今年の冬はいつもよりも寒いような気がするのですが、気のせいでしょうか。ラニーニャちゃんが夏にがんばったときは、寒い冬になるというのは本当でしょうか。いずれにせよ、なんとも寒い。
まだ振り返るには少々早いですが、今年はとにかく何も出来なかった1年でした。本も読めなかったし、映画も観なかったし、何か作りあげたものもないし。でも、同人誌制作に乗り出したのは、大きな成果でしたね(まだ出来てはいないけど)。
このような、ちょっと情けない状況のなかでも考えつづけていたことはありました。今年のはじめに設定した問題に「家族生活における愛と憎しみ」というものがありまして、そもそも年末年始に芥川龍之介などを読んでしまったがために発生した設問でした。
私は正月以来ずっと、この一文がどうしても頭を去らなかったのでした。
” 僕はある月の好い晩、詩人のトックと肘を組んだまま、
超人倶楽部から帰って来ました。トックはいつになく沈み
こんで一ことも口を利かずにいました。そのうちに僕らは
火かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。その
また窓の向うには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子
供の河童といっしょに晩餐のテエブルに向っているのです。
するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけ
ました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の
容子を見ると、やはり羨ましさを感じるんだよ」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わない
かね?」
芥川龍之介『河童』 ”
悩ましい。
実に悩ましい問題です。
私は詩人でも超人でも何者でもありませんが、これは気にかかる。
だって、明るくあたたかい部屋の中は居心地良く、胸いっぱいに幸福感が溢れるのかもしれないけれど、そこからはきっと空に星がまたたくのを見ることができない。
それは困る。
私はベランダにいることにする。
でも……。
……部屋の明かりを消せば、窓の内側からだって見えるんじゃないか?
……そもそも、本当に星を見る必要があるのか、私が?
……そして、せめて見たいと思うのなら、なぜベランダに甘んじるのか。
……そこに梯子がかかっているだろう。なぜ下りないのだ。
……森を越えて、向こうへ。
苦悩。
うぅ。
今年は無理だったので、これは来年に持ち越します。
もうひとつ、数少ない今年の収穫のうちで最大級のものと言えば、なにを置いても【エレンブルグとの出会い】でしょう。これは凄かった。愛してます。
“ 過去半世紀の間に、人物の評価も事件の評価も幾度となく
変わった。文句はいいかけたままでとぎれた。思想や感情は、
心ならずも時勢の力に屈服した。どの人の進む道も、すべて
処女地を走っていた。人びとは崖から落ち、すべり、死の森
の刺のある枝にひっかかった。忘れっぽさは、ときとして自
己保存の本能からも指図を受けた。過去の記憶をかかえて、
先に進むわけにはいかなかった。それは足を縛るものであっ
た。
イリヤ・エレンブルグ『わが回想1』 ”
エレンブルグの自叙伝の前書きに、このように感動的な文章があったので、私はK氏に朗読してやろうと思ったのですが、声が詰まって、胸が詰まって、どうにもうまくいきませんでした。
「どの人の進む道も、すべて処女地を走っていた」
私が20世紀初頭という時代に興味をひかれるのは、要するにこういうことだったのです。思想が対立していた時代。正しさはどこにあり得たのか、常識がどこに存在し得たのか。私が今この時点で「常識だ」と考えていることなど、ほんの100年前までは、そうではなかったのかもしれない。そして、今現在も「なぜそれが常識と言えるのか?」と問うならば、私には答えられません。本当は今だって私たちは「すべて処女地を走って」いるのかもしれません。
こういう疑惑を持ち続ける限りは、私はベランダ暮らしをするのでしょう。
どこまでも中途半端。
だけど、まだまだ選べないのです。
とりあえず、ここからでも、うっすらと星が見えるようなのです。
いまはこれでもいいや。
来年も良い年にしたい。
(なんたる気のはやさ)
まだ振り返るには少々早いですが、今年はとにかく何も出来なかった1年でした。本も読めなかったし、映画も観なかったし、何か作りあげたものもないし。でも、同人誌制作に乗り出したのは、大きな成果でしたね(まだ出来てはいないけど)。
このような、ちょっと情けない状況のなかでも考えつづけていたことはありました。今年のはじめに設定した問題に「家族生活における愛と憎しみ」というものがありまして、そもそも年末年始に芥川龍之介などを読んでしまったがために発生した設問でした。
私は正月以来ずっと、この一文がどうしても頭を去らなかったのでした。
” 僕はある月の好い晩、詩人のトックと肘を組んだまま、
超人倶楽部から帰って来ました。トックはいつになく沈み
こんで一ことも口を利かずにいました。そのうちに僕らは
火かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。その
また窓の向うには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子
供の河童といっしょに晩餐のテエブルに向っているのです。
するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけ
ました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の
容子を見ると、やはり羨ましさを感じるんだよ」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わない
かね?」
芥川龍之介『河童』 ”
悩ましい。
実に悩ましい問題です。
私は詩人でも超人でも何者でもありませんが、これは気にかかる。
だって、明るくあたたかい部屋の中は居心地良く、胸いっぱいに幸福感が溢れるのかもしれないけれど、そこからはきっと空に星がまたたくのを見ることができない。
それは困る。
私はベランダにいることにする。
でも……。
……部屋の明かりを消せば、窓の内側からだって見えるんじゃないか?
……そもそも、本当に星を見る必要があるのか、私が?
……そして、せめて見たいと思うのなら、なぜベランダに甘んじるのか。
……そこに梯子がかかっているだろう。なぜ下りないのだ。
……森を越えて、向こうへ。
苦悩。
うぅ。
今年は無理だったので、これは来年に持ち越します。
もうひとつ、数少ない今年の収穫のうちで最大級のものと言えば、なにを置いても【エレンブルグとの出会い】でしょう。これは凄かった。愛してます。
“ 過去半世紀の間に、人物の評価も事件の評価も幾度となく
変わった。文句はいいかけたままでとぎれた。思想や感情は、
心ならずも時勢の力に屈服した。どの人の進む道も、すべて
処女地を走っていた。人びとは崖から落ち、すべり、死の森
の刺のある枝にひっかかった。忘れっぽさは、ときとして自
己保存の本能からも指図を受けた。過去の記憶をかかえて、
先に進むわけにはいかなかった。それは足を縛るものであっ
た。
イリヤ・エレンブルグ『わが回想1』 ”
エレンブルグの自叙伝の前書きに、このように感動的な文章があったので、私はK氏に朗読してやろうと思ったのですが、声が詰まって、胸が詰まって、どうにもうまくいきませんでした。
「どの人の進む道も、すべて処女地を走っていた」
私が20世紀初頭という時代に興味をひかれるのは、要するにこういうことだったのです。思想が対立していた時代。正しさはどこにあり得たのか、常識がどこに存在し得たのか。私が今この時点で「常識だ」と考えていることなど、ほんの100年前までは、そうではなかったのかもしれない。そして、今現在も「なぜそれが常識と言えるのか?」と問うならば、私には答えられません。本当は今だって私たちは「すべて処女地を走って」いるのかもしれません。
こういう疑惑を持ち続ける限りは、私はベランダ暮らしをするのでしょう。
どこまでも中途半端。
だけど、まだまだ選べないのです。
とりあえず、ここからでも、うっすらと星が見えるようなのです。
いまはこれでもいいや。
来年も良い年にしたい。
(なんたる気のはやさ)