西暦1594年
文禄3年 1月1日 大日本史料 秀吉、大坂城に、秀次、聚樂亭に、各諸將の賀を受く
文禄2年 1月3日 大日本史料 秀吉、大坂城を拾丸(秀頼)に與へんとし、山城伏見に城く、是日、佐久間政實等を普請
奉行と爲し、諸將をして、工を助けしむ
文禄3年 1月3日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の松浦宗静(鎭信)をして出征中の者及び留守居の者を誌して報告せしむ
文禄3年 1月16日 大日本史料 秀吉、明との和議の輙く成らざるに依り、朝鮮在陣の諸將をして、交代せしめ、守備を
嚴にせしめ、目附を遣すこと、兵粮を送ること等を令す、
文禄3年 1月17日 大日本史料 秀吉、加藤貞泰に美濃厚見郡等四萬石の地を宛行ふ、
文禄3年 1月20日 大日本史料 是より先、明遊撃沈惟敬、慶尚道熊川に小西行長に會し、秀吉の降表無くば、封貢を許
さざるべきを告ぐ、仍りて、相議して、之を假作す、是日、惟敬、之を持ちて遼東に向ふ
文禄3年 1月21日 大日本史料 秀吉の側室京極氏、大坂城西丸に移り、西丸殿と稱す
文禄3年 1月25日 大日本史料 是より先、秀吉、諸將をして、船舶を造らしむ、是日、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)
をして、其建造せる十艘を青木一矩・寺澤正成に渡さしむ
文禄3年 1月27日 大日本史料 秀吉、慶尚道熊川の島津義弘をして、守備を嚴にし、来年に備へ、敵の半弓に對し、
半切楯を準備せしむ
文禄3年 1月27日 大日本史料 徳川家康、江戸城を修築せんとす、秀吉の山城伏見城の普請に依り、之を止む
文禄3年 1月28日 大日本史料 秀吉、美濃部四郎三郎を遣して、松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ひ、速に兵粮を
送るべきこと等を告ぐ
文禄3年 1月28日 大日本史料 秀吉、島津義弘に小袖を與へ、朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄3年 1月28日 大日本史料 秀次、大坂に赴き、秀吉に見ゆ
文禄3年 2月5日 大日本史料 豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、朝鮮に病むに依り、秀次、之を慰問す、尋で、
醫師を遣す
文禄3年 2月6日 大日本史料 明副總兵劉綎等、秀吉の求むるは通婚・割地の兩件にして、沈惟敬の持参せる表文は偽作
なるを、朝鮮王李昖に馳報す
文禄3年 2月13日 大日本史料 秀吉室北政所杉原氏等、山城伏見城山里の茶亭に花を觀る
文禄3年 2月14日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に入る
文禄3年 2月16日 大日本史料 秀次、秀吉に山城伏見城に見ゆ
文禄3年 2月20日 大日本史料 秀吉、加藤茂勝(嘉明)に朝鮮の戦功を賞し、淡路岩屋の地を加増す、又、茂勝
(嘉明)を藏入分同國岩屋の地を加増す、又、茂勝(嘉明)を藏入分同國岩屋の代官と爲す
文禄3年 2月21日 大日本史料 秀吉、秀次を山城伏見城山里の茶亭に招き、茶會を興行す、又、秀吉、大坂に歸り、
秀次、聚樂亭に歸る、
文禄3年 2月27日 大日本史料 秀吉、秀次と花を大和吉野に觀て、吉水院に館す、公家衆・諸將、之に從う
文禄3年 2月30日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ひ、警固を嚴にせしむ
文禄3年 2月 大日本史料 秀吉、下總古河の足利頼氏をして、兄國朝の遺跡を相續せしむ
文禄3年 3月2日 大日本史料 秀吉、大和吉野より紀伊高野山に、秀次、羽柴秀保の大和郡山城に向ふ
文禄3年 3月3日 大日本史料 秀吉、紀伊金剛峯寺に詣す、明日、大政所(天瑞院)の位牌所に法會を修し、青巖寺に
館す、尋で、能を興行す、
文禄3年 3月6日 大日本史料 秀吉、大坂城に歸る、
文禄3年 3月7日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請を始めしむ
文禄3年 3月15日 大日本史料 秀吉、大坂城に能を興行し、新曲五番を演ず、
文禄3年 3月17日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請に臨む
文禄3年 3月18日 大日本史料 秀吉、側室蒲生氏(三條局)の能衣裳を贈りしを謝し、近く参會すべき旨を告ぐ
文禄3年 3月19日 大日本史料 薩摩鹿兒島の島津忠恆、山城伏見に至りて、秀吉に謁す、尋で、秀次に聚樂亭に謁す
文禄3年 3月20日 大日本史料 秀吉、山城淀城を毀たしむ
文禄3年 3月20日 大日本史料 秀吉、側室蒲生氏(三條局)に、速に山城伏見城に迎ふべきことを告ぐ
文禄3年 3月21日 大日本史料 秀吉、伊藤丹後守に播磨山國村等を、水原龜介に丹波の替地として、播磨妙樂寺村の地
を宛行ふ、
文禄3年 3月22日 大日本史料 秀次、秀吉に虎頭を進む、
文禄3年 3月28日 大日本史料 秀吉、茶屋四郎二郎・龜屋榮任を菓子奉行と爲す
文禄2年 3月 心斎橋今昔年表 秀吉は、伏見城に移住
文禄3年 4月1日 大日本史料 秀吉、山城伏見城より京都の施藥院全宗の亭に臨む
文禄3年 4月3日 大日本史料 秀吉、蒲生氏郷の邑陸奥會津・耶麻等十郡の地を檢地せしむ
文禄3年 4月8日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家の京都の亭に臨む、能あり
文禄3年 4月11日 大日本史料 秀吉、参内して、能を興行す、
文禄3年 4月14日 大日本史料 秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷のの山城伏見の亭に臨む
文禄3年 4月15日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、前左大臣近衞信輔(信尹)を薩摩に遷す、
文禄3年 4月17日 大日本史料 秀吉、大坂の銀吹二十人を改定す
文禄3年 4月20日 大日本史料 秀吉、備前岡山の宇喜多秀家の山城伏見の亭に臨む
文禄3年 4月22日 大日本史料 秀吉の側室京極氏(西丸殿)、攝津有馬に湯治す
文禄3年 4月27日 大日本史料 秀次、大坂城に秀吉に謁す
文禄3年 4月29日 大日本史料 秀吉、攝津有馬に湯治す
文禄3年 4月30日 大日本史料 慶尚道西生浦の加藤清正、秀吉に、朝鮮の状況を報ず
文禄3年 4月 大日本史料 秀吉、諸寺をして、其宗派の學問を勵精せしめ、女犯・肉食等の破戒は住持長老・弟子
同宿をして、互に監視せしむ、
文禄3年 4月 大日本史料 徳川家康の家臣永井直勝を、右近大夫に任じ、從五位下に敍す、秀吉、之に豐臣氏を授く
文禄3年 5月1日 大日本史料 秀吉、前豐後府内の大友吉統等の罪科を、宇喜多秀家等朝鮮在陣の諸將に告ぐ
文禄3年 5月1日 大日本史料 秀吉、島津義弘の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄3年 5月1日 大日本史料 朝鮮釜山の天野一正、秀吉に衣服を予減られ死を社史、近況を方図秀吉、肥前平戸の松浦
宗静(鎭信)をして、秀吉に衣服を予減られ死を近況を方図鮮より逃れ歸り、或は之を
蔵匿する者を捕へ、殺さしむ、
文禄3年 5月12日 大日本史料 秀吉、攝津有馬より大坂に歸る
文禄3年 6月1日 大日本史料 秀吉、今井兵部を藏入分攝津闕郡我孫子村等の代官と爲す
文禄3年 6月2日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請奉行徳川家康の將松平家忠の勞を賞す
文禄3年 6月2日 大日本史料 秀吉、島津義弘に馬を與へて、朝鮮在陣の勞を犒ふ、
文禄3年 6月3日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請を視る
文禄3年 6月5日 大日本史料 秀吉、小出吉政に播磨の地二萬餘石を宛行ふ
文禄3年 6月7日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)に答へ、速に山城伏見より大坂に歸り、面子を土産に與ふべき
旨を述ぶ
文禄3年 6月12日 大日本史料 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)をして、明國に通信せしむ、是日、
明王朱翊鈞、答書を送る、
文禄3年 6月18日 大日本史料 秀吉、大坂に歸る
文禄3年 7月3日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請を視る
文禄3年 7月16日 大日本史料 秀吉の近臣石田三成、薩摩の檢地奉行に條規を與ふ、
文禄3年 7月20日 大日本史料 和泉堺の商人菜屋助右衞門、呂宗より歸り、唐傘・麝香・眞壺等を秀吉に進む
文禄3年 7月22日 大日本史料 秀吉、大政所(天瑞院)三囘忌の爲めに塔を東寺に建つ
文禄3年 8月5日 大日本史料 秀吉、千人斬十六人を捕へ、之を處刑す
文禄3年 8月5日 大日本史料 是より先、秀吉、新に朝鮮出兵の軍役を、百石に五人と定む、是日、朝鮮在陣の島津
義弘、其人數の未だ渡海せざることを、石田三成に告ぐ
文禄3年 8月10日 大日本史料 秀吉、伊木忠次をして山城伏見城作事入用米を三河吉田の池田照政(輝政)に渡さしむ
文禄3年 8月21日 大日本史料 秀吉、相國寺承兌(西笑)をして、豊臣氏の爲めに山城伏見に寺(豊光寺)を建立せし
めんとし、諸大名をして、之に勸進せしむ、
文禄3年 8月23日 大日本史料 秀吉、聚樂亭に行かんとし、之を延引す
文禄3年 8月23日 大日本史料 是より先、秀吉、山城伏見城内に瀧の座敷を作る、是日、大和多聞山の不用の古塔を同
城に移建せんとし、同國郡山の羽柴秀保をして、其工を督せしむ
文禄3年 8月24日 大日本史料 秀吉、巨盗を捕へ、是日、之を三條河原に刑す、
文禄3年 8月25日 大日本史料 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津忠恆の、父義弘の軍に朝鮮に從はんとするを許す、
是日、忠恆、肥前名護屋に出陣す、
文禄3年 9月9日 大日本史料 秀次、山城伏見に至る、又、秀吉、徳川家康の伏見の亭に臨む
文禄3年 9月14日 大日本史料 秀吉、奉行石田三成をして、薩摩・大隅・日向を檢地せしむ
文禄3年 9月18日 大日本史料 秀吉、山城伏見城瀧の座敷に茶會を催す、
文禄3年 9月21日 大日本史料 是より先、秀吉、伊勢を檢地す、是日、同國多気・渡會二郡の地を大神宮に寄進し、
同國の地を徳川家康・遠江掛川の山内一豊等に宛行ふ、
文禄3年 9月23日 大日本史料 秀吉、朝鮮釜山の島津義弘をして、守備を嚴にせしむ
文禄3年 9月 大日本史料 秀吉、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元を朝鮮より召還し、故羽柴秀長の女をして、
之に嫁せしむ
文禄3年 秋 大日本史料 山城伏見城竣り、秀吉、之に移る、
文禄2年 10月6日 上蔵院過去帳
○河野通直母、春松院殿天遊永寿(春禅院没、永寿大方) 完戸(宍戸)喜左衛門建立。
文禄3年 10月13日 大日本史料 秀吉の近臣増田長盛、正直屋宗與に攝津兵庫の地子錢及び諸座公事錢の算用状を與ふ
文禄3年 10月17日 大日本史料 是より先、秀吉、片桐直倫(旦元)をして、攝津を檢地せしめ、是日、諸社寺に地を
寄進し、伊東長實等に地を加増す
文禄3年 10月18日 大日本史料 秀次、秀吉室北政所を聚樂亭に饗す
文禄3年 10月20日 大日本史料 秀吉、聚樂亭に臨む、徳川家康等之に從ふ
文禄3年 10月28日 大日本史料 秀吉、越後春日山の上杉景勝の京都の亭に臨む
文禄3年 10月30日 大日本史料 秀吉、常陸水戸の佐竹義宣の京都の亭に臨む
文禄3年 10月 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家をして、宇治川に堤防を築かしむ、
文禄3年 10月 大日本史料 秀吉、奉行石田三成をして、常陸を檢地せしむ、
文禄3年 11月1日 大日本史料 是より先、秀吉、相國寺承兌(西笑)をして、山城伏見城中に方丈を建てしむ、是日、
石川光吉をして、藏入分近江の地の代官同國觀音寺に檜木を渡付せしむ
文禄3年 11月1日 大日本史料 小西行長、加藤清正の示せる講和の條件は、秀吉の意にあらざることを、慶尚道右兵使
金應瑞に告ぐ
文禄3年 11月11日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の父同道可(隆信)の、孔雀を進めしを謝す
文禄3年 11月13日 大日本史料 是より先、秀吉、猶子羽柴秀俊を小早川隆景の嗣子と爲す、是日、秀俊、備後三原城
に入る、
文禄3年 11月16日 大日本史料 是より先、秀吉、伊勢を檢地す、是日、同國宮川以内の地は檢地せざる旨を宇治惣中・
山田惣中・大湊惣中に告ぐ
文禄3年 11月17日 大日本史料 秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)の島津忠豐の、名鷹を進めしを謝す、
文禄3年 11月25日 大日本史料 秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む、
文禄3年 11月30日 大日本史料 秀吉、入京す、徳川家康、之に從ふ
文禄3年 11月 大日本史料 秀吉、攝津善福寺等に米を寄進するに依り、織田常眞(信雄)、之を同寺に告ぐ、
文禄3年 12月2日 大日本史料 是より先、秀吉、片桐直倫(旦元)をして、河内を檢地せしめ、是日、末吉勘兵衞を同
國の藏入分代官と爲す、又北條氏規等に同國の地を宛行ひ、譽田八幡宮等に地を寄進す、
文禄3年 12月3日 大日本史料 秀吉、伊勢安濃津の大寶院に、同國一志郡の地を寄進す
文禄3年 12月4日 大日本史料 秀吉、吉川廣家の、鷹を朝鮮より進めしを謝す、
文禄3年 12月10日 大日本史料 秀吉、藏入分攝津有馬湯山の代官同國善福寺に年貢等を督徴す
文禄3年 12月11日 大日本史料 秀吉の奉行石田三成・長束正家・増田長盛、若狭組屋甚四郎に、京都にて賣却せる
呂宋壺七箇の代金の請取状を與ふ、
文禄3年 12月20日 大日本史料 是より先、秀吉の子拾丸(秀頼)、大坂城より山城伏見城に移る、是日、秀吉の近臣
木下吉隆、之等を朝鮮在陣の吉川廣家に報ず
文禄3年 12月20日 大日本史料 明王朱翊鈞、重ねて、小西行長の將内藤如安を引見し、又、諸臣をして、秀吉の出兵の
名目等十一事を詰問せしむ、尋で、秀吉を日本國王に封ずるの議を定め、李宗城を册封
日本正使と爲す
文禄3年 12月21日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家の勞を犒ひ、速に兵粮船數艘を遣すべきこと、明後年は
出兵すべきことを告ぐ、
文禄3年 12月25日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の島津義弘及び吉川廣家をして、養生の爲め、鹽漬の虎肉を送らしむ、
文禄3年 12月26日 大日本史料 秀吉、朝鮮釜山の島津義弘の物を進めて、歳暮を賀せるを謝す、
文禄3年 12月27日 大日本史料 秀吉、徳川家康の女(北條氏直後室)をして三河吉田の池田照政(輝政)に嫁せしむ、
文禄3年 心斎橋今昔年表 大坂城の外周惣構が完成 (延長308町=約13㎞)
北は大川(旧淀川) 東は猫間川(平野川) 西は東横堀川を開削、南は空堀を開削し外周を形成。
(現、大阪城敷地の3倍)
この大工事は、遠近諸国から無類の石材や木材が舟で次々と運ばれ、段取りが悪いと、所領没収の
厳罰が下されるので大名は必死で、付近の水上には、遠路から何日もかけ運んだ1000艘の運搬船が
ひしめき合い、巨石を川に落としてしまう事もありました
文禄3年 秀吉、諸國を檢地せしむ、
文禄3年 伊予中山町誌 (一) 太閤検地
中山町の現在の大字にあたる江戸時代の村は、太閤検地による村切りによって確定した。豊臣秀吉の検地
はそれまでの戦国大名や織田信長が実施した指出検地とは根本的に違っており、指出検地が土地台帳の提出
だけで済んだのに対して、土地の測量を実際に行う(直接検地)点が最大の相違点であった。
太閤検地の基準は、秀吉による日本統一が進行するにつれて整備され、文禄三年(一五九四)には、
ほぼその大綱ができあがった。その概要は次のとおりである。
①間竿の統一………一間=六尺三寸とした
②一反は三百歩……従来は一反=三百六十歩
③桝の統一…………不統一であった桝を京桝に統一
④検地帳記載基準…検地帳に記載する地目を田・畑・屋敷の三種類とし、地位は上・中・下・下々
耕作者(年貢負担者)を記載
⑤石盛の実施………土地の生産力を査定、石高表示
⑥村切りの実施……太閤検地の特色。村境を確定
村の規模は集落の実態に合わせたから極端に大きな村があるかと思えば、非常に小さな村もあった
文禄3年 大日本史料 秀吉、耶蘇教徒數人を京都・大坂に捕へて、肥前長崎に送り、之を刑す
文禄3年 大日本史料 比律賓諸島長官の使節、山城伏見城に秀吉に謁し、答書を呈す
西暦1595年
文禄4年 心斎橋今昔年表 伏見大地震により伏見城が崩壊、再普請を開始
文禄4年 1月3日 大日本史料 秀吉、甲斐府中の淺野長繼(幸長)等の普請奉行をして、信濃・甲斐・上野の人數を徴
し、上野草津温泉に座所を建てしむ
文禄4年 1月7日 大日本史料 伊賀上野の筒井定次、山城伏見城に至り、秀吉に歳首を賀し、尋で、秀次に聚樂亭に謁す
文禄4年 1月14日 大日本史料 秀吉、日向飫肥の伊東祐兵の、朝鮮にて狩獲せる虎を進めしを謝す
文禄4年 1月16日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家に、肥前唐津の寺澤正成の報告に依り、本年は出撃せざるこ
と、兵粮三萬石を送りしこと等を告げ、城邊を耕し、兵粮に充てしむ
文禄4年 1月20日 大日本史料 秀吉、伊勢員辨郡の地五千石を瀧川雄利に加増す、
文禄4年 1月28日 大日本史料 秀吉、美濃部四郎三郎・山城小才次を朝鮮に遣し、毛利元康の在陣の勞を犒ふ
文禄4年 2月1日 大日本史料 大阪城中盗あり、秀吉の金子を盗む、
文禄4年 2月2日 大日本史料 秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷の進めし桑木の鐵子を、叡覽に供す
文禄4年 2月8日 大日本史料 秀吉、蒲生秀隆(秀行)をして、亡父氏郷の封を襲がしめ、老臣を誡飾し、上杉景勝・
佐竹義宣・最上義光・伊達政宗に命じ、秀行を輔けしむ、秀次も亦、秀隆をして、
其封を安堵せしむ、
文禄4年 2月14日 大日本史料 鍋島勝茂を信濃守と爲し、從五位下に敍す、秀吉、之に豊臣姓を授け、其父肥前佐賀の
同直茂に亭地を山城伏見に與ふ、
文禄4年 2月14日 大日本史料 日向飫肥の伊東祐兵、朝鮮に於て虎を狩獲す、尋で、之を秀吉に進む、
文禄4年 2月16日 大日本史料 秀吉、大坂より山城伏見城に入る
文禄4年 2月16日 大日本史料 山中長俊、秀吉の命を吉川廣家に傳へ、朝鮮在陣の勞を犒ひ、來年は援軍を出すべきこ
と等を告ぐ、
文禄4年 2月24日 大日本史料 秀吉、茶屋四郎次郎に公事錢の皆濟状を與ふ
文禄4年 2月27日 大日本史料 秀吉の、御衣下賜を請ふを聽す
文禄4年 2月27日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)に敍爵せられんことを奏請す、
文禄4年 2月28日 大日本史料 秀吉、富田一白(知信)に知行二萬石を加増す
文禄4年 3月2日 大日本史料 秀吉・拾丸(秀頼)父子に、太刀・馬を賜ひ、山城伏見移徙を賀せしめらる、明日、
公家衆、秀吉に之を賀す、
文禄4年 3月6日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家に近江高島郡の地を加増す
文禄4年 3月7日 大日本史料 秀吉、入京し、前田利家の亭に臨む、尋で、又、之に臨む
文禄4年 3月8日 大日本史料 秀吉、聚樂亭に臨む
文禄4年 3月10日 大日本史料 秀吉、般舟三昧院に地を京都に與へ、山城伏見より之に移らしむ
文禄4年 3月10日 大日本史料 是より先、秀吉、養生の爲め虎肉を朝鮮在陣の諸將に徴す、是日、島津義弘、慶尚道
昌原に狩し、二虎を獲て鹽漬し、之を進む、尋で、秀吉、義弘を褒し、虎狩を停む、
文禄4年 3月17日 大日本史料 秀吉、参内せんとし、雨天に依り中止す、
文禄4年 3月25日 大日本史料 秀吉、山城伏見より京都に入る
文禄4年 3月27日 大日本史料 秀吉、参内して、太刀・白鳥及び綿を獻ず
文禄4年 3月28日 大日本史料 秀吉、徳川家康の京都の亭に臨む
文禄4年 4月3日 大日本史料 秀吉、因幡鹿野の龜井茲矩をして、伯耆日野山の銀を採掘し運上せしむ
文禄4年 4月6日 大日本史料 秀吉、大坂城に能を張行す
文禄4年 4月8日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)病むに依り、大坂より山城伏見城に入る
文禄4年 4月12日 大日本史料 秀吉、薩摩の檢地終るに依り、島津義弘をして、朝鮮唐島(巨濟島)より歸國せしめ、
其子忠恆をして、唐島を守らしむ
文禄4年 4月19日 大日本史料 秀吉、信濃飯田の京極高知に四萬石を加増す
文禄4年 4月21日 大日本史料 秀吉、山城伏見より大坂に歸る
文禄4年 4月22日 大日本史料 秀吉、吉川廣家の、慶尚道釜山より豹を進めしを褒す
文禄4年 4月26日 大日本史料 秀吉、薩摩出水郡の地一萬石を、對馬府中の宗義智に加増す
文禄4年 4月28日 大日本史料 明の遊撃沈惟敬等、慶尚道釜山に小西行長に會す、行長、明の朝服を著して之を迎へ、
諸將と議して、秀吉に謁し、撤兵の令を請はんとし、尋で、歸國す
文禄4年 4月 大日本史料 秀吉、畿内及び近江・美濃に、櫻樹を徴し、山城伏見及び向島に移植し、京都土居の
枯竹を、其柵に宛てしむ
文禄4年 5月1日 大日本史料 秀吉、吉川廣家に帷を與へ、朝鮮在陣の勞を犒ふ、尋で、秀吉、廣家の端午節供の祝儀物
を贈れるを謝す
文禄4年 5月5日 大日本史料 秀吉、象戯馬の王將を改めて、大將と爲さんことを請ふ
文禄4年 5月5日 大日本史料 秀吉、判金小判座二十七名を定め、其條規を下す
文禄4年 5月12日 大日本史料 秀吉の藏入分近江の地の代官石田三成、同國上平寺をして、寺領を安堵せしめ、
山林の竹木伐採を禁ず
文禄4年 5月19日 大日本史料 秀吉、其使者美濃部四郎三郎等、朝鮮より歸國するに依り、慶尚道釜山の吉川廣家・
毛利元康の在陣の勞を犒ひ、藏米を新米と交換せしむ
文禄4年 5月20日 大日本史料 秀吉・秀次、江戸の徳川家康に答へ、後會を約す
文禄4年 5月21日 大日本史料 秀次、山城伏見の亭に能を張る、秀吉及び北政所杉原氏、之に臨む
文禄4年 5月22日 大日本史料 秀吉、小西行長・大谷吉繼等に、重ねて、明との和議七箇條を示す、又、明及び朝鮮と
の和親成らんとするに依り、朝鮮在陣の諸將に處置を命ず
文禄4年 5月24日 大日本史料 秀吉、伊豫今治の福島正則等を城米奉行と爲し、慶尚道釜山に遣す、仍りて、吉川廣家
をして、其命に從ひ、古米を入換へしむ
文禄4年 5月29日 大日本史料 秀吉、甲斐府中の淺野長吉(長政)・長繼(幸長)父子をして、蒲生秀隆(秀行)の居
城陸奥會津の若松等七城を殘し、邑内の諸城を破却せしむ
文禄4年 6月2日 大日本史料 秀吉、日向佐土原の島津豊久の朝鮮在陣の勞を犒ひ、道服等を與ふ
文禄4年 6月3日 大日本史料 是より先、秀吉、陸奥會津の蒲生秀隆(秀行)の呈出せる知行目録等を疑ひ、秀隆を近江
二萬石に移さんとす、是日、秀吉、越後春日山の上杉景勝・安藝廣島の毛利輝元の意見を
徴す
文禄4年 6月6日 村上図書家文書 小早川隆景書状
(山口県文書館) (押紙)(朱書) 「文禄四年 才次郎、号元武ト」(元吉嫡男)
(宮窪町誌) 若子誕生誠珎重候、於吾等大慶之至候、仍為御祝儀、太刀一腰金覆輪
馬一匹令進之候 長久可申談之条、本望候、猶使者可申述候、恐惶謹言
六月六日 隆景 (花押)
村上掃部守(元吉)殿 御宿所
(奥ウハ書) 「小早川左衛門佐 隆景
村上掃部頭殿 御宿所 」
注 ①巻子仕立てで、「毛利家小早川家より御書」と題簽が付されている。
文禄4年 6月8日 大日本史料 秀吉、近江水口の増田長盛を大和に移し、郡山城を與ふ、又長束正家に近江水口を與ふ
文禄4年 6月18日 大日本史料 加賀金澤の前田利家、秀吉の不興を受けし、甲斐府中の淺野長繼(幸長)を能登津向に
置かんとし、三輪藤兵衞をして、其準備を爲さしむ
文禄4年 6月19日 大日本史料 秀吉、常陸を檢地し、同國水戸の佐竹義宣に五十四萬五千八百石の朱印状を與ふ、
文禄4年 6月19日 大日本史料 秀吉、新庄東玉齋(直忠)に伊勢安濃郡の地を加増す、又、故羽柴秀保の近臣藤堂高虎
を藏入分伊豫宇和郡の代官と爲す
文禄4年 6月29日 大日本史料 秀吉、薩摩・大隅及び日向諸縣郡を檢地し、是日、五十五萬九千石餘を島津義弘に與
ふ、又、其十萬石を兄同龍伯(義久)の藏入分と爲し、日向都城等八萬石を伊集院幸侃
(忠棟)に、一萬石を島津以久に與ふ
文禄4年 6月 大日本史料 朝鮮禮曹司李榮春・尹起辛等、書を秀吉に呈し、加藤清正の恩を謝し、其生祠を設けん
ことを告ぐ、秀吉、其書を清正の朝鮮西生浦の陣に遺り、之を褒す
文禄4年 7月 心斎橋今昔年表 秀次を高野山に追放し自殺。諸大名に血判起請文を提出させる
文禄4年 7月3日 大日本史料 是より先、秀次、其行跡修まらず、石田三成、秀吉に讒講して謀反と爲す、是日、秀吉、
三成・増田長盛等を聚樂亭に遣し、之を詰問す、
文禄4年 7月5日 大日本史料 安藝廣島の毛利輝元、秀次に進めし誓書案文を秀吉に呈す
文禄4年 7月6日 大日本史料 秀吉、山城龍安寺に地を寄進す
文禄4年 7月8日 大日本史料 秀吉、前田玄以等を聚樂亭に遣し、秀次を山城伏見に召致し、木下大膳亮の亭に留め、
其關白、左大臣の官職を褫ひ、紀伊高野山に逐ふ
文禄4年 7月10日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家・島津忠恆・立花親成(宗茂)に、秀次のことを告げ、動揺
することなからしむ
文禄4年 7月11日 大日本史料 秀吉、秀次の子女・妻妾を移して所司代前田玄以の丹波龜山城に錮す
文禄4年 7月12日 大日本史料 秀吉、所司代前田玄以をして、秀次の、謀反を企つるに依り、紀伊高野山に放ちしことを
奏せしむ
文禄4年 7月12日 大日本史料 秀吉、駿河府中の中村一氏を同國に於ける藏入分代官と爲す
文禄4年 7月12日 大日本史料 石田三成・増田長盛、秀吉の子拾丸(秀頼)に忠誠を誓ふ
文禄4年 7月13日 大日本史料 蒲生秀隆(秀行)、始めて陸奥會津城に入る、淺野長吉(長政)、秀吉の命に依り同行
す、尋で、長吉、京都に歸る
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、福島正則・福原直高・池田秀氏を紀伊高野山に遣し、秀次をして、自殺せしむ
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、但馬出石の前野長康・長重父子・渡瀬重詮・服部春安・一柳右近將監等を捕へ、
尋で、之を殺す、
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、富田一白(知信)を伊勢安濃津城に封じ、五萬石を與へ、内二萬石を子信高に
給せしむ
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、遠江掛川の山内一豐に同國の地八千石、同國府中の中村一氏に五千石、讃岐高松
の生駒近規に五千石を加増す
文禄4年 7月20日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家を拾丸(秀頼)の傅と爲す、是日、利家、誓約す
文禄4年 7月21日 大日本史料 秀吉、伊豫松前の加藤茂勝(嘉明)に伊豫の地を與へ、同國の藏入分代官と爲す
文禄4年 7月22日 大日本史料 是より先、秀吉、高田小兵衞を紀伊高野山に遣し、故羽柴秀保の近臣藤堂高虎をして、
再び出仕せしむ、尋で、生駒近規をして之を諭さしめ、伊豫板島七萬石を與ふ
文禄4年 7月24日 大日本史料 徳川家康、秀吉の報に依り、山城伏見に著す
文禄4年 7月25日 大日本史料 秀吉、奏請して、右大臣菊亭晴季を越後に流す
文禄4年 7月29日 大日本史料 秀吉、故豊臣秀次の子女・妻妾を丹波龜山城より移して、美濃松木の徳永壽昌の京都の
亭に錮す
文禄4年 7月 大日本史料 石田三成、故豊臣秀次のことに就きて、丹後宮津の長岡忠興を秀吉に讒誣す、忠興の
老臣松井康之、徳川家康に頼り、其難を免る
文禄4年 7月 大日本史料 石田三成、甲斐府中の淺野長繼(幸長)を秀吉に讒誣し、殺さんとす、秀吉、前田利家
の諌に依り、之を能登津向に謫す
文禄4年 7月 大日本史料 秀吉、出羽山形の最上義光を京都の亭に錮す、又、伊達政宗、陸奥岩手山より上京し、
大坂の施樂院全宗の亭に入り、命を待つ
文禄4年 7月 大日本史料 徳川家康・毛利輝元・小早川隆景、秀吉・拾丸(秀頼)父子に異心なきを誓ふ
文禄4年 8月2日 大日本史料 秀吉、故豊臣秀次の子女・妻妾三十餘人を京都三條磧に殺さしむ
文禄4年 8月2日 赤穂市資料 関白豊臣秀次謀反事件に連座して、浅野長政失脚
文禄4年 8月2日 大日本史料 秀吉、法度六條を定む、明日、九條を追加す、
文禄4年 8月3日 大日本史料 秀吉、播磨龍野の小出吉政に、前野長康の遺領但馬の地五萬三千石餘を加増す、明日、
寺西正勝等に美濃の地等を加増す、
文禄4年 8月3日 大日本史料 秀吉、尾張小松寺等をして、寺領を安堵せしむ
文禄4年 8月3日 大日本史料 秀吉の奉行長束正家・増田長盛・前田玄以、藏入分の算用等につきて私曲なき旨を誓ふ
文禄4年 8月7日 大日本史料 秀吉、近臣片桐直倫(且元)等に所領を加増す
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉、尾張津島社等に同國東野村の地等を寄進し、伊勢松坂の古田重勝等に尾張の地
を宛行ふ
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉、三河岡崎の田中吉政等に同國西尾三萬石等を加増す
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉、近江朽木の朽木元綱に、同國高島郡の地九千石餘を加増す
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉の奉行石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以、故豊臣秀次の、雀部淡路の妻子に
與へし金子三枚を、紀伊金剛峯寺應其(興山)より請取る、
文禄4年 8月17日 大日本史料 秀吉、木下家定に播磨姫路二萬五千石を與へ、片桐直倫(且元)等に地を加増す
文禄4年 8月17日 大日本史料 是より先、秀吉、増田長盛に大和郡山城を與ふ、是日、秀吉、同國の檢地を行ふ
文禄4年 8月21日 大日本史料 秀吉、播磨を檢地し、其他を大隅帖佐の島津義弘に加増し、又、薩摩・大隅に於ける
其將士の所領を入換へしむ
文禄4年 8月21日 大日本史料 秀吉、豊前中津の黒田長政の父如水(孝高)に播磨の地を加増す、又、同國斑鳩寺をし
て、寺領を安堵せしむ
文禄4年 8月22日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に入る、明日、家康、京都より伏見に行く
文禄4年 8月24日 大日本史料 是より先、秀吉、故豊臣秀次のことに就き、所司代前田玄以等を大坂に遣し、伊達政宗
を詰問せしめ、之を流し、子秀宗をして嗣がしめんとす、其讒言に依るを知り、其罪を
赦す、是日、政宗の老臣、誓書を呈出す
文禄4年 8月24日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)の傳前田利家に越中新川郡を加増し、故豊臣秀次の山城伏見亭を
與ふ、是日、利家、之に移る
文禄4年 8月26日 大日本史料 秀吉、尾張犬山の石川光吉をして、山城伏見川端の長屋の用材を、大坂に於て今井兵部
に渡付せしむ
文禄4年 8月28日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄4年 8月 大日本史料 秀吉、聚樂亭を毀つ
文禄4年 8月 大日本史料 秀吉、有馬豊氏に遠江横須賀三萬石を與ふ
文禄4年 8月 大日本史料 秀吉、石田三成を近江佐和山に封ず
文禄4年 9月8日 大日本史料 秀吉、紀伊高野山の大塔を造營す
文禄4年 9月8日 大日本史料 伊達政宗、秀吉に山城伏見に謁す
文禄4年 9月15日 大日本史料 土佐浦戸の長宗我部元親、同國を檢地す
【山内家所藏土佐國土佐之郡大高坂外新塩田御檢地帳】
文禄4年 9月17日 大日本史料 秀吉、故浅井長政の女達子をして、徳川秀忠に嫁せしむ
文禄4年 9月21日 大日本史料 秀吉、聖護院道澄を山城方廣寺大佛殿住持と爲し、寺領一萬石を寄進す
文禄4年 9月22日 大日本史料 是より先、秀吉、大和を檢地す、是日、興福寺等に寺領目録等を與ふ
文禄4年 9月22日 大日本史料 秀吉、片桐貞隆に尾張の替地として、伊勢一志郡の地を宛行ふ、
文禄4年 9月23日 大日本史料 秀吉、日向佐土原の島津忠豐の朝鮮在陣の勞を犒ひ、守備を嚴にせしむ
文禄4年 9月24日 大日本史料 是より先、秀吉、日蓮宗門徒をして、山城方廣寺大佛殿の法會に出仕せしむ、山城
妙覺寺日奥、出仕を肯ぜず、是日、所司代前田玄以、日蓮宗の諸寺に出仕を督促す
文禄4年 9月25日 大日本史料 秀吉、父母の法會を山城方廣寺大佛殿經堂に修す
文禄4年 10月2日 大日本史料 秀吉、山城青蓮院・大覺寺・龍安寺・泉涌寺・三千院・京都相國寺に丹波に於ける寺領
の替地を寄進す、
文禄4年 10月2日 屋代島大野系譜 大野直秀、こと、隆直没(於筑前黒崎)。
【屋代島大野系譜】・・・・・→筑前黒崎発生は慶長8年以降
文禄4年 筑前大野家文書 ○大野直吉【村上】嫡子生直は小早川秀秋が隆景の後を襲った時、生直兄弟は豊前
中津に至り黒田孝高に仕える。黒田氏筑前入国に伴い御牧郡則松村に移住する。
文禄4年 10月2日 大日本史料 秀吉、前關白一條内基等に知行目録を與ふ
文禄4年 10月5日 大日本史料 秀吉、玄澄を伊勢龍光寺住持と爲す
文禄4年 10月8日 大日本史料 是より先、秀吉、伊豫今治の福島正則を故豊臣秀次の藏入分尾張清須に移す、是日、
正則、大神宮に地を寄進す、
文禄4年 10月15日 大日本史料 吉川廣家、朝鮮より歸り、秀吉に山城伏見城に謁す、尋で、出雲富田に歸る、
文禄4年 10月20日 大日本史料 秀吉、養女備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏の病むに依り、山城稲荷社社人をして、
野狐を祈禳せしむ
文禄4年 10月25日 大日本史料 是より先、秀吉の養女備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏の病む、是日、秀吉の請に
依り、内侍所に御神樂を奏す
文禄4年 10月28日 大日本史料 秀吉、近江朽木の朽木元綱を同國高島郡の藏入分代官と爲す
文禄4年 11月2日 大日本史料 秀吉、新庄東玉齋(直忠)に近江栗太郡の地を加増す
文禄4年 11月2日 大日本史料 秀吉、山城伏見より京都に入る、徳川家康、之に從ふ
文禄4年 11月8日 大日本史料 秀吉、病むに依り参内を止め、山城伏見に歸る
文禄4年 11月17日 大日本史料 清凉殿に不動法を修して、秀吉の病平癒を祈らしめらる、又、諸社をして、
祈禳せしめらる
文禄4年 11月17日 大日本史料 秀吉、近江三井寺を破毀せんとす
文禄4年 11月26日 大日本史料 内侍所に御神樂を奏し、秀吉の病平癒を祈らしめらる
文禄4年 11月28日 大日本史料 秀吉、權大納言中山親綱の丹波の所領の替地として、扶持米を給す
文禄4年 11月28日 大日本史料 安藝廣島の毛利輝元、家臣兒玉元兼の、貞宗・正宗の脇差を秀吉に進めしを賞し、
知行百石を加増す
文禄4年 12月1日 大日本史料 秀吉、筑前を檢地し、是日、五萬石餘を小早川隆景等に與ふ、又、筥崎八幡宮等に地を
寄進す
文禄4年 12月1日 大日本史料 秀吉、筑後を檢地し、是日、筑紫廣門等に同國上妻郡の地等を宛行ふ
文禄4年 12月1日 大日本史料 秀吉、肥前を檢地し、是日、鍋島直茂に知行目録を與ふ
文禄4年 12月6日 大日本史料 明の遊撃沈惟敬、良馬二百餘頭を秀吉に贈らんとし、之を肥前名護屋に輸送す
文禄4年 12月10日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、丹羽長重を参議に任じ、從三位に敍す、秀吉、長重をして、
加賀松任より同國小松に移らしむ、
文禄4年 12月18日 大日本史料 秀吉、山城伏見より大坂城に入る
文禄4年 12月20日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄4年 12月22日 大日本史料 秀吉の病に依り、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元、奏請して、御神樂を内侍所に奏す
文禄4年 大日本史料 秀吉、近江八幡山の京極高次を同國大津城主と爲す
文禄4年 大日本史料 秀吉、桑山重晴に和泉の地一萬石を加増す
文禄4年 大日本史料 秀吉、大和新庄直頼を攝津高槻城に移す
文禄4年 伊予中世年表 ○加藤嘉明,正木(松前)城主として伊予に入部。
文禄5年 1月2日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の拾丸(秀頼)の、爪刀を進めて歳首を賀せしに答ふ
西暦1596年
慶長元年 * 1月3日 大日本史料 是より先、對馬府中の宗義智の家臣柳川調信、朝鮮に至りて、小西行長に、速に明使の
渡海のこと、朝鮮王子等の來りて謝せんことを 求むる秀吉の命を告ぐ、是日、行長・
明の遊撃沈惟敬、慶尚道釜山を發して、肥前名護屋に向ふ
慶長元年 * 1月14日 大日本史料 是より先、秀吉、島津氏の所領を檢地し、其家臣の知行地を入換ふ、是日、朝鮮在陣
の島津忠恆、本國の伊集院久治をして動揺することなからしむ、尋で、又、東郷重虎・
喜入忠政等にも之を告ぐ
慶長元年 * 1月16日 大日本史料 秀吉、安藝廣島の毛利輝元・備後三原の小早川隆景、出雲富田の吉川廣家及び東國の
諸大名に課して、淀川の堤を築かしむ、
慶長元年 * 1月16日 大日本史料 秀吉、唐島(巨濟島)の島津忠恆に小袖を與へて、朝鮮在陣の勞を犒ふ
慶長元年 * 1月23日 大日本史料 秀吉の奉行長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以、秀吉の子拾丸(秀頼)に
忠誠を誓ふ
慶長元年 * 1月29日 大日本史料 秀吉、千僧會を山城方廣寺大佛殿に修す
慶長元年 * 2月10日 大日本史料 陸奥岩手山の伊達政宗、秀吉に大坂城に謁す
慶長元年 * 2月14日 大日本史料 秀吉、大坂城に病む、是日、山城伏見城に移る
慶長元年 * 2月24日 大日本史料 秀吉、遠江光明寺に同國二俣山東の地を寄進す
慶長元年 * 2月 大日本史料 秀吉、諸大名に課して、山城伏見の向島に伏見城の支城を築く
慶長元年 * 2月 大日本史料 秀吉、明の使節を迎へんとし、諸大名をして、武者揃の準備を爲さしむ
慶長元年 * 3月2日 大野家聞書 ○大野内蔵介 立石尾首 元服す。忠左衛門と云う。直昌没後は立石村に住居す、
母は禅智院。
慶長元年 * 3月11日 大日本史料 秀吉、志賀小左衞門に豊後太井莊の地を宛行ふ
慶長元年 * 3月11日 山口県史整理年表 輝元、防府国分寺仁王門を重建す 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 3月21日 山口県史整理年表 輝元、飯田元種に厚狭郡厚東村内の地を与え、その賦役七端帆一艘と定め、
この日検地認証せしむ 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 3月23日 山口県史整理年表 輝元、三浦元氏領地安堵の評判を与う 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 4月7日 大日本史料 秀吉、大坂城より山城伏見城に歸る
慶長元年 * 4月23日 大日本史料 秀吉、尾張瑞泉寺に地を寄進し、諸役を免除す
慶長元年 * 4月27日 大日本史料 秀吉、土佐浦戸の長宗我部元親の山城伏見の亭に臨む【成就院文書】
慶長元年 * 4月29日 大日本史料 秀吉、前左大臣近衞信輔(信尹)・前右大臣菊亭晴季を赦されんことを奏請す
慶長元年 * 4月 大日本史料 陸奥岩手山の伊達政宗の子同兵五郎を侍從に任じ、從五位下に敍す、秀吉、之に偏諱
を與へ秀宗と稱せしむ
慶長元年 * 5月6日 大日本史料 秀吉、京都に入る、尋で、拾丸(秀頼)、上京す
慶長元年 * 5月13日 大日本史料 秀吉、拾丸(秀頼)と共に参内す、徳川家康・前田利家等、之に從ふ
慶長元年 * 5月15日 大日本史料 秀吉、能を興行し、叡覽に供す、尋で、秀吉・拾丸(秀頼)、山城伏見に歸る
慶長元年 * 5月15日 大日本史料 秀吉、河野藤左衞門尉等をして、尾張國中に地に鳥を捕獲し、進上せしむ
慶長元年 * 5月25日 大日本史料 勅使を山城伏見城に遣して、秀吉に歳首を賀せしめらる、公家衆・諸大名等、
秀吉に之を賀す
慶長元年 * 5月28日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の諸將を召還せんとす、是日、之を中止す
慶長元年 * 6月8日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に能を興行す、庶人の見物を許す
慶長元年 * 6月27日 大日本史料 明の册封日本副使沈惟敬、山城伏見城に、秀吉に謁す、尋で、大坂に歸る
慶長元年 * 7月5日 大日本史料 秀吉、明の册封日本正使楊方亨に武者揃を觀せしめんとし、諸大名に其準備を命ず
慶長元年 * 7月20日 山口県史整理年表 輝元禁誡十一ヵ条を頒布す。また僕従進退の処置三事を令す
【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 7月25日 大日本史料 秀吉・徳川家康、上京す、尋で、山城伏見に歸る
慶長元年 * 7月27日 大日本史料 秀吉、寺西正勝に上山城の地を、加藤茂勝(嘉明)に河内の地等を加増す、
文禄5年 7月28日 小早川隆景書簡 河野通直母、永寿の葬儀の模様
宮原大方殿御菩提の爲、竹原下の村に於て貳町四段の新開の事、彼の御家來衆去る春普請し築調せられ、
則ち當寺へ寄進に候、榮壽(河野通直母)御遺物の餘り、殘りて裁判候と雖も其の志神妙に候、然る間永代
のほか綺無く公役無きニ長生寺領に爲すべくの條、大方・通直親子の御弔い彌々御馳走肝要に候
慶長元年 * 7月29日 大日本史料 秀吉、伊勢專修寺に同國一身田村の地を寄進す
慶長元年 * 閏7月11日 大日本史料 秀吉、徳川秀忠の山城伏見の亭に臨む、徳川家康、之に會す
慶長元年 * 閏7月13日 大日本史料 徳川家康、秀吉を省す
慶長元年 * 閏7月13日 大日本史料 是より先、肥後隈本の加藤清正、秀吉の譴を蒙り、山城伏見の亭に屏居す、是日、
地震に依り、清正、馳せて秀吉に候す、明日、秀吉、清正を赦す
慶長元年 * 閏7月14日 大日本史料 秀吉、明の册封使に示さんとする武者揃を中止す
慶長元年 * 閏7月14日 大日本史料 山城伏見の支城向島、築城中に破壊す、是日、秀吉、更に地を木幡山に卜す
慶長元年 * 閏7月22日 大日本史料 是より先、甲斐府中の淺野長繼(幸長)、謫せられて能登に在り、是日、秀吉、
之を赦す
慶長元年 * 閏7月28日 大日本史料 秀吉、金春安照に大和坊城村を加増し五百石を給す
慶長元年 * 8月8日 山口県史整理年表 輝元、井原元以に備後・安芸・周防において千百石を知行せしむ
【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 8月9日 大日本史料 秀吉、大坂城修築の大工三百人を安藝廣島の毛利輝元に課す
慶長元年 * 8月20日 大日本史料 秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む
慶長元年 * 8月27日 大日本史料 秀吉、石川備後に、山城伏見城普請の人夫の食米を給す
慶長元年 * 8月29日 大日本史料 明の册封日本正使楊邦亨、朝鮮通信使黄愼等、大坂に著す、秀吉、對馬府中の宗義
智の老臣柳川調信をして、黄愼等を責めしめ、明使と共に見るを許さず
慶長元年 * 9月1日 大日本史料 秀吉、明の册封日本正使楊邦亨・副使沈惟敬を大坂城に引見し、誥命・勅諭・金印・
冠服を受く、明日、秀吉、册封使を饗し、相國寺承兌(西笑)をして、誥勅を読まし
む、秀吉、明の違約を怒り、册封使を追還し、徳川家康等の諌止を郤けて、朝鮮出兵
を決す、
慶長元年 * 9月2日 山口県史整理年表 秀吉、明使楊万亭・沈惟敬と会見す。輝元・小早川秀秋・吉川広家等列席す。
和議破る 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月6日 大日本史料 是より先、西班牙商船サン・フェリペ號、土佐浦戸に漂著す、秀吉、貨物を大坂に輸
漕せしむ、是日、浦戸の長宗我部元親の子同盛親、之を令す、 尋で、秀吉の奉行
増田長盛、阿波・淡路・紀伊等の諸浦に令し、輸漕船を造る人夫等を供給せしむ【蠧簡集】
慶長元年 * 9月7日 大日本史料 秀吉、肥前佐賀の鍋島直茂に朝鮮より歸國を命ず
慶長元年 * 9月7日 大日本史料 秀吉、出雲富田の吉川廣家を、伯耆日野銀山の代官と爲す
慶長元年 * 9月7日 大日本史料 秀吉、奉行増田長盛をして、明の册封日本正使楊方亨等に金銀等を贈らしむ
慶長元年 * 9月9日 山口県史整理年表 輝元沿海の令十二条を発布す。降松・赤間関等に官船の用に供する水手を定め、
玖珂郡・熊毛郡・都濃郡・佐波郡等近郷より、藤・藁・竹を出さしむ。
また都濃郡黒髪山の伐木を禁ず 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月10日 大日本史料 秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)の島津忠恆をして、慶尚道の四城に儲蓄せし兵粮を諸軍に
分配せしむ
慶長元年 * 9月13日 大日本史料 是より先、秀吉、諸將に朝鮮出陣を命ず、是日、唐島(巨濟島)の島津忠恆、父同
義弘の渡海を待ちて歸國せんとす
慶長元年 * 9月15日 大日本史料 前左大臣近衞信輔(信尹)、秀吉の奏請に依り、勅勘を赦され、薩摩より京都に
歸る、
慶長元年 * 9月28日 山口県史整理年表 朝鮮再征に決し、軍装をなさしむ 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月 大日本史料 大隅富隈の島津龍伯(義久)、琉球王尚寧に秀吉の病を報じ、益、進物を致さんこと
を命ず
慶長元年 * 10月1日 大日本史料 秀吉、山城妙法院に知行目録を與ふ
慶長元年 * 10月10日 大日本史料 秀吉、近江園城寺の僧の、勘當人の家財を隠匿せしものを追放す
慶長元年 * 10月 大日本史料 秀吉、山城木幡山の工事を巡視し、紙衣を諸大名に與へ、伊達政宗には彩飾の衣を
與ふ、政宗、秀吉に船一艘を進む、
慶長 10月27日 改元・出典「毛詩」 けいちょう・天災改元による(後陽成天皇-20年間)【勘申者 菅原為経】
慶長元年 11月11日 大日本史料 秀吉の奉行増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以、肥後に於ける秀吉の藏入分代官
加藤清正に去年分の年貢を督徴す、
慶長元年 11月15日 大日本史料 秀吉、耶蘇教徒を處刑す、尋で、之を肥前長崎に送り磔殺す
慶長元年 11月 大日本史料 秀吉、大坂城に移る
慶長元年 12月3日 大日本史料 秀吉、延暦寺に地を寄進す
慶長元年 12月10日 大日本史料 秀吉、西班牙商船の舶載せし緞子等を獻ず
慶長元年 12月17日 大日本史料 秀吉の子拾丸、元服して秀頼と稱す、是日、勅使を大坂に遣し、秀吉・秀頼父子に
物を賜ふ、攝家・親王等も之に物を贈る
慶長元年 12月21日 大日本史料 朝鮮通信使黄愼・副使朴弘長、歸國して、秀吉の出兵せんとすることを報ず
慶長元年 12月28日 大日本史料 秀吉、大神宮に齋宮領の出米分を寄進す
慶長元年 芳闕嵐史 四条家秘蔵の太平記の底本とされる「鳳闕乱諍」を日野中納言の執事前大和大椽蔵人
介宗信が写本する。これを更に妙心寺の僧南源(1565~1622)、が慶長元年(1596)
写し、鳳闕乱諍の字議が不穏として「芳闕嵐史」と改題して松山の天徳寺に伝来した
秘本である。
慶長元年 冬至 天徳寺文書 慶長元年丙申(1597年)冬至日妙心寺玉鳳院にて「芳闕嵐史」を写す
西暦1597年
慶長2年 1月1日 大日本史料 秀吉、山城伏見より大坂に赴く
慶長2年 1月7日 大日本史料 秀吉、伊勢安濃津の富田一白(知信)に同國安濃郡の地を加増す
慶長2年 1月29日 大日本史料 秀吉の奉行前田玄以・増田長盛・長束正家、攝津闕郡の藏入分代官今井兵部に藏米算用
状を與ふ、
慶長2年 2月20日 大日本史料 秀吉、朝鮮出征の諸將の部署を定む、尋で、其條規を下す
慶長2年 2月21日 大日本史料 秀吉、守藤(集雲)を東福寺住持と爲す
慶長2年 2月21日 大日本史料 秀吉、朝鮮出兵に就きての條規を豊後直入郡の熊谷直盛等に與ふ
慶長2年 2月24日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に茶會を催す、
慶長2年 2月29日 山口県史整理年表 秀吉、諸将を朝鮮に向わしむ。総軍十四万数千。毛利秀元、三万を率いて八番隊
に属す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 3月1日 大日本史料 秀吉、皇大神宮に伊勢野尻郷を寄進す
慶長2年 3月1日 大日本史料 秀吉・秀頼父子、山城北野社に釣燈籠を寄進す
慶長2年 3月7日 大日本史料 秀吉、五人組・十人組の制を定む
慶長2年 3月8日 大日本史料 秀吉、山城醍醐寺三寶院に櫻花を賞す、三寶院門跡義演・徳川家康等、之に陪す、又、
秀吉、同寺の寺規を定む
慶長2年 3月9日 大日本史料 秀吉、大坂に赴く
慶長2年 3月11日 大日本史料 秀吉、大隅帖佐の島津義弘の室廣瀬氏等を山城伏見に招致す是日、廣瀬氏、帖佐を發す
慶長2年 3月13日 大日本史料 備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏、大坂に病む、秀吉、曲直瀬正琳をして、之を診せしむ
慶長2年 3月21日 大日本史料 秀吉、大坂より山城伏見に著す
慶長2年 3月27日 大日本史料 秀吉、山城醍醐寺に禁制を下す、
慶長2年 3月29日 大日本史料 秀吉、伏見城の工を督す
慶長2年 4月2日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 4月4日 大日本史料 秀吉、大坂に赴く
慶長2年 4月6日 大日本史料 肥前佐賀の鍋島直茂、朝鮮より歸り、秀吉に大阪城に謁す、秀吉、之を饗す
慶長2年 4月12日 大日本史料 秀吉、諸國の麦年貢を三分一と定め、給人をして、之を在所に儲藏せしむ
慶長2年 4月20日 大日本史料 秀吉、山城伏見城中の掟を定む
慶長2年 4月24日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 4月26日 大日本史料 秀吉、京都に新亭を造る、是日、繩張あり
慶長2年 4月27日 大日本史料 秀吉、参内して、歳首を賀し奉る、徳川家康・前田利家等、之に從ふ、秀吉及び家康・
利家に宴を清凉殿に賜ふ
慶長2年 4月28日 大日本史料 秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 5月1日 大日本史料 秀吉、越前府中の青木一矩の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 5月1日 大日本史料 秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)を對馬府中の宗義智に加封す
慶長2年 5月1日 大日本史料 秀吉、子秀頼の、端午節供の祝儀物を進めしに答ふ
慶長2年 5月4日 大日本史料 山城伏見城の天守竣る、是日、秀吉、之に移る
慶長2年 5月6日 大日本史料 秀吉、大坂に赴く
慶長2年 5月9日 大日本史料 肥前佐賀の鍋島直茂、大坂に在り、秀吉を玉造の亭に迎へ、之を饗す
慶長2年 5月11日 大日本史料 秀吉、肥前佐賀の鍋島直茂等を山城伏見城山里茶亭に饗す、尋で、直茂、朝鮮に出征す
慶長2年 5月16日 大日本史料 明の經理楊鎬、秀吉の朝鮮出兵を難じ、撤兵を求む
慶長2年 5月17日 大日本史料 勅使を秀吉の山城伏見城に遣し、歳首及び其移徙を賀せしめらる
慶長2年 5月17日 山口県史整理年表 輝元、秀元とともに長府赤間関において軍勢を点検するにより、書を椙杜元縁に
与え、定員不足なきよう準備せしむ 【毛利氏四代実録】
慶長2年 5月20日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に能を興行す
慶長2年 5月22日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 5月29日 大日本史料 秀吉、山城妙法院に臨み、諸宗の論義を聽く
慶長2年 5月30日 大日本史料 秀吉、伊勢上野の分部光嘉に、同國安藝郡の地を加増す
慶長2年 5月 大日本史料 秀吉、禁裏を京都相國寺中に造營せんとすとの風聞あり
慶長2年 6月8日 大日本史料 秀吉、瀧川彦次郎に美濃河邊村の地を加増す
慶長2年 6月12日 山口県史整理年表 隆景備後三原城にて死す。六五。
遣臣村上武吉・同元吉去って輝元に帰し、大島郡に在り 【毛利氏四代実録】
慶長2年 6月13日 大日本史料 秀吉、朝鮮王李昖の、王子を送らず、又、大臣を遣して、通好せざるを怒り、小早川
秀秋を大將と為し、小西行長・加藤清正を先鋒として、先づ全羅道より北上を謀らし
む、是日、李昖、陽に和平を示し、軍備を整ふ
慶長2年 6月25日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 6月27日 大日本史料 秀吉、諸門跡を請じて、山城伏見向島に遊ぶ
慶長2年 6月 大日本史料 秀吉、大和比蘇寺の塔を山城伏見城に移建す
慶長2年 7月1日 大日本史料 秀吉、柳澤元政に、備中・備後・出雲・石見・安藝・長門・周防に於ける銀山公用の
請取状を與ふ
慶長2年 7月1日 萩藩閥閲録1-565
請取 新銀山御公用事
合銀子千枚者
右備中国・備後国・出雲国・石見国・安芸国・
長門国・周防国・七ケ国、當年分内且納也
慶長弐年丁酉七月朔日 秀吉公 御朱印
やなぎさわ(元敬)
慶長2年 7月7日 山口県史整理年表 豊後臼杵の太田一吉、土佐浦戸の長宗我部元親等と、慶尚道釜山に著陣す
慶長2年 7月9日 大日本史料 穂田元清死す。四七 【毛利氏四代実録】
慶長2年 7月10日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の諸將をして、全羅道に進撃せしむ
慶長2年 7月13日 大日本史料 秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 7月18日 大日本史料 秀吉、善光寺如来を甲斐より移し、山城方廣寺大佛殿に安置す
慶長2年 7月24日 大日本史料 呂宋國、秀吉に、黒象一隻并に銀器を遺る
慶長2年 7月27日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に能を張行し、呂宋國使を饗す
慶長2年 7月27日 大日本史料 秀吉、明兵の朝鮮に出軍せば、渡海せんとし、安藝廣島の毛利輝元をして、其分國中の
備後鞆等に早船・早馬を常備し、速報せしむ
慶長2年 8月4日 大日本史料 大泥國、秀吉に物を贈る
慶長2年 8月4日 大日本史料 秀吉、安藝廣島の毛利輝元をして、肥前名護屋又は筑前博多に赴き、朝鮮の動静を
報ぜしむ
慶長2年 8月10日 大日本史料 秀吉、對馬府中の宗義智等に、明軍の京城より出撃せば、親ら渡海すべきこと、大坂・
名護屋間に早船・次船・次馬を常備せること等を告ぐ、尋で、藤堂高虎にも、之を報ず
慶長2年 8月16日 山口県史整理年表 毛利輝元・加藤清正・鍋島直茂・黒田長政・長宗我部元親等、全羅道黄石山城を
攻めて、之を陥る
慶長2年 8月17日 大日本史料 是より先、朝鮮在陣の黒田長政、秀吉の命に依り同國人の鼻を切りて秀吉に送る、
是日、秀吉の近臣熊谷直盛等、重ねて、其請取状を與ふ
慶長2年 8月26日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 8月28日 大日本史料 秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 9月13日 大日本史料 秀吉、故足利義昭の遺臣一色民部大輔に知行目録を與ふ
慶長2年 9月16日 大日本史料 宇喜多秀家・小西行長・島津義弘等、忠清道より全羅道井邑に歸る、是日、秀家等、
守備すべき地等を定め、之を秀吉の近臣前田玄以等に報ず
慶長2年 9月21日 大日本史料 輝元山口の商人内海氏に居屋敷および町屋敷を安堵す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 9月24日 大日本史料 秀吉、越前敦賀の大谷吉繼の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 9月25日 大日本史料 秀吉、山城伏見より上京す
慶長2年 9月26日 大日本史料 秀吉・秀頼父子及び徳川家康、山城伏見より上京す、秀吉の亭竣るに依り、秀頼、
之に移る
慶長2年 9月28日 大日本史料 秀吉・秀頼父子、参内す、秀頼を從四位下に敍し、左近衞権少將に任ず、又結城秀康・
前田利長を竝に参議・從四位下に任敍す
慶長2年 9月28日 大日本史料 是より先、秀吉、朝鮮在陣の諸將に令し、敵の鼻を切りて首級に代へしむ、仍りて、
山城善光寺の前に塚を築き、之を埋め、是日、紀伊高野山興山(應其)等をして、
施餓鬼を修せしむ、
慶長2年 9月30日 大日本史料 秀吉・徳川家康、山城伏見に歸る
慶長2年 10月4日 大日本史料 相國寺承兌(西笑)、福澤直陳の朝鮮唐島(巨濟島)にて獲し書籍を秀吉に講ず
慶長2年 10月4日 山口県史整理年表 土佐浦戸の長宗我部元親、全羅道古阜・羅州を從へ、竹島に歸る
慶長2年 10月5日 大日本史料 是より先、安藝廣島の毛利輝元、朝鮮に渡海せんとし壹岐に著す、是日、秀吉、
之に歸國を命ず
慶長2年 10月6日 大日本史料 秀吉・徳川家康、上京す
慶長2年 10月7日 大日本史料 是より先、秀吉、下野宇都宮の宇都宮國綱の封を攻め、國綱を備前岡山の宇喜多秀家に
預く、是日、常陸水戸の佐竹義宣、之を同國太田城の父同義重に報ず
慶長2年 10月8日 大日本史料 秀吉、徳川家康、山城伏見に歸る
慶長2年 10月9日 山口県史整理年表 輝元冷泉元満の朝鮮における功を賞す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 10月10日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 10月12日 大日本史料 秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 10月20日 大日本史料 秀吉、信濃飯田の京極高知の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月22日 大日本史料 秀吉・秀頼父子、加賀金澤の前田利家の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月24日 大日本史料 秀吉、奉行増田長盛をして、安房を檢地せしむ
慶長2年 10月26日 大日本史料 秀吉、陸奥岩手山の伊達政宗の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月26日 大日本史料 秀吉、原田右衞門に薩摩の藏入分の地を與ふ
慶長2年 10月26日 大日本史料 是より先、秀吉、茶亭を山城伏見に築き、相國寺承兌(西笑)をして、同城内學問所
記を作らしむ、是日、承兌、其草稿を進む
慶長2年 10月27日 大日本史料 秀吉、近江大津の京極高次の山城伏見の亭に臨む、病みて歸る
慶長2年 10月 大日本史料 秀吉、施樂院全宗の請に依り、延暦寺及び日吉社に山城上坂本を寄進す、全宗、
之を同寺に通報す
慶長2年 11月5日 大日本史料 秀吉、茶器を和泉堺より買得す
慶長2年 11月12日 大日本史料 是より先、秀吉、相國寺承兌(西笑)に太平御覽を與ふ、徳川家康、其闕くる二十五冊
を補寫して、是日、之を與ふ、
慶長2年 11月13日 大日本史料 秀吉、文梨小壺を徳川家康に、富士茄子の茶壺を前田利家に與ふ、
慶長2年 11月17日 大日本史料 秀吉、蒲生秀郷遺愛の墨蹟を相國寺承兌(西笑)に與ふ
慶長2年 12月1日 大日本史料 秀吉、觀世身愛をして、觀世座を、金剛勝吉をして、金剛座を安堵せしむ
慶長2年 12月2日 大日本史料 秀吉、秀頼に答へ、近く相見ゆべき旨を告ぐ
慶長2年 12月4日 大日本史料 秀吉、筑前名島の小早川秀秋に朝鮮より帰國を命ず
慶長2年 12月7日 大日本史料 是より先、南蠻船、薩摩に難破す、是日、秀吉、船中の道具を相國寺承兌(西笑)等に
與ふ
慶長2年 12月8日 大日本史料 秀吉、側室淺井氏に答へ、近く参會せんことを告ぐ
慶長2年 12月8日 大日本史料 秀吉、竹田定加等の、病中に缺番せるに依り罰す
慶長2年 12月22日 伊予中世年表 明軍、蔚山を囲む。吉川広家奮戦してこれを破る 【閥閲録】
慶長2年 12月23日 大日本史料 安藝廣島の毛利輝元、秀吉に山城伏見に謁す
慶長2年 12月28日 萩藩閥閲録1-565
請取中国新かな山銀子之事
合弐千枚者 ひんこ、ひっ中、いつも、いわミ、あき、なかと、
すわう七ケ国分也、但慶長弐年分也
慶長弐年十廿月廿八日 秀吉公 御朱印
やな木 けんもつ(柳沢元敬)
慶長2年 ○来島(村上)通総も朝鮮水軍の李舜臣と戦い戦死した。
慶長2年 心斎橋今昔年表 「伏見城」が完成。 第二次朝鮮侵略(慶長の役)。
慶長2年 大日本史料 秀吉、比律賓諸島長官の使節を大坂に引見し、答書を與へ、耶蘇教布教の禁止を
求む
文禄3年 1月1日 大日本史料 秀吉、大坂城に、秀次、聚樂亭に、各諸將の賀を受く
文禄2年 1月3日 大日本史料 秀吉、大坂城を拾丸(秀頼)に與へんとし、山城伏見に城く、是日、佐久間政實等を普請
奉行と爲し、諸將をして、工を助けしむ
文禄3年 1月3日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の松浦宗静(鎭信)をして出征中の者及び留守居の者を誌して報告せしむ
文禄3年 1月16日 大日本史料 秀吉、明との和議の輙く成らざるに依り、朝鮮在陣の諸將をして、交代せしめ、守備を
嚴にせしめ、目附を遣すこと、兵粮を送ること等を令す、
文禄3年 1月17日 大日本史料 秀吉、加藤貞泰に美濃厚見郡等四萬石の地を宛行ふ、
文禄3年 1月20日 大日本史料 是より先、明遊撃沈惟敬、慶尚道熊川に小西行長に會し、秀吉の降表無くば、封貢を許
さざるべきを告ぐ、仍りて、相議して、之を假作す、是日、惟敬、之を持ちて遼東に向ふ
文禄3年 1月21日 大日本史料 秀吉の側室京極氏、大坂城西丸に移り、西丸殿と稱す
文禄3年 1月25日 大日本史料 是より先、秀吉、諸將をして、船舶を造らしむ、是日、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)
をして、其建造せる十艘を青木一矩・寺澤正成に渡さしむ
文禄3年 1月27日 大日本史料 秀吉、慶尚道熊川の島津義弘をして、守備を嚴にし、来年に備へ、敵の半弓に對し、
半切楯を準備せしむ
文禄3年 1月27日 大日本史料 徳川家康、江戸城を修築せんとす、秀吉の山城伏見城の普請に依り、之を止む
文禄3年 1月28日 大日本史料 秀吉、美濃部四郎三郎を遣して、松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ひ、速に兵粮を
送るべきこと等を告ぐ
文禄3年 1月28日 大日本史料 秀吉、島津義弘に小袖を與へ、朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄3年 1月28日 大日本史料 秀次、大坂に赴き、秀吉に見ゆ
文禄3年 2月5日 大日本史料 豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、朝鮮に病むに依り、秀次、之を慰問す、尋で、
醫師を遣す
文禄3年 2月6日 大日本史料 明副總兵劉綎等、秀吉の求むるは通婚・割地の兩件にして、沈惟敬の持参せる表文は偽作
なるを、朝鮮王李昖に馳報す
文禄3年 2月13日 大日本史料 秀吉室北政所杉原氏等、山城伏見城山里の茶亭に花を觀る
文禄3年 2月14日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に入る
文禄3年 2月16日 大日本史料 秀次、秀吉に山城伏見城に見ゆ
文禄3年 2月20日 大日本史料 秀吉、加藤茂勝(嘉明)に朝鮮の戦功を賞し、淡路岩屋の地を加増す、又、茂勝
(嘉明)を藏入分同國岩屋の地を加増す、又、茂勝(嘉明)を藏入分同國岩屋の代官と爲す
文禄3年 2月21日 大日本史料 秀吉、秀次を山城伏見城山里の茶亭に招き、茶會を興行す、又、秀吉、大坂に歸り、
秀次、聚樂亭に歸る、
文禄3年 2月27日 大日本史料 秀吉、秀次と花を大和吉野に觀て、吉水院に館す、公家衆・諸將、之に從う
文禄3年 2月30日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ひ、警固を嚴にせしむ
文禄3年 2月 大日本史料 秀吉、下總古河の足利頼氏をして、兄國朝の遺跡を相續せしむ
文禄3年 3月2日 大日本史料 秀吉、大和吉野より紀伊高野山に、秀次、羽柴秀保の大和郡山城に向ふ
文禄3年 3月3日 大日本史料 秀吉、紀伊金剛峯寺に詣す、明日、大政所(天瑞院)の位牌所に法會を修し、青巖寺に
館す、尋で、能を興行す、
文禄3年 3月6日 大日本史料 秀吉、大坂城に歸る、
文禄3年 3月7日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請を始めしむ
文禄3年 3月15日 大日本史料 秀吉、大坂城に能を興行し、新曲五番を演ず、
文禄3年 3月17日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請に臨む
文禄3年 3月18日 大日本史料 秀吉、側室蒲生氏(三條局)の能衣裳を贈りしを謝し、近く参會すべき旨を告ぐ
文禄3年 3月19日 大日本史料 薩摩鹿兒島の島津忠恆、山城伏見に至りて、秀吉に謁す、尋で、秀次に聚樂亭に謁す
文禄3年 3月20日 大日本史料 秀吉、山城淀城を毀たしむ
文禄3年 3月20日 大日本史料 秀吉、側室蒲生氏(三條局)に、速に山城伏見城に迎ふべきことを告ぐ
文禄3年 3月21日 大日本史料 秀吉、伊藤丹後守に播磨山國村等を、水原龜介に丹波の替地として、播磨妙樂寺村の地
を宛行ふ、
文禄3年 3月22日 大日本史料 秀次、秀吉に虎頭を進む、
文禄3年 3月28日 大日本史料 秀吉、茶屋四郎二郎・龜屋榮任を菓子奉行と爲す
文禄2年 3月 心斎橋今昔年表 秀吉は、伏見城に移住
文禄3年 4月1日 大日本史料 秀吉、山城伏見城より京都の施藥院全宗の亭に臨む
文禄3年 4月3日 大日本史料 秀吉、蒲生氏郷の邑陸奥會津・耶麻等十郡の地を檢地せしむ
文禄3年 4月8日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家の京都の亭に臨む、能あり
文禄3年 4月11日 大日本史料 秀吉、参内して、能を興行す、
文禄3年 4月14日 大日本史料 秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷のの山城伏見の亭に臨む
文禄3年 4月15日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、前左大臣近衞信輔(信尹)を薩摩に遷す、
文禄3年 4月17日 大日本史料 秀吉、大坂の銀吹二十人を改定す
文禄3年 4月20日 大日本史料 秀吉、備前岡山の宇喜多秀家の山城伏見の亭に臨む
文禄3年 4月22日 大日本史料 秀吉の側室京極氏(西丸殿)、攝津有馬に湯治す
文禄3年 4月27日 大日本史料 秀次、大坂城に秀吉に謁す
文禄3年 4月29日 大日本史料 秀吉、攝津有馬に湯治す
文禄3年 4月30日 大日本史料 慶尚道西生浦の加藤清正、秀吉に、朝鮮の状況を報ず
文禄3年 4月 大日本史料 秀吉、諸寺をして、其宗派の學問を勵精せしめ、女犯・肉食等の破戒は住持長老・弟子
同宿をして、互に監視せしむ、
文禄3年 4月 大日本史料 徳川家康の家臣永井直勝を、右近大夫に任じ、從五位下に敍す、秀吉、之に豐臣氏を授く
文禄3年 5月1日 大日本史料 秀吉、前豐後府内の大友吉統等の罪科を、宇喜多秀家等朝鮮在陣の諸將に告ぐ
文禄3年 5月1日 大日本史料 秀吉、島津義弘の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄3年 5月1日 大日本史料 朝鮮釜山の天野一正、秀吉に衣服を予減られ死を社史、近況を方図秀吉、肥前平戸の松浦
宗静(鎭信)をして、秀吉に衣服を予減られ死を近況を方図鮮より逃れ歸り、或は之を
蔵匿する者を捕へ、殺さしむ、
文禄3年 5月12日 大日本史料 秀吉、攝津有馬より大坂に歸る
文禄3年 6月1日 大日本史料 秀吉、今井兵部を藏入分攝津闕郡我孫子村等の代官と爲す
文禄3年 6月2日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請奉行徳川家康の將松平家忠の勞を賞す
文禄3年 6月2日 大日本史料 秀吉、島津義弘に馬を與へて、朝鮮在陣の勞を犒ふ、
文禄3年 6月3日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請を視る
文禄3年 6月5日 大日本史料 秀吉、小出吉政に播磨の地二萬餘石を宛行ふ
文禄3年 6月7日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)に答へ、速に山城伏見より大坂に歸り、面子を土産に與ふべき
旨を述ぶ
文禄3年 6月12日 大日本史料 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)をして、明國に通信せしむ、是日、
明王朱翊鈞、答書を送る、
文禄3年 6月18日 大日本史料 秀吉、大坂に歸る
文禄3年 7月3日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の普請を視る
文禄3年 7月16日 大日本史料 秀吉の近臣石田三成、薩摩の檢地奉行に條規を與ふ、
文禄3年 7月20日 大日本史料 和泉堺の商人菜屋助右衞門、呂宗より歸り、唐傘・麝香・眞壺等を秀吉に進む
文禄3年 7月22日 大日本史料 秀吉、大政所(天瑞院)三囘忌の爲めに塔を東寺に建つ
文禄3年 8月5日 大日本史料 秀吉、千人斬十六人を捕へ、之を處刑す
文禄3年 8月5日 大日本史料 是より先、秀吉、新に朝鮮出兵の軍役を、百石に五人と定む、是日、朝鮮在陣の島津
義弘、其人數の未だ渡海せざることを、石田三成に告ぐ
文禄3年 8月10日 大日本史料 秀吉、伊木忠次をして山城伏見城作事入用米を三河吉田の池田照政(輝政)に渡さしむ
文禄3年 8月21日 大日本史料 秀吉、相國寺承兌(西笑)をして、豊臣氏の爲めに山城伏見に寺(豊光寺)を建立せし
めんとし、諸大名をして、之に勸進せしむ、
文禄3年 8月23日 大日本史料 秀吉、聚樂亭に行かんとし、之を延引す
文禄3年 8月23日 大日本史料 是より先、秀吉、山城伏見城内に瀧の座敷を作る、是日、大和多聞山の不用の古塔を同
城に移建せんとし、同國郡山の羽柴秀保をして、其工を督せしむ
文禄3年 8月24日 大日本史料 秀吉、巨盗を捕へ、是日、之を三條河原に刑す、
文禄3年 8月25日 大日本史料 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津忠恆の、父義弘の軍に朝鮮に從はんとするを許す、
是日、忠恆、肥前名護屋に出陣す、
文禄3年 9月9日 大日本史料 秀次、山城伏見に至る、又、秀吉、徳川家康の伏見の亭に臨む
文禄3年 9月14日 大日本史料 秀吉、奉行石田三成をして、薩摩・大隅・日向を檢地せしむ
文禄3年 9月18日 大日本史料 秀吉、山城伏見城瀧の座敷に茶會を催す、
文禄3年 9月21日 大日本史料 是より先、秀吉、伊勢を檢地す、是日、同國多気・渡會二郡の地を大神宮に寄進し、
同國の地を徳川家康・遠江掛川の山内一豊等に宛行ふ、
文禄3年 9月23日 大日本史料 秀吉、朝鮮釜山の島津義弘をして、守備を嚴にせしむ
文禄3年 9月 大日本史料 秀吉、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元を朝鮮より召還し、故羽柴秀長の女をして、
之に嫁せしむ
文禄3年 秋 大日本史料 山城伏見城竣り、秀吉、之に移る、
文禄2年 10月6日 上蔵院過去帳
○河野通直母、春松院殿天遊永寿(春禅院没、永寿大方) 完戸(宍戸)喜左衛門建立。
文禄3年 10月13日 大日本史料 秀吉の近臣増田長盛、正直屋宗與に攝津兵庫の地子錢及び諸座公事錢の算用状を與ふ
文禄3年 10月17日 大日本史料 是より先、秀吉、片桐直倫(旦元)をして、攝津を檢地せしめ、是日、諸社寺に地を
寄進し、伊東長實等に地を加増す
文禄3年 10月18日 大日本史料 秀次、秀吉室北政所を聚樂亭に饗す
文禄3年 10月20日 大日本史料 秀吉、聚樂亭に臨む、徳川家康等之に從ふ
文禄3年 10月28日 大日本史料 秀吉、越後春日山の上杉景勝の京都の亭に臨む
文禄3年 10月30日 大日本史料 秀吉、常陸水戸の佐竹義宣の京都の亭に臨む
文禄3年 10月 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家をして、宇治川に堤防を築かしむ、
文禄3年 10月 大日本史料 秀吉、奉行石田三成をして、常陸を檢地せしむ、
文禄3年 11月1日 大日本史料 是より先、秀吉、相國寺承兌(西笑)をして、山城伏見城中に方丈を建てしむ、是日、
石川光吉をして、藏入分近江の地の代官同國觀音寺に檜木を渡付せしむ
文禄3年 11月1日 大日本史料 小西行長、加藤清正の示せる講和の條件は、秀吉の意にあらざることを、慶尚道右兵使
金應瑞に告ぐ
文禄3年 11月11日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の父同道可(隆信)の、孔雀を進めしを謝す
文禄3年 11月13日 大日本史料 是より先、秀吉、猶子羽柴秀俊を小早川隆景の嗣子と爲す、是日、秀俊、備後三原城
に入る、
文禄3年 11月16日 大日本史料 是より先、秀吉、伊勢を檢地す、是日、同國宮川以内の地は檢地せざる旨を宇治惣中・
山田惣中・大湊惣中に告ぐ
文禄3年 11月17日 大日本史料 秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)の島津忠豐の、名鷹を進めしを謝す、
文禄3年 11月25日 大日本史料 秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む、
文禄3年 11月30日 大日本史料 秀吉、入京す、徳川家康、之に從ふ
文禄3年 11月 大日本史料 秀吉、攝津善福寺等に米を寄進するに依り、織田常眞(信雄)、之を同寺に告ぐ、
文禄3年 12月2日 大日本史料 是より先、秀吉、片桐直倫(旦元)をして、河内を檢地せしめ、是日、末吉勘兵衞を同
國の藏入分代官と爲す、又北條氏規等に同國の地を宛行ひ、譽田八幡宮等に地を寄進す、
文禄3年 12月3日 大日本史料 秀吉、伊勢安濃津の大寶院に、同國一志郡の地を寄進す
文禄3年 12月4日 大日本史料 秀吉、吉川廣家の、鷹を朝鮮より進めしを謝す、
文禄3年 12月10日 大日本史料 秀吉、藏入分攝津有馬湯山の代官同國善福寺に年貢等を督徴す
文禄3年 12月11日 大日本史料 秀吉の奉行石田三成・長束正家・増田長盛、若狭組屋甚四郎に、京都にて賣却せる
呂宋壺七箇の代金の請取状を與ふ、
文禄3年 12月20日 大日本史料 是より先、秀吉の子拾丸(秀頼)、大坂城より山城伏見城に移る、是日、秀吉の近臣
木下吉隆、之等を朝鮮在陣の吉川廣家に報ず
文禄3年 12月20日 大日本史料 明王朱翊鈞、重ねて、小西行長の將内藤如安を引見し、又、諸臣をして、秀吉の出兵の
名目等十一事を詰問せしむ、尋で、秀吉を日本國王に封ずるの議を定め、李宗城を册封
日本正使と爲す
文禄3年 12月21日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家の勞を犒ひ、速に兵粮船數艘を遣すべきこと、明後年は
出兵すべきことを告ぐ、
文禄3年 12月25日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の島津義弘及び吉川廣家をして、養生の爲め、鹽漬の虎肉を送らしむ、
文禄3年 12月26日 大日本史料 秀吉、朝鮮釜山の島津義弘の物を進めて、歳暮を賀せるを謝す、
文禄3年 12月27日 大日本史料 秀吉、徳川家康の女(北條氏直後室)をして三河吉田の池田照政(輝政)に嫁せしむ、
文禄3年 心斎橋今昔年表 大坂城の外周惣構が完成 (延長308町=約13㎞)
北は大川(旧淀川) 東は猫間川(平野川) 西は東横堀川を開削、南は空堀を開削し外周を形成。
(現、大阪城敷地の3倍)
この大工事は、遠近諸国から無類の石材や木材が舟で次々と運ばれ、段取りが悪いと、所領没収の
厳罰が下されるので大名は必死で、付近の水上には、遠路から何日もかけ運んだ1000艘の運搬船が
ひしめき合い、巨石を川に落としてしまう事もありました
文禄3年 秀吉、諸國を檢地せしむ、
文禄3年 伊予中山町誌 (一) 太閤検地
中山町の現在の大字にあたる江戸時代の村は、太閤検地による村切りによって確定した。豊臣秀吉の検地
はそれまでの戦国大名や織田信長が実施した指出検地とは根本的に違っており、指出検地が土地台帳の提出
だけで済んだのに対して、土地の測量を実際に行う(直接検地)点が最大の相違点であった。
太閤検地の基準は、秀吉による日本統一が進行するにつれて整備され、文禄三年(一五九四)には、
ほぼその大綱ができあがった。その概要は次のとおりである。
①間竿の統一………一間=六尺三寸とした
②一反は三百歩……従来は一反=三百六十歩
③桝の統一…………不統一であった桝を京桝に統一
④検地帳記載基準…検地帳に記載する地目を田・畑・屋敷の三種類とし、地位は上・中・下・下々
耕作者(年貢負担者)を記載
⑤石盛の実施………土地の生産力を査定、石高表示
⑥村切りの実施……太閤検地の特色。村境を確定
村の規模は集落の実態に合わせたから極端に大きな村があるかと思えば、非常に小さな村もあった
文禄3年 大日本史料 秀吉、耶蘇教徒數人を京都・大坂に捕へて、肥前長崎に送り、之を刑す
文禄3年 大日本史料 比律賓諸島長官の使節、山城伏見城に秀吉に謁し、答書を呈す
西暦1595年
文禄4年 心斎橋今昔年表 伏見大地震により伏見城が崩壊、再普請を開始
文禄4年 1月3日 大日本史料 秀吉、甲斐府中の淺野長繼(幸長)等の普請奉行をして、信濃・甲斐・上野の人數を徴
し、上野草津温泉に座所を建てしむ
文禄4年 1月7日 大日本史料 伊賀上野の筒井定次、山城伏見城に至り、秀吉に歳首を賀し、尋で、秀次に聚樂亭に謁す
文禄4年 1月14日 大日本史料 秀吉、日向飫肥の伊東祐兵の、朝鮮にて狩獲せる虎を進めしを謝す
文禄4年 1月16日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家に、肥前唐津の寺澤正成の報告に依り、本年は出撃せざるこ
と、兵粮三萬石を送りしこと等を告げ、城邊を耕し、兵粮に充てしむ
文禄4年 1月20日 大日本史料 秀吉、伊勢員辨郡の地五千石を瀧川雄利に加増す、
文禄4年 1月28日 大日本史料 秀吉、美濃部四郎三郎・山城小才次を朝鮮に遣し、毛利元康の在陣の勞を犒ふ
文禄4年 2月1日 大日本史料 大阪城中盗あり、秀吉の金子を盗む、
文禄4年 2月2日 大日本史料 秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷の進めし桑木の鐵子を、叡覽に供す
文禄4年 2月8日 大日本史料 秀吉、蒲生秀隆(秀行)をして、亡父氏郷の封を襲がしめ、老臣を誡飾し、上杉景勝・
佐竹義宣・最上義光・伊達政宗に命じ、秀行を輔けしむ、秀次も亦、秀隆をして、
其封を安堵せしむ、
文禄4年 2月14日 大日本史料 鍋島勝茂を信濃守と爲し、從五位下に敍す、秀吉、之に豊臣姓を授け、其父肥前佐賀の
同直茂に亭地を山城伏見に與ふ、
文禄4年 2月14日 大日本史料 日向飫肥の伊東祐兵、朝鮮に於て虎を狩獲す、尋で、之を秀吉に進む、
文禄4年 2月16日 大日本史料 秀吉、大坂より山城伏見城に入る
文禄4年 2月16日 大日本史料 山中長俊、秀吉の命を吉川廣家に傳へ、朝鮮在陣の勞を犒ひ、來年は援軍を出すべきこ
と等を告ぐ、
文禄4年 2月24日 大日本史料 秀吉、茶屋四郎次郎に公事錢の皆濟状を與ふ
文禄4年 2月27日 大日本史料 秀吉の、御衣下賜を請ふを聽す
文禄4年 2月27日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)に敍爵せられんことを奏請す、
文禄4年 2月28日 大日本史料 秀吉、富田一白(知信)に知行二萬石を加増す
文禄4年 3月2日 大日本史料 秀吉・拾丸(秀頼)父子に、太刀・馬を賜ひ、山城伏見移徙を賀せしめらる、明日、
公家衆、秀吉に之を賀す、
文禄4年 3月6日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家に近江高島郡の地を加増す
文禄4年 3月7日 大日本史料 秀吉、入京し、前田利家の亭に臨む、尋で、又、之に臨む
文禄4年 3月8日 大日本史料 秀吉、聚樂亭に臨む
文禄4年 3月10日 大日本史料 秀吉、般舟三昧院に地を京都に與へ、山城伏見より之に移らしむ
文禄4年 3月10日 大日本史料 是より先、秀吉、養生の爲め虎肉を朝鮮在陣の諸將に徴す、是日、島津義弘、慶尚道
昌原に狩し、二虎を獲て鹽漬し、之を進む、尋で、秀吉、義弘を褒し、虎狩を停む、
文禄4年 3月17日 大日本史料 秀吉、参内せんとし、雨天に依り中止す、
文禄4年 3月25日 大日本史料 秀吉、山城伏見より京都に入る
文禄4年 3月27日 大日本史料 秀吉、参内して、太刀・白鳥及び綿を獻ず
文禄4年 3月28日 大日本史料 秀吉、徳川家康の京都の亭に臨む
文禄4年 4月3日 大日本史料 秀吉、因幡鹿野の龜井茲矩をして、伯耆日野山の銀を採掘し運上せしむ
文禄4年 4月6日 大日本史料 秀吉、大坂城に能を張行す
文禄4年 4月8日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)病むに依り、大坂より山城伏見城に入る
文禄4年 4月12日 大日本史料 秀吉、薩摩の檢地終るに依り、島津義弘をして、朝鮮唐島(巨濟島)より歸國せしめ、
其子忠恆をして、唐島を守らしむ
文禄4年 4月19日 大日本史料 秀吉、信濃飯田の京極高知に四萬石を加増す
文禄4年 4月21日 大日本史料 秀吉、山城伏見より大坂に歸る
文禄4年 4月22日 大日本史料 秀吉、吉川廣家の、慶尚道釜山より豹を進めしを褒す
文禄4年 4月26日 大日本史料 秀吉、薩摩出水郡の地一萬石を、對馬府中の宗義智に加増す
文禄4年 4月28日 大日本史料 明の遊撃沈惟敬等、慶尚道釜山に小西行長に會す、行長、明の朝服を著して之を迎へ、
諸將と議して、秀吉に謁し、撤兵の令を請はんとし、尋で、歸國す
文禄4年 4月 大日本史料 秀吉、畿内及び近江・美濃に、櫻樹を徴し、山城伏見及び向島に移植し、京都土居の
枯竹を、其柵に宛てしむ
文禄4年 5月1日 大日本史料 秀吉、吉川廣家に帷を與へ、朝鮮在陣の勞を犒ふ、尋で、秀吉、廣家の端午節供の祝儀物
を贈れるを謝す
文禄4年 5月5日 大日本史料 秀吉、象戯馬の王將を改めて、大將と爲さんことを請ふ
文禄4年 5月5日 大日本史料 秀吉、判金小判座二十七名を定め、其條規を下す
文禄4年 5月12日 大日本史料 秀吉の藏入分近江の地の代官石田三成、同國上平寺をして、寺領を安堵せしめ、
山林の竹木伐採を禁ず
文禄4年 5月19日 大日本史料 秀吉、其使者美濃部四郎三郎等、朝鮮より歸國するに依り、慶尚道釜山の吉川廣家・
毛利元康の在陣の勞を犒ひ、藏米を新米と交換せしむ
文禄4年 5月20日 大日本史料 秀吉・秀次、江戸の徳川家康に答へ、後會を約す
文禄4年 5月21日 大日本史料 秀次、山城伏見の亭に能を張る、秀吉及び北政所杉原氏、之に臨む
文禄4年 5月22日 大日本史料 秀吉、小西行長・大谷吉繼等に、重ねて、明との和議七箇條を示す、又、明及び朝鮮と
の和親成らんとするに依り、朝鮮在陣の諸將に處置を命ず
文禄4年 5月24日 大日本史料 秀吉、伊豫今治の福島正則等を城米奉行と爲し、慶尚道釜山に遣す、仍りて、吉川廣家
をして、其命に從ひ、古米を入換へしむ
文禄4年 5月29日 大日本史料 秀吉、甲斐府中の淺野長吉(長政)・長繼(幸長)父子をして、蒲生秀隆(秀行)の居
城陸奥會津の若松等七城を殘し、邑内の諸城を破却せしむ
文禄4年 6月2日 大日本史料 秀吉、日向佐土原の島津豊久の朝鮮在陣の勞を犒ひ、道服等を與ふ
文禄4年 6月3日 大日本史料 是より先、秀吉、陸奥會津の蒲生秀隆(秀行)の呈出せる知行目録等を疑ひ、秀隆を近江
二萬石に移さんとす、是日、秀吉、越後春日山の上杉景勝・安藝廣島の毛利輝元の意見を
徴す
文禄4年 6月6日 村上図書家文書 小早川隆景書状
(山口県文書館) (押紙)(朱書) 「文禄四年 才次郎、号元武ト」(元吉嫡男)
(宮窪町誌) 若子誕生誠珎重候、於吾等大慶之至候、仍為御祝儀、太刀一腰金覆輪
馬一匹令進之候 長久可申談之条、本望候、猶使者可申述候、恐惶謹言
六月六日 隆景 (花押)
村上掃部守(元吉)殿 御宿所
(奥ウハ書) 「小早川左衛門佐 隆景
村上掃部頭殿 御宿所 」
注 ①巻子仕立てで、「毛利家小早川家より御書」と題簽が付されている。
文禄4年 6月8日 大日本史料 秀吉、近江水口の増田長盛を大和に移し、郡山城を與ふ、又長束正家に近江水口を與ふ
文禄4年 6月18日 大日本史料 加賀金澤の前田利家、秀吉の不興を受けし、甲斐府中の淺野長繼(幸長)を能登津向に
置かんとし、三輪藤兵衞をして、其準備を爲さしむ
文禄4年 6月19日 大日本史料 秀吉、常陸を檢地し、同國水戸の佐竹義宣に五十四萬五千八百石の朱印状を與ふ、
文禄4年 6月19日 大日本史料 秀吉、新庄東玉齋(直忠)に伊勢安濃郡の地を加増す、又、故羽柴秀保の近臣藤堂高虎
を藏入分伊豫宇和郡の代官と爲す
文禄4年 6月29日 大日本史料 秀吉、薩摩・大隅及び日向諸縣郡を檢地し、是日、五十五萬九千石餘を島津義弘に與
ふ、又、其十萬石を兄同龍伯(義久)の藏入分と爲し、日向都城等八萬石を伊集院幸侃
(忠棟)に、一萬石を島津以久に與ふ
文禄4年 6月 大日本史料 朝鮮禮曹司李榮春・尹起辛等、書を秀吉に呈し、加藤清正の恩を謝し、其生祠を設けん
ことを告ぐ、秀吉、其書を清正の朝鮮西生浦の陣に遺り、之を褒す
文禄4年 7月 心斎橋今昔年表 秀次を高野山に追放し自殺。諸大名に血判起請文を提出させる
文禄4年 7月3日 大日本史料 是より先、秀次、其行跡修まらず、石田三成、秀吉に讒講して謀反と爲す、是日、秀吉、
三成・増田長盛等を聚樂亭に遣し、之を詰問す、
文禄4年 7月5日 大日本史料 安藝廣島の毛利輝元、秀次に進めし誓書案文を秀吉に呈す
文禄4年 7月6日 大日本史料 秀吉、山城龍安寺に地を寄進す
文禄4年 7月8日 大日本史料 秀吉、前田玄以等を聚樂亭に遣し、秀次を山城伏見に召致し、木下大膳亮の亭に留め、
其關白、左大臣の官職を褫ひ、紀伊高野山に逐ふ
文禄4年 7月10日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家・島津忠恆・立花親成(宗茂)に、秀次のことを告げ、動揺
することなからしむ
文禄4年 7月11日 大日本史料 秀吉、秀次の子女・妻妾を移して所司代前田玄以の丹波龜山城に錮す
文禄4年 7月12日 大日本史料 秀吉、所司代前田玄以をして、秀次の、謀反を企つるに依り、紀伊高野山に放ちしことを
奏せしむ
文禄4年 7月12日 大日本史料 秀吉、駿河府中の中村一氏を同國に於ける藏入分代官と爲す
文禄4年 7月12日 大日本史料 石田三成・増田長盛、秀吉の子拾丸(秀頼)に忠誠を誓ふ
文禄4年 7月13日 大日本史料 蒲生秀隆(秀行)、始めて陸奥會津城に入る、淺野長吉(長政)、秀吉の命に依り同行
す、尋で、長吉、京都に歸る
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、福島正則・福原直高・池田秀氏を紀伊高野山に遣し、秀次をして、自殺せしむ
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、但馬出石の前野長康・長重父子・渡瀬重詮・服部春安・一柳右近將監等を捕へ、
尋で、之を殺す、
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、富田一白(知信)を伊勢安濃津城に封じ、五萬石を與へ、内二萬石を子信高に
給せしむ
文禄4年 7月15日 大日本史料 秀吉、遠江掛川の山内一豐に同國の地八千石、同國府中の中村一氏に五千石、讃岐高松
の生駒近規に五千石を加増す
文禄4年 7月20日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家を拾丸(秀頼)の傅と爲す、是日、利家、誓約す
文禄4年 7月21日 大日本史料 秀吉、伊豫松前の加藤茂勝(嘉明)に伊豫の地を與へ、同國の藏入分代官と爲す
文禄4年 7月22日 大日本史料 是より先、秀吉、高田小兵衞を紀伊高野山に遣し、故羽柴秀保の近臣藤堂高虎をして、
再び出仕せしむ、尋で、生駒近規をして之を諭さしめ、伊豫板島七萬石を與ふ
文禄4年 7月24日 大日本史料 徳川家康、秀吉の報に依り、山城伏見に著す
文禄4年 7月25日 大日本史料 秀吉、奏請して、右大臣菊亭晴季を越後に流す
文禄4年 7月29日 大日本史料 秀吉、故豊臣秀次の子女・妻妾を丹波龜山城より移して、美濃松木の徳永壽昌の京都の
亭に錮す
文禄4年 7月 大日本史料 石田三成、故豊臣秀次のことに就きて、丹後宮津の長岡忠興を秀吉に讒誣す、忠興の
老臣松井康之、徳川家康に頼り、其難を免る
文禄4年 7月 大日本史料 石田三成、甲斐府中の淺野長繼(幸長)を秀吉に讒誣し、殺さんとす、秀吉、前田利家
の諌に依り、之を能登津向に謫す
文禄4年 7月 大日本史料 秀吉、出羽山形の最上義光を京都の亭に錮す、又、伊達政宗、陸奥岩手山より上京し、
大坂の施樂院全宗の亭に入り、命を待つ
文禄4年 7月 大日本史料 徳川家康・毛利輝元・小早川隆景、秀吉・拾丸(秀頼)父子に異心なきを誓ふ
文禄4年 8月2日 大日本史料 秀吉、故豊臣秀次の子女・妻妾三十餘人を京都三條磧に殺さしむ
文禄4年 8月2日 赤穂市資料 関白豊臣秀次謀反事件に連座して、浅野長政失脚
文禄4年 8月2日 大日本史料 秀吉、法度六條を定む、明日、九條を追加す、
文禄4年 8月3日 大日本史料 秀吉、播磨龍野の小出吉政に、前野長康の遺領但馬の地五萬三千石餘を加増す、明日、
寺西正勝等に美濃の地等を加増す、
文禄4年 8月3日 大日本史料 秀吉、尾張小松寺等をして、寺領を安堵せしむ
文禄4年 8月3日 大日本史料 秀吉の奉行長束正家・増田長盛・前田玄以、藏入分の算用等につきて私曲なき旨を誓ふ
文禄4年 8月7日 大日本史料 秀吉、近臣片桐直倫(且元)等に所領を加増す
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉、尾張津島社等に同國東野村の地等を寄進し、伊勢松坂の古田重勝等に尾張の地
を宛行ふ
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉、三河岡崎の田中吉政等に同國西尾三萬石等を加増す
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉、近江朽木の朽木元綱に、同國高島郡の地九千石餘を加増す
文禄4年 8月8日 大日本史料 秀吉の奉行石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以、故豊臣秀次の、雀部淡路の妻子に
與へし金子三枚を、紀伊金剛峯寺應其(興山)より請取る、
文禄4年 8月17日 大日本史料 秀吉、木下家定に播磨姫路二萬五千石を與へ、片桐直倫(且元)等に地を加増す
文禄4年 8月17日 大日本史料 是より先、秀吉、増田長盛に大和郡山城を與ふ、是日、秀吉、同國の檢地を行ふ
文禄4年 8月21日 大日本史料 秀吉、播磨を檢地し、其他を大隅帖佐の島津義弘に加増し、又、薩摩・大隅に於ける
其將士の所領を入換へしむ
文禄4年 8月21日 大日本史料 秀吉、豊前中津の黒田長政の父如水(孝高)に播磨の地を加増す、又、同國斑鳩寺をし
て、寺領を安堵せしむ
文禄4年 8月22日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に入る、明日、家康、京都より伏見に行く
文禄4年 8月24日 大日本史料 是より先、秀吉、故豊臣秀次のことに就き、所司代前田玄以等を大坂に遣し、伊達政宗
を詰問せしめ、之を流し、子秀宗をして嗣がしめんとす、其讒言に依るを知り、其罪を
赦す、是日、政宗の老臣、誓書を呈出す
文禄4年 8月24日 大日本史料 秀吉、子拾丸(秀頼)の傳前田利家に越中新川郡を加増し、故豊臣秀次の山城伏見亭を
與ふ、是日、利家、之に移る
文禄4年 8月26日 大日本史料 秀吉、尾張犬山の石川光吉をして、山城伏見川端の長屋の用材を、大坂に於て今井兵部
に渡付せしむ
文禄4年 8月28日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄4年 8月 大日本史料 秀吉、聚樂亭を毀つ
文禄4年 8月 大日本史料 秀吉、有馬豊氏に遠江横須賀三萬石を與ふ
文禄4年 8月 大日本史料 秀吉、石田三成を近江佐和山に封ず
文禄4年 9月8日 大日本史料 秀吉、紀伊高野山の大塔を造營す
文禄4年 9月8日 大日本史料 伊達政宗、秀吉に山城伏見に謁す
文禄4年 9月15日 大日本史料 土佐浦戸の長宗我部元親、同國を檢地す
【山内家所藏土佐國土佐之郡大高坂外新塩田御檢地帳】
文禄4年 9月17日 大日本史料 秀吉、故浅井長政の女達子をして、徳川秀忠に嫁せしむ
文禄4年 9月21日 大日本史料 秀吉、聖護院道澄を山城方廣寺大佛殿住持と爲し、寺領一萬石を寄進す
文禄4年 9月22日 大日本史料 是より先、秀吉、大和を檢地す、是日、興福寺等に寺領目録等を與ふ
文禄4年 9月22日 大日本史料 秀吉、片桐貞隆に尾張の替地として、伊勢一志郡の地を宛行ふ、
文禄4年 9月23日 大日本史料 秀吉、日向佐土原の島津忠豐の朝鮮在陣の勞を犒ひ、守備を嚴にせしむ
文禄4年 9月24日 大日本史料 是より先、秀吉、日蓮宗門徒をして、山城方廣寺大佛殿の法會に出仕せしむ、山城
妙覺寺日奥、出仕を肯ぜず、是日、所司代前田玄以、日蓮宗の諸寺に出仕を督促す
文禄4年 9月25日 大日本史料 秀吉、父母の法會を山城方廣寺大佛殿經堂に修す
文禄4年 10月2日 大日本史料 秀吉、山城青蓮院・大覺寺・龍安寺・泉涌寺・三千院・京都相國寺に丹波に於ける寺領
の替地を寄進す、
文禄4年 10月2日 屋代島大野系譜 大野直秀、こと、隆直没(於筑前黒崎)。
【屋代島大野系譜】・・・・・→筑前黒崎発生は慶長8年以降
文禄4年 筑前大野家文書 ○大野直吉【村上】嫡子生直は小早川秀秋が隆景の後を襲った時、生直兄弟は豊前
中津に至り黒田孝高に仕える。黒田氏筑前入国に伴い御牧郡則松村に移住する。
文禄4年 10月2日 大日本史料 秀吉、前關白一條内基等に知行目録を與ふ
文禄4年 10月5日 大日本史料 秀吉、玄澄を伊勢龍光寺住持と爲す
文禄4年 10月8日 大日本史料 是より先、秀吉、伊豫今治の福島正則を故豊臣秀次の藏入分尾張清須に移す、是日、
正則、大神宮に地を寄進す、
文禄4年 10月15日 大日本史料 吉川廣家、朝鮮より歸り、秀吉に山城伏見城に謁す、尋で、出雲富田に歸る、
文禄4年 10月20日 大日本史料 秀吉、養女備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏の病むに依り、山城稲荷社社人をして、
野狐を祈禳せしむ
文禄4年 10月25日 大日本史料 是より先、秀吉の養女備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏の病む、是日、秀吉の請に
依り、内侍所に御神樂を奏す
文禄4年 10月28日 大日本史料 秀吉、近江朽木の朽木元綱を同國高島郡の藏入分代官と爲す
文禄4年 11月2日 大日本史料 秀吉、新庄東玉齋(直忠)に近江栗太郡の地を加増す
文禄4年 11月2日 大日本史料 秀吉、山城伏見より京都に入る、徳川家康、之に從ふ
文禄4年 11月8日 大日本史料 秀吉、病むに依り参内を止め、山城伏見に歸る
文禄4年 11月17日 大日本史料 清凉殿に不動法を修して、秀吉の病平癒を祈らしめらる、又、諸社をして、
祈禳せしめらる
文禄4年 11月17日 大日本史料 秀吉、近江三井寺を破毀せんとす
文禄4年 11月26日 大日本史料 内侍所に御神樂を奏し、秀吉の病平癒を祈らしめらる
文禄4年 11月28日 大日本史料 秀吉、權大納言中山親綱の丹波の所領の替地として、扶持米を給す
文禄4年 11月28日 大日本史料 安藝廣島の毛利輝元、家臣兒玉元兼の、貞宗・正宗の脇差を秀吉に進めしを賞し、
知行百石を加増す
文禄4年 12月1日 大日本史料 秀吉、筑前を檢地し、是日、五萬石餘を小早川隆景等に與ふ、又、筥崎八幡宮等に地を
寄進す
文禄4年 12月1日 大日本史料 秀吉、筑後を檢地し、是日、筑紫廣門等に同國上妻郡の地等を宛行ふ
文禄4年 12月1日 大日本史料 秀吉、肥前を檢地し、是日、鍋島直茂に知行目録を與ふ
文禄4年 12月6日 大日本史料 明の遊撃沈惟敬、良馬二百餘頭を秀吉に贈らんとし、之を肥前名護屋に輸送す
文禄4年 12月10日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、丹羽長重を参議に任じ、從三位に敍す、秀吉、長重をして、
加賀松任より同國小松に移らしむ、
文禄4年 12月18日 大日本史料 秀吉、山城伏見より大坂城に入る
文禄4年 12月20日 大日本史料 秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄4年 12月22日 大日本史料 秀吉の病に依り、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元、奏請して、御神樂を内侍所に奏す
文禄4年 大日本史料 秀吉、近江八幡山の京極高次を同國大津城主と爲す
文禄4年 大日本史料 秀吉、桑山重晴に和泉の地一萬石を加増す
文禄4年 大日本史料 秀吉、大和新庄直頼を攝津高槻城に移す
文禄4年 伊予中世年表 ○加藤嘉明,正木(松前)城主として伊予に入部。
文禄5年 1月2日 大日本史料 秀吉、山城伏見城の拾丸(秀頼)の、爪刀を進めて歳首を賀せしに答ふ
西暦1596年
慶長元年 * 1月3日 大日本史料 是より先、對馬府中の宗義智の家臣柳川調信、朝鮮に至りて、小西行長に、速に明使の
渡海のこと、朝鮮王子等の來りて謝せんことを 求むる秀吉の命を告ぐ、是日、行長・
明の遊撃沈惟敬、慶尚道釜山を發して、肥前名護屋に向ふ
慶長元年 * 1月14日 大日本史料 是より先、秀吉、島津氏の所領を檢地し、其家臣の知行地を入換ふ、是日、朝鮮在陣
の島津忠恆、本國の伊集院久治をして動揺することなからしむ、尋で、又、東郷重虎・
喜入忠政等にも之を告ぐ
慶長元年 * 1月16日 大日本史料 秀吉、安藝廣島の毛利輝元・備後三原の小早川隆景、出雲富田の吉川廣家及び東國の
諸大名に課して、淀川の堤を築かしむ、
慶長元年 * 1月16日 大日本史料 秀吉、唐島(巨濟島)の島津忠恆に小袖を與へて、朝鮮在陣の勞を犒ふ
慶長元年 * 1月23日 大日本史料 秀吉の奉行長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以、秀吉の子拾丸(秀頼)に
忠誠を誓ふ
慶長元年 * 1月29日 大日本史料 秀吉、千僧會を山城方廣寺大佛殿に修す
慶長元年 * 2月10日 大日本史料 陸奥岩手山の伊達政宗、秀吉に大坂城に謁す
慶長元年 * 2月14日 大日本史料 秀吉、大坂城に病む、是日、山城伏見城に移る
慶長元年 * 2月24日 大日本史料 秀吉、遠江光明寺に同國二俣山東の地を寄進す
慶長元年 * 2月 大日本史料 秀吉、諸大名に課して、山城伏見の向島に伏見城の支城を築く
慶長元年 * 2月 大日本史料 秀吉、明の使節を迎へんとし、諸大名をして、武者揃の準備を爲さしむ
慶長元年 * 3月2日 大野家聞書 ○大野内蔵介 立石尾首 元服す。忠左衛門と云う。直昌没後は立石村に住居す、
母は禅智院。
慶長元年 * 3月11日 大日本史料 秀吉、志賀小左衞門に豊後太井莊の地を宛行ふ
慶長元年 * 3月11日 山口県史整理年表 輝元、防府国分寺仁王門を重建す 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 3月21日 山口県史整理年表 輝元、飯田元種に厚狭郡厚東村内の地を与え、その賦役七端帆一艘と定め、
この日検地認証せしむ 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 3月23日 山口県史整理年表 輝元、三浦元氏領地安堵の評判を与う 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 4月7日 大日本史料 秀吉、大坂城より山城伏見城に歸る
慶長元年 * 4月23日 大日本史料 秀吉、尾張瑞泉寺に地を寄進し、諸役を免除す
慶長元年 * 4月27日 大日本史料 秀吉、土佐浦戸の長宗我部元親の山城伏見の亭に臨む【成就院文書】
慶長元年 * 4月29日 大日本史料 秀吉、前左大臣近衞信輔(信尹)・前右大臣菊亭晴季を赦されんことを奏請す
慶長元年 * 4月 大日本史料 陸奥岩手山の伊達政宗の子同兵五郎を侍從に任じ、從五位下に敍す、秀吉、之に偏諱
を與へ秀宗と稱せしむ
慶長元年 * 5月6日 大日本史料 秀吉、京都に入る、尋で、拾丸(秀頼)、上京す
慶長元年 * 5月13日 大日本史料 秀吉、拾丸(秀頼)と共に参内す、徳川家康・前田利家等、之に從ふ
慶長元年 * 5月15日 大日本史料 秀吉、能を興行し、叡覽に供す、尋で、秀吉・拾丸(秀頼)、山城伏見に歸る
慶長元年 * 5月15日 大日本史料 秀吉、河野藤左衞門尉等をして、尾張國中に地に鳥を捕獲し、進上せしむ
慶長元年 * 5月25日 大日本史料 勅使を山城伏見城に遣して、秀吉に歳首を賀せしめらる、公家衆・諸大名等、
秀吉に之を賀す
慶長元年 * 5月28日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の諸將を召還せんとす、是日、之を中止す
慶長元年 * 6月8日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に能を興行す、庶人の見物を許す
慶長元年 * 6月27日 大日本史料 明の册封日本副使沈惟敬、山城伏見城に、秀吉に謁す、尋で、大坂に歸る
慶長元年 * 7月5日 大日本史料 秀吉、明の册封日本正使楊方亨に武者揃を觀せしめんとし、諸大名に其準備を命ず
慶長元年 * 7月20日 山口県史整理年表 輝元禁誡十一ヵ条を頒布す。また僕従進退の処置三事を令す
【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 7月25日 大日本史料 秀吉・徳川家康、上京す、尋で、山城伏見に歸る
慶長元年 * 7月27日 大日本史料 秀吉、寺西正勝に上山城の地を、加藤茂勝(嘉明)に河内の地等を加増す、
文禄5年 7月28日 小早川隆景書簡 河野通直母、永寿の葬儀の模様
宮原大方殿御菩提の爲、竹原下の村に於て貳町四段の新開の事、彼の御家來衆去る春普請し築調せられ、
則ち當寺へ寄進に候、榮壽(河野通直母)御遺物の餘り、殘りて裁判候と雖も其の志神妙に候、然る間永代
のほか綺無く公役無きニ長生寺領に爲すべくの條、大方・通直親子の御弔い彌々御馳走肝要に候
慶長元年 * 7月29日 大日本史料 秀吉、伊勢專修寺に同國一身田村の地を寄進す
慶長元年 * 閏7月11日 大日本史料 秀吉、徳川秀忠の山城伏見の亭に臨む、徳川家康、之に會す
慶長元年 * 閏7月13日 大日本史料 徳川家康、秀吉を省す
慶長元年 * 閏7月13日 大日本史料 是より先、肥後隈本の加藤清正、秀吉の譴を蒙り、山城伏見の亭に屏居す、是日、
地震に依り、清正、馳せて秀吉に候す、明日、秀吉、清正を赦す
慶長元年 * 閏7月14日 大日本史料 秀吉、明の册封使に示さんとする武者揃を中止す
慶長元年 * 閏7月14日 大日本史料 山城伏見の支城向島、築城中に破壊す、是日、秀吉、更に地を木幡山に卜す
慶長元年 * 閏7月22日 大日本史料 是より先、甲斐府中の淺野長繼(幸長)、謫せられて能登に在り、是日、秀吉、
之を赦す
慶長元年 * 閏7月28日 大日本史料 秀吉、金春安照に大和坊城村を加増し五百石を給す
慶長元年 * 8月8日 山口県史整理年表 輝元、井原元以に備後・安芸・周防において千百石を知行せしむ
【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 8月9日 大日本史料 秀吉、大坂城修築の大工三百人を安藝廣島の毛利輝元に課す
慶長元年 * 8月20日 大日本史料 秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む
慶長元年 * 8月27日 大日本史料 秀吉、石川備後に、山城伏見城普請の人夫の食米を給す
慶長元年 * 8月29日 大日本史料 明の册封日本正使楊邦亨、朝鮮通信使黄愼等、大坂に著す、秀吉、對馬府中の宗義
智の老臣柳川調信をして、黄愼等を責めしめ、明使と共に見るを許さず
慶長元年 * 9月1日 大日本史料 秀吉、明の册封日本正使楊邦亨・副使沈惟敬を大坂城に引見し、誥命・勅諭・金印・
冠服を受く、明日、秀吉、册封使を饗し、相國寺承兌(西笑)をして、誥勅を読まし
む、秀吉、明の違約を怒り、册封使を追還し、徳川家康等の諌止を郤けて、朝鮮出兵
を決す、
慶長元年 * 9月2日 山口県史整理年表 秀吉、明使楊万亭・沈惟敬と会見す。輝元・小早川秀秋・吉川広家等列席す。
和議破る 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月6日 大日本史料 是より先、西班牙商船サン・フェリペ號、土佐浦戸に漂著す、秀吉、貨物を大坂に輸
漕せしむ、是日、浦戸の長宗我部元親の子同盛親、之を令す、 尋で、秀吉の奉行
増田長盛、阿波・淡路・紀伊等の諸浦に令し、輸漕船を造る人夫等を供給せしむ【蠧簡集】
慶長元年 * 9月7日 大日本史料 秀吉、肥前佐賀の鍋島直茂に朝鮮より歸國を命ず
慶長元年 * 9月7日 大日本史料 秀吉、出雲富田の吉川廣家を、伯耆日野銀山の代官と爲す
慶長元年 * 9月7日 大日本史料 秀吉、奉行増田長盛をして、明の册封日本正使楊方亨等に金銀等を贈らしむ
慶長元年 * 9月9日 山口県史整理年表 輝元沿海の令十二条を発布す。降松・赤間関等に官船の用に供する水手を定め、
玖珂郡・熊毛郡・都濃郡・佐波郡等近郷より、藤・藁・竹を出さしむ。
また都濃郡黒髪山の伐木を禁ず 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月10日 大日本史料 秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)の島津忠恆をして、慶尚道の四城に儲蓄せし兵粮を諸軍に
分配せしむ
慶長元年 * 9月13日 大日本史料 是より先、秀吉、諸將に朝鮮出陣を命ず、是日、唐島(巨濟島)の島津忠恆、父同
義弘の渡海を待ちて歸國せんとす
慶長元年 * 9月15日 大日本史料 前左大臣近衞信輔(信尹)、秀吉の奏請に依り、勅勘を赦され、薩摩より京都に
歸る、
慶長元年 * 9月28日 山口県史整理年表 朝鮮再征に決し、軍装をなさしむ 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月 大日本史料 大隅富隈の島津龍伯(義久)、琉球王尚寧に秀吉の病を報じ、益、進物を致さんこと
を命ず
慶長元年 * 10月1日 大日本史料 秀吉、山城妙法院に知行目録を與ふ
慶長元年 * 10月10日 大日本史料 秀吉、近江園城寺の僧の、勘當人の家財を隠匿せしものを追放す
慶長元年 * 10月 大日本史料 秀吉、山城木幡山の工事を巡視し、紙衣を諸大名に與へ、伊達政宗には彩飾の衣を
與ふ、政宗、秀吉に船一艘を進む、
慶長 10月27日 改元・出典「毛詩」 けいちょう・天災改元による(後陽成天皇-20年間)【勘申者 菅原為経】
慶長元年 11月11日 大日本史料 秀吉の奉行増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以、肥後に於ける秀吉の藏入分代官
加藤清正に去年分の年貢を督徴す、
慶長元年 11月15日 大日本史料 秀吉、耶蘇教徒を處刑す、尋で、之を肥前長崎に送り磔殺す
慶長元年 11月 大日本史料 秀吉、大坂城に移る
慶長元年 12月3日 大日本史料 秀吉、延暦寺に地を寄進す
慶長元年 12月10日 大日本史料 秀吉、西班牙商船の舶載せし緞子等を獻ず
慶長元年 12月17日 大日本史料 秀吉の子拾丸、元服して秀頼と稱す、是日、勅使を大坂に遣し、秀吉・秀頼父子に
物を賜ふ、攝家・親王等も之に物を贈る
慶長元年 12月21日 大日本史料 朝鮮通信使黄愼・副使朴弘長、歸國して、秀吉の出兵せんとすることを報ず
慶長元年 12月28日 大日本史料 秀吉、大神宮に齋宮領の出米分を寄進す
慶長元年 芳闕嵐史 四条家秘蔵の太平記の底本とされる「鳳闕乱諍」を日野中納言の執事前大和大椽蔵人
介宗信が写本する。これを更に妙心寺の僧南源(1565~1622)、が慶長元年(1596)
写し、鳳闕乱諍の字議が不穏として「芳闕嵐史」と改題して松山の天徳寺に伝来した
秘本である。
慶長元年 冬至 天徳寺文書 慶長元年丙申(1597年)冬至日妙心寺玉鳳院にて「芳闕嵐史」を写す
西暦1597年
慶長2年 1月1日 大日本史料 秀吉、山城伏見より大坂に赴く
慶長2年 1月7日 大日本史料 秀吉、伊勢安濃津の富田一白(知信)に同國安濃郡の地を加増す
慶長2年 1月29日 大日本史料 秀吉の奉行前田玄以・増田長盛・長束正家、攝津闕郡の藏入分代官今井兵部に藏米算用
状を與ふ、
慶長2年 2月20日 大日本史料 秀吉、朝鮮出征の諸將の部署を定む、尋で、其條規を下す
慶長2年 2月21日 大日本史料 秀吉、守藤(集雲)を東福寺住持と爲す
慶長2年 2月21日 大日本史料 秀吉、朝鮮出兵に就きての條規を豊後直入郡の熊谷直盛等に與ふ
慶長2年 2月24日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に茶會を催す、
慶長2年 2月29日 山口県史整理年表 秀吉、諸将を朝鮮に向わしむ。総軍十四万数千。毛利秀元、三万を率いて八番隊
に属す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 3月1日 大日本史料 秀吉、皇大神宮に伊勢野尻郷を寄進す
慶長2年 3月1日 大日本史料 秀吉・秀頼父子、山城北野社に釣燈籠を寄進す
慶長2年 3月7日 大日本史料 秀吉、五人組・十人組の制を定む
慶長2年 3月8日 大日本史料 秀吉、山城醍醐寺三寶院に櫻花を賞す、三寶院門跡義演・徳川家康等、之に陪す、又、
秀吉、同寺の寺規を定む
慶長2年 3月9日 大日本史料 秀吉、大坂に赴く
慶長2年 3月11日 大日本史料 秀吉、大隅帖佐の島津義弘の室廣瀬氏等を山城伏見に招致す是日、廣瀬氏、帖佐を發す
慶長2年 3月13日 大日本史料 備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏、大坂に病む、秀吉、曲直瀬正琳をして、之を診せしむ
慶長2年 3月21日 大日本史料 秀吉、大坂より山城伏見に著す
慶長2年 3月27日 大日本史料 秀吉、山城醍醐寺に禁制を下す、
慶長2年 3月29日 大日本史料 秀吉、伏見城の工を督す
慶長2年 4月2日 大日本史料 秀吉、加賀金澤の前田利家の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 4月4日 大日本史料 秀吉、大坂に赴く
慶長2年 4月6日 大日本史料 肥前佐賀の鍋島直茂、朝鮮より歸り、秀吉に大阪城に謁す、秀吉、之を饗す
慶長2年 4月12日 大日本史料 秀吉、諸國の麦年貢を三分一と定め、給人をして、之を在所に儲藏せしむ
慶長2年 4月20日 大日本史料 秀吉、山城伏見城中の掟を定む
慶長2年 4月24日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 4月26日 大日本史料 秀吉、京都に新亭を造る、是日、繩張あり
慶長2年 4月27日 大日本史料 秀吉、参内して、歳首を賀し奉る、徳川家康・前田利家等、之に從ふ、秀吉及び家康・
利家に宴を清凉殿に賜ふ
慶長2年 4月28日 大日本史料 秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 5月1日 大日本史料 秀吉、越前府中の青木一矩の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 5月1日 大日本史料 秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)を對馬府中の宗義智に加封す
慶長2年 5月1日 大日本史料 秀吉、子秀頼の、端午節供の祝儀物を進めしに答ふ
慶長2年 5月4日 大日本史料 山城伏見城の天守竣る、是日、秀吉、之に移る
慶長2年 5月6日 大日本史料 秀吉、大坂に赴く
慶長2年 5月9日 大日本史料 肥前佐賀の鍋島直茂、大坂に在り、秀吉を玉造の亭に迎へ、之を饗す
慶長2年 5月11日 大日本史料 秀吉、肥前佐賀の鍋島直茂等を山城伏見城山里茶亭に饗す、尋で、直茂、朝鮮に出征す
慶長2年 5月16日 大日本史料 明の經理楊鎬、秀吉の朝鮮出兵を難じ、撤兵を求む
慶長2年 5月17日 大日本史料 勅使を秀吉の山城伏見城に遣し、歳首及び其移徙を賀せしめらる
慶長2年 5月17日 山口県史整理年表 輝元、秀元とともに長府赤間関において軍勢を点検するにより、書を椙杜元縁に
与え、定員不足なきよう準備せしむ 【毛利氏四代実録】
慶長2年 5月20日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に能を興行す
慶長2年 5月22日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 5月29日 大日本史料 秀吉、山城妙法院に臨み、諸宗の論義を聽く
慶長2年 5月30日 大日本史料 秀吉、伊勢上野の分部光嘉に、同國安藝郡の地を加増す
慶長2年 5月 大日本史料 秀吉、禁裏を京都相國寺中に造營せんとすとの風聞あり
慶長2年 6月8日 大日本史料 秀吉、瀧川彦次郎に美濃河邊村の地を加増す
慶長2年 6月12日 山口県史整理年表 隆景備後三原城にて死す。六五。
遣臣村上武吉・同元吉去って輝元に帰し、大島郡に在り 【毛利氏四代実録】
慶長2年 6月13日 大日本史料 秀吉、朝鮮王李昖の、王子を送らず、又、大臣を遣して、通好せざるを怒り、小早川
秀秋を大將と為し、小西行長・加藤清正を先鋒として、先づ全羅道より北上を謀らし
む、是日、李昖、陽に和平を示し、軍備を整ふ
慶長2年 6月25日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 6月27日 大日本史料 秀吉、諸門跡を請じて、山城伏見向島に遊ぶ
慶長2年 6月 大日本史料 秀吉、大和比蘇寺の塔を山城伏見城に移建す
慶長2年 7月1日 大日本史料 秀吉、柳澤元政に、備中・備後・出雲・石見・安藝・長門・周防に於ける銀山公用の
請取状を與ふ
慶長2年 7月1日 萩藩閥閲録1-565
請取 新銀山御公用事
合銀子千枚者
右備中国・備後国・出雲国・石見国・安芸国・
長門国・周防国・七ケ国、當年分内且納也
慶長弐年丁酉七月朔日 秀吉公 御朱印
やなぎさわ(元敬)
慶長2年 7月7日 山口県史整理年表 豊後臼杵の太田一吉、土佐浦戸の長宗我部元親等と、慶尚道釜山に著陣す
慶長2年 7月9日 大日本史料 穂田元清死す。四七 【毛利氏四代実録】
慶長2年 7月10日 大日本史料 秀吉、朝鮮在陣の諸將をして、全羅道に進撃せしむ
慶長2年 7月13日 大日本史料 秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 7月18日 大日本史料 秀吉、善光寺如来を甲斐より移し、山城方廣寺大佛殿に安置す
慶長2年 7月24日 大日本史料 呂宋國、秀吉に、黒象一隻并に銀器を遺る
慶長2年 7月27日 大日本史料 秀吉、山城伏見城に能を張行し、呂宋國使を饗す
慶長2年 7月27日 大日本史料 秀吉、明兵の朝鮮に出軍せば、渡海せんとし、安藝廣島の毛利輝元をして、其分國中の
備後鞆等に早船・早馬を常備し、速報せしむ
慶長2年 8月4日 大日本史料 大泥國、秀吉に物を贈る
慶長2年 8月4日 大日本史料 秀吉、安藝廣島の毛利輝元をして、肥前名護屋又は筑前博多に赴き、朝鮮の動静を
報ぜしむ
慶長2年 8月10日 大日本史料 秀吉、對馬府中の宗義智等に、明軍の京城より出撃せば、親ら渡海すべきこと、大坂・
名護屋間に早船・次船・次馬を常備せること等を告ぐ、尋で、藤堂高虎にも、之を報ず
慶長2年 8月16日 山口県史整理年表 毛利輝元・加藤清正・鍋島直茂・黒田長政・長宗我部元親等、全羅道黄石山城を
攻めて、之を陥る
慶長2年 8月17日 大日本史料 是より先、朝鮮在陣の黒田長政、秀吉の命に依り同國人の鼻を切りて秀吉に送る、
是日、秀吉の近臣熊谷直盛等、重ねて、其請取状を與ふ
慶長2年 8月26日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 8月28日 大日本史料 秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 9月13日 大日本史料 秀吉、故足利義昭の遺臣一色民部大輔に知行目録を與ふ
慶長2年 9月16日 大日本史料 宇喜多秀家・小西行長・島津義弘等、忠清道より全羅道井邑に歸る、是日、秀家等、
守備すべき地等を定め、之を秀吉の近臣前田玄以等に報ず
慶長2年 9月21日 大日本史料 輝元山口の商人内海氏に居屋敷および町屋敷を安堵す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 9月24日 大日本史料 秀吉、越前敦賀の大谷吉繼の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 9月25日 大日本史料 秀吉、山城伏見より上京す
慶長2年 9月26日 大日本史料 秀吉・秀頼父子及び徳川家康、山城伏見より上京す、秀吉の亭竣るに依り、秀頼、
之に移る
慶長2年 9月28日 大日本史料 秀吉・秀頼父子、参内す、秀頼を從四位下に敍し、左近衞権少將に任ず、又結城秀康・
前田利長を竝に参議・從四位下に任敍す
慶長2年 9月28日 大日本史料 是より先、秀吉、朝鮮在陣の諸將に令し、敵の鼻を切りて首級に代へしむ、仍りて、
山城善光寺の前に塚を築き、之を埋め、是日、紀伊高野山興山(應其)等をして、
施餓鬼を修せしむ、
慶長2年 9月30日 大日本史料 秀吉・徳川家康、山城伏見に歸る
慶長2年 10月4日 大日本史料 相國寺承兌(西笑)、福澤直陳の朝鮮唐島(巨濟島)にて獲し書籍を秀吉に講ず
慶長2年 10月4日 山口県史整理年表 土佐浦戸の長宗我部元親、全羅道古阜・羅州を從へ、竹島に歸る
慶長2年 10月5日 大日本史料 是より先、安藝廣島の毛利輝元、朝鮮に渡海せんとし壹岐に著す、是日、秀吉、
之に歸國を命ず
慶長2年 10月6日 大日本史料 秀吉・徳川家康、上京す
慶長2年 10月7日 大日本史料 是より先、秀吉、下野宇都宮の宇都宮國綱の封を攻め、國綱を備前岡山の宇喜多秀家に
預く、是日、常陸水戸の佐竹義宣、之を同國太田城の父同義重に報ず
慶長2年 10月8日 大日本史料 秀吉、徳川家康、山城伏見に歸る
慶長2年 10月9日 山口県史整理年表 輝元冷泉元満の朝鮮における功を賞す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 10月10日 大日本史料 秀吉、上京す
慶長2年 10月12日 大日本史料 秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 10月20日 大日本史料 秀吉、信濃飯田の京極高知の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月22日 大日本史料 秀吉・秀頼父子、加賀金澤の前田利家の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月24日 大日本史料 秀吉、奉行増田長盛をして、安房を檢地せしむ
慶長2年 10月26日 大日本史料 秀吉、陸奥岩手山の伊達政宗の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月26日 大日本史料 秀吉、原田右衞門に薩摩の藏入分の地を與ふ
慶長2年 10月26日 大日本史料 是より先、秀吉、茶亭を山城伏見に築き、相國寺承兌(西笑)をして、同城内學問所
記を作らしむ、是日、承兌、其草稿を進む
慶長2年 10月27日 大日本史料 秀吉、近江大津の京極高次の山城伏見の亭に臨む、病みて歸る
慶長2年 10月 大日本史料 秀吉、施樂院全宗の請に依り、延暦寺及び日吉社に山城上坂本を寄進す、全宗、
之を同寺に通報す
慶長2年 11月5日 大日本史料 秀吉、茶器を和泉堺より買得す
慶長2年 11月12日 大日本史料 是より先、秀吉、相國寺承兌(西笑)に太平御覽を與ふ、徳川家康、其闕くる二十五冊
を補寫して、是日、之を與ふ、
慶長2年 11月13日 大日本史料 秀吉、文梨小壺を徳川家康に、富士茄子の茶壺を前田利家に與ふ、
慶長2年 11月17日 大日本史料 秀吉、蒲生秀郷遺愛の墨蹟を相國寺承兌(西笑)に與ふ
慶長2年 12月1日 大日本史料 秀吉、觀世身愛をして、觀世座を、金剛勝吉をして、金剛座を安堵せしむ
慶長2年 12月2日 大日本史料 秀吉、秀頼に答へ、近く相見ゆべき旨を告ぐ
慶長2年 12月4日 大日本史料 秀吉、筑前名島の小早川秀秋に朝鮮より帰國を命ず
慶長2年 12月7日 大日本史料 是より先、南蠻船、薩摩に難破す、是日、秀吉、船中の道具を相國寺承兌(西笑)等に
與ふ
慶長2年 12月8日 大日本史料 秀吉、側室淺井氏に答へ、近く参會せんことを告ぐ
慶長2年 12月8日 大日本史料 秀吉、竹田定加等の、病中に缺番せるに依り罰す
慶長2年 12月22日 伊予中世年表 明軍、蔚山を囲む。吉川広家奮戦してこれを破る 【閥閲録】
慶長2年 12月23日 大日本史料 安藝廣島の毛利輝元、秀吉に山城伏見に謁す
慶長2年 12月28日 萩藩閥閲録1-565
請取中国新かな山銀子之事
合弐千枚者 ひんこ、ひっ中、いつも、いわミ、あき、なかと、
すわう七ケ国分也、但慶長弐年分也
慶長弐年十廿月廿八日 秀吉公 御朱印
やな木 けんもつ(柳沢元敬)
慶長2年 ○来島(村上)通総も朝鮮水軍の李舜臣と戦い戦死した。
慶長2年 心斎橋今昔年表 「伏見城」が完成。 第二次朝鮮侵略(慶長の役)。
慶長2年 大日本史料 秀吉、比律賓諸島長官の使節を大坂に引見し、答書を與へ、耶蘇教布教の禁止を
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