吉、之を赦免す
天正12年 5月12日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張竹鼻攻囲の状を、宇喜多秀家に報ず、
天正12年 5月14日  大日本史料  織田信雄、徳川家康、大和衆をして、兵を起さしむ、大喜清長、之を長宗我部元親の
                 弟香宗我部親泰に報ず【香宗我部家伝証文】

天正12年 5月15日  大日本史料  羽柴秀吉、山内一豊、伊藤掃部助等をして、尾張小牧山に対し、向城を構築せしむ
天正12年 5月15日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜町民及び八幡荘民に命じて、兵糧米を美濃関原に運送せしむ
天正12年 5月18日  大日本史料  伊予金子の金子元宅、長宗我部元親に覚書を送りて、証判を求む、元親、之に加判す
                【土佐国蠧簡集】
天正12年 5月24日  大日本史料  毛利輝元の将渡辺長等、伊予恵良に戦ふ、同国湯月の河野通直、長を賞す、
                 輝元も亦之を褒す【萩藩閥閲録】

天正12年 5月29日  大日本史料  尾張大浦在番の木下平大夫、石川小七郎、大浦方面の無事を、羽柴秀吉に報ず、
                 秀吉、之に答ふ
天正12年 5月    伊予年表  ○毛利氏家臣渡辺長と長曾我部軍が恵良で戦う。
                       *(本当に長曾我部軍が恵良まで来ていたのか?)
天正12年    伊予中世年表  ○長宗我部元親、黒瀬城を攻めた。西園寺公広降伏。

天正12年 6月4日  大日本史料  羽柴秀吉、佐竹義重に答へて、尾張、美濃の戦況を報ず、瀧川不干一益も亦、義重に
                秀吉の相模出馬の意あるを報じ、之に策応せしむ、
天正12年 6月7日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉に書を遺りて、之を陣中に訪はんことを告ぐ、秀吉、之に答へ、
                且尾張竹鼻の形勢を報ず、
天正12年 6月10日  大日本史料  尾張竹鼻松葉の守将不破広綱、城を羽柴秀吉の兵に致して、伊勢長島に退く、秀吉、
                 一柳末安、伊木忠次をして、之を守らしむ
天正12年 6月11日  大日本史料  長宗我部元親の兵、讃岐に入り、十河に十河存保義堅を攻めて、之を抜く、元親の
                 弟香宗我部親泰、之を織田信雄に報ず【香宗我部家伝証文】

天正12年 6月12日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、長良川を渡りて、尾張者結、幡長に陣す、脇田を攻む
天正12年 6月13日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃大垣に入る
天正12年 6月13日  大日本史料  羽柴秀吉、蒲生賦秀、氏郷、生駒親正、織田信包等に、伊勢の地を与ふ、賦秀、
                 近江日野より、伊勢松島に徒る
天正12年 6月16日  大日本史料  瀧川一益、織田信雄の属将尾張蟹江の前田与十郎、下市場の前田与平次、前田の前田
                 長種等を説きて、羽柴秀吉に従はしめ、
天正12年      大日本史料  蟹江の主将佐久間正勝の不在に乗じ、与十郎と謀りて、自ら之に入る、徳川家康、
                 蟹江を攻む
天正12年 6月16日  大日本史料  羽柴秀吉、讃岐十河城に兵糧を輸送せんとして、仙石秀久等を遣す、小西行長、
                 石井明石与次兵衛等をして、秀久の命を待たしむ

天正12年 6月18日  大日本史料  毛利輝元、児玉元光を羽柴秀吉に質として、大坂に遣す、内藤元栄、長井元親に命じ
                 て、周防末武の年貢を、之に渡付せしむ
天正12年 6月18日  大日本史料  長宗我部元親、書を紀伊根来寺に遺りて、兵を淡路に出すべきことを報じ、
                 之に太刀、馬を贈る【土佐国編年記事略】
天正12年 6月18日  山口県史整理年表  輝元、児玉元栄を秀吉に質として大阪に遣す。この日都濃郡末武の年貢をこれ
                 に渡付す 【閥閲録】
天正12年 6月20日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、尾張今尾を侵す、脇田の守将吉村氏吉、援兵を織田信雄に請ふ、信雄
                 并に徳川家康、之に答ふ
天正12年 6月20日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に質を求む、景勝、畠山義春の子義真を秀吉に致す
天正12年 6月21日  大日本史料  羽柴秀吉、三好信吉秀次等を美濃に留めて、近江に入る、大坂に還る
天正12年 6月25日  大日本史料  近衛龍山、前久、同信輔、信尹、羽柴秀吉を美濃に訪はんとす、京都を発す

天正12年 6月25日  大日本史料  伊予湯月の河野通直、毛利輝元と安芸福成寺に相会せんとす、輝元の老臣赤川十郎左
                 衛門尉、粟屋元信、同寺に禁制を下して、四至内の竹木伐採等を禁ず【福成寺文書】
天正12年 6月26日  大日本史料  羽柴秀吉、山城一条馬場之内四丁町敷地を、久我季通敦通に還付す
天正12年 6月28日  大日本史料  徳川家康の兵、小牧より、楽田に出ず、羽柴秀吉の兵と戦ふ

天正12年 7月3日  大日本史料  羽柴秀吉、小野木重次、一柳末安等を遣して、伊勢神戸を守らしむ、
天正12年 7月3日  大日本史料  羽柴秀吉、伯耆三郡を同国羽衣石の南条直秀に与ふ、蜂須賀正勝、秀吉の命を承け
                て山城相国寺光源院領大谷、国分寺、四王寺を光源院に還付すべきことを直秀に伝ふ
天正12年 7月4日  大日本史料  羽柴秀吉、安国寺恵瓊を遣し、毛利輝元、小早川隆景をして、中国の事を計らしむ
天正12年 7月8日  大日本史料  羽柴秀吉、旧に仍り、本能寺に軍兵の寄宿を免除す
天正12年 7月8日  大日本史料  羽柴秀吉、佐竹義重の族東義久、太田道誉資政の子梶原政景に答へて、近況を報ず
天正12年 7月8日  大日本史料  羽柴秀吉、大和の片岡某の所領を奪ひて、四分の一を与へ、残余を大和国衆に分与す

天正12年 7月9日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂を発して、近江坂本に入る
天正12年 7月9日  大日本史料  伊賀上野の分部光嘉、織田信雄の兵、同国神戸に出陣のことを羽柴秀吉に報ず、
                秀吉、之に答へ、伊勢安濃津の織田信包に、防備を厳にすべきことを伝へしむ
天正12年 7月12日  大日本史料  織田信雄の将木造具政、伊勢戸木に在り、屡羽柴秀吉の将同国安濃津の織田信包、
                松島の蒲生賦秀氏郷等と戦ふ、賦秀の将蒲生郷成と、同国須賀に戦ふ
天正12年 7月12日  大日本史料  羽柴秀吉、瀧川一益に、三千石の地を、一益の子一時に、一万二千石の地を給す
天正12年 7月15日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、尾張楽田より出で、徳川家康の小牧の兵と戦ふ、

天正12年 7月18日  大日本史料  羽柴秀吉、再び美濃に入り、岐阜に陣す
天正12年 7月18日  大日本史料  羽柴秀吉、大徳寺に命じて、犯罪者の遁世と号して、其咎を免れんとするものを
                 寺中に置くことを禁ず、
天正12年 7月18日  大日本史料  羽柴秀吉、黒田孝高に、播磨宍粟郡を与ふ
天正12年 7月19日  大日本史料  長宗我部元親の将久武親直、伊予金子の金子元宅に、讃岐出馬を促し、之に誓書を
                送る【金子文書】
天正12年 7月24日  大日本史料  羽柴秀吉、山崎片家に命じて、其知行分水際の収穫三分の一を百姓分とし、
                 三分の二を収納分となさしむ

天正12年 7月28日  平出宛元親書状  

            尚々、御人数無異議候由之条肝要候
( 高知県立歴史館)   方角躰追々可承候、かしく
           田所城中雖被取入候、手筈相違故、人数被引取之由否及非候、
           于今諸■同前候敟、弥宣高被相談御計策肝要候
           別而可令申候へ共、先以的使用短書候、巨細久武彦七可申候
           猶期後■■(音候?)、恐々謹言
                              長内
           七月廿八日              元親 (花押)
           平出   御宿所

   【解説】 喜多山から矢落川を上流に上がった喜多郡久米郷田所(現在は田処)にある田所城を攻めたものの、
         手筈を違えたため兵を引いた。 曽根宣高は諸将と相談して計策を練る必要があるとし、詳しくは久武
         彦七が申し述べるとしている。後にまた便りをする(あるいは訪問を期する)。

        書状の書き止め文言は比較的厚礼の文言を用いている。「長内」は長宗我部宮内少輔の略。また尚書き
         では、人数を集めることが大切である ことを念押しし、国人・地侍の一揆的結合である「方角」の
         様子を追って承りたいと記す

天正12年 7月29日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃より大坂に帰る
天正12年7月    大日本史料  大友義統、龍造寺政家、羽柴秀吉に通ずと風説す

天正12年 8月2日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津有馬に浴す
天正12年 8月4日  大日本史料  羽柴秀吉、中村一氏をして、河内烏帽子形城を修築せしむ
天正12年 8月4日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃関の地を、池田照政に与ふべきことを約す
天正12年 8月8日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂城新第に徒る、
天正12年 8月11日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る、近江坂本に之く
天正12年 8月12日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜町民をして、鋤鍬を尾張犬山に運送せしむ
天正12年 8月14日  大日本史料  織田信雄、美濃脇田の吉村氏吉に、羽柴秀吉の出動を伝へて、守備を警む、
                 徳川家康も亦之を戒む

天正12年 8月15日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃大垣に抵る
天正12年 8月15日  大日本史料  羽柴秀吉、井戸良弘を出仕せしむ、良弘、奈良に抵る
天正12年 8月16日  大日本史料  伊予黒瀬の西園寺公広、同国宇和郡天神社を修築す
天正12年 8月17日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃の地を池田勝入恒興の母養徳院に与ふ
天正12年 8月17日  大日本史料  羽柴秀吉、一柳末安に命じて、美濃木田渡を守備せしむ
天正12年 8月18日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝の老臣須田満親に答書し、美濃大垣著陣を告げ、将に三河を
                 襲はんとすと報ず

天正12年 8月18日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜惣中に令して、新銭鋳造を禁止す
天正12年 8月18日  大日本史料  長宗我部元親の弟香宗我部親泰、使を徳川家康、織田信雄に送りて、元親の誓書を
                 致す、家康、之に答へて、羽柴秀吉の美濃出馬を報じ三箇国を与へんことを約す、
                 信雄も亦之に答へ、元親の淡路出兵を促す【香宗我部家証文】
天正12年 8月18日  大日本史料  長宗我部元親及び其近臣瀧本寺栄音、伊予金子の金子元宅に書を遺りて、讃岐出勢を
                 止め、毛利輝元の伊予出兵に備へしむ【金子文書】
天正12年 8月19日  大日本史料  越前北荘の惟住長秀、羽柴秀吉を援けんとし、兵を率ゐて、北荘を発す

天正12年 8月20日  大日本史料  細川信良、昭元、阿波に渡り、長宗我部元親に頼る、織田信雄、元親に書を遺りて、
                信良に対し、疏意なかるべきを述ぶ【土左国古文叢】
天正12年 8月21日  大日本史料  羽柴秀吉の養女前田菊姫、利家の女、歿す
天正12年 8月28日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃より尾張に入り、諸所に砦を築く、奈良、赤見等を火く、
                徳川家康も亦、同国清須より岩倉に出づ、一宮の砦を修す

天正12年 9月1日  大日本史料  尾張黒田の澤井雄重、同国嶋に羽柴秀吉の兵と戦ふ、徳川家康、之を褒す
天正12年 9月1日  大日本史料  折井次昌、米倉忠継等、羽柴秀吉の兵と戦ふ、
天正12年 9月2日  大日本史料  羽柴秀吉、近江に検地を行ふ、同国蒲生郡今堀村より指出を致す
天正12年 9月3日  大日本史料  羽柴秀吉、京都妙顕寺に替地を与へ、地子及び諸役を免除す、
天正12年 9月3日  大日本史料  伊予金子の金子元宅、長宗我部元親に交替の人質を送る、元親、之に答へ、
                且毛利輝元の伊予出兵の動静を報ぜるを謝す【金子文書】

天正12年 9月5日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉の意を伝へて、越中瑞泉寺顕秀の帰国を促す
天正12年 9月6日  大日本史料  摂津久宝寺の安井定次、羽柴秀吉に火薬等を贈る、秀吉、之に答ふ
天正12年 9月7日  大日本史料  羽柴秀吉、和を織田信雄、徳川家康と講ず、議破れ、家康、陣を尾張茂吉に移す
天正12年 9月7日  大日本史料  北条氏直、羽柴秀吉の兵尾張に出づるを太田越前守に告げて、徳川家康援助の
                準備を為さしむ
天正12年 9月8日  大日本史料  羽柴秀吉、前田利家、利勝父子に尾張の形勢を報じ、近く惟住長秀の帰陣すべきを
                告げ、佐々成政に対し、軽卒に兵を動かすことを戒む
天正12年 9月9日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉との和議に拠り、伊賀家久をして、備中加茂を退かしむ、輝元、
                周防、長門に於て、三百石の地を与ふ

天正12年 9月11日  大日本史料  長宗我部元親、其将久武親直をして、伊予を攻略せしむ、同国深田城、陥る
                【金子文書】
天正12年 9月14日  大日本史料  紀伊根来寺杉坊聖算、土佐長宗我部元親の弟香宗我部親泰に答へて、尾張の形勢を報
                じ、之と好を通ず【土佐国古文叢】
天正12年 9月17日  大日本史料  羽柴秀吉、軍を尾張より美濃に納めんとし、兵を引かしむ、織田信雄、徳川家康も
                 亦清洲に帰る
天正12年 9月18日  大日本史料 伊予湯月の河野通直、金尊坊を同国石手寺地蔵院住持職に補す【石手寺文書】
天正12年 9月18日  山口県史整理年表  毛利家家臣内藤孫右衛門に、山口晦日市、同道場門前の屋敷を給し、かつ、
                    元就以来九州・山口の功により地料ならびに諸公役を免除す 【閥閲録】

天正12年 10月  山口県史整理年表  来年六月明国の商船ニ隻赤間関に着岸するにつき、杉原元兼、売買のことを
                  船主に告知す 【閥閲録】
天正12年 10月5日  大日本史料  羽柴秀吉、京都を発して、大坂に帰る
天正12年 10月6日  大日本史料  伊予能島の村上武吉、同国忽那島の俊成左京進をして、所領を安堵せしむ、
天正12年 10月7日  大日本史料  羽柴秀吉、若狭の諸寺に鐘を徴す、近江の新庄蔵人に命じて、同国長浜等の
                 諸寺の鐘を徴せしむ
天正12年 10月8日  大日本史料  羽柴秀吉、壇栄清を石清水八幡宮社務職に補す

天正12年 10月9日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊に兵を出さんとし、一柳末安に命じて、大坂附近に著陣せしむ
天正12年 10月14日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂城中に茶湯を催す
天正12年 10月16日  大日本史料  羽柴秀吉、浅野長吉に命じ、播磨飾磨津に於て、兵粮二百石を十河存保の
                 将篠原甚五、森志摩守に渡さしむ
天正12年 10月18日  大日本史料  徳川家康の将石川数正、東美濃に出で、羽柴秀吉の兵と戦ふ、家康、遠山佐渡守に
                 書を与へて、其子半左衞門尉の戦死を傷む

天正12年 10月18日  阿波国徴古雑抄巻五  ○秀吉は毛利氏の重臣穗田元清(毛利元就の四男・妻は通総の姉妹)に書間
                     を送り、「来島帰国の儀、委細安国寺に申し渡しの条(中略)
                    異儀無きよう馳走専要に候、殊に貴所御間柄の由候の条、別して御情入ら
                     れるべき事尤もに候」と述べ来島通総を帰国させる意向を示す。
天正12年 10月19日  大日本史料 長宗我部元親の兵、西園寺公広の居城伊予黒瀬を陥る、毛利輝元の将桂元親、
                 之を輝元に報ず【萩藩閥閲録】
天正12年 10月20日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂を発して、近江坂本に赴く

天正12年 10月23日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本より北伊勢に出づ、織田信雄、尾張清洲の守将酒井忠次に之を
                 報ず、秀吉、同国土山に著陣す、
天正12年 10月25日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢土山より同国神戸に著陣す上部貞永に兵粮米、竹木等の調達を命ず
天正12年 10月28日  大日本史料  羽柴秀吉、脇坂安治に伊勢の形勢を報じ、速に伊賀の諸城を破却せしむ
天正12年 10月28日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢浜田を囲む、之を越前北荘の惟住長秀に報ず

天正12年 11月6日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢羽津・萩原等に砦を築く同国桑名表に出で、桑部・柿多等の砦を奪ふ
天正12年 11月6日  大日本史料  羽柴秀吉、浅野長吉をして、近江蒲生郡に於ける検地漏の地を糺明せしむ、長吉、
                 其指出を徴す

天正12年 11月6日  大日本史料 土佐長宗我部元親の兵、伊予に出づ、毛利輝元、同国在陣の桂元親に書を与へて、
                援軍の派遣を報ず【桂文書】
天正12年 11月8日  大日本史料 土佐長宗我部元親、大崎吉右衛門の、伊予三間表の功を賞し、諸浦の諸役を免除す、
                香宗我部親泰も亦、其分領諸浦の諸役を免除す【土左国古文叢】
天正12年 11月10日  大日本史料  美濃脇田の吉村氏吉、羽柴秀吉に通ずる福田某を攻めて、同国長久保を陥る、
                 織田信雄、之を褒す
天正12年 11月10日  大日本史料  羽柴秀吉、織田信長の側室小倉鍋に、近江愛智郡の地四百石を与ふ、

天正12年 11月11日  村上図書家文書  ○毛利」輝元は村上武吉に書間を送り「来島帰国の風聞があっても毛利家は
                   許容しない」との意向を示す。

天正12年 11月15日  大日本史料  羽柴秀吉、織田信雄・徳川家康と和を講ず、秀吉、信雄と伊勢桑名附近に相会す
天正12年 11月17日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本より書を加藤茂勝嘉明に与へ、美濃大垣城を稲葉一鉄の留守居に
                 渡して、速に帰陣すべきを命ず
天正12年 11月17日  大日本史料  北条氏政、徳川家康の老臣酒井忠次に書を与へて、羽柴秀吉との媾和の情況を問ふ
天正12年 11月17日  大日本史料 土佐長宗我部元親、柳瀬孝重をして、祖父五郎兵衛尉の、楮左古道尋をして、父柳瀬
                 道重の所領を継がしむ【蠧簡集拾遺】

天正12年 11月中旬  瀬戸内の海賊・山内  ○来島通総の船団は忽那島に現れ、狼藉、賊船行為を始める、対抗して軍船
                     を能島村上も派遣し忽那島周辺の緊張は一気に高まったが、この時南予では
                     長曾我部元親との軍勢と戦っていた、河野・毛利軍は軍勢が割かれるのを
                     おそれ河野通直は能島に「堪忍」を要請した。

天正12年 11月18日  大日本史料  羽柴秀吉、松倉勝重の戦功を賞し、右近大夫の称を与ふ
天正12年 11月20日  大日本史料  羽柴秀吉の奉行小出秀政・伊藤秀盛等、旧に依り、安井定次をして、
                 河内久宝寺屋敷を安堵せしむ
天正12年 11月21日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本を発し、京都に入る
天正12年 11月21日  大日本史料  徳川家康、三河西尾を発し、遠江浜松に還る、羽柴秀吉、使を遣して、家康と
                 和を講ず、

天正12年 11月22日  大日本史料  従五位下左近衛権少将羽柴秀吉を従三位に叙し、権大納言に任ず
天正12年 11月23日  大日本史料  羽柴秀吉、丹波亀山に赴く
天正12年 11月25日  大日本史料  羽柴秀吉、仙洞御所の造営を巡視す
天正12年 11月27日  大日本史料  羽柴秀吉、京都を発し、大坂に帰る
天正12年 11月30日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、山城に検地を行ふ、是日、出分の収納に就き、片桐貞隆等に
                 指示を与ふ

天正12年 11月    大日本史料 土佐長宗我部元親、徳川家康と牒し、和泉・紀伊の一揆と共に羽柴秀吉の居城大坂を
           攻めんとす、秀吉と家康との和成るを以て止む【元親一代記】

天正12年 12月10日  大日本史料  安芸沼田の小早川隆景、伊予能島の村上元吉に答へて、同国宇和表の警備に
                 力を致さしむ
天正12年 12月12日  大日本史料  徳川家康次子義伊秀康を羽柴秀吉の養子と為す、義伊遠江浜松を発して大坂に之く
天正12年 12月15日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝の将須田満親に答へて、景勝の越中に出馬し、佐々成政の属城
                 境を攻略せるを褒し、且織田信雄・徳川家康との媾和をを報ず
天正12年 12月17日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る、大坂に帰る
天正12年 12月20日  大日本史料  羽柴秀吉、下野佐野の佐野宗綱に、徳川家康等の、媾和を求めて、人質を提出せし
                 ことを報ず

天正12年 12月21日  大日本史料  河野通直、伊予能美の村上景親をして、同国府中東条分を安堵せしむ
                 【萩藩閥閲録】

天正12年 12月24日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を遣して、羽柴秀吉に歳暮を賀す、小早川秀包元総にも
                 亦歳暮を賀す
天正12年 12月24日  予陽河野家譜  ○大野直之は元親の矛先となって梶谷氏の居城高森を攻めて抜けず。
天正12年      伊予中世年表  ○大野直之は浮穴郡の鷹森城を攻めた。

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1581年~1582年)

2023年01月08日 08時12分53秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜

西暦1581
天正9年 1月6日   大日本史料    長宗我部元親、部将久武親信等をして、北川通安を伊豫三瀧城に攻めしむ、是日、
                  城陥り、通安、之に死す【土佐国群書類従所收元親記】
天正9年 1月11日  大日本史料    長宗我部元親の將西川近江守等、西園寺公廣を伊豫黒瀬城に攻め、其城下を火く、
天正9年 2月16日  大日本史料    羽柴秀吉、但馬生野銀山の代官生熊左介に正月分の納銀請取状を與ふ
     2月26日  大日本史料    吉川元春、約諾に依り、粟屋彦右衞門尉に伯耆の地を宛行ふ、
天正9年 2月   フロイス日本史   一条内政(タダマサ)波川玄蕃の元親への謀反の疑いをかけられ伊予法華津に流された
                  後、元親により毒殺される。

天正9年 2月  大日本史料      土佐長宗我部元親、一條内政の波川氏に党するを怒り、之を伊豫法華津に逐ふ
                  【土佐国群書類従所收元親記】
天正9年 3月18日  大日本史料    羽柴秀吉、浅野長吉及び黒田孝高に所領を加増し、播磨揖東郡の地を同国斑鳩寺に
                  寄進す
天正9年 3月20日  大日本史料    三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、
                  信長に帰属せしむ【讃岐国大日記】

天正9年 3月24日  萩藩閥閲録1-528   【河野牛福通直婚姻成立】

                  今度吉見・予州(河野通直)縁邊之儀相調、
                  廣頼曽息女従防州表、厳島まて、
                  兒玉四郎兵衛 舟ニて呼上せ候条、下松浦ヨリ大舟壱艘申付、
                  水夫等堅固ニ乗せ可差上候、
                  不可有油断候、謹言
                 (天正九年)三月廿四日       輝元 御判

                 児玉四郎兵衛尉(元村)殿

天正9年 3月28日  大日本史料    羽柴秀吉、近江長濱町人の商売船に折紙を與へ、若狭、丹後の海賊の違乱に
                  備へしむ
天正9年 3月29日  大日本史料    羽柴秀吉、松井友閑、村井貞勝等、宴を清水寺に張り、猿楽を観る、
天正9年 3月29日  大日本史料    羽柴秀吉の將伊藤秀盛、播磨住吉社に燈明田等を寄進し、同社神主をして、
                  秀吉の武運長久を祈るらしむ
天正9年 4月10日  山口県史整理年表  羽柴秀吉、三島を招諭す。来島通総、これに応じ毛利氏と絶つ

天正9年 4月13日  大日本史料    因幡私部城毛利豊元の部下長砂與五郎、山名禅高の、播磨姫路城に在る羽柴秀吉の
                  許に送る密使を撃殺す【因幡民談】

天正10年* ?   村上系図証文   ●大野直政、能島村上の代理として秀吉に姫路に招かれ信長に味方するよう誘われ
                  るが断るため後、村上家とともに睨まれる!
天正9年     東和町史     ○来島は毛利を離れて織田氏に属し能島と対立することとなる。
天正9年     上川大野系譜    ■大野兵庫介直政 豊臣秀吉の招きにより浅野氏の所で甲、鎧、青具柄の鎗を賜り
                  帰島し輝元に附いたため秀吉天下の時赤間より上に住めず。

天正9年     上川大野系譜    ■備中高島弓箭の節、羽柴氏使者来ると雖も、河野母堂春禅院承引なく、あまつ
                  さえ過言有り、当家は毛利家と従来懇意にて
                 黙止し難き神文の約に因り催促に応ぜず、手切れに及び了る。
天正9年    大野家譜上田本    ○備中高島弓箭の節、羽柴氏使者来ると雖も、河野母堂春禅院承引なく、あまつ
                  さえ過言有り、当家は毛利家と従来懇意にて
                 黙止し難き神文の約に因り催促に応ぜず、手切れに及び了る。

天正9年       浦家文書    ○秀吉は能美(浦家)の調略を行い周防、長門、安芸を餌に抱き込みを図る。
                  が失敗する
天正9年 誤    周防大島町誌    ○来島・能島両家の不仲は来島通総は黒田官兵衛を通じ秀吉に通じてしまい毛利は
                  来島大島領地を武吉へ。
天正9年 4月   伊予年表      ○河野通直(伊予守)は毛利氏家臣吉見弘頼の女を娶る。
天正9年 4月  TKUBO HP   ○河野通直(伊予守)は毛利氏家臣吉見弘頼の女(矢野)・元就の曾孫、を娶る。

天正9年 5月26日  大日本史料    伊予河野通直、宮脇新左衞門の、来島通総の来攻を防戦せる功を褒す【河野家譜】
天正9年 6月1日   大日本史料    吉川元春、元長父子、粟屋彦右衞門尉に父三河守の所領等を相続せしむ
天正9年 6月3日   大日本史料    長宗我部元親の將久武親信、兵を遣し、河野通直の属城伊豫岡本城を襲ひて、
                  之を取る、同国大森城土居清良、親信を撃ちて、之を斬る、
天正9年 是日、           通直、清良の戦功を褒す【土居文書、元親記】
天正9年 6月19日  大日本史料    羽柴秀吉、播磨姫路城に在り、是日、茶会を催す

天正9年 6月25日  大日本史料    羽柴秀吉、因幡に入り、毛利氏の將吉川経家を鳥取城に囲む
天正9年 7月4日   大日本史料    伊豫河野通宣卒す【予陽河野家譜、河野軍記】
天正9年 7月4日   予陽河野家譜   ○河野家惣領 左京太夫 通宣 湯築城で逝去。号 日勢院殿洞月良恵大禅定門
天正9年 7月23日  大日本史料    土佐長宗我部元親、伊豫金子城の金子元宅と盟約す【金子文書】
天正9年 8月14日  大日本史料    信長、毛利輝元の、因幡鳥取城を赴援せんとするを聞き、親ら出陣せんとし、長岡
                  藤孝等をして準備を為さしむ、尋で、羽柴秀吉に馬を與ふ、

天正9年 9月    伊予年表     ○来島村上は公然と主家河野家に敵対する。
天正9年 9月8日  大日本史料    十河存保、阿波勝瑞城を復し、一宮成助を同国一宮城に攻む、是日、長宗我部元
                  親、久武親直をして、成助を赴援せしむ、克たず【昔阿波物語】
天正9年 9月11日  大日本史料    伊豫西園寺公廣、白木與次兵衞に父治部少輔の本領を安堵せしむ
天正9年 9月16日  大日本史料    伊豫北川親安、魚成親能、西園寺公廣に反き、長宗我部元親に通ず、土居清良、
                  之を攻む、是日、大友氏の水軍、伊豫板島、津島を侵すに依り、兵を収む、尋で、
                  親安、親能、元親と絶ち、公廣に帰属す【清良記】

天正9年 9月16日  大日本史料    羽柴秀吉の水軍の將松井康之、毛利氏の水軍と因幡湊川口に戦ひて、鹿足元忠等を
                  斬り、進みて伯耆泊城を攻め、又大崎城下を火く、是日、信長、其功を褒す
天正9年 9月22日  大日本史料    吉川元春、同経家等を遣して、因幡鳥取城を赴援せしむ
天正9年 9月22日  大日本史料    羽柴秀吉、亀井眞矩(茲矩)の、吉川元春の茶磨山著陣を報ずるに答へ、尚、
                  因幡鹿野城の守備を厳にせしむ
天正9年 10月20日  大日本史料    羽柴秀吉、亀井眞矩(茲矩)をして、因幡鹿野城を厳守し、吉川元春に備へしむ
天正9年 10月23日  大日本史料    羽柴秀吉、旧に依り、淡路岩屋船の分国中を廻漕するを許し、又與一左衞門の
                  船に諸公事を免除す

天正9年 10月25日  大日本史料    羽柴秀吉、毛利輝元の將吉川経家を因幡鳥取城に囲む、経家、士民に代りて自殺
                  し城を致す、是日、秀吉、同城を收む、尋で、宮部継潤をして、之を守らしむ
天正9年 10月28日  大日本史料    毛利輝元の先鋒吉川元春、羽柴秀吉の党南條元続を伯耆羽衣石城に攻めんとし、
                  同国馬山に陣す、是日、秀吉、進みて高山に陣す、尋で、播磨に帰陣す

天正9年 10月    上川大野系譜   ■大野直昌、毛利家より援兵の頼みあり、諾して兵衆を遣わす。
天正9年 10月   大野家譜上田本   ○大野直昌、毛利家より援兵の頼みあり、諾して兵衆を遣わす。

天正9年       伊予中世年表   ○長宗我部元親勢、宇和郡黒瀬城を攻め、これを焼いた。
天正9年 11月17日  大日本史料    羽柴秀吉、池田之助、淡路に入り、岩屋城を攻めて、之を陥れ、又、由良城を攻
                  略し、是日、姫路に旋る、尋で、秀吉、千石秀久に淡路を與ふ
天正9年 12月22日  大日本史料    信長の諸將、近江安土に抵り、歳暮を賀す、是日、羽柴秀吉、播磨姫路に帰る
天正9年 12月27日  大日本史料    羽柴秀吉、上京の途次摂津茨木城に於て茶会を催す

1582年
天正10年     大日本史料     羽柴秀吉、播磨姫路城を修築す、

天正10年   予陽大野軍記16    土居清良□合戦の事。附、武内□□打死の事。
天正10年   予陽大野軍記16    大野直之、多田信勝(綱)、不和の事。附、直之、信勝(綱)打出す事。
天正10年   予陽大野軍記16    中国毛利へ加勢の事。附、大野直之□□を討こと。
天正10年   予陽大野軍記16    備中高松篭城の事。附、秀吉公勢深和睦の事。

天正10年 1月是日  大日本史料   伊予大野直行、宇都宮宣綱と戦う。西園寺公廣、宣綱を援け直行の地蔵嶽城を囲
                  む、河野通直之を和解せしむ。【河野家譜】
天正10年 1月下旬  予陽河野家譜  ○大野直之は黒瀬城主西園寺氏(今の宇和町)と争って河野氏の調停で和解する。

天正10年   予陽大野軍記16    大津城合戦の事。附、大野、西園寺和睦の事。
天正10年   予陽大野軍記14    西園寺殿、長曾我部合戦の事。附、大野殿より加勢の事。

天正10年 1月10日  大日本史料   備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印
                  状を請ひて、駿河守に與ふ
天正10年 1月18日  大日本史料   羽柴秀吉、播磨姫路城に茶会を催す
天正10年 1月21日  大日本史料   羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、
                  秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ
天正10年 1月是日  大日本史料   小早川隆景、羽柴秀吉の来攻せんとするを聞き、備後、備中の諸將を備後三原に
                  会し、之を議す、

天正10年 2月9日  大日本史料   信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停め
                  て、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を
                  撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ【原本信長記】
天正10年 3月    伊予年表    ○仏殿城主妻鳥光家が長曾我部元親に通じたため討伐する、この頃から元親の伊予
                  侵攻が本格化する。

天正10年 3月15日  大日本史料   羽柴秀吉、播磨、但馬、因幡三国の兵を率ゐて、姫路を発し、備中に向ふ
天正10年 3月17日  大日本史料   羽柴秀吉、同秀勝と共に、備前児島の某城を攻む、

天正10年 3月17日  乃美家文書   ●秀吉の家臣、蜂須賀正勝と黒田孝高が連名で乃美兵部丞宗勝と嗣子乃美少輔四郎
                  盛勝へ書簡を出し寝返りを誘う。条件は

                  A・羽柴方に味方すれば望みの所領を与えるであろう。(宗勝、盛勝宛)
                  B・Aと同日付で盛勝のみに寝返りの具体的条件を提示。
【秀吉、毛利家臣乃美調略】     一、安芸、周防、長門の事参らせらるべく候、並びに黄金五百是又別無く候
                  一、児島の儀は備州に候間成らず候、
                  一、御親父御同心無きにおいては、それ様御一人御請け候て然るべく候、
                     さ候はば、右の三ケ国の内、いづれなりとも
                    貴所御望の所、一ケ国参らせらるべき事、

      3月18日  乃美家文書    C・A・B 翌日の日付で秀吉自身の名で、宗勝と盛勝の両名に対して、当家に
                   忠誠を尽くせば望みのことはなんでも受入れると誘う。

天正10年 日付未記入  萩藩譜録    ●毛利輝元が二宮就辰にあて「能島内部で心付が少ないと揉めている」と知らせ
                   ている。

                  二宮太郎右衛門辰相 只今、児三右(輝元家臣児玉元良)罷り越し候、その趣 
                  は、能島の儀 ちと替はりさうに聞こえ候
                 それと申すは、此方より心付うすく候ゆえ、元吉と家中の者ども腹立ちの由候、
                  然る所所帯の儀は申すに及ばず、一札の儀共ありありと仕り候はではと、
                 つねづね事々しく申し越され候、、河内越後(村上河内守吉継・越後守吉郷)
                  などへの儀も、此方あてがいは一円のことニ候、新屋の事今に罷り越すまじき哉と
                  存じ候条、
                 今夜より早打を遣はし、まず能島罷り渡り候事相待ち候へと申し聞かすべく候、
                 いかにも早飛脚はすべく候、只今その方折紙調へ、いかにも五調なる物申し付け
                 遣はすべく候、夜もひるも罷り越し候様に申し付くべく候、遅れ候へば相違すべく
                  候、心得の為に候、かしく

                 二太       宿

     (意訳・山内譲)    (児三右(児玉元良)ががやってきた。その話の内容は、能島が少しばかり心変わり
                 しそうだと云う情報があります。
                それと云うのも、当方の心付がうすく、村上元吉と家中の者どもが腹をたてていると
                云うのです。そこで見返りに与える所領は申すに及ばず、「一札の儀」もはっきり示さ
                ないとまずいのではないでしょうか、と云うものであった。また村上越後守吉継・
                同越後守吉郷などに与える所領も十分なものにしなければならない。そこで(能島に
                使者として派遣する予定の)新屋は まだ出発していないだろうから、今夜急使を派遣
                して能島に渡るのを待つように伝えよ。

天正10年 3月21日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨の地を余田源太郎等に宛行ふ、
天正10年 4月2日  大日本史料   伊豫河野通直及び西園寺公廣、毛利輝元の請に依り、援兵を出す
                【予陽河野家譜、清良記】
天正10年 4月4日  大日本史料   羽柴秀吉、備前岡山に著陣す、尋で、備中高松城清水宗治等を誘降せしむ、宗治、
                 応ぜず

天正10年 4月5日  瀬戸内の海賊山内  ○小早川隆景は乃美宗勝の手紙を出し、因島の村上亮康が来島に渡った旨を知ら
                   せ、最後の来島離反阻止の活動と思われる。【乃美家文書】
天正10年 4月7日  瀬戸内の海賊山内  ○小早川隆景は亮康の兄、吉充への書状に「両島相違の段申す事なく候」と見え
                   るので、来島離反がはっきりしたと思われる。【因島村上文書】
天正10年 4月7日  広島県文書館    之より先、因島村上氏、来島村上氏から織田方に誘われるが毛利方に留まる。
                  (第二回特別展説明)         *【7日に会談始まりか】

天正10年 4月10日  村上系図証文   ●大野直政、能島村上の代理として秀吉に姫路に招かれ信長に味方するよう誘わ
                   れるが断るため後、村上とともに睨まれる!    *4/10会談説有り
       萩藩譜録村上図書   「秀吉は信長の命を受けて、能島 来島から家臣をひとりづつ、播州姫路の自陣
                   に密に招いた。能島村上家から大野兵庫直政が出かけた。秀吉は
                  将来は四国を、当座は伊予十四郡を与えることを条件に、武吉 元吉の忠節を
                   求め、もし武吉 元吉が承知しないなら、大野直政だけでも、自軍に味方する
                   よう説得した。大野兵庫は早速 武吉 元吉に報告したが、毛利方の乃美宗勝
                   の懸命の説得があり手切れとなった。」

天正10年 4月11日  広島県文書館   能島・来島、両村上氏、毛利方、織田方に引き分けとなる。
                  (第二回特別展説明) *【広島県文書館は姫路会談を11日と推定する】
天正10年 4月13日  乃美宗勝書状   ●来島は毛利・河野に手切れし織田(秀吉)方に走るが武吉側は毛利・河野方に
                   留まった事を謝す。(乃美から武吉への返報)

天正10年 4月14日  大日本史料    羽柴秀吉、宇喜多秀家の兵と共に備中に入り、宮路山、冠山の両城を囲む
天正10年 4月14日  小早川隆景書状  ●来島通昌が秀吉に走ったが野島は踏み留まった事を謝し、秀吉が合戦の準備を
                   しているから守を固めるようにと乃美を使者に伝える。(隆景→元吉)

天正10年 4月14日  萩藩閥閲録1-573  

        今度通昌(来嶋)不慮之御覚悟、無是非次第候、然処披引分、無二之御入魂、
       更難述言語候、連々不可有忘却候、勿論来嶋披及鉾楯儀候条、聊以見放申間敷候、
       此旨於偽者、可罷蒙
       日本国大小神祇・八幡大菩薩・殊厳島両大明神御罰者也 仍如件

      (天正十年) 卯月十四日  隆景 御判
       村上掃部頭(元吉)殿

天正10年 4月17日  萩藩閥閲録1-576

       追而御折紙令拝見候、来嶋表行付而、従(安芸)忠海警固衆可差出之由候哉、就夫、
      (河野)通直御事、至(伊予)道前可披成御出由候哉、尤存候、随而此方一勢事、
       承得其心候、隆景令相談不可有緩候間、委細不可有指行候歟、従元吉も御懇承候間
      畏悦不浅候、旁御入魂不可有忘却候、必従是可申述候、猶隆景可披相達候、恐々謹言

     (天正十年カ) 卯月十四日  (毛利)輝元 御判

       村上大和守殿 御返報

天正10年 4月19日  和歌山藩藩中」古文書  ●秀吉は来島方の村上吉継・吉郷の両名に書簡を送り「来島村上家に対し
                      て数代忠節を尽くしてくたのだからこの度も行動をともにせよ」と
           京塚村上文書      勧めている。通昌(通総)離反に対し反対し河野・毛利側にとどまった
                      ことを意味する。

天正10年 4月19日   羽柴秀吉書状     ●姫路会談に於いて武吉側が秀吉の味方に為らなかったが再考を促す書を
                      添えて使者国分寺を遣わす。(秀吉から武吉への書状)

原本山口県文書館         今度其嶋之儀、申段候處、両嶋内々御意趣候哉
村上図書家文書          相違之段、不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、
                貴所御分別を以、此節御忠義肝候、於様躰者国分寺へ申渡候  
                恐惶謹言

                                   羽 筑 
               (天正十年) 卯月十九日  羽 築  秀吉(花押)
                村上大和守(武吉)殿 御宿所

       (書き下し)  今度其の島の儀申し談じ候処、両島内々御意趣候はん哉、相違の段、是非に及ばず候、
                然れば私の申さる分は入らざる儀に候間、貴所御分別を以て、此の節御忠義肝要に候、
                様躰においては 国分寺へ申し渡し候。

      (意訳・山内譲) (これまでその方の能島家とはいろいろ交渉を続けてきたが、能島・来島両家の間で考 
                えの相違もあったのであろうか、別々の行動をとることになってしまった事は残念なこ
               とである。ただこの際、私事を捨てて分別をもって当方に忠節を尽くしてもらいたい。)

天正10年 4月19日  羽柴秀吉書状   ●羽柴秀吉書状(折り紙)

原本山口県文書館      尚以、被對公儀、可有忠節之由、被相定候上者、
村上図書家文書       私之意趣不入事候、其方次第、警固船等之儀、可申付候、
             先度被相越候使者、此方へ可給候、内證之儀可申入候、以上、
             其方御覚悟、此比相違之儀、御同彦次郎被申越付而、承届候、
              内證之趣、国分寺具被相違候、尤無余儀候、
              莬角御忠節之事ハ両嶋各別ニ可在之候条、私之意趣、
              更不入儀候間、□前之通、於此方聊不可有相違候、
              国分寺如被見及候、此表敵城中へわり入、かわやか城・すくも塚
             両城取巻、其上小早川幸山ニ候へ供、毎日此方足軽申付、
             十町十五町之内迄、雖令放火候、一人も不罷出候丞、
              落居不可有程候、委細国分寺可被申入候、  恐惶謹言

                                   羽 筑 
                (天正十年) 卯月十九日  秀吉(花押)
              村上掃部頭(元吉)殿 御宿所

天正10年 4月19日  穗田元清書状  ●来島通昌(通総)が秀吉に走ったが野島は踏み留まった事を輝元。隆景が大変喜
                  んでいると伝える(穗田元清→武吉・元吉)

天正10年     上川大野系譜   ■大野直昌、宇都宮遠江守豊綱女を娶り、宇都宮領公文書を持来る。
天正10年    大野家譜上田本   ○大野直昌、宇都宮遠江守豊綱女を娶り、宇都宮領公文書を持来る。
天正10年   大洲宇都宮家譜    ○宇都宮豊綱女 章子、一条内政公北方公薨去之後、大徐城主大野山城守直昌に
                   再縁、天正十年壬午年。

天正10年    上川大野系譜    ■西園寺家、直之と聊か確執に及び津々喜高行、直昌、直之に加勢し執事を遣わし
                  て戮力す、河野通直和解して之を収む。
天正10年    大野家譜上田本   ○西園寺家、直之と聊か確執に及び津々喜高行、直昌、直之に加勢し執事を遣わし
                  て戮力す、河野通直和解して之を収む。
天正10年    上川大野系譜   ■大野直昌、又、毛利家へ兵を遣わす。
天正10年    大野家譜上田本   ○大野直昌、又、毛利家へ兵を遣わす。

天正10年    小早川HP     ○織田信長は羽柴秀吉を総大将として中国平定の軍を起すや宇喜多直家は秀吉に
                  人質をだし寝返った。
天正10年    伊予中世年表    ○河野氏と西園寺氏は毛利氏の要請により中国に兵を送り、秀吉の軍と対峙した。
天正10年 4月24日  米蟲剛石氏所蔵文書  ○秀吉は備中の武将 上原元将に書簡を送り「海上の事、塩飽、能島、来島
                     人質を出し、城を相渡し一篇せしめ候」と偽情報を出しかく乱する。
天正10年 4月25日  大日本史料    羽柴秀吉の党宇喜多忠家、備中冠山城を陥る
天正10年 5月2日   大日本史料   羽柴秀吉、乃美元信を備中宮路山城に攻めて、是日、之を陥る

天正10年 5月2日  大日本史料    羽柴秀吉、備中鴨城の將生石中務の内応に依り、同城を攻めて、克たず
天正10年 5月7日  大日本史料    羽柴秀吉、毛利輝元の將清水宗治を備中高松城に囲む、尋で、之を水責と為す、
                  毛利輝元、小早川隆景、吉川元春等と同城を赴援す
天正10年 5月9日  毛利r輝元書状   ○5/7付の書状に対し「来島が伊予で狼藉を働いているとのこと、備中に於いても
                 陣替えして秀吉と一戦に與及ぐ覚悟なればそちらも油断するな」輝元→武吉・元吉
                  【萩藩閥閲録1-576】

天正10年 5月17日  大日本史料   信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、
                  是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
天正10年 5月19日  大日本史料   羽柴秀吉、備中の陣中より溝江大炊允に其越中魚津城攻撃に参加せるを犒ふ
天正10年 5月19日  近江溝江文書  ○秀吉は溝江氏にたいしても「海上の儀、能島、来島、塩飽迄一篇に申付け、何も
                   島の城を請取り人数入れ置き候」と誇大な情報を流している。

天正10年 6月2日  日本全史     ○本能寺の変(明智光秀は織田信長を暗殺する。)

天正10年 6月2日  予陽大野軍記16  将軍、信長公逝去の事。附、伊勢守帰国の事。
天正10年     予陽大野軍記16   大野、軍評議の事。附、秀吉公勝利の事。

天正10年 6月4日  山口県史整理年表  秀吉、輝元の属城高松を囲みて備中に在り。この日織田信長殺さるの報到る。
                   秀吉これを秘して輝元と和し、城将清水宗治を自殺せしむ 【当代記】
天正10年 6月4日  大日本史料     羽柴秀吉、毛利輝元の属城高松を囲みて備中に在り、京都の変報至る、秀吉、
                   織田信長の訃を秘し、輝元と媾和す、城将清水宗治自裁す
天正10年 6月4日  小早川HP    ○信長暗殺の報に接し秀吉は急ぎ毛利との和睦(講和)を備中高松城主清水宗治を
                   切腹させてけりをつけた。

天正10年 6月5日  大日本史料    羽柴秀吉、摂津茨木城主中川清秀に答書して、織田信長父子難を免ると称す
天正10年 6月5日  小早川HP    ○信長暗殺の報を遅れて聞いた毛利勢は軍議を開き、吉川元春は秀吉追撃を主張す
                  るも、小早川隆景は誓紙を反古にできないと追撃せず。
天正10年 6月6日  大日本史料    羽柴秀吉、播磨姫路に還る
天正10年 6月6日  小早川HP    ○毛利軍が追撃せずに引き上げるのをみるや秀吉は急ぎ京に向かう。

天正10年 6月8日  大日本史料    因幡鹿野城主亀井茲矩、羽柴秀吉に謁す、秀吉、織田信長に禀して、之に出雲
                  一国を許す、然るに毛利輝元と和し、出雲を以て輝元に与ふることを約せるに依
                  り、茲矩をして、更に他国を撰ばしむ、茲矩、琉球を請ふ、秀吉、之を許す
天正10年 6月9日  大日本史料    羽柴秀吉、播磨姫路を発す、摂津尼崎に抵る
天正10年 6月9日  大日本史料    惟任光秀、長岡藤孝、同忠興父子を誘ふ、藤孝等、肯かずして、羽柴秀吉に応ず

天正10年 6月10日  広島県文書館   毛利氏、このころまで、織田方の船に対して海上封鎖を行う
                  (第二回特別展説明)
天正10年 6月11日  大日本史料    惟任光秀、筒井順慶を誘ふ、順慶之と絶つ、使を遣して、羽柴秀吉に応ず
天正10年 6月12日  大日本史料    羽柴秀吉、池田恒興等と議し、高山長房、中川清秀を先鋒とし、使を大坂に
                   遣して、神戸信孝を迎ふ、富田に陣す
天正10年 6月13日  大日本史料    神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀と山城山崎に戦ひ、大に之を破る、光秀走り
                   て、勝龍寺城に入る、逃れ出でゝ途に土民に殺さる
天正10年 6月13日  小早川HP    ○京、山崎の合戦で秀吉は明智光秀を破り、天下人へ登りつめていくこととなる

天正10年 6月14日  大日本史料    羽柴秀吉、近江に入り、三井寺に陣す、明智秀満、安土城を焼きて、坂本城に
              入る、秀吉、堀秀政をして之を攻めしむ、秀満、光秀の妻孥を手刄し、火を放ちて自殺す
天正10年 6月14日  大日本史料   山城槇島城主井戸良弘、惟任光秀に与す、城を筒井順慶に致して去る、順慶、
                   兵を率ゐて醍醐に陣し、神戸信孝、羽柴秀吉等の軍に会す
天正10年 6月16日  大日本史料    神戸信孝、羽柴秀吉等、近江安土に抵る、秀吉、長浜に入り、山本城主阿閉貞大
                   を斬る、惟住長秀も亦佐和山を復す

天正10年 6月17日  大日本史料    神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀の首級を得、之を本能寺に梟す、光秀の臣斎藤
                利三を六条河原に斬り、また其首級を本能寺に梟す、光秀、利三等の屍を粟田口に磔す
天正10年 6月19日  大日本史料    羽柴秀吉、美濃今尾城主高木貞久に書を与へて、惟任光秀の処分を報じ、明日、
                   美濃に入らんとするを告ぐ
天正10年 6月19日  大日本史料    徳川家康、兵を率ゐて、尾張鳴海に陣し、先鋒酒井忠次、津島に抵る、羽柴秀吉
                   の使者来りて、上方の平定を報ず、家康、兵を収めて、遠江浜松に帰る、

天正10年 6月23日  大日本史料    神戸信孝、美濃立政寺に禁制を掲ぐ、羽柴秀吉も亦禁制を授く、
天正10年 6月25日  大日本史料    神戸信孝、羽柴秀吉等、美濃、尾張に入り、惟任光秀の残党を平ぐ、秀吉、書を
                   高田長左衛門に与へて、濃尾の形勢を報じ、近く上洛せんとするを告ぐ

天正10年 6月?   乃美文書     乃美宗勝と村上武満が道後、すなわち河野氏の本拠で残した覚書にも通直が
                   符(府)中表へ出陣する旨の書簡

   (新熊本市史)          覚 於道後御相談之辻
                   一、至符中表、通直御出張之事
                    付、平遠・黒河馳走之事
                    付、正岡衆大略被調事
                   一、今度警固数難出事
                    付、見合不及一戦之由、武吉被申事
                  一、村河之申事、重而矢野被上進事
                    付、七郎進退言上之事
                    付、所帯之事
                   一、能美左馬允事
                    付、村河被申事
                  一、三嶋左太被申事
                    付、甘崎半之事

                         以上       宗勝
                                  武満

       【TKUBO解釈】     宗勝と武満が道後へと向かい、そこで村上武吉、村上吉継やその他有力な伊予の
                   武将との調整がなされたものと思われます。
                  ここでは平遠(浮穴郡の有力国人平岡遠江守通倚)、黒河(周布郡の有力国人
                   黒川氏)が協力すること、正岡衆に対する交渉が 整ったことなどが記されて
                   おり、河野方に残留した村上吉継、能美氏らについても記されますが、重見氏の
                   動静は見えません。

天正10年 6月27日  大日本史料    伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、
                   能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、 輝元の援を乞ひ、数
                   通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る
                  【村上文書、乃美文書、萩藩閥閲録等】

天正10年 6月27日  大日本史料    柴田勝家、羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等、尾張清洲城に会し、故織田信長の
                   継嗣を定め、遺領を処分す
天正10年 6月28日  大日本史料    羽柴秀吉、尾張清洲を発し、近江長浜に帰らんとす、美濃今尾城主高木貞久の
                   子貞利に船の用意を為さしむ
天正10年 7月    浦文書      ○小早川隆景は家臣乃美宗勝に書間を送り「来島での二度の合戦の捷利は本望で
                   ある」と述べている。

天正10年 7月3日  大日本史料    神戸信孝、本能寺屋敷を以て、故織田信長の墓所と為し、本能寺寺僧をして、
                  是地に還住せしむ、羽柴秀吉も亦之を命ず
天正10年 7月8日  大日本史料    羽柴秀吉、山城の指出を徴す、
天正10年 7月11日  大日本史料   羽柴秀吉、京都に入り、六条本圀寺に陣す、公家衆以下之を訪ふ
天正10年 7月11日  大日本史料   羽柴秀吉、誓書を長岡藤孝、同忠興父子に与ふ、忠興をして、所領を安堵せしめ、
                  更に惟任光秀の采地の丹後にあるものを加へ、其三分一を以て、家臣松井康之に
                  給せしむ

天正10年 7月11日  大日本史料   羽柴秀吉、備中高松を花房正成に、河内丹南郡の地を伊東祐兵に与ふ
天正10年 7月11日  大日本史料   筒井順慶、小泉四郎を質として、羽柴秀吉に致す
天正10年 7月11日  大日本史料   鍋島信生、直茂、使を遣して、好を羽柴秀吉に通ず、秀吉、之に答へて、
                  上方の形勢を報ず
天正10年 7月13日  大日本史料   羽柴秀吉、桑原次右衛門をして、京都の公事を聴かしむ
天正10年 7月13日  大日本史料   羽柴秀吉、京都を発し、播磨姫路に帰る、

天正10年 7月13日  山口県史整理年表  毛利輝元厳島社に玖珂郡本郷南方の地を寄進し武運を祈る 【厳島文書】
天正10年 7月17日  大日本史料   毛利輝元、使を羽柴秀吉に遣して、故織田信長の薨去を弔す、秀吉、之に答へ、
                  山崎城の築営に依りて、葬儀の延引せるを報ず
天正10年 7月18日  大日本史料   吉川元春、太刀を羽柴秀吉に贈り、山崎の戦捷を賀す、秀吉、之に答書す
天正10年 7月18日  大日本史料   毛利輝元、羽柴秀吉の将蜂須賀正勝、及び其子家政に、物を贈りて、山崎の戦捷を
                  賀す、吉川元春、小早川隆景も、亦家政に物を贈りて、之を賀す

天正10年 7月21日  大日本史料   羽柴秀吉、山城大山崎の条規を定む
天正10年 7月24日  大日本史料   羽柴秀吉、丹波亀山に之く
天正10年 8月4日  大日本史料    毛利輝元の将吉川元春、羽柴秀吉に好を通ぜんと欲す、惟住長秀、之を促す
天正10年 8月7日  大日本史料    羽柴秀吉、京都の奉行桑原次右衛門を罷め、浅野長吉及び杉原家次を以て、
                  之に替ふ、
天正10年 8月11日  大日本史料   羽柴秀吉、惟住長秀に答へて、織田秀信を安土に迎へんことを促す、

天正10年 8月23日  山口県史整理年表  毛利輝元、児玉元時をして、父就時の所領吉敷郡陶保・陶市その他を
                    安堵せしむ 【閥閲録】
天正10年 8月28日  大日本史料   羽柴秀吉、前播磨淡河城主有馬則頼に、美嚢郡の地を、前但馬出石城主山名堯煕
                  に、播磨加古郡の地を与ふ
天正10年 8月28日  大日本史料   長宗我部元親、土佐岡豊を発し、阿波を侵す、三好咲巌の一族十河存保と中富川に
                  戦ひて、大に之を破り、進んで勝瑞城を囲む【昔阿波物語】

天正10年 8月28日  大日本史料   長宗我部元親、次子香川五郎次郎をして、東讃岐を略せしむ【南海治乱記】
天正10年 9月3日  大日本史料   長宗我部元親、阿波一宮城主一宮成相を夷山城に殺す、細川信良、昭元、書を元親
                  の弟香宗我部親泰に与へて之を賀す【香宗我部家証文】
天正10年 9月5日  大日本史料   羽柴秀吉、淡路荘田城主船越景直をして、其所領を安堵せしむ
天正10年 9月8日  大日本史料   長岡忠興、丹後弓木城主一色義有を宮津城に誘殺す、弓木城を取る
天正10年 9月9日  大日本史料   羽柴秀吉、丹波士川勝秀氏に何鹿郡の地を与ふ

天正10年 9月13日  大日本史料   徳川家康、書を下野宇都宮城主宇都宮国綱に遺り、羽柴秀吉、惟住長秀、柴田勝家
                  等の来援するを以て、北条氏政の兵を掃蕩せんこと近きにありと称し、氏政と
                  連和する事勿らしむ
天正10年 9月14日  大日本史料   羽柴秀吉に命じて、御料所丹波山国荘及び細川等に於ける違乱を止めしめ給ふ
天正10年 9月16日  大日本史料   長宗我部元親、阿波新開牛岐城主新開道善を、丈六寺に誘殺す【三好記】
天正10年 9月18日  大日本史料   羽柴秀吉、惟住長秀等、山城吉田に会し、事を議す、また京都に会す

天正10年 9月21日  大日本史料   長宗我部元親、阿波勝瑞城を囲む、守将十河存保、城を致して、讃岐虎丸城に
                  去る、元親、岩倉城を収む【元親一代記】

天正10年 9月23日  愛媛県編年史5  ○毛利輝元、村上武吉・元吉に秋穂庄一千石、小早川隆景は賀川・伊保庄五百石
                   を与える。【閥閲録】

天正10年 9月25日  大日本史料    羽柴秀吉、播磨の地を福島正則、山内一豊に加増す
天正10年 9月26日  大日本史料    筒井順慶、山城山崎に羽柴秀吉を訪ふ
天正10年 9月29日  大日本史料    吉川元春の部将伯耆高野宮城主山田方宗、羽衣石城主南条元続の家臣を誘ひ、其
                   城を攻略す、元続、逃れて京都に奔る、元春、書を方宗に遺り、之を褒す、岩倉
                   城主小鴨元清も亦京都に奔る、
天正10年 10月3日  大日本史料    羽柴秀吉を従五位下に叙し、左近衛権少将に任ず

天正10年 10月6日  大日本史料    柴田勝家、書を堀秀政に与へて、羽柴秀吉の清洲の誓約に違背するを責め、
                   更に山城山崎に築城せるを難ず
天正10年 10月9日  大日本史料    羽柴秀吉、田路基久に播磨宍粟郡の地を与ふ、生駒孫七、伊藤掃部、浅野長吉、
                   安積将監等にも、亦山城、丹波等に於て、采地を給す
天正10年 10月13日  大日本史料   羽柴秀吉、播磨より上洛す、秀吉の養子秀勝も亦、丹波より入京す

天正10年      伊予年表    ○来島通総と毛利氏は越智郡大島及び風早郡忽那島で戦い通総は京都に敗走した、
                   後秀吉の口ぞえで伊予に復帰する。
天正10年 10月14日  大日本史料  長宗我部元親の将香宗我部親泰、書を紀伊紀湊の雑賀衆に与へて、警固衆の来援
                  を謝し、併せて其帰帆を報ず【森関右衛門蔵古文書】
天正10年 10月   大日本史料    長宗我部元親、讃岐に入り、十河城を囲み、兵を留めて国に帰る【元親一代記】
天正10年 10月15日  大日本史料   羽柴秀吉、養子秀勝と贈太政大臣従一位織田信長の葬儀を、山城大徳寺に行ふ

天正10年 10月15日  大日本史料   羽柴秀吉、山城山崎城に帰る、養子秀勝も亦丹波亀山城に還る
天正10年 10月16日  大日本史料   本願寺光佐、光寿父子、羽柴秀吉、惟住長秀、堀秀政に物を贈る
天正10年 10月18日  大日本史料   神戸信孝、書を羽柴秀吉に与へて、柴田勝家と修睦せしむ、秀吉、信孝に答書し
                  て、信孝の己を疎斥するの非理を陳弁す
天正10年 10月19日  大日本史料   神祇大副吉田兼和、山城山崎城に羽柴秀吉を訪ふ
天正10年 10月19日  大日本史料   羽柴秀吉、因幡鳥取城守将宮部継潤に命じて、軍備を厳にし、且つ鹿野城に粮米
                  を入れしむ、鹿野城主亀井茲矩にも亦命じて、軍備を厳にせしむ

天正10年 10月21日  大日本史料   羽柴秀吉、書を播磨姫路城留守衆に与へて、京畿の形勢を報ず
天正10年 10月21日  大日本史料   足利義昭、織田信長の薨去に乗じ、毛利輝元に頼りて、京都に復帰せんとす、果
                  さず、輝元及び羽柴秀吉の部将黒田孝高、蜂須賀正勝をして、之を秀吉に説かし
                  む、秀吉諾す、義昭、孝高に物を贈りて、秀吉説得の労に酬ゆ
天正10年 10月22日  大日本史料   羽柴秀吉、本願寺光佐、光寿父子に答へて、物を贈れるを謝し、併せて京畿の状
                  況を報じ、又紀伊根来へ出兵のことを云ふ

天正10年 10月23日  大日本史料   羽柴秀吉、山城大徳寺領を安堵す
天正10年 10月23日  大日本史料   筒井順慶、羽柴秀吉に山城山崎に会す
天正10年 10月25日  小早川隆景書状  ○来島離反に付き、防州賀川・伊保庄の内五百石を与えると書を添えて乃美に
                    伝えさせる。(隆景→武吉・元吉)
天正10年 10月28日  大日本史料   羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等と京都本圀寺に会す
天正10年 11月1日  大日本史料    神戸信孝、毛利輝元と好を通ず、誓書を調へて、輝元の将吉川元春に送る、

天正10年 11月2日  大日本史料    神戸信孝、柴田勝家、瀧川一益等、羽柴秀吉を除かんと図る、然れども越前雪深
                   きを以て兵を出すに便ならず前田利家等を遣して姑く之と和せんとす
                   利家等、山城山崎城に抵り、秀吉と和を講ず、秀吉、之を諾す
天正10年 11月3日  大日本史料    羽柴秀吉、京都より山崎に帰る
天正10年 11月5日  大日本史料    筒井順慶、羽柴秀吉の為に、兵を近江に出す
天正10年 11月10日  大日本史料   羽柴秀吉、惟住長秀と京都に会す

天正10年 11月10日  大日本史料   惟住長秀、三子高吉を羽柴秀吉の養子となす
天正10年 11月11日  愛媛県編年史5  ○毛利輝元、村上武吉に書を送り、来嶋通総の帰国を許さぬ旨を伝える。
                   【閥閲録】
天正10年 11月12日  大日本史料   長岡藤孝、羽柴秀吉を山城山崎に訪ふ、丹後に帰る
天正10年 11月12日  大日本史料   羽柴秀吉の臣堀尾吉直、吉晴、丹波柏原別宮八幡宮に、氷上郡の地を寄す
天正10年 11月15日  愛媛県編年史5  ○河野通直、村上武吉に書を送り、来嶋通総に対して寛大な処置を望む。
                   【閥閲録】

天正10年 12月2日  愛媛県編年史5  ○河野通直、村上元吉に伊豫国内に異状がないことを告げ、武吉と談合して来嶋
                   通総に対し善処を求む。【閥閲録】
天正10年 12月4日  大日本史料   羽柴秀吉、惟住長秀、復京都に会して、事を議す、長秀に供御及び公家衆所領安堵
                  のことを命じ給ふ、秀吉、長秀、命を奉じて、連署の証状を上る
天正10年 12月9日  大日本史料   羽柴秀吉、兵を率ゐて、近江に入る
天正10年 12月12日  大日本史料  細川信良、昭元、京都の騒乱を避けて、阿波に之き、長宗我部元親に頼る、京都に
                  還る、書を元親の弟香宗我部親泰に与へて、其懇遇を謝す【香宗我部家伝証文】

天正10年 12月14日  大日本史料  羽柴秀吉、小西行長に書を与へて、材木運送の遅延を叱責す、
天正10年 12月17日  大日本史料  羽柴秀吉、大垣城に入り、西美濃を徇ふ、今尾城主高木貞久父子に書を遺りて、
                 其来降を要む

天正10年 12月18日  愛媛県編年史5  ○毛利輝元、村上武吉に来嶋の寝返りに伴い八代島来嶋分、安芸江田島を
                    与える。【閥閲録】

            今度来嶋不慮之逆意候之、處、武吉以無ニ之御覚悟、御入魂是本望
            之至候、然間、屋代島之内来島分、江田島之、事進置候、全知行簡要候、
            猶、(小早川)隆景可被申候、 恐惶謹言  

                十二月十八日  (毛利)輝元 (花押)
             村上大和守(武吉)殿 御宿所

天正10年 12月20日  大日本史料   毛利輝元の将吉川元春、家を長子元長に譲る
天正10年 12月20日  大日本史料   羽柴秀吉、近江長浜城主柴田勝豊を誘降し、進んで美濃に入り、岐阜城に神戸信
                孝を囲む、信孝、織田秀信を出し、質を添へて和を請ふ、秀吉、之を納る、兵を収む
天正10年 12月24日  大日本史料   羽柴秀吉、物を織田秀信に贈りて、歳暮を賀す
天正10年 12月26日  大日本史料   羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等、書を神戸信孝の臣伊勢神戸城主小島民部少輔
                  に与へて信孝と北畠信雄との和融を報じ瀧川一益の民部少輔に命じて、築かしむる
                  ところの砦を撤せしむ

天正10年 12月27日  大日本史料   羽柴秀吉、来春正月再び北伊勢及び岐阜に兵を動さんとし、諸将に命じて、
                  予め之に備へしむ
天正10年      大日本史料   羽柴秀吉、近江朝妻城主新庄直頼を山城山崎城に封じ、三万石を知行せしむ
天正10年     毛利伊豆文書   ○秀吉・輝元和議成立。毛利家より人質、福原元俊、吉川元春より三男広家、
                  小早川隆景より藤四郎元綱を出す。【閥閲録】