直近の資料ながらも、「屋代村の史跡」に於ける竜心寺(大龍寺)、
【明治18年8月発行、山口県大島郡屋代村役場発行(非売品)】には
『村上家菩提寺竜心寺』 【屋代村の史跡】
風土記によると、龍心寺は能島城主村上家の菩提所と
して能島に建立されたものであるが、村上武吉能島を、
引き上げし時、同時に本郡に移傳初内入(和田村)
元正寺屋敷にあり、寺號も能島其まま海印寺と称し
武吉より弐拾石の寺領を寄附されていた。
(当時住職は長穂村龍文寺十世の海翁玄臣和尚を
請待したものである)
元亀年中武吉の曽祖父村上山城守隆勝死去に際し、
戒名を大竜寺殿智山榮大居士と號したので、同寺を
海印山大龍寺と改めたのである。その後同寺は本村
片山の極楽寺屋敷に移傳されたが不幸にして火災に
罹り現在の地に再建、寺號を現在の龍心寺と改めたの
は明治になってからである。
本村徳神にある浄福寺は正徳六年村上一学祖先の
法名をもって芳心院となし明治三年大龍寺に合併
大龍寺はこの二寺の名を一字宛取って龍心寺とした
ものである。
と書かれてある。同書は屋代村役場が非売品で発行しているので、発行部数も
少なければ、配布者も限られていたと思われる。当時は屋代村長は今元直助で
あったようである。直助の子孫は、現在、町議とし
て先祖と同じく地域社会に奉仕していると聞く。
この時の村上家当主は柳井の「三角(帝・みかど)餅」の名付親である
村上兼助(惟庸)公であったようである。
【明治18年8月発行、山口県大島郡屋代村役場発行(非売品)】には
『村上家菩提寺竜心寺』 【屋代村の史跡】
風土記によると、龍心寺は能島城主村上家の菩提所と
して能島に建立されたものであるが、村上武吉能島を、
引き上げし時、同時に本郡に移傳初内入(和田村)
元正寺屋敷にあり、寺號も能島其まま海印寺と称し
武吉より弐拾石の寺領を寄附されていた。
(当時住職は長穂村龍文寺十世の海翁玄臣和尚を
請待したものである)
元亀年中武吉の曽祖父村上山城守隆勝死去に際し、
戒名を大竜寺殿智山榮大居士と號したので、同寺を
海印山大龍寺と改めたのである。その後同寺は本村
片山の極楽寺屋敷に移傳されたが不幸にして火災に
罹り現在の地に再建、寺號を現在の龍心寺と改めたの
は明治になってからである。
本村徳神にある浄福寺は正徳六年村上一学祖先の
法名をもって芳心院となし明治三年大龍寺に合併
大龍寺はこの二寺の名を一字宛取って龍心寺とした
ものである。
と書かれてある。同書は屋代村役場が非売品で発行しているので、発行部数も
少なければ、配布者も限られていたと思われる。当時は屋代村長は今元直助で
あったようである。直助の子孫は、現在、町議とし
て先祖と同じく地域社会に奉仕していると聞く。
この時の村上家当主は柳井の「三角(帝・みかど)餅」の名付親である
村上兼助(惟庸)公であったようである。
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