山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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メキシコ紀行 3

2025年02月17日 17時40分24秒 | 旅紀行
時差ぼけで昨夜は殆ど眠れていない。
しかし、元気に朝食をホテルのバイキングでとり、少し食べ過ぎてしまう。
朝、八時にバスが迎えにくる。

混みあった市内を走って、定番のメヒコ地区歴史観光と洒落込む。
ソカロ広場、メトロポリタン大聖堂、国立宮殿を散策する。

かってメヒコの中心部は島で周りは湖であったとします。
ただ島と言っても雨季に水が溜まって周りが湿地帯になる程度であるが広さが半端ではない。
現住民がピラミッドを造っていたのを、スペイン人が取り壊して教会を建ててしまったから、
基礎部分には今でもかっての遺跡が残っている。
交通渋滞で近年地下鉄工事をするとき色んな遺跡がでてきて、観光資源として保存が始まったのは
喜ばしいことである。
メキシコは観光業にも力を入れており、最大の客はアメリカ、カナダ人らしい。
また、同様な文明を持つ、中南米の人も多くやってくるらしい。
日本人は殆ど来ないらしい。

そういえば、日本の戦国時代に伊達藩の支倉常長らキリスト教徒がはるばる太平洋を渡り、メキシコに
到着して、メキシコの教会で洗礼を受け、更に大西洋を渡り、ローマ教皇に謁見したのち、帰国の
途につくが帰国した時は日本はバテレン禁止令でなんともならんかったと日本史の片隅に書いてあるが、
メキシコではこの使節団は有名で洗礼を受けた教会は今でもあり、当時、豊臣秀吉の圧政があったとする
記述はこの教会にある「TAIKOU SAMA」と大きく今でも書き残されていある。
メヒコシティでは彼ら使節団が泊まった宿舎が残されており、しかも上級侍と下級侍とでは宿舎が違うので
身分制度をはっきりさせながら旅をしたことが伺えます。

時代が下がってメキシコに移住を始めたのは幕末の話で、榎本武明あたりがからんでくる。
三十数名移住の予定が數が足りなかったとされます。
この移民談には面白い話があり、最初に移民を決意したのは三州吉良(愛知県)の人達で數が足りないので
何故か播州・赤穂の人に声をかけてなんとか36人集まってので移住を決意して日本を旅立ったらしい。

「忠臣蔵」でおなじみの敵同士が同じ船で出掛けていくのであるから、づーと角突き合わせていたらしい。
上陸して生活をしようとすると、現地の状態が過酷で、日本人同士で揉めてる場合ではないと一致協力して
移住生活をしたと、現地の日本人郷土史家が語ります。あはは、面白いエピソードが多くあります。
ただ、キューバやプエルトリコに移住した日本人は悲惨とされます。戦前はペルーにも多くの日本人が
渡りました。が、真珠湾攻撃の後、なんら関係のないペルーの日本人移民は米国本土の強制収容所に
送られ、戦後、ペルーに帰国も拒否されたとします。

当ブログの戦時の米国クリスタル強制収容所の名簿には多くのペルーに移住した人たちが記録されますので
ご参照ください。
かって、天皇誕生日にペルーの日本大使館を襲ったゲリラを排除したのは熊本県人系のフジモリ大統領でした
ね。その時の日本大使は我が周防大島を本貫とする青木大使でしたね。ただ彼は養子系ですが。

さて、中心街を抜け、都心の渋滞からようやく解放されると、車は高速道路にはいり、スムーズの走り始めました。
昔々も通った道筋ながら、当時と違うのは延々と続くスラム街。

どこの国も同じですが経済力のある都市に貧困な田舎から人口が流入します。
メヒコの最大の経済都市はメヒシコシティなので多くの人が移住しますが、住む所はありませんので市郊外に
勝手に家を建てて住み込みます。殆どが国有地ですので、日本のように私有地争いはないようです。
ただ、山に勝手にすみますからインフラはありません。電気、ガス、水道は無いので、盗電、水はタンク貯め
となります。何故か、リフトのようなロープウエイが延々繋がっていました。100M毎にゴンドラがついている
ので最大な交通手段です。スラムですから車が入れる道がないので、通勤と買い物用に県知事が設置したとか。

貧困な彼らは都心部の「3K業務」の担い手です。
田舎で出来るかどうかわからない、トウモロコシを作るより生活は安定しています。
メキシコの一部の特権階級はとんでもない収入を得ています。
歴代大統領は貯めるだけためて余生は本国スペインで過ごすのが常のようでした。
まったく現在でも植民地の感覚ですね。
現在の大統領は革新系のようで、かっての上級公務員の利権を次々に剥奪しているようです。
そうすると殺し合いが始まります。
現在の日本では政争で殺し合いはありませんが、白人は手っ取り早い政敵排除は暗殺と思っています。
ロシアもアメリカも中南米も暗殺は大好きです。
隣の中国では「行方不明」が常套手段ですね。
だからと言って別にメキシコは政情不安ではありません。
日本で言う戦国時代が常態化しているだけです。

メキシコでは金のないひとたちは強盗をしますが、貧乏人を相手にするのはクズです。

今流行っているのは「トラックジャック」らしいです。
一日平均17台のトラックが荷物事とられます。銃を持ってますから運転手は言いなりです。
今のトラックは二台連結で20M程度あり満載しています。アメリカ本土からも長距離でやってきます。
昔は宣伝を兼ねて製品名や会社名を書いたトラックでしたが、現在は何が積んであるか分からない
ように何も書いてない白いトラックが増えていました。

かって任天堂のマークがあればゲーム機満載さいているので真っ先に狙われ、その次のスズキの
オートバイを乗せた車はターゲットとされました。
闇取引の市場はいくらでもありますから日本の常識は通用しません。

てな説明を受けていて車を走ると、かって山腹の「子供を叩いて殺さないように!」の啓蒙宣伝が
無くなっているので現地の方に聞けば、今でも子供や婦女子をイジメるのはありますが昔程では
ないとの事。少しはおだやかになって来たみたいですね。
インドは未だに子供・婦女子はオモチャにして社会問題になりますが。

途中で昼食を頂いて、本日、メインのティオティワカンへ。

太陽のピラミッドと月のピラミッドがメインですね。

ただ同じピラミッドでもエジプトのとは使用目的が異なるようである。
エジプトのは墓とするが、ティオティワカン・ピラミッドは神殿とされます。
スペイン人がぶち壊したので頂上部分がよく分からないとされます。
メキシコの他の文明では頂上部分には神殿があるので、太陽の光を敬う太陽神のと思われます。
月や太陽の動きは大古の時代は農作物の生産に関連しますから天文学を理解する神官や王は
自然と統治者となれたのでしょう。

これは定住農耕民族には必須な項目ですね。
日本でも最近まで「高島易断」なる農耕歴書が流行ってましたね。

かっては太陽のピラミッドは登れましたが今は保存のため上れませんでした。
月のピラミッドはなんとか登れるとか。

エジプトのクフ王のピラミッドは石の大きさが段違いに大きいので上れませんが
ティオティワカンは登ることを前提にしていたと思われます。
頂上の神殿に行く必要があったと思われます。

多くの土産物の露店をひやかしながら、途中でカレンダリオのタペストリーを買ってしまった。

終活の小生は物は買わないとしているが未だ修学旅行生の尻尾が残っている。

帰りは一目散にホテルに。

夜は50年前にお世話になった方とレストランで「飲めや歌えの大騒ぎ!!」

マリアッチもそこそこに、飲みすぎ・・・・寝る・・・・。アディオス アスタ・マニャーナ・・・。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
近藤賢太郎と申します (xyzxyz)
2025-02-18 09:13:24
こんにちは
近藤賢太郎と申します。父近藤昭徳がお世話になりました。
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こちらこそ (屋代)
2025-02-18 10:13:28
いえいえお世話になったのはこちらです。足がお悪くなってから志佐の御家で長々と色んな話を聞かせてもらいました。お話はこのブログにも多く引用させて頂いています。
今後とも宜しくい願申し上げます。
屋代源三 拝
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