今日は非常に寒いです。
革のコートを着ていけば良かったです。
(職場まで徒歩30秒の距離とは言え、寒いものは寒かったです)
12月には色々なことを思い出してしまいます。
思い出や、分岐点が多い、この12月という月なのでした。
そうやって過去のことを甲斐もなく思い出しているわりに、すっかり忘れてしまっていることがらも多いことにも驚かされます。
まず、南米文学。
私は南米文学好きを公言してはばかりませんが、ずっと前に読んだ短篇集の内容をまるっきり思い出すことができず(ずっと前に読んだトラウマになるほどに衝撃を受けた長篇小説の内容も結末以外はまるっきり思い出すことができず)、まるで初めて読むかのごとく新鮮な気持ちで読めてしまったという事実に驚愕しました。なんて忘れっぽいんだ。
さらに、海外ドラマの『名探偵ポワロ』。
テレビで放送していたのをDVDに完全保存してある私は、このドラマシリーズを「いったい何回見る気だ!」というくらいに繰り返し繰り返し見ているのですが、不思議なことにいつも犯人が誰だったのかを思い出せない…。よって、毎回まるで初めて見るかのごとく新鮮な気持ちで見られるという事実にも驚きです。
同様に、海外ドラマの『名探偵シャーロック・ホームズ』もいつも結末を思い出しません。「いったい何回見る気だ!」というくらいに繰り返し繰り返し見ています。
もはやこの忘れっぽさは「経済的である」と言って慰める以外には慰めきれるものではないかもしれません。何度も楽しめるのは、お得なのでしょうか、どうなのでしょうか。
いつまでも覚えていることと、気が付くまで忘れてしまっていること(これは「気が付いた」時に思い出しはする)と、もう二度と思い出すことさえないことと、その振り分けはどうやってなされているのだろうか。
そしてまた、記憶のなかの過去は本当は変わりようがない事実であるはずなのに、おそらくはそれを取り出すたびに、少しずつ実際とは異なったものになっているに違いない。
こうやって私はこれからも多くのことを忘れ続け、保っているつもりの記憶さえ新しいものとして生み出し続けながら、歴史的事実から常に遠ざかる私に気が付くかもしれない。過去の私は、いまはもう私ではない。誰か、まったく別の誰かであったとしても不思議はないくらいに、記憶は、テレビドラマの一場面のように近いようでいて遠いものになっている。
そのようなものであると分かりながら何度も取り出そうとするのは、そのときの感触を甦らせたいからだろうか。なにか、さも価値あるもののように取り出してはみるけれど、その通りにその感触までもが甦っているだろうか。
本やテレビ番組のようにもはや内容を変えることのないものと違って、私の記憶はどんどんあやふやになっているというのに、何度も思い出していては、さらにあやふやさを倍加させるだけになりはしないだろうか。
悲しいことを、もっと悲しいこととして思い出す。
だけれども、もしも記憶が塗り替えていけるものならば、私は悲しいことを、それほど悲しくないように思い出すことだって、できるだろう。
楽しかったことを、もっと楽しかったこととして思い出すのはそのままに。
美しかったことを、もっと美しかったこととして思い出すのはそのままに。
着地点のない考えごと。
きっとこのこともすぐに忘れてしまいます。
革のコートを着ていけば良かったです。
(職場まで徒歩30秒の距離とは言え、寒いものは寒かったです)
12月には色々なことを思い出してしまいます。
思い出や、分岐点が多い、この12月という月なのでした。
そうやって過去のことを甲斐もなく思い出しているわりに、すっかり忘れてしまっていることがらも多いことにも驚かされます。
まず、南米文学。
私は南米文学好きを公言してはばかりませんが、ずっと前に読んだ短篇集の内容をまるっきり思い出すことができず(ずっと前に読んだトラウマになるほどに衝撃を受けた長篇小説の内容も結末以外はまるっきり思い出すことができず)、まるで初めて読むかのごとく新鮮な気持ちで読めてしまったという事実に驚愕しました。なんて忘れっぽいんだ。
さらに、海外ドラマの『名探偵ポワロ』。
テレビで放送していたのをDVDに完全保存してある私は、このドラマシリーズを「いったい何回見る気だ!」というくらいに繰り返し繰り返し見ているのですが、不思議なことにいつも犯人が誰だったのかを思い出せない…。よって、毎回まるで初めて見るかのごとく新鮮な気持ちで見られるという事実にも驚きです。
同様に、海外ドラマの『名探偵シャーロック・ホームズ』もいつも結末を思い出しません。「いったい何回見る気だ!」というくらいに繰り返し繰り返し見ています。
もはやこの忘れっぽさは「経済的である」と言って慰める以外には慰めきれるものではないかもしれません。何度も楽しめるのは、お得なのでしょうか、どうなのでしょうか。
いつまでも覚えていることと、気が付くまで忘れてしまっていること(これは「気が付いた」時に思い出しはする)と、もう二度と思い出すことさえないことと、その振り分けはどうやってなされているのだろうか。
そしてまた、記憶のなかの過去は本当は変わりようがない事実であるはずなのに、おそらくはそれを取り出すたびに、少しずつ実際とは異なったものになっているに違いない。
こうやって私はこれからも多くのことを忘れ続け、保っているつもりの記憶さえ新しいものとして生み出し続けながら、歴史的事実から常に遠ざかる私に気が付くかもしれない。過去の私は、いまはもう私ではない。誰か、まったく別の誰かであったとしても不思議はないくらいに、記憶は、テレビドラマの一場面のように近いようでいて遠いものになっている。
そのようなものであると分かりながら何度も取り出そうとするのは、そのときの感触を甦らせたいからだろうか。なにか、さも価値あるもののように取り出してはみるけれど、その通りにその感触までもが甦っているだろうか。
本やテレビ番組のようにもはや内容を変えることのないものと違って、私の記憶はどんどんあやふやになっているというのに、何度も思い出していては、さらにあやふやさを倍加させるだけになりはしないだろうか。
悲しいことを、もっと悲しいこととして思い出す。
だけれども、もしも記憶が塗り替えていけるものならば、私は悲しいことを、それほど悲しくないように思い出すことだって、できるだろう。
楽しかったことを、もっと楽しかったこととして思い出すのはそのままに。
美しかったことを、もっと美しかったこととして思い出すのはそのままに。
着地点のない考えごと。
きっとこのこともすぐに忘れてしまいます。